プレイボールの向こう側
スマホの向こうで、幼馴染が今日も笑っている。登録者50万人を突破した人気バーチャルライバー・五十嵐梨花。その輝く画面の裏で、佐倉悠だけが知っている彼女の素顔があった。十年以上隣にいたからこそ知る、疲れた声、弱音、不器用な笑い方。でも、彼女の世界はどんどん広がっていく。自分は隣にいていいのか——画面の光と電話越しの声のあいだで揺れる、もどかしくも切ない、幼馴染たちの恋の物語。
プレイボールの向こう側 - 88枚目のチケット
青嵐スタジアムの照明が、グラウンドの土を白く照らしていた。
内野指定席Aの十二列、二十三番と二十四番。梨花は隣で、両手でスマホを握りしめている。画面はすでに暗い。でも、さっきまで何度も何度も、その画面が光っては消えていた。
八回裏が終わったところだった。
スコアボードを見上げる。二対三。一点ビハインド。残りは九回の攻撃だけ。
「……悠」
梨花の声が、歓声の隙間から聞こえた。
「……どうした」
悠は、梨花の手元を見た。スマホを握る指が、白くなっている。
「さっき、まひろさんから連絡来て」
梨花は、うつむいたまま言った。
「すぐ戻ってきてくださいって。噂が、大きくなってるからって」
噂。
あの雨の夜、誰かが撮った写真。二人が手を握っているところ。SNSに流れた根拠のない投稿。それが、まだ消えずに、広がっている。
「事務所に戻れば、私、今日の試合、最後まで見られない」
梨花は、グラウンドを見た。九回裏の攻撃に備えて、選手たちがベンチから出てくる。応援団の太鼓が、ドン、ドン、と腹に響く。
「でも、戻らないと、もっと面倒なことになるかもしれない」
梨花の膝の上で、スマホがまた震えた。画面が光る。梨花は、それを見ない。
「私、どうすればいいのかな」
その声は、小さくて、かすれていた。
悠は、梨花の横顔を見た。
白いキャップのつばの下で、梨花の目が、揺れている。グラウンドと、スマホと、悠と。視線が、行き場を探して、さまよっている。
(俺は、どうすればいい)
悠は、自分の手を見た。
(今までなら、ここで言ってた)
(「行けよ」「お前の仕事を優先しろ」「俺は大丈夫だから」)
(そう言って、梨花を送り出して、一人で帰る)
(それが、梨花のためだと思ってた)
心臓が、うるさい。
太鼓の音と、歓声と、自分の心臓の音が、混ざって聞こえる。
(でも、違う)
悠は、息を吸った。
(俺は、梨花の隣にいたい)
(今日、ここで、最後まで、梨花と一緒に試合を見たい)
(俺の本心は、それだ)
悠の右手が、動いた。
梨花の左手に、触れた。
「……悠?」
梨花の肩が、ぴくりと跳ねた。
悠は、梨花の手を、握った。
冷たい。
あの雨の夜と同じだ。梨花の手は、いつも、冷たい。
「行くな」
悠は、言った。
「ここにいろ」
梨花の目が、大きく見開かれた。
「……え?」
「今日は、最後まで、ここで試合を見よう」
悠の声は、低くて、短かった。
本音を言うとき、悠の声は、いつも、そうなる。
「お前が、自分で、ここにいるって決めたんだろ。だったら、最後まで、いればいい」
梨花は、まばたきをした。
「……でも、噂が」
「噂は、明日になっても消えない。今日、ここで試合を見ても、見なくても、同じだ」
悠は、梨花の手を、強く握った。
「それに」
悠は、グラウンドを見た。
九回裏。先頭打者が、バッターボックスに入る。
「最後まで見ないと、後悔する」
梨花は、悠の手を見た。
悠の手が、梨花の手を、包み込んでいる。
梨花の指が、ゆっくりと、悠の指に、絡んだ。
「……うん」
梨花は、小さくうなずいた。
「私、ここにいる」
梨花は、空いた方の手で、スマホを拾い上げた。
電源ボタンを、長押しする。
画面が、暗くなる。
梨花は、そのスマホを、バッグの中に、しまった。
「これで、いいの」
梨花が、悠を見た。
「私が決めたの。今日は、悠と、最後まで、野球を見る」
梨花の目が、もう、揺れていなかった。
悠は、梨花の手を握ったまま、前を向いた。
「……ああ」
手のひらが、じわりと温かくなってきた。
——その時。
カキィィン!
