反属性おじさんのドタバタ支援日誌
38歳のベテラン冒険者、ガレン・ストレイヴァーは、腰と膝の痛みに耐えながら、ついに引退を決意した。体力の限界を感じ、若い頃の無理が祟り、もはや前線で戦うことはできない。最後の依頼をこなして引退金を稼ごうと、辺境の街錆びた歯車亭に足を運んだその時、異変が起きた。
依頼板の前で、聖属性の魔力をふりまく駆け出し聖女が、巨大な闇属性のスライムに追い詰められていた。ガレンは反射的に駆け出そうとするが、腰がギクッと悲鳴を上げる。その瞬間、彼の手から、なぜか小さな闇の刃が飛び出し、スライムをかすめた。周囲に聖属性の者がいると、反対の闇属性の力が現れる。これが、ガレンに突然芽生えた反属性適応という、聞いたこともない能力だった。
この街には、なぜか属性の天才たちが集まっていた。聖女のリリア(18歳)は純粋すぎて敵の罠にすぐハマる。炎の小騎士フィオナ(19歳)は熱血すぎて周囲を巻き込んで燃やす。氷の魔術師セレス(20歳)はクールを装いつつ、実は人見知りで詠唱を噛む。彼女たちはそれぞれ、自分と同じ属性の上位魔物や強敵に、華麗に、そして滑稽に苦戦していた。ガレンの新能力は、隣にいる者の属性に反応し、対とな
反属性おじさんのドタバタ支援日誌 - 炎の暴走小騎士、登場!——おじさんの氷霧が街を救い、濡れた服が心臓を殺しにくる
昨日のことが、腰に染み込んでいた。
制御練習の失敗、引退届の中断、温泉からの追放——三拍子そろった全部裏目な一日の記憶が、筋肉痛という形で38歳の体に刻まれている。ガレン・ストレイヴァーは錆びた歯車亭の一階、隅っこのテーブルに腰を落として、羽ペンを動かしていた。
腰に湿布が三枚。机の端には空になった鉄鍋シチューの椀。静かな朝だった。
引退届の43件目——「赤錆峡谷・グラシエ・サーペント討伐補助、報酬銀貨十二枚、単独完遂」——の文字を書き始めたところで、ガレンは羽ペンを止めた。この調子でいくと、引退届を全部書き終える頃には本物の老人になっている気がする。339件。あと339件、書かなければいけない。
そのとき、扉が開いた。
純白の聖衣の裾が、敷居を踏んだ。
リリア・アルジェネスが敷居につまずき、前のめりになった。その瞬間、ガレンの体が反射的に動いた——20年の現役が体に叩き込んだ瞬発力が、脳より早く腕を伸ばした。
リリアの腕をつかむ。間一髪。
距離が縮まった。銀白色のウェーブヘアがふわりと揺れて、甘い——聖属性の魔素が滲んだ、花のような、それとも光のような、言葉にしにくい——残香がガレンの鼻腔をかすめた。
胸の奥で、何かが脈打った。
ミシッ。
腰が鳴った。
「……大丈夫ですか、ガレンさん」
声を出したのはリリアの方だった。ガレンの腕をつかまれた体勢のまま、淡い水色の瞳が心配そうにガレンを見ている。
「大丈夫だ。俺の腰が少し抗議しただけだ」
「……どっちが助けた側なんですか」
正論だった。ガレンは何も言わなかった。リリアが少し距離を取りながら、聖衣の乱れをさりげなく直す。左耳の銀のイヤーカフが朝の光を反射した。暁光の座——プレヴァーン王国の国教組織——から認定を受けた証の、聖女の家紋をかたどった繊細な細工。神殿の朝務めを終えて来たのだろう。
ガレンが椅子に戻り、リリアが向かいに座った。今日の依頼について話し合いかけた——その瞬間だった。
ドォォォン!!!!
