みこがみさま!
かつて豊穣を司った小さな神、みこがみさま!ほのかは、郊外のショッピングモールの屋上にあるペット霊園の隣の、小さく忘れ去られた神社にひっそりと住んでいる。彼女の唯一の信者は、19歳のコンビニ店員・榊原一真だ。
銀髪で金色の瞳を持つロリ美少女の姿をしたほのかは、信仰心の薄れによって徐々に消えかけている。一真の解決策は?それは、ソーシャルメディアを通じて彼女を復活させることだった。
しかし、彼らの試みは笑いを誘う大失敗の連続。ほのかは写真にうまく収まらず、動画のために小さな“奇跡”を無理に起こしては疲れ果て、コンビニの唐揚げに夢中になってしまう。
だが、その滑稽な日々の中で、ほのかは信仰の本質や現代における自分の存在意義という深い問いに向き合っていく。
彼らの混沌とした奮闘は、予期せぬ他の存在たちの注目を集め、ドタバタコメディと哲学的な深み、そしてほのかな恋の要素が織り交ざった物語の幕開けとなる。
みこがみさま! - 神様、地脈の番人と吸虹管の全貌を知る——屋上に三人、繋いだ手に金色の花
屋上に、朝が来た。
サンヴェール御影ヶ丘のコンクリートの床は、夜明け前の青白い光の中でぼんやりと浮かんでいる。室外機六基がいつも通りゴーゴーと轟音を立てて、秋の早朝の冷えた空気を切り裂いている。
祠の前の石段の隅に、白銀の髪をほどいた穂乃果が毛布にくるまって、ぽわりと宙に浮いた状態で丸まっていた。
ビジュアルだけ見ると、完全に「謎の浮遊する毛布」だった。
昨夜、神気の消耗で輪郭が薄くなった穂乃果は、一真の持ってきた毛布をそのまま頭からかぶったまま眠ってしまっていた。毛布の中に880年分の神格が詰まっているとは、まず誰にも思えない光景だ。
そのそばの石段に、榊原一真が壁にもたれながら、腕を組んでうとうとしていた。頭が三秒ごとにカクンと落ちて、そのたびにぴくっと起き直す。目は半分閉じかけている。コンビニのバイトポロシャツ姿のまま夜を明かして、今や限界に近かった。
そこへ。
ガチャン、と屋上の鉄扉が静かに開いた。
入ってきたのは、小柄な老女だった。
手には白と黄色の小菊の束。灰色がかった白髪を後ろで丁寧に束ね、紺色のエプロンをかけた姿は、朝の空気に自然と溶け込むような穏やかさがある。顔には深い皺が刻まれていたが、その目はまだ鋭く、生き生きとしていた。ペット霊園「星露苑」の管理者、蓬田ハナエ——七十四歳。
地脈の番人と呼ばれる一族の末裔で、霊脈の流れを体感的に察知できる、御影ヶ丘で最後の自覚ある番人の一人だ。毎朝六時に慰霊碑へ花を供えるのが、何十年と続く習慣だった。
ハナエが屋上に足を踏み入れた瞬間——宙に浮いた毛布の塊と、石段でカクカク揺れている青年を見た。
「あら」
と首を傾けた。七十四年分の動じなさで、一秒で状況を受け入れた。
毛布の中から、声が飛んだ。
「わらわの眠りを妨げるでない! 朝の神気充填中じゃ!!」
石段の一真がビクッと起きた。
「——あっ、おはようございます!!」
寝起き声が屋上に響いた。三者三様のズレが、秋の早朝に炸裂した。
ハナエはにこりと笑って慰霊碑の方へ歩き出した。
「おはようございます。神気充填中のところ失礼しますね」
毛布がビクッと揺れた。
毛布の端がめくれて、金色の瞳が覗いた。白銀の髪が少しだけ乱れている。12歳ほどに見える、神秘的に儚い顔立ちの少女が、老女を見上げた。現在の神気は三十単位。半透明化が進んでおり、朝の逆光を完全に透かすほど輪郭が薄くなっている。
「……そちは、わらわが見える、のか?」
ハナエは慰霊碑に花を一本ずつ丁寧に供えながら、さらりと答えた。
「なんとなく、ですけどね。七代前からこの屋上の気配はわかるんですよ」
穂乃果が固まった。
毛布を頭からかぶったまま、ふわりと宙に仁王立ちになった。毛布の下から白銀の髪がはみ出して風に揺れている。850年の神格が毛布姿で威厳を発揮しようとしている、すごい光景だった。
「地脈の番人……!! そちがそうか!!」
「そうかもしれませんね、なんとなく」
「なんとなくで済む話ではないのじゃ!!」
「毛布姿で仁王立ちのまま言われても迫力が三割減じゃないですか」
「うるさい!! わらわは今威厳を発揮中じゃ!!」
「毛布をとってから言って」
「毛布は今の体制上必要なのじゃ!!」
