零落の令嬢は拳で語る - 路地裏の夜、それでも拳を握る
診療所の外は、まだ暗かった。
石畳の上に、月の光が細く落ちている。雲が厚くて、星は見えない。風が吹くたびに、古運河の匂いが鼻をついた。腐った藻と、魚の血と、濡れた木の匂い。
セレスティア・ヴァルドレンは、診療所の壁にもたれて立っていた。銀がかった淡い金髪が、夜風に乱れる。灰青の瞳は、閉じられた診療所の扉をじっと見つめていた。
ガレスは、中で手当てを受けている。
胸を刺された。急所は外れている。でも、六十三歳の体には、あの傷は重すぎる。
(私のせいだ)
セレスティアは、唇を噛んだ。鉄の味が、口の中に広がる。
屋敷は、もうない。ドラングに担保証文を奪われた。住む場所も、金も、何もかも失った。残ったのは、自分の拳と、傷ついた執事と、震えている少年だけ。
「姉ちゃん……」
リュカが、セレスティアの隣に立っていた。赤茶の癖毛が、湿った空気でぺたんと張り付いている。そばかすの浮かんだ茶色の目が、不安そうに揺れていた。左の頬の小さな傷が、月明かりで白く浮かぶ。
彼の手は、自分の服の裾をぎゅっと握りしめていた。指先が、わずかに震えている。
「ガレスさん、助かるよな……?」
セレスティアは、リュカの顔を見た。十三歳の少年の目に、涙が溜まっている。でも、彼は泣くまいと、唇を噛みしめていた。
「……ああ。死なせない」
彼女の声は、低く、短かった。でも、その言葉には、確かな重みがあった。
リュカは、何度も頷いた。
「そうだよな。姉ちゃんがいるもんな。俺、信じてるから」
リュカの声は、震えていた。信じている、と言いながら、その声は不安でいっぱいだった。
セレスティアは、リュカの頭に、そっと手を置いた。赤茶の癖毛が、指に絡まる。
「……寒いか」
「へ? あ、いや、平気だぜ。俺、寒さには強いんだ」
リュカは、無理に笑った。でも、その笑顔は、ひきつっていた。
診療所の扉が、開いた。
中から、眠そうな顔の男が出てきた。先ほど、ガレスを診てくれた診療所の男だ。よれよれの白衣を着て、手には血のついた布を持っている。
「あんたたち、まだいたのか」
「……ガレスは」
「今、眠ってる。傷は深かったが、運が良かった。出血は止まった。あとは、安静にしていれば、命に別状はない」
セレスティアの肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。
「……そうか」
「やった! やったぜ姉ちゃん! ガレスさん、助かるんだ!」
リュカが、飛び上がって喜んだ。涙が、今度は止められずに、彼の頬を伝った。
「ただし」
男の声が、急に低くなった。
「治療費だ。止血と縫合、薬代、それから今夜の宿泊代。全部で、銀貨十五枚になる」
セレスティアは、黙った。
銀貨十五枚。
今の彼女には、銅貨数枚しかない。屋敷は失われ、金も失われた。銀貨十五枚など、どこを探してもない。
「……待ってほしい」
「待てないね。うちは慈善事業じゃないんだ。払えないなら、今すぐ出て行ってもらう」
男の声は、冷たかった。
「ちょっと待ってくれよ! ガレスさんはまだ動けないんだぞ! 今追い出したら、死んじまうかもしれないんだ!」
リュカが、男に食ってかかった。
「知ったことか。金のない奴に、うちの薬を使う義理はない」
「てめえ……!」
リュカが、男に掴みかかろうとした。
「やめろ、リュカ」
セレスティアの声は、静かだった。でも、リュカは、その声に、びくりと体を止めた。
「……お願いだ。ガレスだけは、置いてやってほしい。金は、必ず払う」
セレスティアは、深く、頭を下げた。
銀がかった淡い金髪が、重力に従って、はらりと落ちる。
彼女は、かつて伯爵家の令嬢だった。貴族の娘が、平民に頭を下げる。この世界では、ありえないことだった。
でも、今の彼女は、空っぽだ。魔力も、身分も、誇りも、何もない。
ただ、守りたいものがあるだけだ。
診療所の男は、しばらくセレスティアを見ていた。それから、ため息をついた。
「……明日の朝までだ。それまでに金を持ってこい。来なければ、老人を放り出す」
「ありがとう」
「礼なんかいい。金だ。金を持ってこい」
