「灰色の魔導師、再び立ち上がる」
かつて帝国の名高き大魔導師であったリードは、現在42歳。風見の辺境の村でひっそりと隠遁生活を送っている。栄光の日々は過ぎ去り、村の若者たちからは哀れみの目で見られていた。東方からの帝国侵攻の噂が辺境を脅かす中、村の少女たちは彼の懸念を一笑に付す。しかし、不吉な兆候を目の当たりにしたリードは、かろうじて保たれている平和を守る決意を固める。
問題は、衰えた肉体と魔力だった。彼は禁断の術「マナ融合」に手を染める。これは自身の魔力回路を周囲のマナと強制的に同期させ、莫大な力を得る代わりに生命力を削る危険な技術だ。苦痛に耐えながらもほとんど命を落としかけるが、彼は諦めず、かつての力の錆びついた残滓を掴み取る。
24歳の帝国騎士アイラが先遣隊として村にやってくる。規律正しく冷静な彼女は、隠居した魔導師の役立たずぶりに懐疑的だ。一方、16歳の魔族の少女リリアは、帝国軍の追撃を逃れ負傷したまま村に迷い込む。無垢で好奇心旺盛な彼女はすぐにリードに懐く。アイラは魔族に警戒心を抱き、リードは過去の戦争の記憶に苛まれる。緊張の中で、世代も種族も異なる不器用な絆が芽生え始める。
リードの不完全なマナ融合は
「灰色の魔導師、再び立ち上がる」 - 魔王の潮と、折れない剣
篝火の香りが、まだどこかに残っていた。
夜明け前の浜辺は冷たく、波の音だけが規則正しく繰り返されていた。鎧鷺城塞を出立した討伐軍の船団が魔大陸の海岸線に船底を擦らせながら次々と接岸し、兵士たちが砂の上に降り立っていく。800名。帝国騎士団〈鎧鷺騎士団〉の辺境対応専門分隊から選抜された精鋭と、正規の歩兵が混在した部隊だ。
アイラは浜辺の端に立ち、灰色の空を見ていた。
廃都の輪郭が、地平線のやや内陸に沈むように見えていた。霧がその外縁を覆っていて、建物の形が半分ほど溶けている。夜明け前の光がまだ弱く、空と大地の境界がはっきりしない。風は冷たかった。砂浜の砂が足元で細かく鳴った。
(来てしまった)
それだけを思った。後悔ではなかった。感慨でもなかった。ただ、ここに立っているという事実が静かに体の中に落ちてきて、アイラはそれを黙って受け取った。右肩の焼け跡が、外套の下でじんと脈打っている。昨夜巻き直した布の感触がある。廃都の玉座の間で受けたあの熱さは、まだ本物の痛みとして残っていた。
「荷台ぁあああっ!」
突然、後方から間の抜けた叫び声が上がった。
アイラが振り向くと、補給部隊の兵士が一人、荷台の端に積んでいた食料袋を波打ち際に落下させたところだった。袋は見事に波に飲まれ、砂まみれになって打ち上げられた。周囲の兵士たちが「おいおい」という顔をしている。
ベクトルが、砂浜を歩きながらその光景を一瞥した。
ベクトル——鎧鷺騎士団の辺境遠征における現地指揮官で、短く刈り込んだ白髪交じりの髪と落ち着いた眼差しが印象的な、五十代に差し掛かった実務肌の男——は立ち止まって砂まみれの袋を眺め、それから部隊全体に向けて短く言った。
「生きて帰ることを前提にしろ。食料も込みで」
兵士たちの間に、低い笑いが広がった。昨夜の篝火で聞いた言葉と同じだ、という空気が伝わってきた。緊張がほんの一瞬だけ、潮が引くように弛緩した。
アイラも、少しだけ口元を動かした。
笑い、とまでは言えなかったかもしれない。でも確かに何かが緩んだ。それで良かった。これから先に何が待っているか、全員が分かっている。その前にこれだけ緩めておけるなら、十分だ。
────
部隊が廃都の外縁部に布陣を完成させる頃には、空が白みかけていた。
ベクトルが地形を観察しながら冷静に各隊を展開していく。左翼に盾持ちの重歩兵、右翼に弓の後衛、中央に騎士団の精鋭を置く標準的な対魔族陣形だった。廃都の外縁——かつては城壁の基礎だったらしい石積みが、草と砂利の中に半分埋まって続いている——から、内部の構造を読み解こうとしているのが分かった。
アイラは最前列に立っていた。
そこから先は、霧だった。
