みこがみさま!
かつて豊穣を司った小さな神、みこがみさま!ほのかは、郊外のショッピングモールの屋上にあるペット霊園の隣の、小さく忘れ去られた神社にひっそりと住んでいる。彼女の唯一の信者は、19歳のコンビニ店員・榊原一真だ。
銀髪で金色の瞳を持つロリ美少女の姿をしたほのかは、信仰心の薄れによって徐々に消えかけている。一真の解決策は?それは、ソーシャルメディアを通じて彼女を復活させることだった。
しかし、彼らの試みは笑いを誘う大失敗の連続。ほのかは写真にうまく収まらず、動画のために小さな“奇跡”を無理に起こしては疲れ果て、コンビニの唐揚げに夢中になってしまう。
だが、その滑稽な日々の中で、ほのかは信仰の本質や現代における自分の存在意義という深い問いに向き合っていく。
彼らの混沌とした奮闘は、予期せぬ他の存在たちの注目を集め、ドタバタコメディと哲学的な深み、そしてほのかな恋の要素が織り交ざった物語の幕開けとなる。
みこがみさま! - 月蝕の間と、デジタル年貢騒動
チラシを見せた瞬間、穂乃果の顔がみるみると胡乱な色に染まった。
「……これは何じゃ」
「スピリチュアルサロン、月蝕の間——タロット占いとかパワーストーンとかを扱ってる店ですよ。昨日の動画コメントに名前が出てて」
一真はデイリーポート御影ヶ丘店のバックヤードで朝の着替えを済ませた後、ポケットから薄紫のチラシを引き出した。シフトが始まる前の十五分、屋上で穂乃果に報告するのが最近の習慣になっていた。モールの室外機六基がゴーゴーと轟音を上げる中、白銀の髪をそよ風になびかせた穂乃果は腕組みしてチラシを睨んでいる。
「呪符の店じゃな」
「呪符じゃないですって」
「怪しい。呪術の匂いがする」
「どんな匂いですか」
「……霊臭というか。むむ」
穂乃果が眉をひそめた。だが同時に、祠の前の賽銭箱をちらりと見た。底板が腐食した木製の賽銭箱には、昨日一真が入れた小銭が数枚あるだけだ。神気は現在、測定するのも悲しくなるような水準——朝の自己確認では0.03単位の回復を確認したが、それは「回復」というより「誤差の範囲」に近い数値だった。
「……行ってみる」
低く、渋々、しかし確固たる声だった。
「SNS運用のプロかもしれないし。フォロワーが——」
「遅い! 遅すぎる!! 0.03単位とはなんじゃ!!」
「だから行くんじゃないですか」
「……行く!!」
かくして二人は御影銀座通りへ向かった。
*
サンヴェール御影ヶ丘から南東へ徒歩十二分——御影銀座通りの路地裏に入ると、細い石段が二階へと続いていた。全長約350mの商店街で31店舗が生き残っている通りの、さらに奥まった路地。甘味処「穂積庵」の草餅の匂いが路地に漂っている。
「ここじゃな」
「そうです。上ですね」
一真が石段を上り始めた。穂乃果も続く——はずだった。
ドスン。
「……くっ」
半透明の足が、踏段をそのまま抜けた。穂乃果の体が一段分だけ沈んで、自力でふわりと浮かび上がる。金色の瞳に羞恥と怒りが混在している。
「大丈夫ですか」
「黙れ。見るな」
二段目。また穂乃果の足が踏段を貫通した。
「くっ……!」
「格と足が同時に落ちてますね」
「うるさい!!」
「いや事実ですし」
三段目。今度は腰まで沈んだ。
「くくくっ……!!」
じたばたと半透明の脚を振りながら穂乃果が浮かび上がる。850年の神格が石段に三連続で敗北している図だった。一真は口を真一文字に引き結んで——明らかに笑うのを堪えている顔で——「ゆっくり行きましょう」とだけ言った。
月蝕の間の扉は古い木製で、すりガラスの小窓に薄紫の光が滲んでいた。一真が扉を押す。
——その瞬間だった。
扉の向こうから、女が現れた。
白磁のような肌。漆黒の艶髪が肩を流れ落ち、深紅のワンピースが緩やかな曲線を包んでいる。背丈は穂乃果より頭一つ以上高く、切れ長の目に知的な光をたたえた二十代後半の女性。スピリチュアルサロン「月蝕の間」——表向きはタロット占い・パワーストーン・浄化セッションを行う店の経営者、水無瀬杏梨が、穏やかに微笑みながら立っていた。
穂乃果は反射的に自分の胸元を見下ろした。
「……なぜあんなに……わらわとは何が……」
小声だったが、路地裏の石段の狭い空間で、思いのほかよく響いた。
一真は盛大に咳払いをした。
「えー……こんにちは。チラシを見て」
「ようこそ」
