零落の令嬢は拳で語る - 殺さずに止める拳――ミアズマ環の正体と逃走行
古運河の路地は、夜明け前の薄闇に沈んでいた。
腐った藻の匂い。濡れた石畳。遠くで、夜番の足音が一回だけ響いて、消えた。
セレスティア・ヴァルドレンは、路地の壁にもたれて立っていた。銀がかった淡い金髪が、湿った風に張り付く。灰青の瞳は、古運河の水面をじっと見ていた。水面に映る月が、油膜のせいで、にじんで見える。
隣では、リュカが小さく欠伸を噛み殺していた。赤茶の癖毛が、朝露でしっとりと重い。そばかすの浮かんだ頬に、寝不足の色が濃く出ている。左の頬の小さな傷が、薄明かりの中で、かすかに白んだ。
「姉ちゃん、眠くないの?」
リュカが、小声で言った。
「……平気だ」
セレスティアは、目を閉じた。まぶたの裏に、診療所の白い壁が浮かぶ。ガレスは、まだ眠っている。杖をつけば歩けるまでには回復したが、本調子には程遠い。
(今日中に、次の場所を見つけなければ)
金はない。屋敷もない。残っているのは、拳と、三人の命だけ。
不意に、足音がした。
セレスティアは、目を開けた。
路地の入り口に、男が一人、立っていた。栗色の髪を無造作に流し、片眼鏡の奥の碧い目が、こちらを見ている。指先が、コートのボタンをいじっていた。アルヴィン・レイフォードだ。
「やあ、お嬢さん。いい夜明けだねえ」
アルヴィンは、軽妙な口調で言った。その声は、いつも通り、どこか含みがあった。
「……何か分かったのか」
セレスティアは、壁から背を離した。
「まあ、色々とね。君の魔力がどこへ流れているか。そして、ドラングという男が、本当は何者なのか」
アルヴィンは、路地の奥へ歩き出した。セレスティアとリュカも、その後に続く。
「ドラングは、元傭兵上がりの回収人にすぎない。魔力質はCランク。交渉術と暴力の使い分けで、ここまで成り上がってきた男だ。でも、あの男の本当の価値は、そこじゃない」
アルヴィンは、振り返らずに言った。
「あの男は、吸い上げた魔力を、自分で使ってはいない。全部、ある組織に流している。古運河地区の貸倉庫街。そこに、ミアズマ環の隠れ拠点がある」
ミアズマ環。
セレスティアは、その名前を、口の中で繰り返した。表向きは質屋組合「環」。裏では、魔力を売買する闇組織。王都の地下に根を張る、危険な連中だ。
「君の魔力も、おそらくそこへ運ばれた。吸い上げられた魔力は、精製魔力石に加工されて、王都の工房や軍需に流れていく。ドラングは、そのための回収係にすぎない」
「……つまり、ドラングを倒しても、終わらない」
セレスティアの声は、低く、静かだった。
「そういうこと。あの男は、環の歯車の一つだ。でも、歯車を一つ外せば、環の動きは確実に鈍る。そして何より——」
アルヴィンは、足を止めて、振り返った。
「あの倉庫には、君と同じように魔力を奪われた者たちが、囚われている」
セレスティアの拳が、ぎゅっと握りしめられた。指の関節が、白くなる。
「囚われている……?」
リュカが、震える声で聞いた。
「魔力封じの首輪をつけられて、鎖でつながれている。十数人。男も女も、子供もいる。吸い上げた魔力を、生きたまま搾り取るための、環の家畜だ」
アルヴィンの声は、いつも通りの軽さだった。でも、その碧い目の奥は、笑っていなかった。
「……場所は」
セレスティアは、一歩、アルヴィンに近づいた。
「古運河地区の貸倉庫。表向きは穀物倉庫になっている。地下に、隠し階段がある。僕が案内しよう。ただし、条件がある」
「何だ」
「僕も、その倉庫に興味がある。環の記録、証文、取引の痕跡。そういうものが、あそこには眠っている。君が囚われた者たちを助けるなら、僕はその間に、環の書類を回収する。それで手を打たないか?」
セレスティアは、アルヴィンの目を見た。
碧い目は、真っ直ぐにこちらを見返してくる。損得より面白さで動く男。でも、今の彼の目には、面白さだけではない何かがあった。
「……いいだろう」
セレスティアは、短く言った。
「決まりだ。じゃあ、行こうか。夜明け前に、あの倉庫へ潜り込む」
「待って、姉ちゃん!」
