プレイボールの向こう側
スマホの向こうで、幼馴染が今日も笑っている。登録者50万人を突破した人気バーチャルライバー・五十嵐梨花。その輝く画面の裏で、佐倉悠だけが知っている彼女の素顔があった。十年以上隣にいたからこそ知る、疲れた声、弱音、不器用な笑い方。でも、彼女の世界はどんどん広がっていく。自分は隣にいていいのか——画面の光と電話越しの声のあいだで揺れる、もどかしくも切ない、幼馴染たちの恋の物語。
プレイボールの向こう側 - 雨の夜、濡れたチケット
窓を打つ雨音が、部屋に満ちていた。
佐倉悠は床に座り、背をベッドにもたれかけていた。部屋の明かりはつけていない。スマホの画面だけが、暗い床の上で白く光っている。
画面には、梨花からのメッセージが並んでいた。
『悠、今日仕事終わったら行くから』
『返事しなくていい。でも、行くから』
『待ってて』
既読だけがついている。
あの日、進藤まひろに連れられて梨花が帰ってから、一週間。悠は、梨花からのメッセージを、一度も開かなかった。いや、開いた。開いて、読んで、既読をつけた。でも、返事はしなかった。
(何を返せばいいんだ)
悠は、スマホを伏せた。
若葉台駅の明かりが、雨に滲んで、カーテンの隙間から細く差し込んでいる。時計は、午後十一時を回っていた。
(梨花は、今、どこにいるんだろう)
(仕事、終わったのか)
(こんな雨の中、本当に来るのか)
心臓が、うるさい。
一週間前、悠は、梨花に言った。「お前の未来の足を引っ張りたくない」と。梨花は、半泣きで「あんたがいないと、私、頑張れないのに」と詰め寄った。そして、まひろが来て、梨花を連れて行った。
『あなたが距離を置くほど、梨花さんは不安定になります』
まひろの言葉が、まだ、耳の奥に残っている。
(俺は、梨花を不安定にさせていた)
(俺が、梨花の足を引っ張っていた)
悠は、膝を抱えた。
それでも、梨花は、毎日メッセージをくれた。
『おはよう』
『今日、配信がんばるね』
『悠、元気?』
短い言葉が、毎日のように届く。悠は、それを見るたび、胸が締めつけられた。
(返事をしなきゃ)
(でも、返事をしたら、また、梨花を傷つける)
指が、動かない。
ピンポーン。
インターホンの音が、静かな部屋に、鋭く響いた。
悠の肩が、跳ねた。
(来た)
悠は、立ち上がった。足が、重い。一歩、一歩、床を踏むたびに、心臓が、喉の奥まで、せり上がってくる。
インターホンのモニターを、そっと覗く。
息が、止まった。
画面の中に、梨花がいた。
傘もささずに、立っていた。
髪も、服も、全身が、ぐっしょりと濡れている。白いブラウスが、肌に貼りついて、輪郭を浮かび上がらせていた。前髪が、顔に、べったりと張りついている。
でも、その目は、まっすぐに、カメラを見上げていた。
(梨花……)
悠は、ドアノブに手をかけた。
開けるべきか、開けないべきか。
一瞬、迷った。
(俺が開けたら、また、梨花を傷つける)
(でも、開けなかったら、梨花は、この雨の中、ずっと立っている)
指が、震える。
ピンポーン。
もう一度、インターホンが鳴った。
悠は、目を閉じた。
(……開けよう)
(開けて、ちゃんと、話そう)
悠は、ドアを開けた。
雨の匂いが、部屋の中に、流れ込んできた。
「……よっ」
梨花が、立っていた。
濡れた髪の先から、水滴が、ぽたぽたと、廊下に落ちている。頬も、首も、雨に濡れて、光っていた。
「……入れよ」
悠は、それだけ言って、体を横にずらした。
「……入る前に、言いたいことがあるの」
梨花は、動かなかった。
「悠、これ、見て」
梨花は、濡れた手で、肩にかけていたバッグを開けた。中から、透明なビニール袋を取り出す。その中に、二枚の紙が、入っていた。
梨花は、そのビニール袋を、悠の胸に、押しつけるように差し出した。
「青嵐スタジアムの、観戦チケット。二枚。内野指定席A、十二列の二十三番と二十四番。今週の日曜日。私、一週間前に、記念配信の成功祝いで、自分で買ったの。あんたと、一緒に行きたくて」
悠は、チケットを見つめた。
ビニール袋の向こうに、青嵐スタジアムのロゴと、日付が、滲んで見える。
「悠、聞いて。あんたが、私のことを、心配してくれてるのは、わかってる。私が、人気者になって、あんたが、自分は足を引っ張るだけだって、思ってることも、わかってる」
梨花の声は、雨音に、かき消されそうだった。
「でも、スキャンダルなんて、私が何とかするから。事務所にも、話をつける。私のファンは、私が守る。あんたとの関係も、私が守る。だから、あんたは、何も心配しなくていいの」
梨花は、チケットを、悠の胸に、ぐっと、押しつけた。
「あんたと、野球に行きたいの。あんたの隣で、ビール飲んで、ホットドッグ食べて、一緒に、応援したいの。それだけなの。それだけが、私の、お願い」
梨花の目が、赤くなっていた。
雨に濡れているから、涙かどうかは、わからない。
でも、悠には、梨花が、泣いているように、見えた。
「……梨花」
悠は、チケットを受け取った。
ビニール袋の表面が、冷たかった。
「ごめん」
悠は、小さく、謝った。
「俺、お前の隣にいる資格、ないと思ってた。お前が、どんどん、遠くに行くから。俺が、隣にいたら、お前の邪魔になるって。お前の、足を引っ張るって。そう、思ってた」