杏梨の声は低く、落ち着いていた。「あなたのSNS、拝見しましたよ」と続けた瞬間、穂乃果が電光石火で一真の袖をつかんだ。
「スパイか」
銀色の髪と細い吐息が一真の首筋のすぐそばをかすめた。小さな唇が耳のそばに寄って囁いた声は——その距離が想像以上に近くて、一真の首筋がじわりと熱くなった。温かい、あるいは冷たいとも言い切れない、穂乃果の体温特有の曖昧な感触。一真は一拍だけ、心臓の動きを持て余した。
「スパイじゃないです」
杏梨はそれを見て、かすかに口元を緩めた。
*
サロンの内部は薄暗く、ラベンダーの香が空気に溶けていた。タロットカードや天然石が整然と並ぶ棚、中央に丸いテーブルと椅子が二脚。杏梨がティーカップをカチリと置いて、優雅に座った。
「フォロワー数を一気に伸ばしたいなら——リアルタイム奇跡ライブ配信、参加型コンテンツが有効です」
「確かに! それです!!」
一真が乗り気になった瞬間、穂乃果が一真の袖をぐいっと引っ張った。
「……」
「穂乃果さん失礼ですよ」
「わらわは850年生きた神じゃ。人間の目は見抜けるのじゃ」
「見抜けるなら現代語も見抜いてください」
「それは全く別の話じゃ!!」
もう一回引っ張る。一真の袖がじわじわ伸びていく。杏梨はティーカップを傾けながら、二人のやりとりをゆったりと観察していた。その目の奥——穂乃果だけが感じ取ることのできる光の質があった。祈りの目ではない。品定めをする目。何かを値踏みする、静かで鋭い視線。穂乃果の金色の瞳が細くなった。
「ただ——」
杏梨が不意に言葉を変えた。ティーカップをゆっくりと置く。
「あなた、とても古い神格ですね。……豊穣の気配がします」
穂乃果が固まった。
完全に、動けなくなった。
警戒。驚き。そして——自分を認識されたという、理屈では説明できない奇妙な震えが三つ巴でぶつかり合い、穂乃果の中で収拾がつかなくなった。850年分の孤独の底に触れるような言葉だった。半透明のまま消えかけた神を、この女は——見ている。
「あの、具体的な手順は?」
空気が、真空になった。
穂乃果は心の中で頭を抱えた。このうつけが。このうつけが!! 今この瞬間に「具体的な手順」!? と内心で叫びながら、穂乃果は杏梨から目を離さなかった。金色の瞳で一度だけ強く見据える。杏梨の微笑みは変わらない。
ただ——一真の天然な割り込みのせいで、その緊張の糸は見事にぷつりと切れた。穂乃果はひとつ深呼吸して、袖から手を離した。
(こいつを連れてきてよかった)
呆れながら、どこかでそう思った自分に穂乃果は気づいた。矛盾した感情だったが、取り消せなかった。
*
屋上に戻ったのは昼過ぎだった。
「じゃあ、始めます」
デイリーポート御影ヶ丘店のからあげ棒を片手に持ちながら、一真がスマホをスタンドに立てた。配信開始ボタンをタップする。
30秒後——同時視聴者、200人。
「うわ、もうこんなに」
「当然じゃ。わらわの威光は——」
「穂乃果さんやってください、奇跡」
「任せよ!!」
穂乃果が祠の前のタンポポへと神気を集中させた。御影枝脈の結節点——祠の真下を流れる細い霊的エネルギーの流れを引き込むように、穂乃果が手を伸ばす。
「顕れよ」
タンポポが、ぱっと金色に輝いた。
花びら一枚一枚が光を帯びて、昼の空気の中でもはっきり見える黄金の輝き。コメント欄が一瞬で埋まった。「本物!?」「CG?」「いや絶対本物」「神様ほんとにいた」——同時視聴者が500人を突破した。
しかし次の瞬間、穂乃果がぐらりと傾いた。
神気の急激な消耗。体の輪郭が薄くなりかける。
一真が反射的に腕を伸ばした。穂乃果の細い腰のあたりに手が触れて、そのまま支えた。
配信を続けながら、一真はその状態のまま固まった。腕に感じる穂乃果の体の軽さ。それと対照的に、じんわりと確かに伝わってくる体温のぬくもり。銀色の髪が一真の顎の高さをかすめて、柔らかく揺れている。その一本一本が頬のそばに触れるたびに——一真の首筋が、じわりと熱くなった。スマホを持った手を動かそうとして、動かせなかった。
「尊い」
「イチャついてる」
「待って何このシーン」
コメント欄に文字が流れた。穂乃果がふらふらしながら顔を上げた。
「これは神聖な構図で——」
声が盛大に裏返った。穂乃果は三秒固まった。
「今のは聞かなかったことに」
「聞こえましたよ全員に」
「黙れ」