快音が、スタジアムに響いた。
打球が、ライトへ、伸びていく。
「あっ!」
梨花が、立ち上がった。
悠も、立ち上がった。
二人の手は、まだ、つながったままだった。
白球が、ライトの頭上を越える。
フェンス直撃。
二塁打。
「「「うおおおおおおおお!!!」」」
地鳴りのような歓声が、スタジアムを揺らした。
「悠、悠! チャンス! チャンスだよ!」
梨花が、悠の腕を、ぶんぶん振った。
「あと一点! あと一点で追いつく!」
梨花の声が、歓声に負けないくらい、大きい。
悠は、梨花の顔を見た。
さっきまで、あんなに迷っていたのに。
今は、目を輝かせて、グラウンドを見ている。
(梨花は、やっぱり、野球が好きだ)
(俺と一緒に、野球を見るのが、好きだ)
悠の胸の奥が、熱くなった。
次の打者が、バッターボックスに入る。
スタジアム全体が、立ち上がっている。
応援歌が、大きくなる。
タオルが、回る。
歓声が、波のように、押し寄せる。
梨花は、悠の手を握ったまま、前のめりになっていた。
「打って! 打って!」
梨花の声が、かすれている。
悠も、声を出した。
「行け!」
ピッチャーが、振りかぶる。
投げた。
打者が、振った。
——カキィィィィン!!
打球が、高く、高く、舞い上がる。
センターが、後退する。
フェンス際。
届かない。
ボールが、スタンドに、飛び込んだ。
「「「うわああああああああああああああ!!!」」」
逆転サヨナラ。
三対二。
試合終了。
スタジアムが、爆発した。
地鳴り。
いや、地鳴りなんてものじゃない。
三万人の声が、一つになって、空に突き刺さる。
「やったああああああああ!!!」
梨花が、飛び跳ねた。
「悠! 悠! 勝った! 勝ったよ!」
梨花が、悠に、飛びつくように、振り返った。
右手を、高く、上げる。
「ハイタッチ!」
梨花の手が、悠の前に、差し出される。
悠は、その手を、見た。
小さな手。
でも、今は、熱を持っている。
悠は、その手を、握った。
パチン、と、音がした。
でも、悠は、手を離さなかった。
梨花の手を、握ったまま、じっと、梨花を見た。
「……悠?」
梨花が、首をかしげる。
周りでは、まだ、歓声が続いている。
見知らぬ人たちが、抱き合って、泣いて、笑っている。
その中で、悠は、梨花の手を握ったまま、言った。
「梨花」
悠の声は、低くて、でも、はっきりしていた。
「俺、これからも、お前の隣で、応援させてほしい」
梨花の動きが、止まった。
「……え」
梨花の口が、半開きになる。
「お前が、画面の向こうで、何万人に応援されても。お前が、舞台に立って、もっと遠くに行っても」
悠は、梨花の目を、まっすぐに見た。
「俺は、お前の隣で、お前を応援したい」
梨花は、まばたきをした。
一回。二回。
それから、梨花の顔が、くしゃっと、崩れた。
「……ばか」
梨花が、笑った。
「当たり前じゃん。あんたは、私の、一番最初のファンでしょ」
梨花の目が、きらきらと光っている。
「悠が、私の隣にいるの。ずっと、そうでしょ。私が、そう決めたんだから」
梨花は、悠の手を、ぎゅっと握り返した。
「これからも、よろしくね。私の、一番のファン」
悠は、泣きそうになった。
喉の奥が、熱い。
目の奥が、じわりと、にじむ。
(ああ、俺は)
(ずっと、この言葉が、聞きたかった)
画面の向こうの梨花。
何万人もの人を笑顔にする、完璧なバーチャルライバー。
隣にいる梨花。
野球が好きで、ビールが好きで、笑うと目が細くなる、幼馴染。
その二つが、今、初めて、悠の中で、一つになった。
(梨花は、梨花だ)