ハナエが「ふふ」と笑った。花を供え終えて、慰霊碑の前で手を合わせる。その背中は穏やかで、この状況を全部受け入れている。
「星露苑——ここのペット霊園を管理して三十四年になります。蓬田ハナエと申します」
一真が「榊原一真です」と頭を下げた。穂乃果は毛布をすこし下げて、金色の瞳でハナエをじっと見据えた。その瞳には警戒と好奇が交じり合っている。
「……わらわは、穂乃果じゃ」
いつもより少し、静かな声だった。
ハナエが振り向いて、穏やかに頷いた。朝の光の中で、半透明の穂乃果の輪郭が空気に溶けかけているのが見える。一真はその横顔をちらりと見た——夜明けの逆光を完全に透かす、金色と白銀の儚い輪郭。毛布をずり下げた小さな体が、今にも消えてしまいそうなほど薄い。一真の胸の奥で、何かが静かにきゅっと締まった。
(怖い、じゃなくて——消えそう、が怖い)
その感情の正体を確かめる前に、ハナエが口を開いた。
「実は、ちょっと気になってることがあって」
*
ハナエが慰霊碑への水やりを続けながら、話し始めた。
「最近ね、南東の方からお脈が細くなってるんですよ。御影枝脈——この屋上の真下を流れてる霊的なエネルギーの筋道なんですけど——その流れが、なんとなく、弱くなってきてる気がして」
「お脈……霊脈、のことですか」
「ええ。七代前から受け継いでる感覚なので、うまく説明できないんですけどね。なんとなく、なんですが」
「なんとなくって何回言うんですか」
「でも本当になんとなくなんですよ」
一真はポケットに手を入れた。取り出したのは、スマホのスクリーンショットをプリントしたメモ用紙と、薄紫のチラシ——「月蝕の間」のものだ。昨日の配信のコメント欄に名前が出ていたのを記録してあった。
「南東って、御影銀座通りの方角ですよね。そこに月蝕の間というスピリチュアルサロンがあって——」
一真がメモを広げた瞬間、ハナエの手が止まった。
じょうろを持ったまま、ハナエが南東の空を見た。御影銀座通りの方向——商店街の屋根が連なる向こう。
「月蝕の間」
その言葉を繰り返したとき、ハナエの目に何かが滲んだ。穏やかだった目が、一瞬だけ鋭くなった。
「あそこか、と思ってたのよ。なんとなく」
「なんとなく!! また!!」
「あの、榊原さん。なんとなくっていうのは、番人の感覚では結構確信に近い表現なんですよ」
「それ最初に言ってください!!」
穂乃果が、毛布から半身を乗り出した。金色の瞳がハナエを真っ直ぐに見ている。
「……燈蛾衆の気配がするか」
低い声だった。
ハナエが小さく頷いた。
「燈蛾衆——江戸中期に創設された秘密の集まりで、霊的なエネルギーを商売に使う人たちのことですよね」
「知っておるのか」
「七代前から厄介になってますから。ちょうど江戸中期あたりから、御影ヶ丘の田んぼが一年だけ全部不作になったことがあって——その年に、脈が急に細くなった記録が残ってるんです。燈蛾衆が霊脈からエネルギーを抜いていったせいだって、代々語り継がれてきました」
その話が終わった瞬間、穂乃果が静かに呟いた。
「吸虹管」
一真が穂乃果を見た。
「なんですか、それ」
「霊脈にねじ込む管じゃ。特殊な合金でできた、長さ一尺余りの金属管——これを霊的な脈の結節点に刺すと、エネルギーを抽出できる。燈蛾衆の連中が代々使ってきた術具じゃ」
穂乃果の声に、いつもの軽さがなかった。説明しながら、どこかを見ている。石段の向こう、南東の空の方を。
一真は三者の視線が、自然と同じ方向に向いていることに気づいた。御影銀座通り。月蝕の間。杏梨の笑顔。
緊張感が、屋上の空気に溶けた。
その静寂の中で——ぐーーーーっ、という音が盛大に響いた。
全員が穂乃果を見た。
穂乃果の腹が、完璧なタイミングで鳴いていた。
「……」
「……」
「これは! これは神聖な腹の言葉じゃ! 神気の回復を促す!!」
「胃袋は神聖ではない!!」
「わらわの体の全てが神聖じゃ!!!」
ハナエがバッグをごそごそとまさぐって、どら焼きを一個取り出した。何の説明もなく、ただ静かに差し出した。
穂乃果がそれを見た瞬間、電光石火でかっさらった。0.1秒もかかっていない。
「神の慈悲で受け取ろう」
「慈悲って言いながらひったくったな!!!」
ハナエが「可愛いわねえ」と笑った。穂乃果はどら焼きを頬張りながら、じろりと一真を見た。
「一真、そちはさっき、あの女が美人だったと言っておったな」
