夜明け前の許婚
冷酷なヴァンパイア当主×契約許婚の人間。期限付きの結婚から始まる、すれ違い溺愛ロマンス。
「守るとは、距離を取ることだ」——両親を失った夜にそう誓ったノクス辺境伯レイヴンは、感情を捨て、彫像のように生きてきた。家の利害のためだけに、人間の許婚を迎えに行くその夜。書庫から消えた盟約封緘、霧の向こうから近づく気配。そして、名前も顔も知らない契約の相手。夜明け前には必ず閉じる門の下で、冷たいはずの胸の奥が、初めて微かに揺れる。
家同士の契約が結ぶ、三年間の誓約許婚。血判の契約書に縛られた二人は、やがて互いの孤独に触れ、凍りついた心を溶かしていく——「夜明け前の許婚」、第一章開幕。
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夜明け前の許婚 - 一歩引く背中 ―― 届かない距離と震える左手
朝の光が、厚いカーテンの隙間から、ほんの一筋だけ差し込んでいた。
ユウは、寝台の上で、その光をぼんやりと眺めていた。昨夜のことが、頭から離れない。レイヴンの部屋の前で見た、月明かりの窓辺に立つ背中。血露の杯に、一口も手をつけていなかった、あの姿。
(どうして、飲まなかったんだろう)
ヴァンパイアは、血を糧とする。血晶石から精製した血露で代用できるとはいえ、何日も口にしなければ、体が弱っていくはずだ。なのに、あの人は、杯を握ったまま、ただ窓の外を見ていた。
(何か、理由があるのかな)
ユウは、毛布を胸の上で握りしめた。レイヴンが、昨夜、黙って足してくれた厚手の毛布。その温もりが、まだ残っている。
(あの人、本当に、何を考えてるか分からない)
でも、分からないからこそ、知りたくなる。
ユウは、ゆっくりと体を起こした。
(今日こそ、ちゃんと話そう)
心の中で、そう決めた。
朝食の席は、静かだった。
広い食堂の、長い机。その端と端に、二人は座っていた。レイヴンが上座、ユウが下座。距離は、優に三メートルはある。
ユウは、銀のフォークを手にしたまま、向かいのレイヴンを盗み見た。
黒い詰襟のシャツに、濃い灰色のベスト。昨夜の外套は脱いでいるが、それでも、その体は布越しに厚みを感じさせた。広い胸、しっかりとした肩。首元まで詰まった襟が、かえって、その下にある筋肉質な体を際立たせている。
(やっぱり、大きいなあ)
ユウは、自分の細い腕と、レイヴンの太い腕を、こっそり見比べた。
(あの腕に、守ってもらったんだ)
霧狼の群れに襲われた時のことを、思い出す。レイヴンは、ユウを背に庇って、一人で五頭の獣を相手にした。血統術で、血の鎖を操って。
(かっこよかった)
その思いが、胸の奥から、じわりと込み上げてくる。
ユウは、意を決して、口を開いた。
「あの、レイヴンさん!」
声が、思ったより大きく響いた。
レイヴンは、フォークを動かす手を止めない。赤みを帯びた瞳が、一瞬だけユウの方へ向けられた。
「何だ」
低く、短い声。
ユウは、ごくりと唾を飲み込んだ。
「えっと、あのね、昨日のこと、ずっと考えてたんですけど」
レイヴンは、黙って、次の一口を口に運ぶ。
「霧狼に襲われた時、レイヴンさん、僕のこと、庇ってくれましたよね。あれ、すごく、かっこよかったです」
ストレートに、そう言った。
言ってから、顔が、かっと熱くなる。
(ああ、言っちゃった)
でも、後悔はない。これが、今の自分の正直な気持ちだった。
レイヴンは、フォークを止めなかった。
眉一つ動かさない。無表情のまま、ゆっくりと咀嚼して、飲み込む。
そして、静かに言った。
「契約以上のことはするな」
たった、それだけだった。
ユウは、一瞬、何を言われたのか分からなかった。
(契約、以上……)
その言葉を、頭の中で繰り返す。
(ああ、そういうことか)