その瞬間、一真の腕の中でコンビニ袋ががさりと揺れた。からあげ棒が袋から半分はみ出している。穂乃果の金色の瞳がそれを捉えた。
ひったくった。
電光石火だった。0.1秒もかからなかった。
「本日の豊穣の奉納物じゃ——」
カメラに向かって大口で頬張り始めた。
「やめて!!」
「奉納じゃ!!」
「返して!!」
「豊穣の——もぐもぐ」
「もぐもぐ言いながら奉納とは!!」
コメント欄が爆発した。「食レポ始まった」「神様もからあげ棒食べるの??」「待って可愛い」「1本140円のやつ!!」「デイリーポート御影ヶ丘店のやつじゃん行ったことある」——二口目が消えた。穂乃果は咀嚼しながら満足そうに頷いている。一真のツッコミが追いつかない速度で事態が進んでいた。
そしてその直後——穂乃果の金色の瞳が、コメント欄に流れる無数のハートマークを捉えた。
「……この赤い呪符はなんじゃ」
「いいねです!! 好きってことです!!」
穂乃果は三秒考えた。
「……年貢じゃな」
「違ーーーう!!!」
「民が心を捧げておる!! よきよき民よ!! もっと送るのじゃ年貢を!!」
カメラに向かって力強く宣言した。スパチャが飛んだ。「神様に年貢w」「喜んでもらえたなら嬉しい」「デジタル年貢500円」——一真は画面を見て硬直した。
(えええ年貢!? スパチャしてる!! いやなんで!! でもスパチャしてる!!!)
穂乃果は胸を張っていた。「デジタル年貢とは便利な世じゃ」という顔で堂々と立っている。850年の神格が「スパチャ」の概念を「年貢」として完全に正しいものと信じ込んでいる。一真の中で何かがそっと崩壊した。
配信終了。フォロワー増加数——3,200人。
一真が電卓を叩いた。
「過去最高です!!」
穂乃果はしばらく黙って、その数字を見ていた。
「……少なっ」
「今回はそこ突っ込まないでください」
疲れ果てた顔で一真が言った。穂乃果は特に謝らなかった。
*
夕暮れが近づいてきた頃、屋上の騒動も静かに収まった。
二人は祠前の石段に並んで座り込んでいた。室外機の轟音が変わらず続いている。御影ヶ丘市の住宅地に夕方の橙が滲んで、遠く御影丘の黒いシルエットが空に浮かんでいた。
神気消耗で体の輪郭が薄くなった穂乃果が、ゆっくりと一真の肩に額をもたれかけた。
一真は動かなかった。
肩に伝わる重みは信じられないほど軽かった。羽一枚分か、それ以下か——でも確かに、じんわりと温かい体温がそこにある。銀色の髪が肩から首筋のあたりに流れてきて、ごく小さな規則正しい吐息の気配が耳のそばにある。一真はそれをただ受け取りながら、御影ヶ丘の夕景をぼんやりと見ていた。
(失いたくない)
その感情の輪郭が、ぼんやりと形をとった。名前はまだない。恋とも執着とも言えない、もっと前の段階にある、言葉になる手前の何か。一真はそれに触れようとして——うまくいかなくて、ただ夜景を見続けた。
穂乃果がうとうとしながら、小さな声で呟いた。
「今日の女……信仰の気配がない……何かを見ておった……」
そのまま静かになった。寝息が規則正しく続いている。
一真はポケットのチラシを取り出した。薄紫の紙。「月蝕の間」のロゴ。杏梨の微笑みを思い出す——知的で、洗練されていて、確かに親切なアドバイスをくれた。でも。
「親切な人だと思いますけど……」
答えかけたまま、言葉が続かなかった。
肩の上の小さな体温が、じんわりとそこにある。一真はチラシを折り畳んで、もう一度ポケットにしまった。
*
同じ時刻、御影銀座通りの路地裏。
月蝕の間の奥の施術室——タロットカードが並ぶ表の空間とは違う、鍵のかかった奥の部屋で、水無瀬杏梨はスマートフォンを耳に当てていた。
「対象の神格——豊穣神、推定800年以上」
声は静かで、感情の起伏がなかった。
「神気残量は少ない。ただし、純度が異常に高い。現代残存としては、これほどの品質は初めて見ます。……収穫の価値、十分にあります」
施術室の床下——御影枝脈の走る地層へと刺さった「吸虹管」が、今夜も静かにエネルギーを吸い続けている。江戸中期に修験者崩れの霊媒師が創設した秘密結社、燈蛾衆——霊的資源の商業利用を目的とするその組織の御影ヶ丘支部リーダーとして、杏梨は本部への報告を終えた。
電話を切る。
ラベンダーの香の中で、杏梨はゆっくりと立ち上がった。
屋上では今も、一真が小さな体温を肩の上に乗せたまま、御影ヶ丘の夜景をぼんやりと見ている。何も知らないまま。