失われた領域の響き
神秘的な町エルドリアで、16歳のエラーラ・ウィンターズは祖母の屋根裏で古代の遺物を発見する。それは異世界のエネルギーを脈打つ結晶体だった。触れた瞬間、彼女は無限の雲の上に浮かぶ島々の世界、アイセリアへと転送される。そこで17歳の魅力的なならず者ケイル・ソーンと出会う。彼の遊び心あふれる態度は深い傷を隠していた。二人の掛け合いは思いがけない支えとなり、エラーラはその遺物が複数の次元への鍵であり、歴史から意図的に抹消された失われた文明の断片を含むことに気づく。
エラーラが太陽に照らされたアイセリアの群島から、発光する地下世界の洞窟へと深く旅を進める中で、彼女は15歳の学者ミラ・ソリスに出会う。ミラは地下の聖域で古代の文献を解読してきた冷静な知識人だった。ミラの落ち着いた専門知識と分析力はエラーラの好奇心を補い、ケイルの機知と機転が超現実的な獣や崩れゆく次元の障壁から彼らを何度も救う。三人はこれらの世界が偶然ではなく、歴史を書き換えた誰かによって織りなされた物語でつながっていることを発見する。
調査の中で、彼らは邪悪な真実を知る。何世紀も次元の狭間に囚われた復讐の魔女セレーネが、遺物を取
失われた領域の響き - 壁画の証人――灰色の遺跡と砕けた声
夜明けの光が、根の空洞に斜めに差し込んでいた。
薄い橙色が石の壁を撫で、埃が浮かぶ空気をかすかに照らしている。外では島が揺れる気配もなく、鳥のような生き物が遠くで鳴いていた。アエセリアの朝は、いつもこの独特の静かさで始まる。
エララは地図の端を両手でつかんだまま、プリズムを右手のひらにそっと乗せ直した。
昨日、ケールと風読みの塔に行った。塔長のオラン・ケイスは67歳で、白い眉毛が耳の上まで伸びた老人だった。彼はプリズムをちらりと見て「旅人がたまに持ってくる光石とは違う」とだけ言い、大きな羊皮紙の地図をテーブルに広げてくれた。それが、この地図だ。アエセリアの島嶼群が描かれた、風読みたちの海図。
エララはそこに赤い炭で小さな印をつけていた。プリズムが熱を持つ方角を、一時間おきに記録した結果だ。
(ここだ)
印が集中している箇所がある。ドリフトヘイヴンから北東、灰燼群島——火山性の小島が20余り浮遊する、危険とされる地帯——のわずか手前に、名前のない岩礁が浮かんでいる。
灰燼群島。そこに近い場所。
エララはもう一度プリズムを持ち上げ、その方向に向けてみた。
——ほんのわずか、温かくなった。
錯覚ではない。確かめるために、逆の方向に向けた。冷たい。また戻した。温かい。
「やっぱり、こっちだ」
声は出さなかった。でも確信はあった。何かがそこにある。遺物か、痕跡か、記録か——とにかく、プリズムが反応している。大消字に関わる何かが、あの岩礁にある。
ケールが寝袋から身を起こした音がした。
「朝から地図ひろげてるのか」
目が半分しか開いていない。濃紺の髪に赤いメッシュが寝ぐせで跳ねていた。
「プリズムで方角を測ってた。方向が特定できたから」
「方向?」
「灰燼群島の手前。無名の岩礁。ここに」
エララは地図の印を指先でトンと叩いた。ケールが近づいてきて、その点を見た瞬間。
変わった。
それまでの眠そうな顔が——まるでシャッターが降りるみたいに——すっと無表情になった。笑顔が消えた。視線が地図から外れて、別の場所を向いた。体ごと、微妙に横を向いている。
エララは気づいた。いつも冗談の一つや二つが出てくる場面で、ケールは何も言わなかった。
「……灰燼群島の近く」
声のトーンが平らだ。感情がない。
「そこに何かあると思う。パリンプセスト文明——1200年前に突然消滅した古代文明——の遺物か、大消字の手がかりか。プリズムが反応してるから確かめたい」
慎重に言葉を選んだ。なるべく事実だけを並べた。ケールの表情の変化を見ていた。
ケールはしばらく黙っていた。窓の外を向いたまま。その横顔には、いつもの人懐っこいえくぼのかけらもない。