男は、そう言って、診療所の中へ戻っていった。
扉が、閉まる。
セレスティアは、ゆっくりと顔を上げた。
「姉ちゃん……」
リュカが、心配そうにセレスティアの顔を覗き込んだ。
「……大丈夫だ。何とかする」
セレスティアは、リュカに背を向けて、歩き出した。
「どこ行くんだよ!」
「金を、作る」
「こんな夜中にか!? 無茶だよ! 姉ちゃん、休んでないじゃん!」
「休んでいる場合か」
セレスティアは、振り返らなかった。
リュカは、その背中を、泣きそうな顔で見つめていた。
セレスティアは、古運河沿いの道を歩いた。
夜のソイル地区は、昼間とは違う顔を見せる。昼は市場の喧騒に溢れている通りも、今は静まり返っていた。時折、酔っ払いがふらふらと歩いているだけだ。
運河の水面に、月が揺れている。
(銀貨十五枚)
セレスティアは、頭の中で、その金額を繰り返した。
護衛の仕事を請け負っても、一晩で銀貨十五枚は稼げない。闇の仕事なら、もっと稼げるかもしれない。でも、今の彼女に、そんなツテはない。
(どうすればいい)
彼女は、拳を握った。
指の関節が、白くなる。
(私には、この拳しかない)
でも、拳で金を作る方法が、分からない。
「お嬢さん、こんな夜中に一人で何してるんだい?」
酒の匂いをさせた男が、セレスティアの前に立ちはだかった。手に酒瓶を持ち、呂律が回っていない。
「どいて」
「おっと、冷たいねえ。こんな美人が一人で歩いてると、危ないぜ? 俺が守ってやるよ」
男が、セレスティアの肩に手を回そうとした。
セレスティアは、その手を掴んで、捻り上げた。
「ぎゃっ! いてててて!」
「私は、守ってもらう必要はない。どいて」
彼女は、男を突き飛ばした。
男は、尻餅をついて、酒瓶を落とした。瓶が割れて、安酒の匂いが夜気に広がる。
「くそっ、覚えてろよ!」
男は、逃げていった。
セレスティアは、ため息をついた。
(時間の無駄だった)
彼女は、再び歩き出した。
診療所の前の路地に、リュカは一人で座っていた。
膝を抱えて、小さくなっている。
セレスティアが戻ってきたのは、それから一時間ほど経ってからだった。
「姉ちゃん!」
リュカが、立ち上がって駆け寄った。
「……ただいま」
「金、どうだった?」
セレスティアは、首を横に振った。
「……そうか」
リュカの声が、沈んだ。
二人は、診療所の前の路地に、並んで座った。
冷たい石畳が、体の熱を奪っていく。
「姉ちゃん、さ」
リュカが、ぽつりと言った。
「ん」
「俺、思ったんだけど」
リュカの声は、小さかった。
「俺を、売ってくれよ」
セレスティアは、リュカの顔を見た。
「ドラングって奴にさ。俺を売れば、借金の一部が帳消しになるだろ? そしたら、ガレスさんの治療費も、なんとかなるかもしれない。俺、十三だけど、体は丈夫だし、何でもする。掃除でも、荷運びでも、なんでもやるぜ」
リュカは、震える声で、必死に説明した。
「俺、このままだと、何の役にも立てない。ガレスさんに拾ってもらって、姉ちゃんに守ってもらって、飯まで食わせてもらって……なのに、俺、何も返せてない。だから、俺を売って、少しでもみんなの役に立ちたいんだ」
リュカの茶色の目が、涙で潤んでいた。
「俺、恩を返したいんだ。姉ちゃんとガレスさんに、助けてもらった恩を。だから、お願いだ。俺を、売ってくれ」
リュカは、深く頭を下げた。
セレスティアは、黙って、リュカの頭を見ていた。
赤茶の癖毛が、震えている。
「……リュカ」
セレスティアの声は、低く、静かだった。
「顔を、上げろ」
リュカは、おそるおそる顔を上げた。
セレスティアの灰青の瞳が、リュカをまっすぐ見ていた。
その目は、怒りで、燃えていた。
「二度と、その口で、そんなことを言うな」
セレスティアの声は、地の底から響くようだった。
リュカの体が、びくりと震えた。
「お前は、物じゃない。売られるために、ここにいるわけじゃない。お前は、私の……私の、守るべき者だ」
セレスティアの拳が、震えていた。
「誰も、死なせない。誰も、失わない。それが、私の誓いだ。お前を売るくらいなら、私は、この腕を切り落とした方がましだ」