窓が振動した。
オレンジ色の光が南側の空を染め、続けてもう一本、また一本と炎の柱が立ち上がった。高さは15メートル以上ある。訓練広場の方角だ。
「またフレイム・レオか!?」
「いや待って、今回なんか別のもんも一緒に燃やしてね!?」
食堂が一気に沸いた。ガレンは立ち上がった——ミシッ、腰が二度目の抗議をした——が、それでも旧剣「鉄牙」を腰に差して歩き出した。20年使い込んだ鋼鉄の長剣が、腰の痛みとは別の安定感を体に与える。
リリアが依頼票を握りしめながら立ち上がった。細い指先が、かすかに震えている。ガレンはそれを見た。見て、何も言わなかった。
「行くか」
引退届の43件目は、途中のまま机の上に残された。
◆
訓練広場——街の南端にある石畳の約30メートル四方の場所——に着いたとき、ガレンは状況を三秒で把握した。
フレイム・レオ。体長3メートル。たてがみが炎でできた獅子型の魔獣で、危険度B級。体表温度800度という厄介な相手だ。遍歴業組合の等級でいえば、熟練のB級冒険者でも単独討伐は慎重を期すべき相手だった。
その炎獅子に向かって、紅色の短い髪の少女が大剣を振り回しながら、全力で炎をぶつけていた。
炎が炎に向かって飛んでいく。フレイム・レオが、飯を食うようにそれを吸い込んだ。
一回り大きくなった。
「っしゃあああ!! まだまだ!!」
少女は怯まない。むしろ燃え上がっている——比喩でも何でもなく、右手に握った大剣の刃が文字通り燃えている。炎属性の剣技「ブラストフレイム」——属性魔素を剣に纏わせる、炎属性戦士の基本にして強力な技だ。しかし今この状況においては、完全に逆効果だった。
フレイム・レオが二回り大きくなった。
「なんで強くなってんの!?」
今頃気づいたのか!!
ガレンは心の中でツッコんだ。
周囲では木の柵が次々と燃えている。広場の隅に並んでいた露店の日よけ布が連鎖着火して、大根を売っていたモブの行商人が「熱いわああ!!」と叫びながら荷車ごと逃げ出している。野菜が宙を舞った。
リリアが水筒を取り出した。容量200mlの聖水入りの小さな瓶だ。広場全体を舐める炎を前に、彼女はそれをフレイム・レオに向けて真剣に振った。
「えい……えい……もうちょっとで……」
「リリア。それは200mlだ」
「200mlあります!」
シュッ。
聖水が蒸発した。一瞬で。跡形もなく。
「……なくなりました」
リリアが水筒を見つめた。ガレンも水筒を見た。二人で水筒を見つめた。炎が燃え続けた。
そのとき、フィオナがガレンたちに気づいた。金色の瞳がぱっと輝く。
「援軍!? よし一緒に燃やそうぜ!!」
「一緒に燃やすな!!」
「え、なんで!? 燃やせば解決じゃん!?」
「炎の魔獣に炎をぶつけると強くなるんだ! 同属性は吸収する、それが属性魔法の基本理屈だ!!」
フィオナが止まった。大剣を構えたまま、フレイム・レオを見た。フレイム・レオを見た。自分の燃えている大剣を見た。
「……あ」
その隙だった。フレイム・レオが低く身を伏せ——獣の目に赤い光が宿り——フィオナの背後へ回り込んだ。
「うわっ!」
フィオナが向きを変えた瞬間、フレイム・レオの爪が空を切った。フィオナは間一髪でそれをかわし——そのまま全力ダッシュした。ガレンに向かって。
「助けて!!!!」
ガレンがフレイム・レオに意識を向けた瞬間だった。
右の手のひらが、熱くなった。
違う——熱いというより、反応している。フレイム・レオが放つ炎属性の魔素が、ガレンの体内の「反属性適応」を激しく刺激していた。昨日の制御練習では無意識にも出せなかったあの力が、今この瞬間——8メートル先に危険度B級の炎属性魔獣がいるこの状況で——勝手に溢れ出そうとしている。
止められなかった。いや、止めることを体が拒んだ。
右の手のひらから、白い靄が噴き出た。
靄は急速に膨らんだ。氷の霧だ。制御不能の氷属性の気流が半径10メートルに広がって、広場の空気を一気に冷やした。石畳に薄い霜が張る。露店の燃えかけた布が急速に温度を失って、炎が消えた。
フレイム・レオの体表が白くなった。800度の表面温度が急低下して、動きが止まる。巨体が石畳の上でよろけた。
「今だ!!!!」
フィオナが叫んだ。大剣の炎を消した——そして生身の体ごと突っ込んだ。助走をつけて、全体重を乗せた、物理の塊みたいな剣撃がフレイム・レオの側面を直撃した。
ドガァァァン!!!!
