牙と粥
飢えと疲労で竹林に倒れていた狼人族の妖魔斬りクロウは、白狐族の跡取りシオンから一杯の粥を差し出される。家同士の政略として恩を売るシオン。だが、礼も言わずに粥をすするクロウの姿と、食べ終えた後の不器用な「礼を言う」という一言が、計算ずくの彼女の胸に小さなざわめきを残す。刀と飢え、家名と矜持、そして地の底から響く霊脈の脈動——二つの家に生きる若き者の出会いが、静かに始まる。
牙と粥 - 糠に宿る赦し——計算の崩れる夜
竹林の朝は、ひどく静かだった。
白銀の髪が、夜露に濡れた竹の葉に触れるたび、細かな雫がこぼれ落ちる。シオンは、白い着物の裾が泥に汚れるのも構わず、ただ歩いていた。いや、歩いているつもりだった。足はもう、自分のものではないように重く、地面を踏む感覚が遠い。目の下には深い隈が刻まれ、頬は心なしか痩けて見える。耳の先の白銀の毛は、汗と露でしっとりと張り付いていた。
シラユキ郷を出てから、どれほどの時が経ったのか。
シオンは、昨日のことを思い返していた。いや、思い返さずにはいられなかった。タケヤミに敗れたこと。三本の竹をへし折られ、泥にまみれて逃げ帰ったこと。そして、父の、あの冷たい声。
「家名に泥を塗った」
その一言が、頭の奥で何度も繰り返される。勘当。名を捨て、家を出る。白狐の本家ミカド家の跡取りとして、生まれた時から決められていた道が、たった一度の失敗で閉ざされた。
(私は、もう、何者でもない)
シオンは唇を噛んだ。噛みすぎて、薄い皮膚の内側に鉄の味が滲む。
ヨミノ竹林は、青白い光に満ちていた。朝だというのに、空は厚い雲に覆われ、竹林の中は夕暮れのような薄暗さだ。竹の幹がどこまでも続き、視界を遮る。風が吹くたび、ざわざわと葉擦れの音がして、それがやけに耳に障った。
(あの狼人は、この場所で倒れていた)
シオンは、先日この竹林で出会った狼人の剣士を思い浮かべた。飢えて倒れていた男。あの時、シオンは粥を差し出した。施しは投資。狼人の家に恩を売る。それだけの計算だった。
だが、男は言った。「礼を言う」と。
たったそれだけの言葉が、なぜか胸の奥に引っかかって、取れない。計算で築いた城が、あの素っ気ない声の前で、砂のように崩れていく感覚。
(なぜ、今、あの男を思い出すの)
シオンは、かぶりを振った。
——かさり。
背後で、竹の葉が揺れる音がした。風ではない。もっと意図的な、何かが動く気配。
シオンは足を止め、耳を澄ませた。白狐の耳が、微かに動く。
(……追手)
ミカド家の追跡衆、シラヌイ。勘当された身でありながら、なぜ追われるのか。その理由を、シオンは知っていた。白狐の術を、家の外に持ち出すことを許さない。父はそう言った。勘当された娘が、術の知識を持ったまま外を歩くこと自体が、家にとっての脅威なのだ。
シオンは、術符を一枚も持っていなかった。すべて置いてきた。それでも、彼女の頭の中には、白狐の術の知識が染みついている。その知識ごと、自分は消されるのかもしれない。
(それでいい)
シオンは、そう思おうとした。家名を失った自分に、生きている価値などない。そう思おうとした。
だが、足は止まらなかった。
竹林の奥へ、奥へと、彼女は歩き続けた。
どれだけ歩いただろう。空の色は、朝から昼へ、昼から夕方へと、ゆっくりと変わっていった。それでも竹林の中は、相変わらず薄暗い。竹の根が足に絡み、何度も転びそうになる。着物の裾は泥にまみれ、白銀の髪には枯れ葉が絡まっていた。
腹の底が、ぐう、と鳴った。
シオンは、自分の腹の音に、思わず立ち止まった。
(……お腹が空いてる)
