みこがみさま!
かつて豊穣を司った小さな神、みこがみさま!ほのかは、郊外のショッピングモールの屋上にあるペット霊園の隣の、小さく忘れ去られた神社にひっそりと住んでいる。彼女の唯一の信者は、19歳のコンビニ店員・榊原一真だ。
銀髪で金色の瞳を持つロリ美少女の姿をしたほのかは、信仰心の薄れによって徐々に消えかけている。一真の解決策は?それは、ソーシャルメディアを通じて彼女を復活させることだった。
しかし、彼らの試みは笑いを誘う大失敗の連続。ほのかは写真にうまく収まらず、動画のために小さな“奇跡”を無理に起こしては疲れ果て、コンビニの唐揚げに夢中になってしまう。
だが、その滑稽な日々の中で、ほのかは信仰の本質や現代における自分の存在意義という深い問いに向き合っていく。
彼らの混沌とした奮闘は、予期せぬ他の存在たちの注目を集め、ドタバタコメディと哲学的な深み、そしてほのかな恋の要素が織り交ざった物語の幕開けとなる。
みこがみさま! - 神様、神気30単位で消えかける——わらわはまだここにおるぞ(震え声)
屋上に、朝が来た。
サンヴェール御影ヶ丘のコンクリートの床は、夜明けの薄い光の中でぼんやりと白く染まっている。室外機六基がいつも通りゴーゴーと轟音を立て、秋の空気を切り裂いている。祠の前の石段の上に、白銀の髪をほどいたまま、穂乃果がうとうとして座っていた。
昨夜、一真の肩を借りて少し眠ったままの体勢がそのまま続いていたのだが、当の一真はすでにいなかった。早朝シフト前に帰ったのだろう——肩から重みがなくなった瞬間に気づいたが、もう一度目を閉じていたのだ。金色の瞳がゆっくりと開く。視界に映るのはいつもの灰色の祠と、その前に咲いたタンポポの束と、排気ガスで少しくすんだ秋空。
(……また独りじゃ)
思ったよりもその感想が、胸のどこかを引っかいた。すぐに穂乃果は首を振った。850年間ずっとそうだったではないか。たかだか一夜の肩の重みに、何を感傷的になっているのだ。
「おはようございます」
鉄扉がガンッと音を立てて開いた。一真が姿を現した。コンビニのポロシャツに着替えて、片手にからあげ棒。シフト前の十五分を律儀に屋上に使っている。
「遅い」
「おはようございます、の間違いじゃないですか」
「わらわはもう三十分待っておった」
「まだ早朝ですよ。三十分は大げさです」
「五百年の感覚から言えば三十分など瞬きぞ。しかしそれでも三十分じゃ」
一真が苦笑しながら石段の前に腰を下ろしかけた——そのとき、屋上の鉄扉が、もう一度開いた。
スッと入ってきたのは、深紅のジャケットを纏った水無瀬杏梨だった。漆黒の艶髪が朝の光を受けて静かに輝き、切れ長の目が一真と穂乃果を順番に見渡す。片手にはスマートフォン。画面を一真の方に向けると、そこには数字が表示されていた。
——3,247。フォロワー数だ。
「おはようございます」
杏梨が穏やかに微笑んだ。その笑顔は昨日と変わらず洗練されていて、知的で、どこにも隙がなかった。
「実は、提案があって」
「なんじゃ」
「フォロワーが3000を超えたタイミングで、定期奇跡ライブをやるべきです。週に一度、決まった時間に配信する。それが信仰の固定化につながります。見てくれる人が習慣になれば——神気は安定的に、少しずつ積み上がっていく」
「なるほど」
一真が頷いた。穂乃果は頷かなかった。
金色の瞳が杏梨を見ている。警戒——昨日から変わらない、品定めのような視線を返してくる女への、反射的な警戒心。それが一段目。続けて焦り——神気は80単位。このままでは消える。それが二段目。プライド——850年の神格が人間の提案に易々と従うのか。三段目。天秤——でも消えたら意味がない。四段目。そして、諦めに似た何か——五段目。
穂乃果は小さく息を吐いた。