リュカが、セレスティアの袖を引っ張った。
「俺も行く! 俺にも、何かやらせてくれよ!」
リュカの声は、必死だった。茶色の目が、不安と決意で揺れている。
「……危険だぞ」
「分かってる! でも、俺、このまま何もしないのは嫌なんだ。ガレスさんは傷ついて、姉ちゃんは一人で戦ってる。俺だけ、何もできないのは、もう嫌なんだよ!」
リュカの声が、路地に響いた。
セレスティアは、リュカの顔をじっと見た。
十三歳の少年。お調子者で、臆病で、でも、恩を返したいと、ずっと焦っている。
「……分かった。ただし、私の指示には絶対に従え。いいな」
「おう! 任せろ!」
リュカは、嬉しそうに笑った。
「決まりだね。じゃあ、行こう。古運河沿いの水路を伝って、貸倉庫街へ向かう。双頭橋は使わない。あそこは、環の見張りがいる」
アルヴィンが、先導する。
三人は、古運河沿いの細い道を歩き出した。
水路の水は、黒く濁っていた。水面に、月明かりが、ぼんやりと映る。壁に生えた苔が、湿った光を放っている。
「リュカ、足元に気をつけろ。ここは泥が深い」
セレスティアが、振り返って言った。
「へへ、大丈夫だって。俺、こういう道は慣れて……」
その時、リュカの足が、水路の泥に沈んだ。
「うわっ!?」
リュカの体が、水路の縁から滑り落ちる。
セレスティアは、反射的に手を伸ばした。リュカの手首を、強く掴む。
「掴まれ!」
「姉ちゃん……!」
リュカの体が、水路の泥に半分沈んでいる。冷たい水が、彼の服を濡らしていく。
セレスティアは、腕に力を込めて、リュカを引き上げた。
泥まみれのリュカが、石畳の上に転がる。
「……大丈夫か」
「ご、ごめん……足、滑っちまった……」
リュカの声は、震えていた。
セレスティアは、リュカの手を握ったまま、その震えを感じていた。
(この子は、まだ子供だ)
(それでも、この子は、自分も戦おうとしている)
セレスティアは、リュカの手を、ゆっくりと離した。
「……行くぞ。もうすぐだ」
「うん……」
リュカは、泥を払いながら立ち上がった。
アルヴィンが、前方で足を止めていた。
「あそこだ。あの穀物倉庫の裏口から入る」
アルヴィンが指さす先に、古い倉庫が建っていた。木造の壁は黒ずみ、屋根はところどころ剥がれている。表の看板には「カラム穀物倉庫」と、かすれた文字が書かれていた。
「見張りは?」
「表に二人。でも、裏口にはいない。環の連中は、表の見張りだけで十分だと思っている。まさか、裏口から入る馬鹿がいるとは思わないのさ」
アルヴィンは、にやりと笑った。
三人は、倉庫の裏口に回り込んだ。
裏口の扉は、古い木の板でできていた。鍵は、かかっていない。
セレスティアは、扉を静かに押し開けた。
ギィ、と小さな音がした。
倉庫の中は、暗かった。穀物の匂いと、かび臭い空気が、鼻をつく。
「地下への階段は、どこだ」
「一番奥の床下だ。穀物袋が積んである場所の、さらに奥」
三人は、暗い倉庫の中を進んだ。
床に積まれた穀物袋の間を、音を立てないように歩く。
奥の壁際に、床板が外れている場所があった。その下に、石の階段が続いている。
「ここだ」
セレスティアは、階段の先を見下ろした。
地下から、かすかに、甘い匂いがする。腐った花のような、不快な匂い。
「リュカ。お前は、ここで見張りだ。誰か来たら、石を三回、床に叩け」
「分かった! 任せてくれ!」
リュカは、緊張した顔で頷いた。
「行こう」
セレスティアとアルヴィンは、石の階段を下りた。
地下は、思ったより広かった。
天井から、魔導灯が一つ、青白い光を放っている。その光が、湿った壁を照らしていた。
そして、見えた。
鎖。
首輪。
人。
十数人の男女子どもが、壁際に並んで座らされていた。首には、鉄の首輪がはめられ、そこから伸びた鎖が、壁の鉄環につながれている。
全員が、やせ細っていた。服は汚れ、目は虚ろ。中には、膝を抱えて震えている子供もいる。
「……ひどい」
アルヴィンが、低く呟いた。
セレスティアは、拳を握った。
(こいつらは、私と同じだ)
(魔力を奪われた者たち)
