反属性おじさんのドタバタ支援日誌
38歳のベテラン冒険者、ガレン・ストレイヴァーは、腰と膝の痛みに耐えながら、ついに引退を決意した。体力の限界を感じ、若い頃の無理が祟り、もはや前線で戦うことはできない。最後の依頼をこなして引退金を稼ごうと、辺境の街錆びた歯車亭に足を運んだその時、異変が起きた。
依頼板の前で、聖属性の魔力をふりまく駆け出し聖女が、巨大な闇属性のスライムに追い詰められていた。ガレンは反射的に駆け出そうとするが、腰がギクッと悲鳴を上げる。その瞬間、彼の手から、なぜか小さな闇の刃が飛び出し、スライムをかすめた。周囲に聖属性の者がいると、反対の闇属性の力が現れる。これが、ガレンに突然芽生えた反属性適応という、聞いたこともない能力だった。
この街には、なぜか属性の天才たちが集まっていた。聖女のリリア(18歳)は純粋すぎて敵の罠にすぐハマる。炎の小騎士フィオナ(19歳)は熱血すぎて周囲を巻き込んで燃やす。氷の魔術師セレス(20歳)はクールを装いつつ、実は人見知りで詠唱を噛む。彼女たちはそれぞれ、自分と同じ属性の上位魔物や強敵に、華麗に、そして滑稽に苦戦していた。ガレンの新能力は、隣にいる者の属性に反応し、対とな
反属性おじさんのドタバタ支援日誌 - 引退届、本日も未提出
引き出しの中に、引退届がある。
日付だけが書かれた、A4サイズの正式書類——遍歴業組合への「冒険者引退申告書(第十四様式)」——が、ガレン・ストレイヴァーの古い木製引き出しの中で静かに眠っていた。昨夜しまったままだ。折り目一つない、できたての書類。ただし「引退の理由」欄をはじめ、本文の八割が空白という、引退届として機能しているのかどうかも怪しい代物だった。
ガレンは朝の薄明かりの中でそれを引き出しから取り出し、三秒ほど眺めて、また戻した。
(今日こそ、出す)
決意というより、自分への命令に近い。
フィオナとリリアは、朝の早い時間に出かけていた。フィオナが「体を動かしてないと死ぬ」と言い張り、リリアを巻き込んで訓練広場へ向かったのが、小一時間前のことだ。二人がいない錆びた歯車亭の食堂は、朝特有の静けさに満ちていた。炭火の燃える音。カウンターの奥でハイドラ・モースが黙々と皿を磨く音。それだけだ。
この静けさは好機だ、とガレンは思った。書類を書く集中力がいる。邪魔が入らない。絶好の条件が揃っている。
だから今日こそ、提出する。
腰に湿布を三枚貼った。右側、左側、背中の下部。鉄牙——二十年使い続けた鋼鉄の長剣——を背に負い、引き出しから引退届を取り出した。腰の湿布はいつもの朝の儀式で、鉄牙は習慣で、引退届だけが今日の特別だった。
ガレン・ストレイヴァーは三十八歳だ。冒険者の平均引退年齢は三十二歳。遍歴業組合——大陸全土に支部百四十二箇所を持つ、冒険者が依頼を受けるための組織——に十八歳で登録して、今年でちょうど二十年になる。腰は毎朝痛い。膝の古傷は雨の前日に疼く。右肩は以前より三割、可動域が落ちた。
引退する理由なら、いくらでもある。
石畳のトルニカの通りを歩きながら、ガレンは自分にそう言い聞かせた。辺境の朝は空気が澄んでいて、朝市の喧騒がまだ遠い。魚屋の親父が開店準備をしていて、八百屋の女主人が荷を下ろしている。見慣れた顔が、見慣れた場所で、いつも通りのことをしている。
ガレンもいつも通りの格好で歩いていた。ただ、懐に引退届が入っているという事実だけが、どこかそぐわなかった。
◆
遍歴業組合トルニカ支部は、街の中央通りから一本入った、赤レンガの二階建ての建物だ。看板が少し傾いている。ガレンが十八歳で初めて扉を開けた日から、ずっと傾いたままだ。誰も直さない。たぶんこれからも直さない。
扉を開けると、常連の顔がいくつか見えた。
「おう、ガレンの兄さん。珍しく早いな」
