みこがみさま!
かつて豊穣を司った小さな神、みこがみさま!ほのかは、郊外のショッピングモールの屋上にあるペット霊園の隣の、小さく忘れ去られた神社にひっそりと住んでいる。彼女の唯一の信者は、19歳のコンビニ店員・榊原一真だ。
銀髪で金色の瞳を持つロリ美少女の姿をしたほのかは、信仰心の薄れによって徐々に消えかけている。一真の解決策は?それは、ソーシャルメディアを通じて彼女を復活させることだった。
しかし、彼らの試みは笑いを誘う大失敗の連続。ほのかは写真にうまく収まらず、動画のために小さな“奇跡”を無理に起こしては疲れ果て、コンビニの唐揚げに夢中になってしまう。
だが、その滑稽な日々の中で、ほのかは信仰の本質や現代における自分の存在意義という深い問いに向き合っていく。
彼らの混沌とした奮闘は、予期せぬ他の存在たちの注目を集め、ドタバタコメディと哲学的な深み、そしてほのかな恋の要素が織り交ざった物語の幕開けとなる。
みこがみさま! - 神様、本日も消滅寸前です——ただし威厳はある(たぶん)
手が、透けている。
穂乃果は夕暮れの空に向かって、自分の右手をかざした。
オレンジ色の光が、指の向こう側に滲んでいた。光を透かしているのではない。文字通り、通り抜けているのだ。白銀の髪が風に舞い、金色の瞳に夕陽が溶け込む。身長130cmほどの小さな体は薄紫色の絹の着物風ワンピースを纏い、細い銀の帯がほっそりした腰を締めていた。どこから見ても愛らしい少女——ただし、向こう側の景色がうっすら透けて見えなければ、の話だ。
「……神気、80単位か」
誰も聞いていない。聞いている者が、一人もいない。
全盛期、鎌倉初期のあの黄金の時代——1200人の氏子が毎朝手を合わせ、黄金色の稲穂が風になびき、祈りの声が天まで届いた。神気は10万単位を超えていた。穂乃果は言葉の意味を正確に理解していた。80単位とは、全盛期の0.08%だ。1000分の1にも満たない。にわか雨ひとつ降らせるにも100単位が必要で、今の穂乃果にはそれすら足りない。
サンヴェール御影ヶ丘——地上4階建てのショッピングモールの屋上。朱塗りがすっかり剥落して灰色になった小さな祠が、室外機6基の轟音の隣に鎮座していた。高さ90cm、幅60cm。かつての本社があった御影丘の南麓から移設されて、もう37年が経つ。軒には蜘蛛の巣が張り、前面には雑草——タンポポが、あろうことか賽銭箱の割れ目から生えていた。賽銭箱の底板は腐食して、お賽銭を入れたとしてもたぶん地面に落ちる。
ここが、穂乃果の現在地だった。
「……はらわねば」
そう呟いて、穂乃果は祠の軒に向かって手を伸ばした。蜘蛛の巣を払おうとした——その手が、すり抜けた。
物理的に、すり抜けた。手がまるごと蜘蛛の巣を通り抜けて、空を掴んだ。
「……」
沈黙。
穂乃果はもう一度、今度は慎重に、ゆっくりと手を伸ばした。
またすり抜けた。
「払えぬのか」
穂乃果の声は静かだった。驚くほど静かだった。動揺を押し殺しているのでも、冷静なのでもない。ただ、あまりにも予想外のことが起きると人間の感情はいったん処理を止める——神もそれは同じらしかった。
もう一度。
すり抜けた。
「払えぬのか!!」
今度は叫んだ。屋上の端まで聞こえるくらいの声で、ただし室外機の轟音にほぼかき消されたが、穂乃果は渾身の力で叫んだ。蜘蛛の巣は微動だにしない。当然だ。物理的に干渉できていないのだから。
850年の神格が、蜘蛛の巣一枚を払えない。
穂乃果は手を下ろした。
そして錆びたフェンスの向こう、御影ヶ丘市の夕暮れの街並みを見つめた。かつて穀倉地帯だったこの土地は、今は住宅と商業施設に埋め尽くされている。御影丘の南麓から続く御影枝脈——この地下を南北に貫く細い霊脈が、穂乃果をかろうじて存在させていた。霊脈からの自然回復は、1日あたり0.01単位。それだけが、穂乃果を支えていた。