セレスティアは、ゆっくりと、囚われた者たちに近づいた。
一人の少女が、顔を上げた。十歳くらいだろうか。髪はぼさぼさで、頬はこけている。
「……だれ?」
少女の声は、かすれていた。
「助けに来た」
セレスティアは、短く言った。
少女の目が、わずかに見開かれた。
セレスティアは、少女の首輪を掴んだ。鉄の輪は、冷たく、重い。
(この首輪は、魔力封じの腕輪と同じ仕組みか)
セレスティアは、首輪の継ぎ目を探った。
「壊せるかい?」
アルヴィンが、隣で聞いた。
「……やってみる」
セレスティアは、首輪の継ぎ目に、指をかけた。
そして、拳を握り直し、継ぎ目に向かって、短く、鋭く、打ち下ろした。
ガキン。
金属音が、地下に響いた。
首輪が、歪む。
もう一撃。
ガキン。
首輪が、少女の首から外れた。
「……はずれた」
少女は、自分の首を触って、呆然とした。
「次、お前の番だ」
セレスティアは、隣の男の首輪に手をかけた。
ガキン。ガキン。ガキン。
地下に、金属音が断続的に響く。
一つずつ。丁寧に。確実に。
セレスティアは、鎖を断ち切っていった。
囚われた者たちは、最初は戸惑っていた。でも、次第に、目に光が戻っていく。
「本当に……助かるのか?」
「ああ。静かについて来い」
セレスティアは、短く告げた。
その間、アルヴィンは、部屋の奥の棚から、書類の束を取り出していた。
「これだ。魔力証文の束。環の取引記録も、ここにある」
アルヴィンは、書類をコートの内側にしまい込んだ。
「……全部か」
「ああ。これで、環の動きが、かなり見えてくる」
セレスティアは、最後の一人の首輪を外した。
「全員、立って。ついて来い」
囚われた者たちは、ふらふらと立ち上がった。
セレスティアは、先頭に立って、石の階段を上った。
倉庫の裏口から、外に出る。
夜明け前の空気が、冷たく、肌に刺さる。
「リュカ」
「姉ちゃん! みんな、助かったのか!?」
リュカが、駆け寄ってきた。
「ああ。今から、この人たちを連れて、安全な場所へ行く」
「よし、じゃあ、俺が先導するぜ!」
リュカが、張り切って言った。
その時。
「——どこへ行くつもりだ?」
低い、笑いを含んだ声が、暗闇から響いた。
セレスティアは、前に出た。
倉庫の表から、男が一人、ゆっくりと歩いてくる。
身長百九十センチを超える巨躯。禿げ上がった頭に、古い傷跡。右足をわずかに引きずっている。
ドラングだ。
その後ろに、手下の男たちが、十数人。全員、剣や棍棒を持っている。
「せっかく集めてやった家畜を、勝手に連れ出すとは、感心しないな」
ドラングは、にやりと笑った。
「……そこをどけ」
セレスティアの声は、静かだった。
「どけ? お前、自分の立場が分かっているのか? お前の魔力は、もう環のものだ。お前自身も、環の所有物だ。所有物が、主人に逆らうな」
ドラングは、懐から、一枚の紙を取り出した。
「見ろ。これが、お前の魔力証文だ。お前の魔力は、契約によって、我々のものだ。お前が何をしようと、この契約は消えない。お前は、一生、空っぽのままだ」
ドラングは、証文をひらひらと揺らした。
セレスティアの灰青の瞳が、わずかに濃くなった。
「……その契約書は、お前のものじゃない」
「何?」
「それは、ミアズマ環のものだ。お前は、ただの回収係だ。環の歯車にすぎない。お前自身が、何かを所有しているわけじゃない」
セレスティアの言葉に、ドラングの顔から、笑みが消えた。
「……面白いことを言う。だが、どちらにせよ、お前たちは、ここで終わりだ。逃げ場はない。お前の後ろには、動けない家畜ども。お前の前には、俺たち。お前は、一人で、何ができる?」
ドラングが、手下たちに目配せをした。
男たちが、じりじりと、包囲網を狭めてくる。
セレスティアは、一歩、前に出た。
「リュカ。みんなを、水路のほうへ」
「え、でも……」
「行け。私が、道を作る」
セレスティアは、拳を構えた。
ドラングが、笑った。
「素手で、剣を持った男たちに勝てると思うか? お前の拳は、所詮、女の拳だ」
「……試してみるか」
セレスティアの声は、冷たかった。