「言ってないですよ」
「目が言っておった」
「目が言うわけないでしょ」
「男の目は正直じゃ!!」
一真の袖を、もぐもぐしながらぐいぐいと引っ張り始めた。神気三十単位の体は信じられないほど軽いくせに、引っ張る力は確かにある。冷たい指の感触が一真の腕全体に伝わる。腕に密着した穂乃果の重みが、あの夜の肩の体温を思い出させた——その冷たさと儚さが、不思議なほど同時に感じられた。一真は引き離せなかった。
「近い近い近い」
「詰めているのじゃ!!」
ハナエが水やりを続けながら「可愛いわねえ」と二回目を言った。
*
少し後、ハナエが「ちょっと待ってて」と言って、星露苑の管理小屋——祠からわずか数メートルの距離にある、小さなトタン屋根の小屋——に入っていった。戻ってきたとき、手に古い紙の束を持っていた。
広げると、手書きの地図だった。
色褪せた紙に、御影ヶ丘の地形が丁寧に書き込まれている。中央を南北に走る一本の線に「御影枝脈」と書かれており、北端に「御影丘」、南に「祠(結節点)」、さらに南東に×印がついていた。
「七代前から受け継いできた地図なんです。霊脈の結節点と、危険な場所を記録したもの」
一真がメモのスクリーンショットを地図の横に並べた。×印の位置と、月蝕の間の住所が——ぴったり重なった。
御影枝脈の線。月蝕の間の位置。穂乃果の祠の位置。三つが石段の上で三角形を描いていた。
「この祠の真下が結節点なの。御影枝脈が一番細く集まっている場所。ここに管を刺されたら——」
ハナエが言いかけた。
穂乃果が、静かに続けた。
「わらわの存在基盤ごと、抜かれる」
声に、怒りも絶叫もなかった。ただ、静かだった。
どら焼きを持った手が、地図の上に下ろされた。金色の瞳が、御影枝脈の線をじっと見ている。800年以上そこにいた神が、自分の消え方を冷静に言葉にした瞬間だった。
屋上の空気が、変わった。室外機の轟音だけが続いている。
一真は穂乃果の横顔を見た。半透明の輪郭が朝の光を透かして、淡く揺れている。金色の瞳に複雑な揺れがある——怒りでも諦めでもない、もっと深いところにある何かが、表面近くまで来ていた。
「……怖いのではない」
言いかけて、穂乃果が目をそらした。
一真の胸が、静かに締まった。
「俺、阻止しますよ」
穂乃果が少し固まった。
ゆっくりと、一真の方を見た。
「……氏子のくせに」
小声だった。でもその声に、確かな重みがあった。安堵——それが正しい言葉かはわからないが、穂乃果の声がほんの少しだけ柔らかくなったのを、一真だけが聞いた。
ハナエが地図を丁寧に折りたたんだ。
「私も番人の仕事をしないとね」
笑って言った。でもその目は、もう穏やかだけではなかった。
三人が、同じ方向を向いた。
南東。御影銀座通り。月蝕の間。
*
昼過ぎから夕方にかけて、三人は石段に座って作戦の粗組みをした。といっても具体的な計画というよりは、「何がわかっていて」「何がわかっていないか」の整理に近かった。ハナエが古い記録をいくつか持ってきて、一真がスマホでメモを取り、穂乃果が時々「その管は霊脈の深さ三尺以上に刺さないと機能せぬ」「抽出できるのは一回あたり五単位程度じゃ」などと補足した。
「詳しいですね」
「知られたくない相手のことは、よく知っておかねばならぬのじゃ」
当然のように言いながら、からあげ棒を齧った。一真が「どこで調達してきたんですか」と聞くと「わらわが念じれば——」と言いかけて「一真の弁当袋から失敬した」と素直に続けた。
「いつの間に!!」
「神気三十単位でもそのくらいはできる」
「盗まないでください!!」
「年貢じゃ」
「違う!!」
ハナエが笑いながら立ち上がった。そろそろ帰らないと夕飯に遅れる、と言って、鉄扉の方へ向かった。
「また明日来ますね。なんとなく、もう少し調べたいこともあるし」
「なんとなく!!」
「なんとなく確信なんですよ」
ハナエが鉄扉の向こうに消えた。足音が階段を降りていく。
屋上に、一真と穂乃果だけが残った。
*
夕暮れが、屋上を橙色に染め始めた。
室外機はまだゴーゴーと鳴いている。でも夕方の光の中では、その轟音も少し遠く感じた。御影ヶ丘の住宅地に橙が滲んで、遠く御影丘の黒いシルエットが空に浮かんでいる。