(画面の向こうも、隣も、全部、俺の知ってる梨花だ)
悠は、梨花の手を握ったまま、うなずいた。
「……ああ。よろしく」
悠の声が、少し、震えていた。
梨花は、それに気づいて、笑った。
「悠、泣いてる?」
「……泣いてない」
「泣いてる。目、赤いよ」
「……歓声で、目が、しみただけだ」
「ふふ、変なの」
梨花は、悠の手を、離さなかった。
スタジアムの歓声が、まだ、続いている。
紙吹雪が、舞っている。
ヒーローインタビューが、場内に流れ始める。
でも、悠の耳には、梨花の笑い声だけが、聞こえていた。
——
試合が終わって、しばらく経った。
スタジアムの照明が、少しずつ、落とされていく。
観客が、出口へ向かって、ゆっくりと流れていく。
悠と梨花は、スタンドの通路に立っていた。
「悠、今日は、ほんとに、ありがとう」
梨花が、言った。
「私、やっぱり、野球が好き。悠と見る野球が、一番好き」
梨花は、青嵐スタジアムのグラウンドを、名残惜しそうに見つめた。
「……俺もだ」
悠は、短く答えた。
梨花が、振り返った。
「ねえ、悠。舞台、絶対来てね」
梨花の声が、急に、明るくなった。
「悠が来なかったら、私、舞台で泣いちゃうから」
梨花は、笑いながら言った。
「本番中に、客席見て、悠がいなかったら、セリフ忘れる。ほんとに泣く。だから、絶対に来て」
「……わかった。行く」
悠は、うなずいた。
梨花は、満足そうに笑った。
それから、何かを思い出したように、ぽんと手を叩いた。
「あ、そうだ。悠、ひなって子、悠の職場の子でしょ?」
悠の心臓が、ドキッと跳ねた。
「……ひな? なんで、お前が」
「この前、配信のコメントで見たの。悠の職場の人です、って書いてあったから」
梨花は、いたずらっぽく笑った。
「今度、紹介して。私のファンなんだって? ちゃんと、お礼言いたい」
悠は、言葉を失った。
ひなのことを、梨花が知っている。
配信のコメントで、見ていた。
「……お前、あれ、読んでたのか」
「当たり前でしょ。私の配信だよ。コメント、全部読んでる」
梨花は、胸を張った。
「ひなちゃん、でしょ? 私の配信、いつも見てくれてるんでしょ? 嬉しいな」
梨花の笑顔は、本物だった。
「……わかった。今度、話してみる」
悠は、うなずいた。
梨花の世界が、悠の日常に、触れようとしている。
それは、侵食ではなく、接続だった。
画面の向こうの梨花が、隣にいる梨花が、悠の毎日の中に、自然に、入ってくる。
(これが、これからの、俺と梨花の関係なんだ)
悠は、そう思った。
「じゃあ、私、そろそろ事務所に行くね」
梨花が、言った。
「まひろさんに、ちゃんと話してくる。噂のことも、今日のことも」
梨花の表情が、少しだけ、引き締まった。
「でも、大丈夫。私が何とかするから」
梨花は、悠の目を、まっすぐに見た。
「悠は、何も心配しなくていいの。私が、全部、守るから」
悠は、梨花の言葉に、胸が熱くなった。
「……俺も、守る」
悠は、言った。
「俺にできることなら、何でもする」
梨花の目が、大きく見開かれた。
「……悠、それ、本気で言ってる?」
「本気だ」
梨花は、しばらく、悠の顔をじっと見ていた。
それから、ふわりと笑った。
「うん。信じてる」
梨花は、悠の手を、もう一度、ぎゅっと握った。
「じゃあ、またね。悠」
梨花は、手を離した。
そして、人混みの中へ、歩いていく。
白いキャップが、遠ざかっていく。
悠は、その後ろ姿を、見えなくなるまで、見送った。
——
帰り道。
青嵐公園駅までの道を、悠は一人で歩いていた。
空は、もう暗い。