レイヴンは、ユウの気持ちを、拒絶した。いや、拒絶というより、最初から、そういうものとして扱っている。契約の相手。血媒。それ以上でも、それ以下でもない。
(なのに、どうしてだろう)
ユウは、自分の胸に手を当てた。
(嬉しい、って思ってる)
拒絶されたのに。
事務的に、切り捨てられたのに。
なのに、胸の奥が、じんわりと温かい。
(この人、ちゃんと、僕のこと、契約の相手として見てくれてる)
(真剣に、向き合ってくれてる)
そのことが、妙に嬉しかった。
(変なの、僕)
ユウは、小さく笑った。
「はい。分かりました」
素直に、そう答えた。
レイヴンは、もうユウを見ていなかった。黙々と、朝食を食べ続けている。
でも、ユウは、その横顔を見つめながら、思った。
(でも、諦めないから)
(契約以上のこと、してもらうから)
(絶対に)
心の中で、そう誓った。
朝食の後、ユウは、屋敷の中を歩き回った。
昨日は、夜の到着で、あまり見ることができなかった。昼間の屋敷は、夜とはまた違った顔を見せる。
石造りの壁に、等間隔で並ぶガス灯。昼間は消えているが、その硝子の傘は、磨き上げられて、うっすらと光を反射していた。廊下の窓からは、手入れの行き届いた庭が見える。青々とした芝生、刈り込まれた生垣、そして、遠くに、重い鉄扉が見えた。
(あれが、夜明けの門……)
ユウは、窓に近づいた。
夜明けの門。許婚の出立は、夜明け前に行うという。門が閉まる音が、契約終了の合図。そんな慣習があると、本で読んだことがある。
(今は、開いてる)
門は、昼間の光の中で、静かに開かれていた。
(でも、夜明け前には、必ず閉まる)
ユウは、その門を、しばらくの間、じっと見つめた。
(僕も、いつか、あの門から出て行くのかな)
契約期間は三年。それが終われば、ユウは、この屋敷を出る。
(三年後、か)
まだ、ずいぶん先の話だ。
でも、その時、自分は、どんな気持ちで、あの門をくぐるのだろう。
(考えても、分からないや)
ユウは、窓から離れた。
廊下を歩いていると、前方から、人影が近づいてくるのが見えた。
黒いシャツに、濃い灰色のベスト。長身で、広い肩。
(レイヴンさんだ)
ユウの心臓が、とくん、と跳ねた。
レイヴンは、手に書類の束を持って、真っ直ぐに歩いてくる。その歩みは、迷いがなく、速い。当主としての務めを、淡々とこなしている、そんな雰囲気だった。
ユウは、どうしようか迷った。
(挨拶、しようかな)
(それとも、邪魔しない方がいいかな)
迷っているうちに、距離が縮まる。
五メートル。三メートル。二メートル。
ユウは、思い切って、半歩、左に寄った。
(今日は、この距離で……)
すれ違う瞬間、肩が触れるか触れないか。
そんな距離。
でも。
レイヴンは、ユウが動くよりも先に、一歩、右に避けた。
いや、避けた、というより、道を譲った。
ユウが通れるように、自分の体を、壁際へ寄せたのだ。
(あ……)
ユウは、足を止めた。
レイヴンは、目を合わせない。
無表情のまま、ユウの横を通り過ぎていく。
黒い影が、さらり、と通り過ぎた。
「……レイヴン、さん」
声をかけた。
レイヴンは、足を止めなかった。
振り返りもしない。
ただ、背中だけが、どんどん遠ざかっていく。
(一歩、引かれた)
ユウは、その背中を見つめた。
(近づこうとしたら、離れちゃった)
胸の奥が、ちくり、と痛む。
でも、それ以上に、もっと強い気持ちが、湧き上がってくる。
(次は、もっと近づく)
(絶対に、隣に並んでみせる)
ユウは、ぎゅっと拳を握った。
午後、ユウは、夜食の盆を運ぶふりをして、レイヴンの執務室の前を通りかかった。
(ここが、執務室……)
扉は、重い樫の木でできていた。閉ざされていて、中の様子は分からない。
でも、時折、紙をめくる音が、かすかに聞こえる。
(いる)
ユウは、足音を忍ばせて、扉の前を通った。