廃都の内部から滲み出るように広がる黒い霧が、城門跡の方向から少しずつ前へ広がってきていた。光の加減ではない。大気魔素——大気中に漂う魔力の素——の密度が異常に高いこの一帯で、その魔素が何か別のものに変質しているような、重たい空気だった。前衛の騎士たちが一歩、また一歩と後退していく。圧迫感だった。姿の見えない何かが、前から押してくる感覚。
副官らしき騎士がベクトルに早口で報告する声が、後方から聞こえた。アイラは聞かなかった。剣の柄に手を置いて、霧の向こうを見ていた。
あの霧の中に、いる。
分かった。分かってしまった。気配の種類が、廃都の玉座の間で感じたものと同じだった。
────
黒い霧が晴れたのは、夜明けの光が地平線から差し込んだ瞬間だった。
一気に晴れたわけではなかった。ゆっくりと、まるで幕が上がるように霧が内側へ収縮していき、廃都の城門跡の前に一人の人影が現れた。
戦場全体が、静止した。
黒い魔力を体から静かに滲ませながら、そこに立っていた。外套の垂れ方、肩の角度、足元の構え。アイラの記憶にある形だった。でも瞳が違った。玉座の間で見たあの深淵の黒——白目まで全て染まった、感情の読めない色——が、夜明けの薄い光の中で二つ、こちらを向いていた。
次の瞬間、大気が変わった。
引き寄せられる感覚だった。周囲の大気魔素が根こそぎ、一点に向かって吸い込まれていく。重力に似た何かが戦場全体を支配し始めて、アイラの足元の砂利が小さく震えた。遠くで弓を構えていた後衛の騎士が体勢を崩す音がした。
魔王の第一波が来た。
轟音ではなかった。圧縮された空気が一瞬で解放されるような、息を呑む間もない力の奔流だった。前衛の騎士が吹き飛ぶのが見えた。二人、五人、十人——盾ごと弾き飛ばされて地面に転がっていく。二十名以上が後退か転倒かを余儀なくされた。
アイラは倒れた騎士たちの間を走った。
前へ。ただ前へ。
横から「副隊長!」と呼ぶ声がしたが、足を止めなかった。倒れた騎士の肩を一瞬だけ確認しながら——生きている、立てる——また走った。砂利が踏み砕かれる音がする。外套の端が風を切る。
廃都の高所から、リリアがその光景を見ていた。
崩れかけた塔の縁に立って、薄紫と淡い琥珀色のオッドアイで戦場を見下ろしているリリアの表情は、遠くからでも読み取れないくらい静かだった。巫女として廃都の魔力に接続しながら、その場にいる誰よりもこの戦場の構造を理解しているはずの少女が、ただ見ていた。何かを待つように。何かを計るように。個人的な感情と、それ以外の何かが、あの小さな体の中で混在しているのが——距離があるのに——アイラには分かった気がした。
(あの子が何を考えているかは、今は関係ない)
アイラは前を向いた。
魔王の黒い瞳が、アイラを捉えた。次の魔力波が絞り込まれていくのが分かった。来る——
右側から直撃した。
衝撃というより熱さだった。砕けかけた肩当ての残骸がまた飛んで、右肩の素肌に魔力の焼け跡が走った。廃都の玉座の間でリリアに最小限だけ処置してもらった肩と、同じ箇所だ。構造的な皮肉だと思う余裕もなく、体が転倒した。砂利の上に、右手から着いた。
痛みより先に、記憶が来た。
この肩を包帯で巻いたことがある。傷の縁の熱さを指先で確かめながら、固くならないように丁寧に。瘢痕——古い傷が治った跡——の盛り上がりを感じた時の、あの不思議な感覚。魔力の焼け跡が幾重にも重なった腕の表面を、そっと触れた自分の指先を、アイラは今でも手の感触として覚えていた。
(あの人はいつも、こうやって傷を受けていたんだ)
何度も。繰り返し。誰かを守るたびに、同じ場所に傷が増えていく。
体を起こした。右手で砂利を押して、膝を立てた。右肩が熱を発していて、動かすたびに鋭くなる痛みがある。顔が熱い。熱傷のせいなのか、それとも別の理由があるのか、今のアイラには判断がつかなかった。判断しなくて良かった。ただ立ち上がれれば、それで十分だ。
────
後方から、ベクトルの声が戦場に届いた。
