反属性おじさんのドタバタ支援日誌
38歳のベテラン冒険者、ガレン・ストレイヴァーは、腰と膝の痛みに耐えながら、ついに引退を決意した。体力の限界を感じ、若い頃の無理が祟り、もはや前線で戦うことはできない。最後の依頼をこなして引退金を稼ごうと、辺境の街錆びた歯車亭に足を運んだその時、異変が起きた。
依頼板の前で、聖属性の魔力をふりまく駆け出し聖女が、巨大な闇属性のスライムに追い詰められていた。ガレンは反射的に駆け出そうとするが、腰がギクッと悲鳴を上げる。その瞬間、彼の手から、なぜか小さな闇の刃が飛び出し、スライムをかすめた。周囲に聖属性の者がいると、反対の闇属性の力が現れる。これが、ガレンに突然芽生えた反属性適応という、聞いたこともない能力だった。
この街には、なぜか属性の天才たちが集まっていた。聖女のリリア(18歳)は純粋すぎて敵の罠にすぐハマる。炎の小騎士フィオナ(19歳)は熱血すぎて周囲を巻き込んで燃やす。氷の魔術師セレス(20歳)はクールを装いつつ、実は人見知りで詠唱を噛む。彼女たちはそれぞれ、自分と同じ属性の上位魔物や強敵に、華麗に、そして滑稽に苦戦していた。ガレンの新能力は、隣にいる者の属性に反応し、対とな
反属性おじさんのドタバタ支援日誌 - 引退計画、全部一人でやろうとしたら全部裏目に出た件
農道の帰り道を思い出した。
夕焼けの中、銀白色の髪がほんのり金色に染まって、リリアが小さく笑っていた。その瞬間に右手からふわりと漏れた闇の粒。二人の間の空気の中で静かに舞って、「きれい」と彼女が呟いた——。
ガレン・ストレイヴァーは目を開けた。
錆びた歯車亭の天井板が見えた。木目と、うっすらとしたカビの筋。ここ数日でだいぶ見慣れてきた景色だ。
腰が痛い。
いや、今日の痛みはいつもと種類が違う。農道で何度か反属性適応が暴発したせいで、腰の周りの筋肉が妙にこわばっている気がする。体の奥で、何かが自分の意思とは別に動こうとしている感覚。38年間、一度として魔法を使えたことのなかった体が、急に新しいことを覚えようとしている——そのぎこちなさが、じわじわと筋肉痛として出てきているのかもしれない。
「……気持ち悪い話だな」
誰もいない部屋に独り言が漏れた。ガレンはゆっくりと起き上がり、行李から湿布を取り出した。一枚、二枚。それから三枚目。腰の右側、左側、そして背中の下部に丁寧に貼り付ける。これが38歳の朝の儀式だ、という事実はもう受け入れている。
問題は今日の計画だった。
ガレンは枕元の手帳を開いた。昨夜、消灯前にきっちり書き込んでおいた今日のスケジュール。几帳面な性格が、こういう時だけ余計な仕事を生む。
①反属性適応の自主制御練習
②遍歴業組合トルニカ支部への引退届の下書き提出
③共同浴場「湯煙の轍」での腰痛温泉療養
三項目。完璧だ。一人でやれば誰にも迷惑をかけない。誰かを巻き込まなければ、反属性適応が暴発しても被害は自分だけで済む。なにより——昨日みたいな、なんとも言えない夕暮れの空気を、もう一度体験する必要がなくなる。
ガレンはぺたりと手帳を閉じた。
「よし、一人でやる」
決意は固い。腰に手を当てながら立ち上がって、一段ずつ階段を降りた。
◆
制御練習の場所は、街外れの石畳の路地に決めた。
トルニカの街は人口約二千八百人ほどの小さな街だが、朝の早い時間帯は中心部こそ市場の活気があるものの、外れの路地はほぼ無人になる。ガレンはそこに陣取って、深呼吸を一つした。