盆の上には、血露の小瓶と、薄く切ったパンが乗っている。セラフィに頼んで、用意してもらったものだ。
(本当は、セラフィさんが運ぶんだけど)
(僕が運びたいって、お願いしちゃった)
セラフィは、にっこり笑って、快く譲ってくれた。
「まあ、ユウ様がお運びになるの? レイヴン様も、お喜びになりますわ」
そう言って、盆を手渡してくれた。
(喜ぶかな、あの人)
ユウは、扉の前で、深呼吸した。
そして、ノックをしようとした、その時。
扉が、内側から開いた。
「……何をしている」
低い声が、頭上から降ってくる。
ユウは、顔を上げた。
レイヴンが、無表情で、ユウを見下ろしていた。
「あっ、えっと、あの、夜食を、お持ちしました」
声が、裏返る。
レイヴンは、盆の上の血露とパンに、ちらり、と目をやった。
「夜食は、セラフィの役目だ」
「そ、そうなんですけど、あの、僕も、何かお手伝いしたいなって思って!」
ユウは、早口で言った。
レイヴンは、しばらく、黙ってユウを見ていた。
その赤みを帯びた瞳は、冷たく、静かで、何を考えているのか、まるで読めない。
「……置いていけ」
やがて、レイヴンは、そう言った。
「はい!」
ユウは、執務室の中へ、盆を運び込んだ。
部屋の中は、整然としていた。大きな机が一つ、壁際には書類棚が並んでいる。窓は、厚いカーテンで閉ざされていて、昼間だというのに、部屋の中は薄暗い。
(この人、昼間も、こんな暗い部屋で仕事してるんだ)
ユウは、机の端に、盆を置いた。
「あの、血露、温めますか? それとも、冷たいままの方がいいですか?」
「そのままでいい」
レイヴンは、机の向こうの椅子に座り、書類に目を落とした。
「パンは、焼きたてです。セラフィさんが、厨房で焼いてくれて」
「ああ」
レイヴンは、書類から目を上げない。
ユウは、どうにか会話を続けようと、言葉を探した。
「あの、レイヴンさんは、お昼ご飯は食べたんですか?」
「……食べた」
「何を食べたんですか?」
「……パンだ」
「パン! どんなパンですか? やっぱり、セラフィさんが焼いたんですか?」
「……そうだ」
会話が、続かない。
でも、ユウは、めげなかった。
「僕、セラフィさんの焼くパン、すごく好きです。外はカリッとしてて、中はふわふわで。レイヴンさんも、そう思いませんか?」
「……別に」
レイヴンは、書類を一枚、めくった。
「別に、ですか。じゃあ、レイヴンさんは、どんなパンが好きなんですか?」
「……特にない」
「特にない! じゃあ、甘いものは? お菓子とか、食べますか?」
「……食べない」
「えー、じゃあ、何が好きなんですか? やっぱり、血露ですか?」
レイヴンの手が、一瞬、止まった。
(あ)
ユウは、しまった、と思った。
(血露の話は、今、しちゃだめだったかも)
昨夜、レイヴンが、血露の杯に手をつけていなかったことを思い出す。
レイヴンは、すぐに、書類へ視線を戻した。
「……仕事の邪魔だ。下がれ」
冷たい声だった。
ユウは、胸が、きゅっと締め付けられるのを感じた。
「……はい。失礼します」
小さく頭を下げて、執務室を出た。
扉を閉めると、深いため息が漏れた。
(やっぱり、難しい)
でも、不思議と、落ち込みはしなかった。
(あの人、怒ってるわけじゃない)
(ただ、本当に、仕事に集中したいだけ)
そう思えた。
レイヴンの声は、冷たかったけど、突き放すような、嫌な感じはしなかった。
(むしろ、ちゃんと相手してくれた方かも)
ユウは、小さく笑った。
(よし、次は、もっと上手くやろう)
夕方、ユウは、廊下で、セラフィに会った。
セラフィは、洗濯物の入った大きな籠を抱えて、廊下を歩いていた。薄紫がかった銀の髪が、夕暮れの光に透けて、ほんのりと金色に光っている。
「あら、ユウ様。どうされました? お顔が、少し沈んでいらっしゃるように見えますわ」
