みこがみさま!
かつて豊穣を司った小さな神、みこがみさま!ほのかは、郊外のショッピングモールの屋上にあるペット霊園の隣の、小さく忘れ去られた神社にひっそりと住んでいる。彼女の唯一の信者は、19歳のコンビニ店員・榊原一真だ。
銀髪で金色の瞳を持つロリ美少女の姿をしたほのかは、信仰心の薄れによって徐々に消えかけている。一真の解決策は?それは、ソーシャルメディアを通じて彼女を復活させることだった。
しかし、彼らの試みは笑いを誘う大失敗の連続。ほのかは写真にうまく収まらず、動画のために小さな“奇跡”を無理に起こしては疲れ果て、コンビニの唐揚げに夢中になってしまう。
だが、その滑稽な日々の中で、ほのかは信仰の本質や現代における自分の存在意義という深い問いに向き合っていく。
彼らの混沌とした奮闘は、予期せぬ他の存在たちの注目を集め、ドタバタコメディと哲学的な深み、そしてほのかな恋の要素が織り交ざった物語の幕開けとなる。
みこがみさま! - からあげ棒と心霊写真と、800年ぶりの温もり
鉄扉が、重い。
ガコン、という音とともに屋上への扉が開いた。夕方の橙色の光が一気に流れ込んでくる。
「あっ……なんか座ってる」
現れたのは、高校を出たばかりくらいの年頃の男だった。リュックを背負い、片手にコンビニのからあげ棒を持ち、口に一本咥えたまま、今しがた気づいたばかりの道端の石ころでも見るような目で穂乃果を観察している。
穂乃果は膝を抱えたまま、じろりと金色の瞳で睨みつけた。
八百年の神格が、たった今、からあげ棒を咥えた若人に「なんか座ってる」と言われた。
「……そなた、わらわが見えるのか」
金色の瞳に力を込めて問うと、男は咀嚼しながら「見えますよ。透けてるけど」と答えた。
透けてるけど、ではない。
透けてるけど、で済む話ではない。八百年の神格が半透明で屋上に座っているという状況を、そのたった一言で処理するな、という話だ。穂乃果は内心で激しくずっこけた——半透明なので物理的にずっこけることができないのが、また腹立たしい。
「コスプレですか?」
「違う!」
「プロジェクションマッピング?」
「違う違う!」
男はうーん、と首を傾けた。からあげ棒を一口かじりながら、まるで天気の話でもするように言う。
「ARかな」
「わらわは神じゃ!!」
全力でキレた瞬間、神気が0.3単位余計に消費された。穂乃果の輪郭が、ほんのわずかに薄くなる。
「あ、もっと透けた」
「今それを言うな!!」
男は「すみません」と言いながら、まったく申し訳なさそうでない顔で口の中のからあげ棒を咀嚼し続けた。デイリーポート御影ヶ丘店——サンヴェール一階のコンビニ——のバイト終わりらしく、ポロシャツの胸にはまだ名札がついている。榊原一真、と書いてある。
八百年の神格の人類初接触が、ARで始まるとは。歴史的格落ちにもほどがある。
穂乃果は深呼吸した。いや、半透明なので厳密には空気があまり動かないのだが。
「もう一度言う。わらわは神じゃ。五穀豊穣を司る、由緒正しき穂叢神じゃ。八百年前、この地の氏子千二百人に——」
「じゃあお参りしてもいいですか」
穂乃果が、固まった。
一真はリュックをその場に下ろし、当然のように祠の前に立った。手を合わせる。目を閉じる。
穂乃果は「え?」と呟いたまま、動けなかった。
*
一真が手を合わせた瞬間、何かを思い出したように呟いた。
「……ばあちゃんが言ってたんですよね。あのお社の神様を頼んだよ、って」
声は小さかった。独り言に近い。穂乃果に向けて言ったというよりは、ただ自然に口から出てきた言葉のようだった。
祖母の言葉を反射的に思い出して、反射的に手を合わせた——それだけの、無意識の行為。
だが、それで十分だった。
穂乃果の輪郭が、ぱっと、一瞬だけはっきりした。薄かった白銀の髪が鮮明になり、ぼんやりしていた白衣の刺繍が金糸のきらめきを取り戻す。ほんの二秒かそこらのことだったが、穂乃果は自分の手のひらをまじまじと見た。
指先がある。ちゃんと、室外機が透けていない。
「……なぜ」
声が、わずかに上ずっていた。穂乃果はそれに気づいて、慌てて取り繕うように「まあ……味噌汁か何かのような話じゃな」と言った。まったく意味がわからないツッコミだったが、自分でも何を言っているかよくわからないまま口が動いた。
「何ですか味噌汁って」
「なんでもない! 忘れろ!」