「やれ」
ドラングが、短く命じた。
手下の一人が、剣を振りかぶって、セレスティアに斬りかかった。
セレスティアは、半身になって、剣の軌道を避けた。
そして、男の手首を、上から叩き落とした。
ガキン。
剣が、石畳に落ちる。
続けて、男の膝裏を蹴り、体勢を崩させる。
ドスン。
男は、うつ伏せに倒れた。
「な……!?」
別の男が、棍棒を振り下ろしてきた。
セレスティアは、その棍棒を、左手で受け流した。そして、男の肘を、逆方向に押し上げる。
ゴキッ。
「ぎゃああっ!?」
男の腕が、あらぬ方向に曲がった。
セレスティアは、男の胸を突き飛ばした。
男は、後ろに倒れ、仲間の足に絡まった。
「くそ、囲め! 一斉にかかれ!」
三人の男が、同時に飛びかかってきた。
セレスティアは、一番近い男の顎を、下から突き上げた。
ガツン。
男の頭が、後ろに跳ね上がる。
続いて、二人目の男の膝を、横から蹴り折った。
ゴキッ。
「うがあっ!?」
三人目の男が、セレスティアの背後から、剣を突き出した。
セレスティアは、振り返らずに、後ろ蹴りを放った。
ドスン。
男の腹に、かかとがめり込む。
男は、剣を取り落とし、前かがみに崩れ落ちた。
「はあっ……はあっ……」
セレスティアは、息を整えた。
周囲に、倒れた男たちが、七人。
でも、まだ、ドラングの周りに、五人が残っている。
「……お前の拳は、確かに速い。だが、それだけだ。急所を狙わない、甘い拳だ。そんな拳で、俺を倒せると思うなよ」
ドラングは、笑いながら、自分から前に出てきた。
「お前の拳は、人を殺すための拳だ。だが、お前は、人を殺さない。それが、お前の弱点だ。この世界で、殺さない拳は、ただの弱さだ」
ドラングは、懐から、黒曜石の針を取り出した。
「これが何か、分かるか? ミアズマ・ドレインの触媒だ。これをお前に突き刺せば、お前の残り少ない魔力も、全部、吸い尽くしてやる」
セレスティアの目が、黒曜石の針を捉えた。
「……お前は、人を、物としか見ていない」
「当たり前だ。魔力のない人間は、家畜以下だ。お前も、後ろの家畜どもも、みんな同じだ」
ドラングが、針を構えて、突っ込んできた。
セレスティアは、動かなかった。
針が、彼女の顔の横をかすめる。
その瞬間、セレスティアは、ドラングの右膝を、狙った。
傭兵時代の古傷。
セレスティアは、ドラングの右膝の横を、鋭く蹴り抜いた。
ゴキッ。
「ぐあああっ!?」
ドラングの右足が、内側に折れ曲がった。
巨躯が、ぐらりと傾ぐ。
セレスティアは、ドラングの手首を掴み、黒曜石の針を叩き落とした。
そして、ドラングの胸を、掌底で突いた。
ドスン。
ドラングの巨体が、地面に倒れ込んだ。
「……俺の、膝を……なぜ、知っている……」
ドラングは、痛みに顔を歪めながら、セレスティアを見上げた。
「お前の歩き方を見れば分かる。右足を、かばっている。古傷があるんだろう」
セレスティアは、ドラングを見下ろした。
「……殺せ。今、ここで、俺を殺せ」
ドラングは、歯を食いしばって言った。
セレスティアは、拳を握った。
(殺せる)
(今、この男を、殺せる)
(でも)
セレスティアは、拳を開いた。
「……私は、殺さない」
セレスティアは、静かに言った。
「お前は、ここで、自分の膝の痛みと一緒に、生きろ。お前が奪った者たちの痛みを、少しでも思い知るまで」
セレスティアは、背を向けた。
「行くぞ」
セレスティアは、囚われた者たちのほうへ歩き出した。
「姉ちゃん! すげえ! マジですげえ!」
リュカが、興奮した声で叫んだ。
「……急げ。追手が来る前に、水路を渡る」
セレスティアは、囚われた者たちを先導して、古運河沿いの道を走り出した。
後ろで、ドラングの手下たちが、倒れたまま動けない。
「……覚えていろ、セレスティア・ヴァルドレン。環は、お前を、絶対に許さない」
ドラングの声が、夜明け前の闇に響いた。
セレスティアは、振り返らなかった。
夜が、明けていく。
古運河の水面が、東の空の色を映して、ゆっくりと明るくなっていく。