セラフィは、小首を傾げて、ユウの顔を覗き込んだ。
「えっ、そんなことないよ! 大丈夫!」
ユウは、慌てて首を振った。
「まあ、そうですか。でも、何かありましたら、いつでも私に仰ってくださいませ」
セラフィは、にこりと笑った。
その笑顔は、暖炉のそばにいるような、不思議な安心感があった。
ユウは、少し迷ってから、口を開いた。
「あの、セラフィさん。ちょっと、聞きたいことがあるんですけど」
「はい、何でしょうか?」
「レイヴンさんって、最近、血露を飲んでないんですか?」
ユウの言葉に、セラフィの笑顔が、一瞬、消えた。
「……どうして、それを?」
セラフィの声が、少しだけ低くなる。
「あ、いや、その、昨夜、たまたま見ちゃって。レイヴンさんの部屋の前を通った時に、杯を持ったまま、窓の外を見てるのが見えて」
ユウは、しどろもどろになりながら、正直に話した。
セラフィは、しばらく、黙っていた。
それから、小さく息をついて、静かに言った。
「……レイヴン様は、ここ数日、血露の杯に、手をつけていらっしゃいません」
「やっぱり……どうしてですか?」
「私にも、分かりません。ただ、お食事の準備をしても、ほとんど手をつけられないまま、下げられてしまうことが多いのです」
セラフィの緑の瞳が、悲しげに揺れた。
「レイヴン様は、何も仰いません。でも、何か、お心に抱えていらっしゃることは、確かですわ」
ユウは、胸が、ずきり、と痛むのを感じた。
(やっぱり、何か理由があるんだ)
(一人で、何かを抱えてる)
「私、レイヴン様が、夜中に、一人で窓辺に立っていらっしゃるのを、何度も見ています。月明かりの中、何かを考えていらっしゃるような、そんな姿ですわ」
セラフィは、遠くを見るような目をした。
「でも、ユウ様。レイヴン様は、言葉にしないだけで、お客様のことを、とても大切に思っていらっしゃいます」
セラフィは、ユウの目を、まっすぐに見た。
「昨夜、ユウ様の部屋に、毛布を足されたのも、寝台を窓から遠ざけられたのも、全部、レイヴン様ご自身が、お考えになってされたことですわ」
「……知ってたんですか?」
「ふふ、この屋敷のことは、何でも知っていますのよ。私、夜守ですもの」
セラフィは、いたずらっぽく笑った。
「レイヴン様は、不器用な方です。お気持ちを、お言葉にするのが、とても下手でいらっしゃる。でも、行動で、ちゃんと示してくださいますわ」
ユウは、セラフィの言葉を、胸の中で繰り返した。
(行動で、示してくれる)
(毛布。寝台。あの人が、自分で考えて、やってくれた)
胸の奥が、じわり、と熱くなる。
(やっぱり、あの人、優しい)
ユウは、笑った。
「ありがとう、セラフィさん。なんだか、元気出た!」
「どういたしまして。ユウ様が、この屋敷に来てくださって、私も嬉しいですわ」
セラフィは、そう言って、洗濯物の籠を抱え直した。
「それでは、私はこれで。ユウ様、夕食の時間まで、ゆっくりお休みになってくださいませ」
「うん、ありがとう!」
ユウは、手を振って、セラフィと別れた。
夜が、またやってきた。
ユウは、寝台の上で、天井を見つめていた。
(眠れない)
セラフィの言葉が、頭の中で、ぐるぐると回っている。
(レイヴンさんは、血露を飲んでない)
(何か、理由がある)
(そして、僕のことを、大切に思ってくれてる)
最後の言葉が、何度も、何度も、胸の中で繰り返される。
(大切に、思ってくれてる)
その言葉だけで、こんなにも、心が温かくなる。
(おかしいな。契約の相手なのに)
(契約以上のこと、しちゃいけないのに)
ユウは、自分の胸に手を当てた。
心臓が、とくん、とくん、と、速く脈打っている。
(これ、もしかして)
(僕、あの人のこと……)
そこまで考えて、ユウは、ぶんぶんと首を振った。
(だめだめ! まだ、分かんない!)