フレイム・レオが石畳に崩れた。魔素が霧散して、炎が消えた。巨体がゆっくりと輝きを失い、あとには素材となる炎毛だけが残った——一本で金貨5枚はする高級品だが、今は誰もそれどころではなかった。
広場が静かになった。
「……よし、やった!」
フィオナが両腕を上げた。次の瞬間、全員が同時に気づいた。
氷霧が、まだ降り続けていた。
薄い水滴が、広場全体にしっとりと降り注いでいる。フィオナの紅色の短髪が濡れて、額にべたりと張り付いた。彼女の戦闘服は薄い布地だった——動きやすさ重視の、肌に沿ったデザインの。その布が今、全身に吸いついている。
19歳の、鍛え上げられた体の輪郭が、くっきりと。胸元のライン、腰の曲線、腿から膝にかけての形が、薄い布越しにそのまま浮き上がっていた。
ガレンの視線が、一瞬だけそちらに引き寄せられた。
一瞬だけ。本当に一瞬だけ。
次の瞬間には全力で別の方角——燃えた柵の残骸——を見ていた。
(見てない。何も見てない。38歳は落ち着いている)
「なんかびしょびしょになったんだけど!?」
フィオナが戦闘服を引っ張った。布が肌に張り付いてうまく離れない。それを見て、ガレンは更に力強く柵の残骸を眺めた。
そのとき。
ガレンの右袖に、何か柔らかいものが触れた。
リリアだった。隣に立ったリリアが、自分の聖衣の端を使って、ガレンの外套の濡れた袖を静かに拭おうとしている。小さな手が、そっと布地に触れている。
体温が、伝わってきた。
指の柔らかさが、外套越しに感じられた。
ガレンは柵の残骸を見つめたまま、内側で非常に静かに混乱していた。右手側にリリアの体温。左手側にはフィオナが濡れた戦闘服と格闘している光景。処理しきれない。38歳の脳が限界に近い。
「ガレンさん、お怪我はないですか?」
柔らかい声だった。心配するような、でも表面的な——ガレンと彼女の間にまだある、埋まりきっていない距離を感じさせる——穏やかな声。
「……平気だ」
「あの氷、どうやったんですか!?!?」
フィオナが飛びついてきた。
ガレンの腕に、両手でしがみついた。濡れた戦闘服が腕に張り付いた。湿った布地越しに、体温がダイレクトに伝わってきた。フィオナの体が持つ、炎属性の使い手特有の熱い体温が。柔らかい感触が。
ガレンの心臓が「おい待て」と叫んだ。腰がミシッと言った。
リリアがもう片方の腕をぎゅっと握った。フィオナほど強くなく、でも確かな力で。
「ガレンさん大丈夫ですか」
二人が同時にガレンを見ている。ガレンは両腕を完全に確保されていた。右腕をリリアが、左腕をフィオナが。
(腰。腰が痛い。ちょうどいいタイミングで腰が本当に限界だ)
ミシミシッ。
腰が限界を通告してきた。逃げ道として使おうとしたら本当に痛くなった。因果応報が早い。38歳の体は正直だった。
◆
「——で、その前科が、王都の演習場の柵を全焼、観客席を全焼、審査官の仮眠テントを全焼」
ハイドラ・モースが、カウンター越しにフィオナの資料をべたりとテーブルに叩きつけた。元B級冒険者で現在は遍歴業組合トルニカ支部の支部長を務める45歳の女だ。豪快で面倒見がよく、ガレンの古い知り合い。今はその古い知り合いの顔で、こちらを容赦なく眺めている。
「無期限の実地修行で、トルニカ送りになったのがこの子」
錆びた歯車亭の一階食堂。乾いた服に着替えたフィオナが、正面から腕を組んで座っていた。椅子に浅く腰掛けて、金色の瞳がまっすぐハイドラを見ている。
「炎が足りなかっただけだ」
ガレンは溜め息をついた。
ハイドラがフィオナの頭をはたいた。拍子木みたいな音がした。
「足りなかった結果が全焼!」
「もっと燃やしてれば魔獣も消えてたかもしれない」
「観客席が先に消えとるわ!」
ガレンはシチューをすすった。
フィオナはハイドラにはたかれた頭を軽く押さえながら、それでも視線をまっすぐ保っていた。正式な小騎士叙任試験——「小騎士(プティ・シュヴァリエ)」とは正騎士になる前の見習い階級で、14歳から20歳が対象だ——に落ちたことを、この少女はまるで気にしていないように見えた。少なくとも表面上は。