リュカは、言葉を失った。
セレスティアの目から、涙が溢れていた。
彼女は、泣いていた。
声もなく、ただ静かに、涙を流していた。
「姉ちゃん……」
リュカも、泣き出した。
二人は、路地の隅で、声を押し殺して泣いた。
夜が、更けていく。
ガレスが、痛みで苦しんでいる。
診療所の中から、彼のうめき声が、かすかに聞こえてくる。
セレスティアは、診療所の壁にもたれて、目を閉じていた。
(誰も死なせない)
その言葉が、頭の中で、重く響く。
(誰も死なせない)
今まで、何度も言ってきた言葉だ。
でも、今、その言葉は、初めて、重さを持って彼女にのしかかっていた。
(誰も死なせない)
守るべきものは、確かにここにある。
傷ついた執事。震える少年。
そして、自分の拳。
(でも、私は、何もできていない)
屋敷を失った。金を失った。ガレスに、重傷を負わせた。リュカに、自分を売ると言わせた。
(私は、守れていない)
セレスティアの拳が、強く握られる。
指の付け根の古い傷跡が、白く浮かぶ。
涙が、また、溢れてきた。
彼女は、声を出さずに、泣いた。
泣き声も上げず、ただ拳を握ったまま、肩を震わせて、泣いた。
リュカは、セレスティアの隣で、息を潜めていた。
(触れちゃいけない)
リュカは、そう思った。
(今の姉ちゃんには、触れちゃいけない)
彼は、自分が、セレスティアの深いところにある何かに、触れてしまったのだと悟った。
それは、彼が今まで見たことのない、彼女の孤独だった。
夜明け前、空が白み始めた頃。
路地の入り口に、人影が現れた。
セレスティアは、目を開けた。
「やあ、お嬢さん。ひどい顔をしているねえ」
アルヴィン・レイフォードが、そこに立っていた。
栗色の髪を無造作に流し、片眼鏡の奥の碧い目が、セレスティアを見つめている。指先が、コートのボタンをいじっていた。
「……アルヴィン」
「屋敷が崩れたと聞いてね。君たちがどこに行ったのか、探していたんだよ」
アルヴィンは、軽妙な口調で言った。
「何の用だ」
セレスティアの声は、警戒に満ちていた。
「用は、二つある。一つは、君の執事の容態。もう一つは、取引の提案だ」
アルヴィンは、路地の壁にもたれて、腕を組んだ。
「取引?」
「ああ。前にも話しただろう? ドラングの背後に、ミアズマ環の影がある。君の奪われた魔力の流れ先も、環が握っている。僕は、それを調べられる」
アルヴィンの碧い目が、片眼鏡の奥で光った。
「でも、ただで調べるわけにはいかない。僕は情報屋だからね。情報は、等価交換だ」
「何が欲しい」
「君の拳の噂だ」
アルヴィンは、にやりと笑った。
「下町で、空っぽの令嬢が、魔力なしで荒くれ者どもを片っ端から倒している。その噂は、もうかなり広がっている。でも、まだ、詳しい情報が足りない。君の拳が、どこまで通用するのか。どんな戦い方をするのか。そういう情報を、僕に売ってほしい」
「私の拳を、情報として売れと?」
「そういうこと。君の戦いを、僕が観察して、記録して、情報として売る。その代わり、僕は君に、ミアズマ環とドラングの情報を渡す。悪くない話だろう?」
セレスティアは、アルヴィンの目を見た。
(こいつは、私の拳を、面白がっている)
彼女は、そう思った。
アルヴィンは、損得より面白さで動く男だ。彼にとって、セレスティアの拳は、金になる情報であり、同時に、刺激的な玩具でもある。
「……ガレスの治療費が要る」
セレスティアは、静かに言った。
「銀貨十五枚。今、すぐに要る」
「なるほど。それで、君は困っていたわけだ」
アルヴィンは、コートの内ポケットから、革袋を取り出した。
「銀貨二十枚。治療費と、当面の生活費だ。前払いというやつだね」
アルヴィンは、革袋をセレスティアに差し出した。
セレスティアは、その革袋を見つめた。
(受け取れば、こいつの取引に、乗ることになる)
彼女の誇りが、警鐘を鳴らしていた。
でも。
(ガレスを、助けるためだ)
セレスティアは、革袋を受け取った。
ずしりと、重い。
「……いいだろう。その取引、受ける」
セレスティアの声は、低く、決意に満ちていた。