ガレンは軽く手を上げて、何も言わなかった。言えなかった、という方が正確かもしれない。引退届を提出しに来たとは、なぜか口に出せなかった。
受付カウンターへ向かう。カウンターの向こう側には、三十代くらいの組合員が座っていた。几帳面な印象の男で、羽ペンをきちんとインク瓶に戻すタイプだと一目でわかる。
ガレンは懐から引退届を取り出して、カウンターの上に置いた。
「引退申告書を提出したい」
受付の男が書類を手に取り、確認し始めた。
ふむふむ。ページをめくる。ふむふむ。また戻す。ふむ。
三十秒ほど経った。
「……ガレン・ストレイヴァー様ですね」
「そうだ」
「A級冒険者、在籍二十年、依頼完遂記録は……」
受付の男が台帳を引っ張り出して確認した。その顔が、微妙な表情になった。職業的な礼儀を保ちながら、なんともいえない「これは面倒だぞ」という空気を全身で醸し出している顔だ。
「少々、確認させていただきます」
確認の時間が始まった。
一分後。
「ガレン様、第十四様式ですが、在籍二十年以上の方には付随書類が必要です。具体的には『長期在籍確認書(補則第三項)』と、それに添付する過去五年分の依頼実績明細書が必要になります」
ガレンは少し黙った。
「……それは持参書類に含まれていなかったか?」
「はい。第十四様式の説明書きには書いてあるのですが、見落とされることが多く……」
ガレンは受け取った第十四様式の裏面を確認した。小さな文字で、びっしりと注意事項が書いてある。縦書きの一番下、端に。肉眼ではほぼ見えない。
(誰が読む)
心の中で盛大にツッコんだが、顔には出さなかった。二十年の冒険者生活で培った平静さが、ここで役立っていた。まあ、役立てたくはなかったが。
「続けてくれ」
受付の男が台帳を再度確認した。二分後。
「それから、A級冒険者の引退手続きには支部長の確認印が必要です。支部長はただいま外出中でして、午後三時以降の対応となります」
「わかった」
まだ続く。
三分後。
「依頼完遂記録の原本照合も必要でして……三百八十件ですね。照合作業に三日ほどいただきます」
ガレンは静かに天井を仰いだ。三日。三百八十件の記録を、組合側が一枚一枚確認する。三日かかる。それ自体は理解できる。理解はできる。
(……引退って、こんなに大変なのか)
冒険者登録は銅貨五十枚で午前中に終わった記憶がある。なのになぜ引退にこんなに時間がかかるんだ、という疑問は、口に出すと愚痴になるので飲み込んだ。
そのとき、受付の男が台帳のさらに別のページを引っ張り出した。かなり古い台帳だ。紙の端が茶色くなっている。
「……あの、ガレン様」
「何だ」
受付の男が、なんとも言えない表情でこちらを見た。職業的礼儀と、純粋な驚きが混ざった顔だ。
「こちら、在籍記録なのですが——長期継続特別表彰対象者、という印が押されています」
ガレンは少し間を置いた。
「……なんだそれは」
「長期継続特別表彰——遍歴業組合が五年ごとに選定する、優秀な長期在籍冒険者への表彰制度です。在籍二十年以上で、依頼完遂率が九十%以上の方が対象で……」
「それが何か?」
「表彰を受けないまま引退した場合、引退手続きに『表彰辞退届』の提出が追加で必要になります」
ガレン・ストレイヴァーは三秒間、完全に停止した。
表彰対象者。二十年間、そんな印がついていたのか。知らなかった。全く知らなかった。自分が表彰対象だと、一度も思ったことがなかった。つまり二十年間、ガレンは自分の台帳に何かの印がついていることに気づかず、組合も特に教えてくれず、今日引退届を出しに来て初めて発覚した、ということだ。
「……表彰式に、出ないといけないのか」
「表彰を受ける場合は出席が必要です。辞退される場合は辞退届を——」
「辞退する」
即答だった。
受付の男が「そうですか」とうなずいて、辞退届の書式を棚から引っ張り出した。それが思ったより分厚かった。ガレンは書類の厚みを見て、またじわじわと絶望した。