(何かある。あの方角に、ケールにとっての何かが)
でも踏み込めなかった。まだ二日しか知らない。聞く権利があるかも分からない。
「……どうせ空振りだ」
軽く言い捨てた。声の奥に何かが入っていた。諦めとも、拒絶とも、違う何かが。
「行くよ」
それだけ言って、ケールは壁に立てかけた板を持ち上げた。帆付きの小型板船——ドリフトヘイヴンに来てから使っている、ケールが自分で改造した移動手段だ。
エララは地図を丸めて鞄に入れながら、その背中をしばらく見ていた。
——
岩礁は予想より小さかった。
ドリフトヘイヴンから帆を一枚張った板船で40分。灰燼群島の黒い輪郭がかすかに見える距離で、その岩礁は雲海から突き出るように浮かんでいた。面積はせいぜい学校の体育館ほどで、全体が黒っぽい。黒曜石——火山が作り出す、鋭くて暗い石——で覆われた、崩れかけの石組みが岩礁の中央に固まっている。
「遺跡だ」
板船を岩礁の縁に寄せながら、エララは思わず声に出した。
「最悪な間取りだな」
入口を一瞥して、ケールがぼそりと言った。人ひとりがやっと通れるかどうかの、低くて狭い開口部。石が崩れて、入り口の半分が塞がりかけている。
「入れる。大丈夫」
「楽観的なのは才能だと思う。俺には無い才能だけど」
皮肉だが、止めようとはしなかった。ケールは先に身を屈めて入口を確認し、崩落しそうな石の位置を指で触りながら点検した。プロの動き、とエララは思った。建物の構造を読む目がある。
「右側を通れ。左の天井石が浮いてる」
「分かった」
内部は暗かった。プリズムがほのかに温度を持っていたので、エララはそれを握ったまま進んだ。石の壁が狭く、足元は平らではない。少し進むと天井が高くなった。空気の匂いが変わる——土と、何か古いものの匂い。腐食した金属か、乾いた泥か。
「プリズム、温くなってる?」
後ろから、ケールが壁を手で触れながらついてくる。壁の亀裂を確認しながら歩いている。
「うん。進むにつれて上がってる」
「じゃあもっと奥か。嬉しくない情報だ」
通路を抜けると、空間が開けた。
エララの足が、止まった。
広い。
岩礁の大きさからは信じられないほど、地下に空間が広がっていた。天井の亀裂から薄い光が差し込んでいる。その光の中で——
壁が、光っている。
正確には、壁に描かれた何かが。微かに、でも確実に、青白い光を放っている。
エララは近づいた。
壁画だった。
壁面いっぱいに広がる、巨大な図。よく見ると二つの場面が対になっている。左側には、七つの円が輝く糸で繋がれた網状の構図。糸は生きているように細く、美しく、円と円の間を縦横に走っている。七つの円はそれぞれ異なる色——青、緑、橙、紫、白、赤、そして中央に金——で淡く発光していた。
右側には、同じ構図が描かれている。ただし。
糸が、全部、切れていた。
一斉に。均等に。丁寧に、全ての糸が断ち切られている。七つの円は繋がりを失い、それぞれ暗く、孤立している。
「……これが」
エララの声が震えた。
「大消字、だ」
1200年前。パリンプセスト文明に関する記録が、全次元から同時に消去された事件。その場面が——ここに、石の壁に刻まれていた。
七つの次元が紡糸——次元間を繋ぐエネルギーの糸——で結ばれていた時代。そしてその糸が断ち切られた瞬間。誰かがこれを記録した。消される前に、ここに残した。
エララの指先が、壁画の糸の一本に触れた。冷たい石の感触。でも光はまだ残っている。1200年間、ここで待っていた記録。
「こっちの絵と、こっちの絵。同じ構造で、糸だけが消えてる。七つの円は次元で、糸は紡糸——次元間を繋ぐエネルギーの経路で——これが断たれたのが大消字で、それ以来各次元は孤立して、だから誰も他の次元の存在を知らなくて」
「ちょっと待って。速い」
ケールが眉を上げた。エララの言葉が加速していくのについていけない顔をしている。