「交渉成立だ。嬉しいよ、お嬢さん。君の拳は、きっと、僕の予想を超えてくる」
アルヴィンは、満足そうに笑った。
「まずは、執事の治療費を払ってきたまえ。話は、それからだ」
セレスティアは、立ち上がった。
「リュカ」
「お、おう」
リュカも、慌てて立ち上がった。
「行くぞ」
セレスティアは、診療所の扉を開けた。
明け方、空が、薄い青に染まっていた。
リュカが、近くのパン屋から、パンをくすねてきた。
「姉ちゃん、これ」
リュカは、まだ温かいパンを、セレスティアに差し出した。
「……お前、盗んだのか」
「へへ。バレてないって。朝早くて、店主も寝ぼけてたから」
リュカは、いたずらっぽく笑った。
「……次は、ちゃんと買え。金なら、ある」
セレスティアは、革袋を軽く振って見せた。
「おう! 分かったぜ!」
リュカは、元気よく返事をした。
セレスティアは、パンを一口かじった。
小麦の香りが、口の中に広がる。
(温かい)
彼女は、ゆっくりと、パンを噛みしめた。
診療所の中で、ガレスが目を覚ました。
「お嬢様……」
ガレスの声は、かすれていた。
「ガレス。起きたか」
セレスティアは、ガレスの枕元に座った。
「ここは……診療所でございますな。お嬢様、ご無事で、何よりでございます」
ガレスは、弱々しく微笑んだ。
白髪が、枕の上に乱れている。皺の深い顔は、血の気が引いて、青白かった。
「お前が、私を庇ったからだ。私こそ、無事で良かった」
「お嬢様を、お守りするのが、私の役目でございます。お嬢様が、お怪我をされなかったのなら、この老いぼれの傷など、安いものでございます」
「……馬鹿」
セレスティアの声が、少し震えた。
「お嬢様、私は、大丈夫です。どうか、お気を落としになさらないでくださいませ」
ガレスは、そう言って、また、弱々しく笑った。
セレスティアは、ガレスの手を握った。
皺だらけの、骨ばった手。
(この手を、離さない)
セレスティアは、拳を開いた。
握りしめていた指を、一本ずつ、ゆっくりと開いていく。
(私は、この拳で、誰かを生かす)
彼女の灰青の瞳に、朝日が映った。
(殺すためじゃない。奪うためでもない。守るために、この拳を使う)
セレスティアは、静かに、拳を開いたまま、ガレスの手を包んだ。
「……お前は、死なせない。リュカも、死なせない。私が、守る」
彼女の声は、静かだった。
でも、その言葉には、確かな力があった。
「お嬢様……」
ガレスの灰色の目が、潤んだ。
「ええ。信じておりますとも。お嬢様は、必ず、私どもを守ってくださる。この老いぼれは、それを、ただ信じております」
ガレスの声は、穏やかだった。
リュカが、診療所の入り口で、二人の様子を見ていた。
(姉ちゃん、すげえや)
リュカは、そう思った。
(あんなに泣いてたのに、もう、笑ってる。いや、笑ってはないけど、強い顔してる)
リュカの胸が、じんと熱くなった。
外では、朝日が、古運河の水面を金色に染めていた。
セレスティアは、診療所の外に出て、朝の空気を吸い込んだ。
冷たい空気が、肺を満たす。
(まだ、何も解決していない)
住む場所も、金も、まだない。
ガレスの傷も、完全に癒えたわけではない。
ドラングも、ミアズマ環も、まだ動いている。
(でも)
セレスティアは、拳を握った。
(この拳がある限り、私は、諦めない)
彼女の銀がかった淡い金髪が、朝風に揺れた。
灰青の瞳が、まっすぐに、昇る朝日を見つめていた。
「姉ちゃん、これからどうする?」
リュカが、セレスティアの隣に立って、同じように朝日を見上げた。
「……まずは、ガレスの傷を癒やす。それから、次の手を考える」
「そっか。じゃあ、俺も、何か手伝うぜ! なんでもやるからな!」
リュカの声は、いつもの調子に戻っていた。
「……ああ。頼りにしている」
セレスティアは、リュカの頭を、軽く小突いた。
「へへっ」
リュカは、照れくさそうに笑った。
二人は、朝日を浴びながら、古運河沿いの道を歩き始めた。
まだ、何も解決していない。
でも、三人は、生きている。
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