当たり前のことだった。昨日から何も食べていない。いや、昨日の朝から、まともな食事をしていない。勘当の支度に追われ、食欲などあるはずもなかった。
シオンは、竹の幹に手をついて、深く息を吐いた。
(情けない)
白狐の本家の跡取りだった娘が、今や竹林をさまよい、腹を空かせて倒れそうになっている。笑い話にもならない。
(あの狼人も、こんな気持ちだったの)
飢えとは、こんなにも思考を鈍らせるものなのか。シオンは、竹の根元に背中を預けて、ずるずると座り込んだ。冷たい土の感触が、着物を通して伝わってくる。
(もう、動けない)
シオンは、空を見上げた。竹の葉の隙間から、曇り空が覗いている。雨の気配はない。だが、空気は湿っていた。
(ここで、終わるのかしら)
そんな考えが、頭をよぎる。白狐の跡取りとして、家名を背負って生きてきた。その家名を失い、今は竹林の土の上で、飢えて死のうとしている。
(ああ、そういえば)
シオンは、目を閉じた。
(あの狼人は、私の粥を、おいしそうに食べていた)
あの時、クロウは、差し出した粥を、何の疑いもなく口に運んだ。計算も、警戒もなく、ただ空腹を満たすために。あの無防備な姿が、なぜか、目に焼きついている。
(私も、ああやって、お腹を空かせて……)
意識が、遠のいていく。
——かさり、かさり。
また、竹の葉が揺れた。
今度は、さっきよりも近い。足音が聞こえる。誰かが、こちらに向かって歩いてくる。
シオンは、薄く目を開けた。
青白い竹林の光の中に、大きな影が立っていた。
クロウは、竹林の奥から聞こえる微かな気配に、足を止めた。
(……何かいる)
茶褐色の毛並みに覆われた長身の体が、竹の影に溶けるように静止する。琥珀色の瞳が、薄暗い竹林の奥を鋭く見据えた。両手の甲と指には無数の戦傷跡が走り、左耳には小さな切り込み、首筋には古い刀傷が一本。その姿は、この竹林の静けさに、どこか場違いなほど剣呑だった。
クロウは、背中の刀——ヨザクラ——に手を伸ばし、柄を握った。父の形見であるその刀は、今日も変わらず、手のひらに馴染む。
(妖魔か)
この竹林には、タケヤミと呼ばれる妖が潜んでいる。竹に擬態して待ち伏せする、厄介な相手だ。クロウは、嗅覚を研ぎ澄ませた。狼人の鋭い嗅覚が、竹林の空気を読み取る。土の匂い、竹の匂い、水の匂い。そして——
(……血の匂い?)
いや、違う。血ではない。もっと微かな、だが確かな匂い。白狐の匂いだ。
クロウは、眉をひそめた。
(白狐が、こんなところに)
ヨミノ竹林は、白狐族と狼人族の領の境にある、誰のものでもない場所だ。両家の者たちは、この竹林に近づくこと自体を避ける。妖魔の罠が多いからだ。そんな場所に、白狐が一人でいるなど、尋常ではない。
クロウは、音を立てないように歩を進めた。竹の幹の隙間から、前方の様子を窺う。
——いた。
竹の根元に、白い着物の女が座り込んでいた。長い白銀の髪が、泥に汚れて地面に広がっている。毛先の淡い藍色が、薄暗い光の中で、かすかに揺れていた。
(あの時の……)
クロウは、記憶を探った。先日、この竹林で飢えて倒れていた時に、粥を差し出した白狐の娘。間違いない。あの時の、あの、値踏みするような冷たい光を宿した瞳。
シオン。
確か、そう名乗っていた。
クロウは、竹の影から一歩踏み出した。
シオンの様子が、明らかにおかしい。頬は痩せ、目の下には深い隈。着物は泥だらけで、髪は乱れ、唇は乾いてひび割れている。一目で、疲労と飢えが限界に達していることが分かった。
クロウは、シオンの傍らに歩み寄った。