「でも、記録が残ってる。消えなかった。誰かが意図的にここに残した。なぜここに? なぜアエセリアの岩礁に? プリズムが反応したということは、プリズムとこの壁画には何か繋がりがあって——」
「腹の足しにもならないな」
ケールが壁画を見上げて、ぽつりと言った。
皮肉のような口調だった。でも。
エララが横を向いた時、ケールの目は壁画の——特に七つの円が糸で繋がれた左側の絵——を、じっと見ていた。何かを読もうとするみたいに。意味が分からないはずなのに、目が離れなかった。
「これを見てどうする、ってこと?」
「記録する。スケッチして、解読して、プリズムとの関係を調べる。誰かが大消字の前にこれを残したなら、その理由がある。パリンプセスト文明が何を残したかったのかが分かれば」
エララは鞄からスケッチブックを出した。鉛筆を走らせながら、壁画の輪郭を写し始める。
ケールは一歩引いて、エララが描くのを斜め後ろから見ていた。
自分には全く分からない熱の入り方だ、と思った。石の壁に描かれた古い絵に向かって、目を輝かせながら鉛筆を走らせる。1200年前の誰かが残したものに、今この瞬間、本気で向き合っている。
なんか変な奴だな、とケールは思った。悪い意味ではなく。単純に、自分には持っていない種類の何かが、この子にはある、という感じ。
(言語化が難しいな、こういうの)
そう思って、背を向けた。入口の方を確認する。崩落の心配はないが、一応。
その時、エララがプリズムを取り出した。
「壁画に翳してみたら、何か分かるかもしれない」
「地道だな」
壁画の左側に、プリズムを近づける。少し距離を変えて、また近づける。角度を変えて、翳し直す。真剣な顔で、何度も繰り返していた。
変化はない。プリズムは温かいままだが、特別な反応は示さない。
エララは少し膝を曲げて、壁画の低い部分に翳そうとした。重心が前に出た。一歩、足を踏み出した。
その足の下で。
石床の一枚が、音もなく、ストン、と一段沈んだ。
「えっ——」
上半身が前のめりになる。盛大につんのめった。ガシャン、とプリズムが手から滑る。
ケールが反射的に腕を掴んだ。エララが転ぶ寸前で、ぐっと引き戻された。
「大丈——」
言いかけて。
二人同時に見た。足元の石床を。
一枚だけ、明確に沈んでいる。
沈んだ石の縁から、かすかに風が出てきていた。
「……これって」
「仕掛けのスイッチだ」
「えっ」
「明らかにそう」
「だから言っただろう。古い建物で飛び跳ねるな」
「飛び跳ねてない! ちょっと踏んだだけ!」
「ちょっとで起動するのが仕掛けだ」
「言ってなかったでしょ、それ! 最初から言ってれば気をつけたのに!」
「古い建物に仕掛けがある可能性は常識の範囲内だろう」
「十六歳の現代アメリカ人に古遺跡の常識は——」
その時。
壁の奥から、低い振動音が響き始めた。
ドッ、ドッ、ドッ、と。石が揺れているような、でも規則的すぎる、機械的なリズム。
二人の口が、同時に閉じた。
「……仕掛けが起動した」
「知ってる」
最奥の通路から、何かが来た。
音が先に来た——ガラスを引っかくような、高くて不快な音。石壁に反響して、どこから来るのか一瞬分からない。次に形が来た。歪んだ人型のシルエット。二体。壁を伝うように、ゆっくりと近づいてくる。輪郭が定まらない。光を屈折させて、見るたびに形が微妙に違う。
残響体——セレーネが各次元に送り込む分身。ガラスが砕けるような声を発する、歪んだ人型の存在——が、ここにもいた。
胸の奥に、冷たいものがじわりと広がった。
「走れ」
一言だった。迷いがない。エララの腕を掴んで、引っ張った。来た道ではなく、横の通路へ。
「こっちは——」
「崩落寸前の側壁がある。そこを使う。走りながら話す」
走った。
通路が狭い。低い部分で頭を屈めながら走る。ケールは壁を触れながら進んでいた。暗い中で、来る時に確認していた地形を頭に入れていたのだ。