短い号令だった。盾持ちの重歩兵が二列に組んで前進してくる。決死の盾陣形——前衛が犠牲を承知で押し上げ、その圧力で魔王の次の魔力波の照準をずらす戦術——が展開し始めた。石のように重い空気の中、鎧が擦れ合う音が戦場を覆った。
副官の声が、ベクトルの隣から聞こえてきた。
「アイラ副隊長が一人で前に出ています」
間があった。
「見ている」
「止めなくていいんですか」
もう少し長い間が、落ちた。
「止められると思うか」
副官が、それ以上何も言えなくなった気配が伝わってきた。
ベクトル自身が盾を手に取って最前線に立ったのは、その直後だった。五十代の実務家が、若い騎士たちの隣で黙って盾を構える。その行動が意味することを、部隊の全員が理解した。誰も笑わなかった。誰も止めなかった。ただ、隣の騎士が少しだけ盾を上げて、隙間を詰めた。
アイラは走っていた。
傷ついた右腕で剣の柄を握り直しながら、ただ前へ。倒れた仲間の鎧が足元に散らばっている。誰かが「副隊長!」と叫んでいる声がした。振り向かなかった。振り向く理由がなかった。
魔王との距離が縮まる。
黒い瞳がアイラを見ていた。ただそれだけが、視界の中心にあった。感情の読めない、深淵の黒。次の魔力が絞り込まれていく気配が伝わってくる。照準が、アイラに合わさっていく。
その瞬間だった。
黒の奥で、何かが揺れた。
ほんの一瞬——一刹那とも言えないほど短い時間——深淵の黒の最奥に、別の輪郭が浮かび上がろうとした。それは水面の下に沈んでいるものが、波の動きで一瞬だけ見える、あの揺らめきに似ていた。
座り方の癖だった。
肘掛けへの腕の角度。外套の垂れ方。廃都の玉座の間で記憶に刻んだ、あの形が——黒の奥に、確かにあった。
アイラだけが、見ていた。
誰も気づいていなかった。後方の騎士たちには距離があった。ベクトルは盾陣形に集中していた。高所のリリアが何を見ていたかは分からなかった。でもアイラは、その一瞬を——正面から、受け取った。
迷いが、消えた。
不思議なくらい静かに、ただ消えた。恐怖ではなかった。喪失の悲しみでもなかった。胸の奥で脈打つものが、一回だけ大きく動いて——それから落ち着いた。傷ついた手の震えが、止まった。
(いる)
それだけが、確信になった。
────
次の魔力波が絞り込まれる、その動作が——止まった。
一瞬だけ。
アイラが声を上げたからだった。
言葉ではなかった。名前を呼んだのかもしれなかった。何かを叫んだのかもしれなかった。その声の内容よりも先に、声そのものが届いた——そういう感触だった。磁牙獣の磁力のような、魔力の奔流のような、そんな力とは全く違う種類の何かが、声の中にあった。
魔王の動作が、一拍だけ止まった。
黒い瞳の奥で、再び揺らめきが生じた。今度はもう少し長く、もう少しはっきりと。あの輪郭が——落ち着きと冷静な観察眼を持つ、成熟した大人の形が——深淵の黒の向こう側で、浮かび上がろうとしていた。
アイラはそれを、正面から見つめた。
怖くなかった。不思議なくらい、怖くなかった。第29話で廃都の通路を歩いた時に感じた、段差でレイドの腕を掴んだ瞬間の体温。第30話でリリアがアイラを転送した理由が今ならば分かる気がした。そして昨夜、篝火の傍らで「自分にしかできないことがある」と答えた時の自分の声が、今この場所で意味を持っていた。
ここだ。
ここが、その場所だ。
傷だらけの手が、剣を握り続けていた。抜かなかった。でも手放さなかった。どちらでもない場所で、ただ握り続けていた。それが今のアイラにできる全てで、それで十分だという確信があった。
高所から、リリアが見ていた。
崩れかけた塔の縁で、薄紫と淡い琥珀色のオッドアイがその光景を見下ろして——リリアの唇がわずかに動いた。何かを呟いていた。声は届かなかった。風に消えたのかもしれなかった。その言葉が何であったか、戦場の誰にも分からなかった。
アイラが、一歩を踏み込んだ。
砂利の音が、静寂の中に落ちた。
その瞬間が、静止した。