目標はシンプルだ。意図的に反属性適応を発動させて、制御できるか確かめる。昨日の農家の倉庫では無意識に出てしまった黒い糸があれだけ精密に七匹のスライムを拘束した。つまり、うまくやれば精度はある。あとは意識的にコントロールできるかどうかだ。
ガレンは右手を前に出した。集中する。
……何も起きない。
深呼吸。もう一度集中する。
……何も起きない。
そうか。昨日は近くにリリアの聖属性があったから反応していたのか、とガレンは気づいた。体の中に何かが眠っているのは確かだが、それは完全にリリアの聖属性魔素に引き寄せられる形で——
ピュッ。
「……え」
右の手のひらから、細い闇の棘が一本飛んだ。路地の石畳に小さなひびが入った。
ガレンは棘が出た方向を見た。路地の奥の壁。壁の向こう側から——かすかに、淡い聖属性の気配がしていた。まさか、昨日の帰り道で体内に染み込んだリリアの聖属性の残滓が、まだ残っているのか。
「なるほど。……なるほど?」
ガレンが首をかしげた瞬間、足元の石を踏んだ。
ピュッ。
また棘が飛んだ。今度は横方向に。
「っ待て待て待て!!」
深呼吸した。肺に空気が入る。その空気の流れにすら反応したのか、右手の指の間から闇の糸がフワッと漏れ出した。くねくねと漂って、路地の石畳を這う。ガレンは糸を引っ込めようとした。思い切り意識を集中させた。
糸は三本に増えた。
「逆効果だ!!」
そのとき、路地の入口から荷馬車の音が聞こえた。ガレンはぎくりとして振り返った。荷物を積んだ荷馬車が、のんびりとした足取りでこちらへ向かってきている。御者のモブ——日焼けした、五十代くらいの行商の男だ——は何も気づいていない。
ガレンは糸を引っ込めようとした。もっと強く意識を集中させた。
糸が五本に増えた。
「だから逆効果!!!!」
シュッ、という音がした。
荷馬車の積み荷を固定していた荷紐が、するりと切れた。積み荷が崩れる。大根が二十本、芋が一袋、干し魚の束が三本、石畳にばらまかれた。
ドンガラガッシャン!!!
「わあっ!!」
行商人が荷馬車を止めた。馬が驚いて短くいなないた。ガレンはその場で固まった。
静寂。
行商人がガレンを見た。石畳に散らばった大根を見た。ガレンの右手をちらりと見た。ガレンはゆっくりと右手を背中の後ろに隠した。
「……すみません、弁償します」
結局、謝罪と荷物の積み直しの手伝いで四十分が飛んだ。大根が重かった。腰が三回ほど本気の抗議をした。行商人は最終的に「いや、紐が古かったんですよ」と言って去っていったが、ガレンには紐が古かったとは到底思えなかった。
手帳の①の欄に、ガレンはぐりぐりと線を引いた。
◆
次は遍歴業組合——大陸全土に支部百四十二ヶ所を持つ、冒険者の依頼仲介組織——のトルニカ支部事務所だ。錆びた歯車亭の三階にある。ガレンは三階まで階段を上がった。湿布を三枚貼った腰が、踊り場でひっそりと悲鳴を上げた。
扉を開けると、事務所には受付の若い組合員が一人いた。髪を後ろで束ねた、眼鏡の二十代の女性だ。顔に見覚えがある。一昨日、依頼板の前で書類を整理していた。
「あの、引退届の手続きについて聞きたいんだが」
「引退届ですね! 少々お待ちください」
彼女は棚から一冊の分厚い冊子を取り出してきた。「冒険者登録抹消に関する各種規定・様式集」と表紙に書いてある。ガレンは嫌な予感がした。