「威厳とは……なんじゃ……」
呟きは、轟音に溶けた。
---
そこへ、客が来た。
屋上の出入り口から離れた隅——ペット霊園「星露苑」と穂乃果の祠のちょうど中間あたりから、一匹の猫が現れた。三毛猫だ。推定3歳、体つきからして雌だろう。どこかのビルから迷い込んできたのか、あるいはここを縄張りにしているのか。その猫は屋上をゆっくりと歩き、なんの疑いもなく、穂乃果の祠の石段によじ登って、腰を下ろした。
悠々と。
完全に自分の場所であるかのように。
「……控えよ」
穂乃果は言った。
「控えよ、下等生物よ!ここはわらわの御前であるぞ!800年の神格に対して、その態度はいかがなものじゃ!」
猫は動かない。
「聞こえておるか?」
猫は念入りに耳裏を掻き始めた。後ろ足で。リズミカルに。
「……聞こえておらんのか?それとも無視しておるのか?どちらじゃ!」
猫は耳裏を掻き終えると、今度は前足を舐め始めた。
穂乃果は顔を近づけた。金色の瞳で、猫の黄色い瞳を覗き込もうとした——その瞬間、猫が大きな欠伸をした。口を限界まで開けて、犬歯を見せて、舌をM字に曲げて。
「……今」
穂乃果の声が止まった。
「今わらわに……あくびを……」
語尾が消えた。神格850年の威厳が、三毛猫の欠伸一発で粉砕された瞬間だった。
「よ、よいわ!そなたを追い払ってくれる!神威を見せてくれようぞ!」
穂乃果は両手を前に出した。神気を込める。80単位の神気を、全力で、一点に。石段の前に生えていた雑草の、一本に向けて——
ゆ、と。
雑草が一本、ほんのわずかに揺れた。
そよ風程度だった。室外機が作り出す気流でも同じことが起きる。
猫はその揺れに一瞬だけ反応した。黄色い瞳がわずかに見開き、前足が止まった。穂乃果は期待した。「怖がった!怖がったぞ!まだわらわにも神気はある!」と心の中で拳を握った——次の瞬間、猫は「つまらん」とばかりに穂乃果に背を向け、くるりと丸くなった。
そのまま目を閉じた。
眠り始めた。
「……」
穂乃果は動けなかった。
「……下等生物に」
声が、震えた。
「豊穣神が。800年の神格が。三毛猫に飽きられた……」
その台詞は誰にも届かなかった。轟音に消えた。猫は呑気に寝息を立てていた。穂乃果は空を仰いだ。オレンジ色の空は美しく、だからこそ余計に惨めだった。
---
そのとき、風向きが変わった。
南側から、屋上へ。1階の東端に位置するコンビニ——「デイリーポート御影ヶ丘店」の換気口から流れてくる風が、屋上まで上ってきた。
穂乃果の鼻が、かすかに動いた。
「……ん?」
もう一度、鼻をひくつかせた。
「これは……」
からあげ棒だ。
1本140円、コンビニの看板商品。油で揚げた鶏肉の香りが、夕暮れの屋上に漂っていた。1日平均80本が売れる、その揚げたての匂いが——穂乃果の神格850年の威厳に、真正面から挑戦してきた。
「い、いかん」
穂乃果は顔を逸らした。
「神たるものが食欲などという低次の欲求に……いかん……」
鼻がひくつく。
「いかんのじゃが……」
真顔に戻ろうとする。0.5秒だけ威厳のある表情になる。
また鼻がひくつく。
「……わらわは神じゃ」
うんうん、と一人で頷く。
「神は飢えぬ。神は物質的な欲求を超越した存在じゃ。信仰が力の源であり、からあげ棒などという揚げ物一本に心を乱されるはずが……」
風がまた運んでくる。
「……からあげ棒が……食べたいぞ……」
崩れた。全部崩れた。850年の威厳がまた粉砕された。本日2回目。猫に続いてからあげ棒に敗北した豊穣神は、ふらふらと匂いの方向へ一歩、踏み出した——
足に力が入らなかった。
当然だ。神気80単位。歩行に使える力も、ほとんど残っていない。穂乃果の小さな体は、あっけなくその場にへたり込んだ。祠の石段に、猫の隣に、ストン、と座り込んだ。猫は迷惑そうに身じろぎして、また目を閉じた。