後ろから声が来る。ガラスが砕ける音が石壁に反響して、距離感が掴めない。近いか遠いか分からない。その不確かさが、走る足を速くさせた。
その時。
視界の端で、光った。
エララはプリズムを胸に抱えて走りながら、壁画の端を見た——もうすでに通り過ぎていたが、走り去る瞬間に、壁に刻まれた紋章がプリズムの面に反射した。
一致している。
壁画の中央、七つの円を繋ぐ糸の交点に描かれた紋章と、プリズムの八面体の表面に刻まれた刻印が——完全に同じ形だ。
八角形の中に、七本の線。
「ケール!」
「喋るな、走れ!」
壁の一点を、ケールが肩でぶつかった。大きな崩落音。でも崩れたのは壁の内側で、外へ向かって穴が開いた。光が差し込む。外の空気が来た。
「跳べ」
エララは跳んだ。
黒曜石の岩礁の地面に、膝と手をついた。痛い。でも外だ。空がある。薄紫の午前の空が、広く広がっていた。
ケールが続いて出てきた。着地は音がなかった。二人して岩礁の地面に出て、そのまま数メートル離れた場所まで走り、立ち止まった。
しばらく、誰も何も言わなかった。
肺が痛い。息が切れている。足元の黒曜石が冷たい。遺跡の入口は見えるが、残響体が追ってくる気配はない。外に出られないのかもしれない。
呼吸が、少しずつ落ち着いてきた。
雲海の上に、風が流れていた。
「次からは俺の言うことを聞け」
ケールが言った。荒い息の合間に。
「死にたいなら一人で死ね」
間を置かずに、エララが返した。
「ごめん」
「でも」
ケールがちらりと見た。
「逃げなかったのは、あなたも同じでしょう」
ケールの口が、一瞬止まった。言葉を探す間。反論しようとして、でも何も出てこない間。
「……勝手にしろ」
背を向けた。
怒鳴り返す声ではなかった。怒りも、呆れも、大して入っていなかった。
エララはプリズムを手のひらで包んで、空を見上げた。雲が流れていく。灰燼群島の黒い輪郭が、遠くで靄に霞んでいた。
何か言いたかった。ありがとうとか、助かったとか。でも、それよりも別のことを言いたかった。ケールが灰燼群島の名前を聞いた時の顔。笑顔が消えた瞬間のこと。
エララは口を開いた。
そして閉じた。
今じゃない、と思った。言葉を持っていない。正しい言い方が、まだ見つからない。
——
帰りの板船の上で、エララはスケッチブックを開いた。
鉛筆で、二つを並べて描いた。壁画の紋章と、プリズムの刻印。走りながら一瞬見た形を、記憶のまま再現した。
八角形の中に、七本の線。
二つを並べて見ると——一致している。確実に。
(プリズムは、あの壁画と繋がっている)
パリンプセスト文明の遺物だという確証が、これで得られた。クロニクル・プリズム——祖母ヘンリエッタのトランクに収められていた、あの八面体の結晶——は、1200年前にあの壁画を残した誰かと同じ文明が作ったものだ。
でも。
(なぜ、現世のエルドリアに、祖母ヘンリエッタのトランクに、あったのか)
ヘンリエッタが入手したのは約80年前——エルドリアで帳の大綻びが起きた時だ、とオラン・ケイスは言っていた。次元の帳が裂けた時、プリズムも何かの拍子に現世へ流れ込んだのか。それとも誰かが意図的に渡したのか。
問いが積み上がっていく。答えより問いの方が、ずっと速く増えていく。
エララはスケッチブックを膝に置いて、ケールの背中を見た。
船首に立って、帆の向きを調整しながら進んでいる。その視線は——ドリフトヘイヴンの方向ではなく——少し北東にずれていた。灰燼群島の輪郭が霞む方向を、じっと見ている。
飄々とした、いつもの軽さがない。
背中が、重かった。
エララはスケッチブックに視線を落として、紋章の線をもう一本なぞった。プリズムはまだ、かすかに温かいままだった。Noveliaとは?
Noveliaは、AIでライトノベルや二次創作を「読んで・数タップで作って・キャラクターと会話できる」プラットフォームです。挿絵つきの新作が毎日届き、無料で始められます。