一真はお参りを終えて、スマホを取り出した。画面を操作しながらふと言う。
「せっかくなら写真撮りませんか。プロフィール用の。SNSで神様をアピールすれば、信者……じゃなかった、氏子が増えるかもしれないし」
「ほう」
穂乃果は少し考えた。信仰を集めるための作戦——それは確かに、今の穂乃果が最も必要としているものだ。神気は八十単位。一日あたり約二単位ずつ減り続けている。このまま何もしなければ、いつか神気がゼロになり、霧散する——神格が消滅する、この世の理だ。
「……よかろう。撮るがよい」
「じゃあ、ちょっと位置を調整して」
一真がスマホを構えながら、穂乃果の右肩の位置を調整しようと手を伸ばした。
それが、肩に触れた。
穂乃果の右肩——薄い白衣の袂の上から、一真の指先がそっと触れた瞬間、触れた部分だけ、ふわりと実体化した。手のひらに伝わってくるのは、人間の体温よりも確かに低い、しかし確実に存在する温もり。白衣の薄い布越しに、肩の滑らかな曲線がわかる。
夕陽が西に傾いている。橙の光が穂乃果の半透明の肌に差し込んで、そのまま透けて向こう側へ抜けていく——光を溶かし込んだような、白銀の髪。現れているようで消えかけている、その境界線上にある姿。
「……やっ」
小さな声が出た。白銀の髪が揺れた。
二人が固まった。三秒。
「肩、触れました」
「……知っておる」
「ごめんなさい」
「謝るな余計おかしい」
低い声で言いながら、穂乃果は視線を逸らした。夕空の、どこか遠いところを見る。
胸の奥で何かがじわりと広がっている。うまく言葉にならない、静かな波紋のようなもの。誰かに触れられるということが、こんな感触だったか——八百年前のことを思い出そうとしても、記憶は霞んでいた。でも今、確かに指先を通じて伝わってきたその温もりは、霞んでいない。はっきりと、胸の奥に刻まれていく。
(……なぜ、こんなに)
穂乃果は自分の感情がうまく掴めなくて、小さく首を振った。
一方の一真は喉を鳴らして、スマホの画面を見るふりをして視線を逸らした。
そこへ、くしゅん、と穂乃果がくしゃみをした。
「…………」
穂乃果の輪郭が、すっと消えた。完全に透明になった。そこにいるはずなのに、見えない。
「声だけ聞こえる!?」
「わ、わらわはここにおる!!」
どこかから声だけ聞こえる。一真がきょろきょろと辺りを見回す。
「神様、どこですか」
「祠の前じゃ! 今のわらわは見えぬだけで確かにおる!!」
「……いや右ですか左ですか」
「もう少し右! いや左! そこじゃない!!」
一真が右往左往する。穂乃果の怒鳴り声が屋上に響く。カラスが三羽、電線から飛び去った。
しかし、触れた瞬間の温もりは——穂乃果の内側に、静かにそのままでいた。
*
数分後、神気がわずかに回復して穂乃果がぼんやり見える程度に戻ったところで、一真が宣言した。
「SNSで信者を集めれば神気が増える! 写真と動画で攻めましょう」
「うむ! 任せた!!」
二人の間でSNS作戦が始まった。
まず、プロフィール写真作戦。
穂乃果は八百年前の祭礼を思い出しながら、精いっぱい神様らしいポーズを取った。両手を天に向け、金色の瞳を凛と見開き、白衣の袂を風になびかせる。月並みに言えば「荘厳」の二文字がぴったりのポーズだった。
「撮った」
「どうじゃ!」
一真がスマホの画面を見せた。
祠と夕空が、美しく映っていた。穂乃果は映っていなかった。完璧なすっぽ抜けだった。
「……神じゃぞ? わらわ神じゃぞ??」
「でも映ってない」
「……映ってないのか」
静かな絶望が三秒流れた。
撮り直す。今度は一真が一歩近づき、角度を変えて、穂乃果の輪郭がかろうじて映る位置を探した。何度もシャッターを切る。一真が「あ、これ」と言ったのは十三枚目だった。
「どうじゃ!!」
「神々しいっちゃ神々しいですが」
一真が画面を見せた。上半身だけが白い靄として写っていた。完璧な心霊写真だった。夜道で見たら叫ぶやつだった。
「神々しいじゃろう!!」
「心霊写真です」
「断固として否定する!!」
「でも心霊写真です」
「断固と——断固として——!!」
穂乃果は言葉に詰まって、こめかみを押さえた。
気を取り直す。次は動画作戦だ。
一真がスマホを構えて録画を開始した。穂乃果は深呼吸して——今度こそ。今度こそ本物の神威を見せてやる。鎌倉期の穂乃果は豪雨を呼べた。豊穣の祝福で五郡の稲が一晩で実った。今の穂乃果にそれは無理だが、タンポポの一本くらい光らせることができるはずだ。