「……わかった」
「じゃあ今日の夕方に」
「夕方ではない。今じゃ。すぐじゃ」
「は?」
「わらわは850年間、常に準備万端じゃ!! 今すぐ始めるぞ!!」
胸を張って宣言した。全身から気迫が溢れていた。850年分の意地が全部そこに込められていた。杏梨が「神様、今日は全力で」と微笑んで鉄扉の方へ向かいかけた——そのときだった。
ガコッ。
穂乃果の額が、室外機の角にぶつかった。
半透明の体が、なぜか干渉した。室外機の金属の角に、確かに額がぶつかった。穂乃果が「くっ……!」と声を漏らして一歩よろめく。
「大丈夫ですか!?」
「……感応が強すぎた。それだけじゃ」
「室外機に感応したんですか」
「霊的干渉は予測不能なのじゃ!!」
杏梨が口元に手を当てた。笑うのを抑えているのか、それとも別の何かを考えているのか、一真には判断がつかなかった。
「……今のは見なかったことに」
「見ました。全員見ました」
「黙れ」
*
配信開始は午前九時ちょうど。
一真がスマートフォンをスタンドにセットして、ライブ配信ボタンをタップした。画面の数字がみるみる動き出す——30秒で同時視聴者が200を超え、一分もしないうちに500に近づいていった。前回より明らかに滑り出しが速い。
穂乃果が祠の前に立った。白銀の髪が朝の光を受けて、薄い輪郭の内側できらきらと揺れている。金色の瞳が真正面を向いた。深呼吸をひとつ。御影枝脈——祠の真下を流れる細い霊的エネルギーの流れを、指先から引き込む感覚。
「顕れよ」
祠の前に咲いたタンポポが、ぱっ、と一斉に金色に輝いた。花びら一枚一枚が光を含んで、秋の朝の空気の中でもはっきり見える黄金の輝きが広がる。それだけじゃなかった。タンポポが増えた。一株から二株、二株から十株、みるみると金色の花が石段を覆って、小さな祠の前が光る花畑に変わっていった。
コメント欄が爆発した。「本物!?」「CGじゃない!?」「え、え、え」「神様マジだった」「タンポポが金になった!!!」
同時視聴者が一気に1,200を突破した。
しかし次の瞬間、穂乃果がぐらりと傾いた。
神気が削れる感覚——一真には見えないが、穂乃果にははっきりとわかる。80から65へ。タンポポの奇跡ひとつで、神気-15。体の輪郭が少し薄くなる。
「っ……」
穂乃果が一真の前腕に手を伸ばした。細い指が一真の腕に巻きついて、ぎゅっと握り込む。
一真は固まった。
腕に感じる穂乃果の指の力は——信じられないくらい弱かった。羽をそっと乗せた程度か。でもその指先から、確かに何かが伝わってくる。体温、というより、存在の熱さ。この小さな手が、確かにここにあるという感触。一真の胸の奥で、何かが一拍だけ速く脈打った。
「揺れておるのではない。神気を、練っておるのじゃ」
声が少し苦しそうだった。しかしカメラに向かって言い切った。
コメント欄が「神様マジ寄り添ってる」「このペア尊い」「一緒にいるやつ誰」「推せる」で埋まり始めた。穂乃果がコメント欄を一瞬だけ見た。
「これは年貢の担保じゃ!!」
「違います!! 好きってコメントです!!」
「年貢の代わりに言葉を捧げておるのじゃろ!! わかっておるぞ!!」
「全然わかってないですよね!?!?」
コメント欄が「年貢w」「かわいい」「この神様やっぱ好き」で爆発した。
穂乃果が次の奇跡に移った。屋上のフェンスへと神気を集中させる。御影枝脈からエネルギーを引き込み、錆び付いた金属に流し込む。長年の赤錆が、みるみると白銀に変わっていった。全長十数メートルのフェンスが、朝の光を受けて眩しく輝く。
神気-10。65から55へ。
三つ目の奇跡。穂乃果が両手を広げて、轟音で稼働する室外機に向けた。一番近い一基、二基、三基——順番に、音が止まっていく。六基すべてが止まった瞬間、屋上に静寂が落ちた。