(それに、契約があるし!)
(でも……)
ユウは、天井を見つめたまま、小さくため息をついた。
(喉、渇いたな)
体を起こす。
水を飲みに、廊下へ出よう。
そう思って、寝台から降りた。
廊下は、しん、と静まり返っていた。
ガス灯の青白い光だけが、磨かれた石の床を、ぼんやりと照らしている。
ユウは、水場を探して、廊下を歩いた。
(確か、こっちに……)
でも、昨日、セラフィに案内された道を、うまく思い出せない。
(あれ? この廊下、通ったっけ?)
屋敷は、広い。
夜の闇に包まれた廊下は、昼間とはまるで違って見える。
(迷っちゃったかも)
ユウは、不安になりながらも、歩き続けた。
角を曲がる。
また、角を曲がる。
気がつくと、ユウは、屋敷の奥深くに足を踏み入れていた。
(ここ、どこだろう)
廊下の突き当たりに、一つの扉があった。
他の扉よりも、重厚で、古めかしい。
(書庫、かな?)
扉の横に、小さな真鍮のプレートが打ち付けてある。
「書庫」
そう、刻まれていた。
(書庫だ)
ユウは、ほっとした。
(本の場所なら、セラフィさんに聞いたことがある)
(でも、こんなに奥だったんだ)
ユウは、扉に手をかけた。
ギィ……
重い音を立てて、扉が開く。
中は、真っ暗だった。
(暗い……)
ユウは、目を凝らした。
月明かりが、高い窓から、細く差し込んでいる。
その光が、書庫の中の、無数の書棚を、ぼんやりと浮かび上がらせていた。
(すごい、本がいっぱい)
壁一面の書棚。天井近くまで、ぎっしりと本が詰まっている。
古い紙の匂いが、むせ返るように漂っていた。
ユウは、吸い寄せられるように、書庫の中へ足を踏み入れた。
(何の本だろう)
一番近くの書棚に、手を伸ばす。
古い革表紙の本。背表紙には、見慣れない文字が刻まれている。
(読めないや)
ユウは、指先で、本の背をなぞった。
(でも、なんだか、すごく古い)
(何百年も前の本なのかな)
ユウは、書棚の間を、ゆっくりと歩いた。
(契約書って、こういうところに保管されてるのかな)
ふと、そんなことを思った。
(僕が署名した契約書も、ここにあるのかな)
そう思うと、なんだか、くすぐったいような気持ちになる。
(あの人の血と、僕の血が、同じ紙の上にある)
(それって、なんだか……)
そこまで考えて、ユウは、また首を振った。
(だめだ、また変なこと考えてる)
書庫の奥へ進む。
すると、一つの書棚の前で、足が止まった。
(あれ?)
その書棚の、一番上の段。
他の段は、本がぎっしりと並んでいるのに、そこだけ、ぽっかりと、空いていた。
本が、一冊、抜けている。
(本が、ない?)
ユウは、首を傾げた。
近づいて、よく見る。
空いた棚の板には、ほんのりと、何かの跡が残っていた。
(これ、本の跡……?)