穂乃果の輪郭が、さっきよりさらに薄くなっていた。神気の消耗が続いている。昼間の話し合いでも神気を使ったのか、朝より確実に体が透けている。夕陽を完全に透かすほど、その輪郭が薄い。
穂乃果が石段の端に座っていた。膝を抱えて、どこかを見ている。
一真が隣に腰を下ろした。
「あの……穂乃果さん」
「なんじゃ」
「今日のハナエさん、頼りになりそうですね」
「ふん。七代前からとはな。地脈の番人とは、本来そういうものじゃが——現代にまだおったとは思わなかった」
一真は穂乃果の声のトーンを聞いていた。怒っているわけでも、喜んでいるわけでもない。でも、少し前の夜よりも、何かが変わっている気がした。
「穂乃果さん」
「まだ何じゃ」
「さっき、怖いのではない、って言いかけてたじゃないですか」
穂乃果が、少し固まった。
「……聞いておったのか」
「聞いてました」
「……余計なことを」
穂乃果が膝の上の手をぎゅっと握った。夕陽を透かす薄い手が、小さく震えているように見えた。
「怖くはない」
「でも」
「ただ……」
続かなかった。
一真が手を伸ばした。穂乃果の「いる場所」を確かめるように、ゆっくりと。
冷たい指先が、触れた。
今朝より確実に冷たかった。夜露みたいな冷たさが指先から伝わってくる。でもそこに確かにいた——薄くて、儚くて、でも確かにそこにいた。
一真は思わず、両手で包み込むように握った。
「……離すな」
第五話の夜とは違う声だった。叫ぶような声じゃない。静かで、低くて、本音に近い声だった。
一真は離さなかった。
繋いだ手から、ゆっくりと穂乃果の指先が温まってくる。一真の掌の熱が、冷たい指に溶け込んでいく感覚がある。穂乃果の体温が、じわりと戻り始めた。
夕風の中で、互いの吐息が白く揺れた。
穂乃果の銀色の髪が、夕風に流れて一真の頬のそばをかすめた。その柔らかさが頬に触れては離れ、また触れる。一真は動けなかった。動こうとしなかった。
その瞬間だった。
祠の前の枯れ草が、かすかに揺れた。
一真が気づいて、目を向けた。
枯れ草の中から——小さな、金色の花が、静かに咲いていた。一輪だけ。星のように小さく、でもはっきりと金色に光っている。
「……」
穂乃果も見ていた。金色の瞳が、金色の花を見ていた。
「わらわが咲かせたのではないぞ」
「わかってます」
二人でその花を見た。
繋いだ手は、ほどけなかった。
その瞬間——遠ざかりかけていた足音が止まった。
「あら、きれい!!」
鉄扉の前でハナエが振り返っていた。忘れ物でも取りに戻ったのか、目を輝かせてスマートフォンを構えている。
「インスタに上げていいかしら」
穂乃果がカメラの方を見た瞬間、ぱっと体を硬直させた。
「ま——待て!! その黒い板をこちらに向けるな!!」
「え、でも花が綺麗だから」
「わらわも映る!! 毛布姿が!!」
「神様インスタ映えしそうですけどね」
「一真お前もか!! わらわの寝顔を全世界に晒した時から成長しておらぬな!!」
「寝顔と花は別の話でしょ」
「全然別じゃ!! 寝顔と花は別じゃ!!!」
ハナエが「では花だけ」とシャッターを押した。穂乃果が「横にわらわが映ってないか確認しろ!!」と叫んでいる。一真はそれをツッコむ余力もなく、笑いが込み上げてくるのをなんとか堪えた。
ハナエが「また明日」と今度こそ鉄扉の向こうに消えた。
笑いが少しずつ収まっていった。
屋上に、静けさが戻ってきた。
繋いだ手は、まだほどけていなかった。
一真は気づいていた。でも言わなかった。穂乃果も気づいていた。でも何も言わなかった。
夜の灯りが、御影ヶ丘の住宅地に一つ、また一つと点き始めた。屋上の景色が、橙から紺へと変わっていく。
祠の前に咲いた金色の一輪が、夕闇の中で小さく光っている。
(失いたくない)
一真の中でその感情が、もう少し違う形をとった。
失いたくない、じゃなく——守りたい。
その言葉に形が変わった瞬間、一真は穂乃果の手を、もう少しだけ強く握った。
穂乃果は何も言わなかった。ただ、握り返した。冷たい指が、一真の掌の中でじんわりと温かくなっていた。
同じ時刻、御影銀座通りの路地裏——月蝕の間の奥の施術室で、水無瀬杏梨が黒いアタッシュケースを机の上に置いていた。ラベンダーの香の中、ケースを開けると、中に金属管が整然と並んでいた。吸虹管——霊脈にねじ込む特殊合金製の術具だ。
「今夜、準備を始めます」
静かな声が、薄暗い施術室に溶けた。