「……おい」
低い声で呼びかける。
シオンは、ゆっくりと顔を上げた。薄紅の瞳が、クロウの姿を捉える。その瞳は、焦点が合わず、どこか虚ろだった。
「……ああ、また、あなたの幻」
シオンの唇が、かすかに動いた。
(幻だと、思っているのか)
クロウは、シオンの前にしゃがみ込んだ。
「幻じゃねえ。本物だ」
シオンの瞳が、ほんの少しだけ大きくなった。
「……本当に?」
「ああ」
クロウは、シオンの身体を抱き起こした。驚くほど軽い。骨ばった肩が、指の下でかすかに震えている。土と雨の匂いが、シオンの身体から立ち上った。白銀の髪に絡まった枯れ葉が、はらりと落ちる。
「立てるか」
「……ええ、たぶん」
シオンは、クロウの腕にすがりながら、ゆっくりと立ち上がった。だが、足がもつれて、すぐに崩れ落ちそうになる。クロウは、とっさにシオンの身体を支えた。
「無理するな。どこか、休める場所は知ってるか」
シオンは、首を振った。
「……分からない」
「そうか」
クロウは、シオンを背負うようにして、竹林の奥へと歩き出した。
(この竹林に、廃小屋があったはずだ)
以前、妖魔斬りの仕事でこの竹林を訪れた時、薬草採集人が使っていた廃小屋を見つけたことがある。場所は、確かこの先の沢沿い。
クロウは、シオンの体重を背中に感じながら、慎重に歩を進めた。シオンの呼吸が、耳元で荒い。時折、苦しげな吐息が漏れる。
(相当、弱っている)
クロウは、歩く速度を上げた。
竹林の中は、夕方の薄暗さがさらに濃くなっていた。空は厚い雲に覆われ、今にも雨が降り出しそうだ。竹の葉が、ざわざわと音を立てる。
やがて、竹林の切れ間に、小さな廃小屋が見えてきた。
木造の、粗末な小屋だった。屋根には苔が生え、壁には蔦が這い上がっている。扉は半分朽ちかけ、窓は一枚だけ残っていた。だが、雨風をしのぐには十分だった。
クロウは、小屋の扉を開け、シオンを中に運び込んだ。
小屋の中は、埃っぽく、カビの匂いがした。土間の中央には、古い囲炉裏が切ってあり、壁際には粗末な木の台が置かれている。
クロウは、シオンを壁際の台の上に横たえた。
「ここで少し休め」
シオンは、うっすらと目を開けて、クロウを見上げた。
「……なぜ、私を助けるの」
クロウは、答えなかった。
(なぜ、か)
クロウ自身にも、明確な答えはなかった。ただ、目の前で倒れそうになっている者を、放っておけなかった。それだけだ。
クロウは、小屋の外に出ると、手早く枯れ枝と竹の葉を集めた。囲炉裏に運び、火打ち石で火を起こす。パチパチと、火の粉が舞い上がった。
(水と、食い物が必要だ)
クロウは、小屋の近くの沢に降りて、水を汲んできた。手近な竹を切り、器の代わりにする。沢の水は冷たく、澄んでいた。
小屋に戻ると、シオンはうつらうつらとしていた。
「水だ。飲めるか」
クロウは、竹の器をシオンの口元に運んだ。シオンは、ゆっくりと首を起こし、水を一口、二口と飲んだ。
「……ありがとう」
かすれた声だった。
クロウは、次に、持っていた携帯食料の袋を開けた。中には、干し肉と、わずかばかりの米が入っている。妖魔斬りの仕事の時に持ち歩く、最低限の食料だ。
「粥を炊く。少し待て」
クロウは、囲炉裏の火に、竹筒の水と米を入れた鍋をかけた。鍋は、クロウが常に携帯している小型のものだ。
(粥か)
クロウは、昔のことを思い出した。父が死んでから、一人で粥を炊き続けた。誰もいない食卓で、父の茶碗を伏せて。
(あの時も、そうだった)
この竹林で飢えて倒れていた時、あの白狐の娘が、粥を差し出した。
(借りを返す、ってわけじゃねえが)