◆
「支部長室でお待ちいただけますか。書類一式をまとめてご確認いただきたいのですが」
ということで、ガレンは支部長室に通された。
支部長室は二階にある。支部長自身は不在なので、部屋には受付の男と、書類を抱えたガレンだけだ。丸テーブルの上に、ガレンの台帳関連書類が広げられていた。
そして、追加書類の説明が続いた。
ガレンは黙々と書類を整理し始めた。どれが何で、どれが何に必要で、どの順番で処理するべきか。問題が多いときほど、分解して整理する。これは二十年の冒険者経験で得た習慣だ。魔獣の大群でも、依頼の書類問題でも、基本は同じだ。
受付の男が棚から書類の束を持ってきた。
ガレンの依頼記録だった。
一枚、二枚、ではなかった。束が、どっさりと来た。最初の一束でテーブルの端まで積み上がった。受付の男がもう一束持ってきた。テーブルに乗らなくて、床に積んだ。さらにもう一束来た。
床から椅子の座面の高さまで積み上がった時点で、受付の男が呟いた。
「……こんなに完遂記録がある方は、初めて見ました」
自分でもそんなに積み上がると思っていなかったのか、若干引いた顔をしている。ガレンも同じ気持ちだった。こうして物量で目の前に現れると、二十年というのがどれだけの量なのか、数字ではなく体積でわかる。
ガレンは一番上の一枚を手に取った。
日付が昨日だった。
「フレイム・レオ討伐補助 依頼完遂確認書 発行:トルニカ支部」と書いてある。昨日付け。インクがまだ乾き切っていない。
記録の山の一番上に、昨日の仕事が鎮座していた。
ガレンはその一枚を持ったまま、しばらく動けなかった。
(……引退する気があるのか、俺に)
記録の山が、無言でそう問いかけていた。床から椅子の高さまで積み上がった、二十年分の紙の塔が。その一番上に昨日付の書類を乗せて。物言わぬ圧力を、ただ高さで示していた。
ガレンは一枚ずつ確認し始めた。
一番下の方の記録は、十八歳のときのものだ。字が今より少し幼い。依頼内容は「G級魔獣討伐、ゴブリン二体」とある。報酬は銅貨三十枚。それが今では、フレイム・レオ討伐補助だ。二十年で、ずいぶん遠くまで来た。
中腹あたりに、七年前の記録があった。赤錆峡谷でのグラシエ・サーペント討伐——氷属性の蛇型魔獣で、吐息が半径十メートルを瞬時に凍結する——の記録だ。当時、一人で対処した。三十一歳。膝が今より動いた。腰の痛みも今ほどひどくなかった。
そして、表彰関連書類が出てきた。
長期継続特別表彰の台帳の横に、別の書類が挟まっていた。ガレンが手に取ると、それは「推薦状」だった。
差出人は、五年前に引退した冒険者の先輩だ。すでにトルニカを離れた人間の名前が書いてある。内容を読んだ。
「特別表彰状:記録的長期在籍および後進育成貢献」
ガレンは一行、また一行と読んだ。後進育成。その言葉が、紙の上で静かに光っている気がした。
後進を育てた覚えはない。ただ、依頼に同行した若い冒険者に助言したことは、何度もあった。実力はあるのに経験が足りない奴らの横で、立ち回りを見せたことも、ある。それが「後進育成」として記録されている。自分では気づいていなかった間に、そういう実績が、公式記録として残っていた。
受付の男が書類の整理を手伝いながら、棚から別の台帳を引っ張り出した。ガレンは推薦状を手に持ったまま、少し動きを止めた。
「後進育成貢献」——その言葉の形をした何かが、胸の奥のどこかに、静かに落ちていった。沈殿するように。
そのとき、リリアの声が頭の中でよぎった。
「お一人で大丈夫でしたか?」
いつも通りの、穏やかな声だ。今朝、フィオナと訓練広場へ出かける前に、こちらを見てそう言った。それからフィオナが「ほら行くよリリア!」と腕を引っ張って、二人で扉を出ていった。
その声が、今の書類の文言と、なぜか一本の線で繋がった。