悠の声は、低く、震えていた。
「お前からのメッセージ、全部、見てた。でも、返事をしたら、もっと、お前に、迷惑をかけるって。俺が、返事をしなければ、お前は、俺のこと、忘れられるって。そう、思ってた」
悠は、うつむいた。
「でも、違った。俺が、逃げてるだけだった。俺が、一人で、決めつけてただけだった。お前の気持ちも、聞かないで」
梨花は、黙って、悠の話を聞いていた。
雨音だけが、二人の間に、流れている。
「誰が決めたの、そんなの」
梨花の声が、雨音を、突き破った。
「あんたが、私の足を引っ張るって、誰が決めたの? あんたが、私の邪魔になるって、誰が決めたの? 私が、決めてない。私は、あんたに、隣にいてほしいって、ずっと言ってる。それなのに、あんたは、一人で、勝手に、いなくなるの?」
梨花は、悠の手を、掴んだ。
雨に濡れた、冷たい手だった。
でも、その力は、強かった。
「私が決める。あんたが、私の隣にいるかどうかは、私が決める。あんたじゃない。私が、決めるの」
梨花の指が、悠の手に、食い込んだ。
「だから、悠は、隣にいて。私の隣に、いて。お願い。それだけで、いいの。それだけで、私は、頑張れるの」
悠は、梨花の手を、見つめた。
冷たくて、小さくて、でも、力強い手。
この手が、画面の向こうで、何万人もの人を、笑顔にしている。
でも、今、この手は、俺の手を、離さないでいる。
(俺は、一人で、決めつけていた)
(梨花の気持ちを、聞こうともせずに)
悠は、梨花の手を、握り返した。
「……わかった」
悠は、うなずいた。
「日曜、行こう。一緒に、野球、見よう」
梨花の目が、大きく、見開かれた。
「……ほんと?」
「ほんと。俺、行く。お前と、一緒に」
梨花の顔が、くしゃっと、崩れた。
「……ばか。遅い。返事、遅すぎ」
梨花は、悠の胸に、額を、押しつけた。
「一週間も、無視して。私、どれだけ、心配したと思ってるの」
「……ごめん」
「ほんとに、ばか。悠の、ばか」
梨花は、悠の胸に、額を、ぐりぐりと、押しつけた。
悠は、梨花の、濡れた髪に、そっと、手を触れた。
冷たい。
「とりあえず、上がれ。風邪、引く」
「……うん」
梨花は、小さく、うなずいた。
悠は、梨花を、部屋に上げた。
「ちょっと待ってろ。タオル、取ってくる」
悠は、洗面所に向かった。
タオルを、二枚、手に取る。
(梨花が、来てくれた)
(俺の、ために)
悠は、タオルを、ぎゅっと、握りしめた。
(ちゃんと、向き合わなきゃ)
(もう、逃げない)
悠は、部屋に戻った。
「ほら」
悠は、梨花に、タオルを差し出した。
「ありがと」
梨花は、タオルを受け取り、髪を、拭き始めた。
濡れた髪から、水滴が、床に、落ちる。
「……悠、私、今、すごく、みっともない格好してるでしょ」
梨花が、苦笑いした。
「別に、いつもと、変わらない」
「ひどい。もっと、かわいいって、言ってよ」
「……かわいい」
悠の声が、小さくなった。
梨花が、ぴたりと、手を止めた。
「……え? 今、なんて?」
「……別に」
悠は、目を逸らした。
「聞こえた。かわいいって、言った」
「言ってない」
「言った。絶対、言った」
梨花が、笑った。
久しぶりに、見る、梨花の笑顔だった。
画面の中の、完璧な笑顔じゃない。
雨に濡れて、髪も、ボサボサで、目も、赤くて。
でも、悠が、一番、知っている、梨花の笑顔だった。
(ああ、やっぱり、梨花は、梨花だ)
悠は、胸の奥が、じわりと、温かくなるのを、感じた。
その時、梨花のスマホが、震えた。
梨花は、タオルで髪を拭きながら、スマホを、手に取った。
画面を、見る。
梨花の、笑顔が、消えた。
「……え」
梨花の手が、止まった。
「……どうした?」
悠は、梨花の、異変に、気づいた。
「……なんでもない」
梨花は、スマホを、バッグの中に、押し込んだ。
「事務所から、連絡。明日の、打ち合わせの、確認」
梨花は、無理に、笑った。
「大丈夫。なんでもないから」
でも、その笑顔は、さっきの笑顔とは、違っていた。
悠は、梨花の、変化を、見逃さなかった。
(何か、あった)
(事務所からの、連絡……)
悠は、聞こうとした。
でも、梨花は、悠の、視線に、気づいて、また、笑った。
「ほんとに、なんでもないの。それより、悠、ビールある? 私、飲みたい」
「……あるけど」
「じゃあ、飲もう。私、今日、すごく、がんばったから。ご褒美」
梨花は、冷蔵庫の方に、歩いていった。
悠は、梨花の、後ろ姿を、見つめた。
(梨花、何か、隠してる)
(でも、今は、聞かない方が、いい)
(せっかく、笑ってるのに)
悠は、そう、思った。
でも、その判断が、間違いだったことを、悠は、まだ、知らなかった。
窓の外では、雨が、まだ、降り続いていた。
若葉台の街を、雨が、静かに、洗い流していた。
そして、その雨の中で、誰かが、この部屋の、明かりを、カメラに、収めていた。
二人が、手を、握っていた、その瞬間を。
悠は、まだ、何も、知らなかった。Noveliaとは?
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