セレスティアたちは、追手を振り切り、路地の奥の空き家に、囚われた者たちを匿った。
「ここなら、しばらくは安全だ。環の連中も、ここまでは探しに来ない」
アルヴィンが、周囲を確認しながら言った。
「……あの者たちは、どうする」
「さっきの戦いで、環の連中は、かなりの痛手を負った。今のうちに、ソイル地区の外へ逃がすのがいい。下町の商人に、心当たりがある。彼らなら、匿ってくれる」
「頼む」
「ああ。でも、その前に」
アルヴィンは、コートの内側から、証文の束を取り出した。
「これを調べよう。環の取引記録。ここから、いろいろ分かるはずだ」
アルヴィンは、証文の束を、一枚ずつ確認し始めた。
セレスティアは、壁にもたれて、朝日を見ていた。
リュカが、隣に座り込む。
「姉ちゃん、すげえよ。あのドラングって奴、姉ちゃんに、何もできなかったじゃん」
リュカの声は、まだ興奮で震えていた。
「……お前が、見張りをちゃんとやったからだ。ありがとう」
セレスティアは、リュカの頭を、軽く小突いた。
「へへ……でも、俺、何もできなかった。ただ、見てただけだ」
リュカは、照れくさそうに、頭をかいた。
「見張りは、大事な役目だ。お前がいなければ、裏口から敵が来ていたかもしれない」
「そうかな……そうだよな! 俺、ちゃんと見張ってたもんな!」
リュカが、嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、セレスティアの胸の奥が、ほんの少し、温かくなった。
「……お嬢さん」
アルヴィンの声が、急に低くなった。
セレスティアは、アルヴィンのほうを見た。
アルヴィンの顔から、いつもの軽さが消えていた。
「どうした」
「これを見てほしい」
アルヴィンが、一枚の証文を差し出した。
セレスティアは、それを受け取った。
証文の端に、印が押されている。
円環に、三本の棘が絡みつくような、奇妙な紋章。
「……これは」
「他の証文には、環の印が押されている。でも、これだけは、違う。この紋章は、僕も見たことがない」
アルヴィンは、片眼鏡を外して、目をこすった。
「これは、ドラングのものじゃない。環の上に、まだ誰かいる」
アルヴィンの声は、静かだった。
セレスティアは、その紋章を、じっと見つめた。
円環に、三本の棘。
(環の上に、まだ誰かがいる)
セレスティアは、拳を、静かに握り直した。
指の関節が、白くなる。
朝日が、路地に差し込んで、セレスティアの銀がかった淡い金髪を、金色に染めた。
灰青の瞳が、紋章を見つめたまま、動かない。
「……この紋章の持ち主を、探す」
セレスティアの声は、静かで、でも、確かな力があった。
「面白い。僕も、この紋章には、興味がある。調べてみるよ」
アルヴィンは、にやりと笑った。
「……ああ。頼む」
セレスティアは、紋章の押された証文を、自分の腰に巻いた布の内側にしまった。
「姉ちゃん、これからどうする?」
リュカが、不安そうに聞いた。
「……まずは、ガレスのところへ戻る。それから、この人たちを、安全な場所へ」
「そっか。じゃあ、俺も手伝うぜ! なんでもやるからな!」
リュカは、力強く言った。
「……ああ。頼りにしている」
セレスティアは、リュカの頭を、もう一度、軽く小突いた。
「へへっ」
リュカは、嬉しそうに笑った。
セレスティアは、空き家の中にいる囚われた者たちを見た。
十数人の男女子ども。全員、まだ、怯えた顔をしている。
でも、彼らの首には、もう、首輪はない。
(私は、この拳で、誰かを生かす)
セレスティアは、拳を開いて、自分の手のひらを見た。
指の付け根の古い傷跡。拳の関節の、硬い皮膚。
(殺すための拳じゃない。奪うための拳でもない)
(守るための拳だ)
セレスティアは、手を握り直した。
「行こう」
セレスティアは、朝日の中へ、一歩、踏み出した。
その後ろを、リュカと、アルヴィンと、囚われた者たちが、静かに続いた。
古運河の水面が、朝日を受けて、金色に輝いている。
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