神気を集中させる。祠の前の、あの律儀なタンポポへ。
「……顕れよ、豊穣の光!」
祠前のタンポポが、ぱあっと黄金色に輝いた。
「おお!?」
本当に輝いた。神威発動——神気を消費して起こす超自然現象——が、久しぶりにうまくいった。タンポポの花びら一枚一枚が光を帯びて、橙の夕陽の中でもはっきりとわかる金色に輝いている。
たった零点五秒だったが、確かに輝いた。
次の瞬間、穂乃果がゆっくりと前に傾いた。
神気を使い果たした。
そのまま、ゆるゆると、祠の石段に前のめりに倒れていく——と思ったら、石段にふわりと着地して、そのままとんとん、とかわいらしい音を立てて横になった。目が閉じる。白銀の髪が石段に広がった。
すやすや、と穂乃果が寝息を立て始めた。
「……え?」
一真が固まった。録画は続いている。
スマホの画面右上を見た。バッテリー残量、三パーセント。
一真はしばらく考えて、スマホをその場に置いた。「まあ……充電器、リュックの中だし」と呟く。
神様のお昼寝配信が、静かに始まった。
リアルタイム視聴者数、二名。誰かが「猫かな?」とコメントした。
二十六分間、誰も止めなかった。
*
夕陽が傾いて、空が少し紫がかってきた頃。
穂乃果は寝ていた。石段の上で、膝を軽く曲げて、白銀の髪を広げて、無防備に。
一真はその横に座って、スマホの充電が切れているのを確認してから、リュックを背もたれにして壁に寄りかかった。
そして、穂乃果の横顔を見た。
夕陽の橙が、半透明の頬に溶け込んでいる。まるで光そのものでできているみたいに、肌が柔らかく透けていた。白銀の髪が石段の上に静かに広がって、その先が風に少し揺れている。目を閉じた寝顔は、神様というより、ただの眠っている子みたいだった——いや、「ただの子」より、もっとずっと、何か切ないものがある。
一真はしばらく動けなかった。
「……綺麗だな」
声に出てから、我に返った。
(いや神様に何言ってるんだ俺)
慌てて首を振る。でも充電の切れたスマホには、その二十六分間の録画がまだ残っていて——視聴者二名のうちの一人が、ちょうどその瞬間、スクリーンショットを撮っていたことを、一真はまだ知らない。
*
三十分後。
穂乃果がゆっくりと目を開けた。
薄紫の空。室外機の音。そして、まだそこにいる一真の顔。
「……そなた、まだおるのか」
「荷物も取れないし、起きるまで待とうかと」
穂乃果は起き上がりながら、そうか、と小さく返した。それ以上うまい言葉が出てこなかった。
なぜか、胸の奥がじわりとした。
気を取り直して、穂乃果は自分の神気を確認した。朝の計測では八十単位だった。今日の消費量を計算すると——。
「……一単位、増えておる」
「え、本当に?」
「本当じゃ」
八十一単位。増えている。SNS作戦は完全な大惨事だった。心霊写真ができあがり、神様お昼寝配信が二十六分流れ、視聴者は二名だった。それなのに、神気が増えている。
穂乃果は一真を見た。一真も穂乃果を見た。
「……俺のお参りですかね?」
「……さあな」
視線を逸らした。自分でも答えがわからない。いや、もしかしたら薄々わかっているのかもしれないが、それを認めてしまうと、何か大切なものの境界線が曖昧になる気がして——穂乃果はうまく整理できないまま、夕空を見上げた。
信仰と、何か別のもの。その境界が、今日から少しずつ、見えにくくなっていくような予感があった。
「……そなた、明日もここに来るか?」
そう聞いてから、穂乃果は自分が聞いたことに少し驚いた。でも取り消さなかった。
「バイト上がりなら毎日来ますよ」
一真がリュックをごそごそと漁りながら、「からあげ棒持って」と付け加えた。
「からあげ棒とは何じゃ」
「これですよ」
一真がリュックから、もう一本のからあげ棒を取り出した。バイト終わりの賄いというやつか、少し冷めているが湯気がまだほんのり立っている。穂乃果の目の前に差し出す。
穂乃果は、その細長い揚げ物を見た。醤油と油の匂いがする。庶民的で、まったく神聖ではない匂いだ。八百年前の祠には、米と花と線香が供えられた。からあげ棒ではなかった。
でも。
穂乃果はゆっくりと、半透明の指先をそっと伸ばした。
夕暮れの空に、室外機の音だけが続いていた。