リリアが隣でお茶を飲みながら、そのやりとりを静かに見ていた。フィオナとリリアは互いに初対面だったはずだが——広場での後片付けの間に、何かしら話していたらしい——今はもう普通に並んで座っている。若い、ということはそういうことなのかもしれない。
「それより」
フィオナがガレンに向いた。
「さっきの氷。あれ、炎の弱点をちゃんと突いてた」
ガレンは手を止めた。
「フレイム・レオは氷属性に弱い。あなたの力、氷属性じゃなかったけど、結果的に同じ効果を出した。つまり私が苦手な属性を、あなたが補えるってことじゃないですか」
正確な観察だった。ガレンは少し黙った。否定する言葉が出てこなかった。
フィオナが椅子ごとガレンに迫った。物理的に距離を詰めた。金色の瞳が真剣な光を帯びている。
「密着指導してほしい。弱点カバー、一緒に考えてほしい」
「密着はしない。第一俺は引退——」
「引退?」
フィオナが首をかしげた。
「こんなすごい力があって引退するんですか? もったいなくない?」
ガレンが言葉を探していたとき、リリアが口を開いた。
「ガレンさんにも、色々と事情が——」
途中で、リリアの声が止まった。
ガレンは気づいた。
リリアの口元が、ほんの少し引き結ばれていた。いつもの曇りのない表情とは違う。何かを押し込めているような、言いかけてやめたような——水色の瞳が一瞬だけ横を向いた。窓の外の、燃えた柵の残骸の方向に。
(あの表情は——)
ガレンが何かを考え始めたとき、フィオナがガレンの腕を両手で掴んでぶんぶんと揺らした。
「ね! 引退やめて! お願い!!」
「揺らすな、腰が——」
「そういえば腰が悪いって、湿布くさい……って、えっ何枚も貼ってる!?」
「余計なことに気づくな!!」
ハイドラがカウンターの奥でにやにやしていた。助けてくれる気は微塵もないらしい。
◆
夜になった。
ガレンは二階の自室に戻り、机の引き出しから引退届を取り出した。端が少し焦げている——昨日、大根と一緒に散乱した時にやや痛んだのだ。43件目の途中で止まった羽ペンの跡が、そのまま残っている。
机に広げて、ガレンはしばらくそれを見つめた。
階下から声が聞こえた。フィオナとリリアの声だ。何か話して、笑い声が混じった。内容はよく聞こえないが——二人がもう普通に話しているのがわかる。今日初めて会ったはずの二人が、もうあの感じで。若い、というのはそういうことだ、とガレンは思った。それが、なぜか少し安堵だった。
(なぜ安堵している)
自分で問うて、答えが出なかった。
引退届を引き出しにしまう。今夜はもう書けない。腰も痛いし、腕も使いすぎた。何より、頭の中にさっきのリリアの表情がぼんやりと浮かんでいて、うまく集中できない。
口元が引き結ばれた、あの一瞬。
ガレンは窓の外を見た。燃えた柵の残骸が、月明かりの下でくっきりと見えた。街の南端。今日まで何度も焼け直されてきたらしい鉄製の柵の、一部がまた炭になっている。明日の朝にはハイドラが請求書を持ってフィオナに向かうだろう。フィオナは「炎が足りなかっただけ」と三度目の自己弁護をするだろう。ハイドラがはたく。ガレンが溜め息をつく。
それが、なんとなく想像できた。
苦笑いが漏れた。
引退するつもりで来たのに、また仕事が増えた。引退届を書きたいのに手が止まる。そして今日また、あの反属性適応が勝手に動いた。制御不能に、しかし確かに——敵の弱点を突く形で。
(やっかいな力だ)
ガレンは窓の外を見続けた。トルニカの夜は暗い。辺境の街には街灯が少なく、王都フォルセイドのような魔石灯の列もない。その分、空が広くて星が多い。
リリアが見せた、あの表情の意味。
ガレンはそれを考えかけて——階下でまたフィオナの笑い声がした——そっと考えるのをやめた。引き出しの中の引退届を、明日もきっと書く。43件目の途中から。
だがそれより先に、フィオナへの対応を考えなければならない。密着指導は断る。しかし今日の戦いで明らかになったことがある。反属性適応は確かに機能した。属性の天才たちが弱点を持つなら——ガレンの力はその補完になりうる。
それは引退する理由を増やすのか、それとも。
窓の外の焦げた柵が、月明かりを浴びていた。