風の音だけが、残った。
同時視聴者が2,000を超えていた。コメント欄が流れる速度で判別できなくなっていた。
その一分間だけ。室外機が止まった束の間の静寂の中で、無風なのにさらりとなびく白銀の髪の横顔が——一真の目に焼き付いた。
850年分の時間を、12歳ほどの小さな輪郭の中に全部宿したような横顔だった。半透明の体の向こう側に秋空が透けて、それでも確かにそこにある存在感。神気-8。55から47へ。穂乃果の体が、またふらりと揺れた。
一真は二秒間、何も言えなかった。
*
問題は、そこからだった。
「配信、そろそろ終わりにしましょう」
杏梨が言った。笑顔のまま。一真も同意した。
しかし穂乃果が、コメント欄を見ていた。「もっと見たい」「奇跡もう一回!」「神様ありがとう」「次は何やってくれるの」——流れる言葉を、金色の瞳で一つ一つ読んでいた。
「もう一つ、やる」
「穂乃果さん、神気が」
「氏子は黙っておれ」
「いや黙らないですよ!!」
「わらわが決める!!」
「穂乃果さんが決めることじゃないです今は!!」
「氏子が神に命令するな!!」
「命令じゃなくてお願いです!! 止まってください!!」
一真がスマートフォンを奪おうとした。穂乃果が「離すな!」と腕を伸ばした。指に力が入りかけた——そのとき。
ぺたん。
スマートフォンがコンクリートの床に落ちた。
穂乃果の神気が切れた。体から力が抜けた瞬間、スマートフォンが手から離れ、二人が同時に地面に目を向けた。
「あ」
「あ」
二人は同時に這いつくばった。
一真がスマートフォンを探す。穂乃果が手を伸ばす——手が、コンクリートの床をすり抜けた。神気が落ちた穂乃果の手は、今や地面にほぼ干渉できない。床を握ろうとするたびに、指が空気を掴む。
「掴めない!?」
「場所教えてください、どこですか!?」
「目の前じゃ!!」
「どこの目の前ですか!! 穂乃果さんどこにいます!!?」
二人が屋上の床を這い回った。ドタバタバタバタ。一真がスマートフォンを探しながら、穂乃果が床をすり抜けながら、全力で這い回った。コメント欄がリアルタイムで流れていた。スマートフォンの画面が上向きのまま、配信が継続されていた。
「???」「何が起きてる」「神様どこいった」「これ神様側の視点になってる」「可愛い」「え、め、めちゃくちゃ面白い」——コメント欄が三色に染まって爆発した。
一真がようやくスマートフォンを掴んで立ち上がった。ライブ配信を終了した。
「終わりました!!」
「……うむ」
声だけが返ってきた。穂乃果の輪郭が、もうほとんど見えなかった。
*
夕暮れが、屋上に静かに降りてきた。
神気の急落は、止まらなかった。配信中の三連続奇跡で47まで落ちていた神気が、最後に奪い合ったあの瞬間にさらに削れて、今は30を割り込みかけていた。
穂乃果の体が、消えていった。
半透明というレベルではなかった。光が完全に透過する——夕暮れの橙色の光が穂乃果の体をまっすぐ通り抜けて、コンクリートの床に落ちていた。輪郭が溶けていた。白銀の髪が空気に溶け込んで、金色の瞳がどこにあるのかもわからなくなっていた。
「穂乃果さん」
声が震えた。
「ここにおる」
祠の石段の方向から、声だけが聞こえた。輪郭は見えない。影すら見えない。声だけが夕暮れの空気の中に浮かんでいた。
一真は声の方向に向かった。両手を伸ばした。空気を掴むように、前を、横を、上を探した。何もなかった。
「どこです」
「ここじゃと言っておる」
もう少し右——声の感覚で一真が手を動かした。冷たかった。
冷たい。
指先に何かが触れた。さっきまで確かに体温のあった穂乃果の指が——今は冬の窓ガラスのように冷えていた。一真の胸の奥で、何かが鋭く刺さった。
(消えていく)