「引退届の書式は、第十四様式になります。現役時の全依頼履歴を記載すること、という規定がありまして——」
ガレンが目を細めた。
「……全部?」
「はい、全登録以来の全依頼履歴です」
「俺は二十年現役なんだが」
「……あ」
彼女の顔から笑顔が少し引いた。
「推定でいくつくらいになりますか……?」
「三百八十件、か、それ以上だな」
「……あ」
今度は完全に引いた。
ガレンは用意された羽ペンを手に取った。白紙の第十四様式が、威圧的な広がりを見せている。欄が細かい。記載事項が多い。依頼番号、依頼主、依頼内容、達成日時、報酬額、同行者の有無——。
「……やるしかないな」
十件目が終わった。十八年前の依頼だ。確か、トルニカ近郊ではなく北の街だった。依頼主の名前が思い出せない。ガレンは記憶の引き出しを引っ張った。腕が疲れてきた。
二十件目。十六年前。雨の日の護衛依頼。馬が一頭逃げた。
三十件目。腕が本格的に悲鳴を上げ始めた。指の間が痛い。こんな使い方をするために剣を握り続けてきたわけではない。
四十件目。ガレンは羽ペンを置いた。
四十二件目まで書いたところで、右腕が完全にギブアップを宣言した。手首が悲鳴を上げている。握力が冗談みたいになくなっている。三百八十件のうちの四十二件。
「……続きはまた今度にします」
受付の彼女が、かわいそうなものを見る目でガレンを見ていた。
ガレンは手帳の②の欄に「42件で力尽き」と書き込んだ。
◆
共同浴場「湯煙の轍」は、街の中ほどにある。
トルニカの旧鉱山——今は廃坑として「穴鼠の巣」と呼ばれる廃鉱坑とは別の、もっと古い坑道——が地下で温泉源に繋がっており、その湯を引き込んだ公共浴場だ。入浴料は銅貨二枚。安い。そして何より、腰痛に効く。ガレンのような冒険者上がりには定番の療養スポットだ。ガレンも昨日の今日ですでに何度かここに来ているし、今日の目標③のためにこそ最後に残しておいた。
疲弊しきった体で暖簾をくぐると、番台に丸顔の番頭が座っていた。六十代くらいの、温和そうな老人だ。
「あら、ガレンさん。今日もいらっしゃいましたね」
「腰が……限界でして」
「ゆっくり浸かっていってください」
ガレンは服を脱いで、湯船に向かった。平日の昼前というタイミングのせいか、湯船には先客が三人いた。いずれも中年から初老のモブ——大工風の男と、農作業帰りらしい二人組だ。
ガレンはゆっくりと湯に浸かった。
熱い。ちょうどいい熱さだ。じんわりと体の奥まで湯が浸透していく感覚。腰の筋肉が、ほんの少しだけほぐれていく。腕の疲れも、じわじわと溶けていく。四十二件分の恨みが少しずつ薄れていく気がした。
(これだ。これのためだけに今日を生きてきた)
ガレンは目を閉じた。
湯船の縁に頭をもたせかけて、意識が遠のきかけた瞬間——
ぶくぶくぶく。
ガレンは目を開けた。
自分の周りの湯が、泡立っていた。黒い泡だ。普通の温泉の泡ではない。明らかに——闇属性の魔素が湯の中に漏れ出している。温泉の熱と、湯に溶け込んだ魔素成分が、体内に残っていたリリアの聖属性の残滓を刺激したのか。反属性適応が、気持ちよく温まった体の中で目を覚ましたらしい。
ぶくぶくぶくぶくぶく。
黒い光の粒が、次々と湯煙の中に浮かび上がってきた。湯の表面に黒い波紋が広がって、お互いに干渉して、なんというか、見た目が非常によくない。
先客の大工風の男が、ガレンの方を振り返った。
「…………なんじゃこれ!?」
ドッガァァァン!!!