「後進育成貢献」と「お一人で大丈夫でしたか」が、同じ何かの話をしているような気がした。それが何なのかを、ガレンは考えようとして——、
「ガレン様、こちらの書類についてですが」
受付の男の声で、意識が戻った。
「ああ」
推薦状を机の端に置いて、また書類整理に戻った。
◆
全ての書類が揃うのは三日後、という結論が出たのは、昼前のことだった。
支部長の確認印は午後三時以降。依頼記録の原本照合は三日。表彰辞退届の処理は記録照合と同時進行が可能なので、実質三日待てばすべての書類が揃う。今日できることは「提出予約の登録」だけだ。
受付の男が申し訳なさそうな顔で言った。
「本日は、提出予約のご登録のみとなります。書類一式が揃い次第、正式受付という形になります」
ガレンは少し黙って、うなずいた。
「わかった」
予約の記録用紙に署名して、引退届と推薦状のコピーを組合側に預けた。これで今日の手続きは終わりだ。三日後にまたここへ来ることになる。
支部長室の窓から、トルニカの昼前の通りが見えた。市場がにぎわっている。野菜売りの女が声を張り上げていて、子供が駆け回っている。フレイム・レオに焼かれた訓練広場の鉄柵は、まだ修繕されていない。昨日の自警団の依頼票が、まだ掲示板に残っているはずだ。
「お待ちしております」
受付の男が頭を下げた。
◆
組合の出口で、また声をかけられた。
「引退手続きか?」
朝に声をかけてきた常連の冒険者だ。「珍しく早いな」と言った男だ。鋭いのか鈍いのか判断しにくい目をしている。
「書類の確認だ」
嘘ではなかった。実際に書類の確認をして、提出予約を登録して、三日後に正式提出の予定が入った。書類の確認、という説明は正確だ。
常連の男が「そうか」と言って、依頼板の方へ歩いていった。
◆
帰り道の石畳は、来るときと同じ石畳だった。
腰に湿布が三枚。懐に引退届はない——コピーは組合に預けてきた。三日後という日付けが、初めてこの話に加わった。ただ今日は手ぶらで帰ることになった。引退届を持って来て、予約票を持って帰る。そういう一日だった。
錆びた歯車亭の扉が見えてきた。
扉が開いた。フィオナが先に出てきた。紅色のショートボブが風に揺れて、金色の瞳がすぐにガレンを捉えた。
「あ、帰ってきた! どこ行ってたの?」
「組合だ」
「引退届?」
一瞬の間があった。
フィオナの後ろから、リリアが出てきた。銀白色のウェーブヘアが、昼の光の中で柔らかく光っている。左耳の銀のイヤーカフが揺れた。
リリアの表情が、一瞬だけ変わった。
ほんのわずかな変化だ。目の奥が、ほんのすこし動いた。何かを確認するような。あるいは何かを確かめるような。その変化が何を意味するのか——ガレンは考えようとして、やめた。
「書類の確認だ。三日後に正式提出になる」
フィオナが「ふーん」と言って、中に戻っていった。リリアは何も言わなかった。ただ小さくうなずいて、ガレンの横を通りすぎた。すれ違いざまに、聖属性の魔素の薄い残香がかすめた。
ガレンは扉を押し開けて、食堂に入った。
◆
その夜、一人になってから、引き出しを開けた。
引退届が入っている。日付だけが書かれた引退届に、今日初めて変化があった——右下の隅に、小さく「三日後・正式提出予約済」とガレン自身が書き込んだメモが貼り付けてある。期限ができた。初めて、具体的な日付がこの話に加わった。
三日後という締め切りが、引退届に貼り付いている。
窓の外のトルニカの夜が、いつも通り静かだった。星がまばらに出ていた。
ガレンは引き出しを静かに閉めた。そのとき、脳裏に「後進育成貢献」という文字が、また浮かんだ。
(三日、か)
なぜか、その三日間に何かが詰まっているような気がした。それが何なのか、まだわからない。ただ、三日後に引退届を提出したとき——そのとき自分がどんな顔をしているのか、今のガレンには想像できなかった。