でも、街の明かりが、道を照らしている。
屋台の明かりも、まだ、残っている。
焼き鳥の匂いが、風に乗って、流れてくる。
悠は、ポケットに手を入れた。
指先が、何かに触れた。
(ああ、そうだ)
悠は、それを、取り出した。
古い観戦チケットの半券。
今日の試合のものだ。
青嵐スタジアム。内野指定席A。十二列。二十三番。
悠は、その半券を、しばらく見つめた。
部屋の引き出しには、古い半券が、ぎっしりと詰まっている。
八十七枚。
小学五年生の夏から、梨花のデビュー直前まで。
全部、梨花と一緒に見た試合の、証だった。
(八十七枚は、過去の時間だ)
(俺と梨花が、一緒に過ごしてきた、過去の証)
悠は、今日の半券を、月明かりに透かした。
(でも、これは、違う)
(これは、八十八枚目だ)
(まだ、終わっていない)
(これからも、増えていく)
悠は、半券を、そっと、財布の中にしまった。
部屋に帰ったら、引き出しの半券の束に、これを加えよう。
八十八枚目として。
(梨花の舞台は、野球じゃない)
(でも、あれも、応援に行く)
(チケットは、野球の半券じゃないけど)
(それでも、俺と梨花の、新しい時間だ)
悠は、スマホを取り出した。
画面を開く。
ひなとのトーク画面。
指が、動く。
『今度、梨花を紹介するよ』
送信。
すぐに、既読がついた。
ひなから、返信が来る。
『え!? 本当ですか!?』
『やった! 嬉しい! 楽しみにしてます!』
スタンプが、いくつも、送られてくる。
悠は、その画面を見て、小さく笑った。
(ひなは、喜ぶだろうな)
(梨花も、喜ぶだろう)
(俺は、その二人を、つなぐ)
悠は、空を見上げた。
星が、いくつか、見えている。
若葉台の街の明かりが、空を、ぼんやりと照らしている。
(今日、俺は、梨花の手を握った)
(自分の意志で、引き止めた)
(そして、梨花は、残ってくれた)
(逆転サヨナラを見られた)
(ハイタッチの手を、握り返した)
(「一番最初のファン」だと、言ってもらえた)
悠は、胸の奥が、じわりと温かくなるのを感じた。
(俺は、梨花の隣にいる)
(これからも、ずっと)
悠は、歩き出した。
若葉台の街へ、帰るために。
八十八枚目のチケットを、胸に。
そして、八十九枚目が、いつか、来ることを、信じて。
——その時、スマホが、震えた。
梨花からだった。
『悠、今日は、ありがとう』
『私、やっぱり、悠と野球が見たい。これからも、ずっと』
『だから、また、チケット、買うね』
『今度は、もっと、いい席で』
悠は、そのメッセージを、何度も、読み返した。
指が、震える。
『俺も、買う』
『今度は、俺が、チケットを取る』
悠は、そう返信した。
すぐに、梨花から、返事が来た。
『え、悠が?』
『楽しみにしてる』
『でも、外野はやだよ。内野がいい』
悠は、笑った。
『わかった。内野指定席Aを取る』
『十二列の、二十三番と二十四番』
梨花から、スタンプが来た。
親指を立てた、ウサギのスタンプ。
悠は、その画面を、そっと閉じた。
(次は、俺が、チケットを取る)
(梨花を、野球に、誘う)
(俺の意志で)
悠は、駅の改札を抜けた。
電車が、ホームに滑り込んでくる。
若葉台行き。
悠は、電車に乗り込んだ。
ドアが、閉まる。
窓の外に、青嵐スタジアムの明かりが、遠ざかっていく。
今日の試合は、終わった。
でも、二人の野球は、まだ、続いていく。
八十八枚目のチケットは、過去の証じゃない。
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