いや、違う。
もっと、複雑な、模様のような。
(なんだろう、これ)
ユウは、指を伸ばした。
空いた棚の板に、触れる。
その瞬間。
ビリッ。
指先に、静電気のような、小さな衝撃が走った。
「痛っ……!」
ユウは、思わず手を引っ込めた。
(なに、今の)
指先が、じん、と痺れている。
(この跡、なにか、変な感じがする)
ユウは、もう一度、その跡を、じっと見つめた。
複雑な模様。
それは、何かの紋章のように見えた。
(これ、もしかして、封印術の跡……?)
盟約封緘。
契約書に施される、血の封印術。
その知識が、頭の隅に浮かぶ。
(契約書が、ここにあった)
(でも、今は、ない)
(封印ごと、消えてる)
ユウの背筋に、冷たいものが走った。
(なんで、消えてるの?)
(誰が、持って行ったの?)
分からない。
でも、ただならぬ気配だけは、ひしひしと感じた。
ユウは、もう一度、その跡に、指を伸ばそうとした。
「触るな」
突然、後ろから、声がした。
ユウは、飛び上がるほど驚いた。
振り返る。
書庫の入り口に、レイヴンが立っていた。
月明かりを背に受け、その顔は、深い影に沈んでいる。
赤みを帯びた瞳だけが、暗闇の中で、ぎらり、と光った。
「ここに、触れるな」
レイヴンの声は、これまで聞いたことのない、強い響きを帯びていた。
怒り。
いや、もっと別の、何か。
焦り。
恐怖。
そんな感情が、混ざり合ったような、鋭い声。
「レイヴン、さん……?」
ユウは、声が震えた。
レイヴンは、大股で、ユウに近づいてきた。
その歩みは、速く、力強い。
「ここは、立ち入り禁止だ。出ろ」
レイヴンは、ユウの腕を掴んだ。
痛いくらいの、強い力。
「いたっ……!」
ユウは、顔を歪めた。
レイヴンは、構わず、ユウを書庫の外へ引っ張り出した。
「二度と、ここへ来るな」
レイヴンは、ユウを廊下に放り出すと、背を向けた。
「待って、レイヴンさん! あの、僕、迷ってしまって、それで……」
ユウは、必死に説明しようとした。
でも、レイヴンは、振り返らない。
「自分の部屋に戻れ」
それだけ言って、レイヴンは、書庫の扉を閉めた。
バタン。
重い音が、廊下に響き渡る。
ユウは、その場に、立ち尽くした。
(レイヴンさん、怒ってる)
(あんな声、初めて聞いた)
心臓が、ばくばくと鳴っている。
(あの棚、やっぱり、何かあったんだ)
(あの跡、ただの本の跡じゃない)
ユウは、閉ざされた書庫の扉を、じっと見つめた。
(レイヴンさん、何を知ってるの?)
(何を、隠してるの?)
分からないことばかりだ。
でも、一つだけ、はっきりと分かったことがある。
(あの時、レイヴンさんの左手が、震えてた)
書庫から出される瞬間、掴まれた腕。
その時、レイヴンの左手が、微かに、震えていた。
(あの、無表情の人が)
(感情を、表に出さない、あの人が)
(手を、震わせてた)
ユウは、自分の掴まれた腕を、そっと撫でた。
そこには、レイヴンの指の痕が、まだ、うっすらと残っていた。
(痛い)
(でも、それ以上に)
(あの人の、震える手が)
(頭から、離れない)
ユウは、廊下に、長く伸びた自分の影を見つめた。
夜の闇が、屋敷の奥深くを、静かに包み込んでいた。
書庫の扉の向こうからは、もう、何の音も聞こえない。
でも、ユウは、確かに感じていた。
扉の向こうで、レイヴンが、まだ、そこに立っている。
震える左手を、もう片方の手で、握りしめながら。
(レイヴンさん……)
ユウは、声に出さずに、その名前を呼んだ。
(あなたは、何と戦ってるの?)
答えは、返らない。
ただ、夜だけが、深く、深く、更けていく。
廊下のガス灯が、また一つ、音もなく消えた。Noveliaとは?
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