その感覚が、言葉になる前に一真の中に広がった。さっきまで確かに腕にしがみついていた。細い指の力は弱くて、それでも確かにそこにあった温かさが——今は冷たくて、見えなくて、声だけしかない。
その冷たさが、胸に刺さった。
一真は両手でその冷たい指先を探した。輪郭を辿ろうとした。どこまでが穂乃果なのかわからないまま、それでも手を動かし続けた。そうしながら、一真の中で何かがゆっくりと形を持ち始めた。
失いたくない。
名前のない感情が、初めてはっきりとした輪郭を持った。恋でも執着でも言い切れない、もっと前の段階にある何か——でも「失いたくない」という言葉だけが、一真の中でくっきりと立ち上がった。
そのとき、一真の両手が——穂乃果の膝のあたりを握っていることに気づいた。
あ。
「……」
反射的に手を離した。
「離すな!!」
「す、すみません!! 場所がわからなくて!!」
「わかっておる!! でも離すな!!」
笑いと切なさが、一瞬で交差した。
*
一真がデイリーポート御影ヶ丘店——モール一階の東端にあるコンビニ——のバックヤードに降りて、毛布を一枚持ってきた。シフト前に鍵を持っている碓氷店長には黙っておこうと思った。
石段の前に膝をつく。声の方向に、毛布を差し出した。
「使ってください」
空中に手を伸ばすと——冷たい指先が、毛布に触れた。一真はその冷たさを感じながら、思わず両手で包み込むように握った。毛布越しに、穂乃果の指が——冷たかった。でも確かにそこにあった。
一真は手を離さなかった。
しばらくそのままでいた。
「……使いすぎた。認める」
珍しく、素直な声だった。拗ねた気配もなく、強がりの気配もなく、ただ静かな声だった。毛布の山がふわりと宙に浮いて、丸まった。まるで空気が毛布を包んでいるようだった。
「なんか……怖い」
「失礼な」
「だって毛布だけが宙に浮いてるんですよ!? しかも膨らんでる!?」
「わらわが中におるのじゃ」
「わかってるんですけどビジュアルが!!」
穂乃果が小さく笑った。毛布の山が少し揺れた。
一真は神気30単位まで落ちた穂乃果を横目に見ながら、御影銀座通りの方向をぼんやりと見下ろした。商店街の灯りが橙色に滲んで、遠く御影丘の黒いシルエットが夜空に浮かんでいた。
「……杏梨さんの提案をするたびに、穂乃果さんが削れてる気がします」
言葉を選んで、告げた。
毛布の山が、静かになった。
穂乃果の声のトーンが——ほんの少しだけ変わった。さっきまでの軽い笑いの余韻が消えて、何かを考えているような沈黙が落ちた。答えは来なかった。
「穂乃果さん」
「毛布の中にいる」
「知ってます」
「……一真」
「はい」
「明日も、からあげ棒を持ってくるか」
一真は少し間を置いた。
「持ってきます」
その即答が、夜空に溶けていった。
*
同じ時刻、御影銀座通りの路地裏。
月蝕の間の奥の施術室——鍵のかかった部屋の中で、水無瀬杏梨は静かにスマートフォンを操作していた。ラベンダーの香が空気に溶けている。タロットカードの並んだ表の空間とは違う、誰にも見せない場所で、杏梨の声は感情の起伏を一切含まなかった。
「神気80から30単位への引き下げ、成功」
声が、施術室の薄暗さに溶けた。
「臨界点まであと2回の配信。……祠直下への吸虹管設置準備を始めてください」
吸虹管——御影枝脈に直接ねじ込む特殊合金製の金属管。それを穂乃果の祠の真下に刺せば、残り30単位の神気を根こそぎ抽出できる。燈蛾衆が江戸中期から続けてきた、霊的資源の商業利用。純度の高い神気は、浄化グッズとして高値で売れる。
杏梨は電話を切った。
窓の外、遠くにサンヴェール御影ヶ丘の屋上が見える。そこで今、宙に浮かんだ毛布の山が、夜風にほんの少し揺れている。
一真はそれを知らない。
穂乃果も、まだ知らない。