とはならなかったが、男の顔は完全に「なんじゃこれ」だった。
「ちょ、ちょっと!! 黒い! 湯が黒い!!」
農作業帰りの二人組が立ち上がった。湯船の縁に手をかけて、ガレンから離れようとしている。黒い泡が二人の方向に流れていった。
「来た!! 来てる!!!」
「ヒィッ」
三人が一斉に湯船から飛び出した。ドタバタバタバタ!!! 足音が浴場に響いた。
ガレンは一人、黒くぼこぼこと泡立つ湯船の中心に残された。
「違う。俺は何もしていない」
誰もいない浴場に、落ち着いた声が響いた。
「俺は何もしていない」
もう一回言った。言っても状況は何も変わらなかった。湯は相変わらず黒く、黒い光の粒は相変わらずぽこぽこと浮かび上がり続けていた。
しばらくして、番台の番頭が恐る恐る浴場に顔を出した。老人の顔が、ガレンを見た。黒い湯船を見た。ガレンを見た。湯船を見た。
「……ガレンさん、これは」
「温泉と相性が悪かったようです」
「相性……」
番頭が何かを言おうとして、言葉を探して、最終的に諦めたような顔をした。
「今後、お客様がお一人の際は、番台にお申し付けください。その日の状況を確認してから、ご案内を——」
「新ルールですか」
「……はい。本日付けで制定いたします」
ガレンは湯から出た。
着替えながら、こんな形でトルニカの温泉史に名前を刻むことになるとは思わなかった、と、ぼんやり考えた。「前代未聞の迷惑入浴者」という称号は、A級冒険者の肩書よりよほど長く語り継がれるかもしれない。
◆
錆びた歯車亭の一階食堂の丸椅子に、ガレンは静かに腰を落とした。
夕方の食堂は、それなりに賑やかだ。依頼から戻ってきた冒険者が何組か、思い思いのテーブルで鉄鍋シチューをすすっている。カウンター越しにハイドラが何かを言いかけたが、ガレンの顔を見て口を閉じた。察しがいい女だ。何も聞かずにシチューを出してくれた。
ガレンはスプーンを手に取った。
湯気が立っている。今朝と同じ鉄鍋シチューだ。銅貨三枚。野菜と肉の、ありふれた味。それがなぜか、今この瞬間にはとてもありがたかった。
一口すすった。温かい。体の奥に染み渡る。
ガレンは手帳を開いた。今日の計画欄を見た。
①制御練習——完全に悪化
②引退届——42件で力尽き
③温泉療養——追い出される
三行が並んでいる。
ガレンはしばらく、その三行を眺めた。眺めながらシチューをすすった。
一人でやれば、被害が出ない。そう思っていた。実際は、行商人の大根を散らかして、腕を限界まで使い切って、温泉を黒く染めた。一人だからこそ歯止めが効かなかった、ということかもしれない。
問題の根っこは一つだ、とガレンは気づいていた。
反属性適応が、リリアの聖属性に反応しやすくなっている。農道の帰り道で体に染み込んだ残滓が、今日一日ずっと悪さをしていた。つまり、あの笑顔の持ち主が近くにいるだけで——いや、近くにいなくても残滓が残るだけで、自分の体は制御不能になるということだ。
ガレンはシチューを一口すすった。
「……ずいぶん厄介な話だな」
小声で言って、苦笑いが漏れた。
腰が痛い。腕が痛い。プライドが痛い。三箇所同時に痛いというのは、なかなか珍しい経験だ。
それよりも妙なのは——引退しようとしているのに、なぜかこんなにも忙しいことだ。引退の準備が、引退の体力を奪っている。つまり本末転倒だ。しかも「疲れたから引退する」という当初の理由が、いつの間にか「忙しすぎるから引退できない」という理由に入れ替わりつつある。
ガレンはもう一度、三行のメモを見た。
①②③、全部失敗。それでも今日は、確かに何かが分かった。反属性適応を制御するには、少なくとも「完全に一人で静かに集中する」という方法は機能しない。自分の体は、もっと複雑な条件で動いている。
(一人でどうにかしようとしたのが、根本的な間違いだったか)
認めるのには、シチューが三口分くらい必要だった。
手帳をゆっくりと閉じる。表紙の革がしっとりと手に馴染む。二十年使い込んだ手帳だ。この手帳の中には、三百八十件分の記憶がある。今日はそのうち四十二件しか書き出せなかったが、それでも指が覚えている依頼はたくさんある。
あの笑顔を、ふと思い出しかけた。
ガレンは首を振った。
シチューの残りをすすった。ハイドラがカウンターの奥から「明日も頑張れよ」とだけ言った。ガレンは「ああ」とだけ答えた。
食堂の窓から、トルニカの夜空が見えた。星がまばらに出ていた。辺境の街の夜は、王都フォルセイドと違って街明かりが少ない。その分、空が暗くて星がよく見える。
引退届は、まだ三百三十八件分の空欄がある。
ガレンはそのことを考えながら、最後の一口を胃に落とした。腰はまだ痛い。腕もまだ痛い。でもシチューはあたたかかった。
それで今日は、十分だろう。