「……わらわは」
穂乃果は言った。
「今……ちょっと休んでおるだけじゃ。誰も見ておらんから……別によいが」
誰も見ていない。
夕暮れの屋上に、消滅寸前の豊穣神と眠っている三毛猫だけがいた。薄紫の着物が石段の冷たさに触れているが、それを感じられているのかすら、穂乃果には分からなかった。半透明の体は冷たさを正確に伝えない。実体がある時間と、ない時間が、波のように繰り返している。
穂乃果は空を見上げた。
夕陽の橙色が、半透明の頬に溶け込む。光を透かす銀色の睫毛が、風に揺れる。金色の瞳は深く、遠いところを見ていた。笑えばいいのか。嘆けばいいのか。850年生きてきて、どちらも似合わない気がした。
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「信仰とは……なんじゃ」
呟きが、今度は届く先もなく空に消えた。
「かつてのわらわを、覚えておる者はもう誰もおらぬ。御影ヶ丘秋穂祭——あの祭りは今も続いておるようじゃが、誰ひとり、それが元はわらわのための祭礼だとは知らぬ。知らんまま、商店街の秋祭りとして賑わっておる」
毎年10月第2日曜日のその日だけ、わずかに神気が自然回復する。年間でたった0.5単位。それが、穂乃果に残された秋の楽しみだった。
「袈裟乃殿も……いなくなってしもうた」
3年前の朝のことを、穂乃果は今でも鮮明に覚えている。
榊原袈裟乃——享年79歳、穂乃果の最後の正式な氏子。毎朝6時に屋上に来て、朝露に濡れた石段を丁寧に踏みしめ、賽銭箱の前で手を合わせた。声は小さかったが、祈りは確かだった。「今日もよい天気を」「みなが元気でありますように」——そんな素朴な言葉が、穂乃果の神気をわずかずつ補っていた。1単位/日にも満たない、細い細い補給だったが、それでも。
ある朝を境に、袈裟乃は来なくなった。
次の朝も、また次の朝も。
穂乃果は知っていた。人間の命には限りがある。850年生きていれば、何度も見送ってきた。だが毎回、慣れない。石段に積もっていく静寂は、どんな重さより重かった。
袈裟乃が死んだ後、穂乃果の神気は急激に減少した。バケツの底が抜けるような速さで。100単位あったものが、今は80単位。このまま誰にも認知されなければ——神気がゼロになれば、穂乃果は消える。
「800年生きてきたわらわが。それだけじゃ」
覚悟とも、諦めとも、違う。ただ事実として、そういうことだという話だ。信仰が力の源である神にとって、信仰の途絶えは死を意味する。霊脈からの微量な自然回復だけでは、消滅を止められない。神気がゼロになれば完全に消滅する——これは穂乃果がよく知っているルールだった。知っているからこそ、どうしようもなかった。
石段の冷たさが、あるような、ないような。
猫の寝息が、聞こえる。
からあげ棒の匂いが、まだ漂っている。
穂乃果は目を閉じかけた——
そのとき。
キィ、と。
鉄の軋む音が、した。
穂乃果の目が開いた。金色の瞳が、音の方向を向く。
屋上の鉄扉だ。コンビニのバックヤードから屋上に通じる扉が——開いていた。
足音がする。
確かな、人間の足音。石段を踏む音が一歩、また一歩と、こちらに向かってくる。
穂乃果は石段に座り込んだまま、動けなかった。神気が足りなくて立ち上がれないのか、あるいは期待と恐れが入り混じって立てないのか、自分でも分からなかった。
「……まさか」
声が震えた。
「まさかこの時間に……参拝者か?」
足音は止まらない。
一歩。また一歩。
穂乃果の金色の瞳が、じわりと光を取り戻した。消えかけていた炎が、ほんのわずかに——ほんのわずかに、揺れた。
からあげ棒の匂いが、また風に乗って、漂ってくる。
夕暮れの屋上に、足音だけが近づいてくる。