クロウは、鍋の中の粥を、木の匙でゆっくりとかき混ぜた。
やがて、粥が炊き上がった。米の甘い香りが、小屋の中に広がる。
クロウは、粥を竹の器によそい、シオンの傍らに運んだ。
「食えるか」
シオンは、ゆっくりと身を起こした。
「……ええ」
クロウは、竹の器をシオンに手渡した。シオンは、震える手で器を受け取り、一口、粥を口に運んだ。
(……温かい)
シオンの薄紅の瞳が、潤んだ。
粥は、味付けも何もない、ただの米の粥だった。だが、冷え切った身体に、その温かさが染み渡っていく。
シオンは、無心で粥を食べた。
(ああ、生きてる)
そんな感覚が、じんわりと胸に広がる。
クロウは、シオンが食べる様子を、黙って見ていた。
「……お前も、食え」
シオンが、器を差し出した。
「俺はいい。全部食え」
「でも……」
「俺は、腹が減ってない」
嘘だった。クロウの腹も、十分に減っていた。だが、今はシオンを優先すべきだ。
シオンは、しばらく迷っていたが、やがて、残りの粥を食べ終えた。
「……ごちそうさま」
シオンは、竹の器を両手で握りしめたまま、うつむいた。
「……あの、お礼を言わせて。この恩は、必ず返すから。私にできることがあれば、何でも……」
シオンの口から、いつもの癖が出た。恩を売る。施しは投資。八歳から叩き込まれた、白狐の跡取りとしての計算。
だが、クロウは、それを遮った。
「礼は要らん」
シオンは、顔を上げた。
「……え?」
「俺が腹を空かせた時に、同じことをされただけだ」
クロウの声は、素っ気なかった。
シオンは、息を止めた。
(同じことを、されただけ)
打算のない施し。見返りを求めない行為。
(この人は、私に借りを作らせようとしていない)
シオンの中で、何かが、音を立てて崩れていく。八歳から積み上げてきた価値観。施しは投資。人に何かを与えるのは、後で何かを返してもらうため。そう信じてきた。
だが、クロウは違った。
ただ、目の前で困っている者がいたから、助けた。それだけ。
(そんなこと、許されるの)
(何も返さなくていいの)
(私の知らない世界がある)
シオンの視界が、滲んだ。
「……っ」
涙が、こぼれた。
堰を切ったように、涙が溢れ出る。止まらない。シオンは、声を殺して、泣いた。
(ああ、私は、こんなにも、何かを返さなければと思っていた)
(誰かに、無償で何かをもらうことが、こんなにも、苦しくて、温かい)
クロウは、泣き崩れるシオンを、慌てずに見ていた。
(……泣きたい時は、泣けばいい)
クロウは、そう思った。慰めの言葉は、持っていない。ただ、黙って、そばにいることしかできない。
クロウは、囲炉裏の火に、新しい枝をくべた。
パチパチと、火の粉が舞い上がる。
シオンの泣き声だけが、小屋の中に響いていた。
雨が、降り出した。
小屋の外で、ざあざあと音がする。竹林の葉を叩く雨の音が、次第に強くなっていく。
小屋の中は、囲炉裏の火だけが明るく、暖かかった。
シオンは、泣き疲れて、壁にもたれかかっていた。目の周りは赤く腫れ、頬には涙の跡が光っている。
クロウは、シオンの濡れた着物に気づいた。竹林を歩いている間に、露と汗で、着物の袖がかなり湿っている。
(このままだと、風邪を引く)
クロウは、自分の上着を脱いだ。茶褐色の毛皮で作られた、妖魔斬りの仕事着の上着。
「これを着てろ」
クロウは、シオンの肩に、上着をかけた。
「……え、でも、あなたが寒いでしょう」
「俺は平気だ。狼人の毛皮は、お前が思うより厚い」
クロウは、シオンの前で、上着の襟を直した。濡れた白銀の髪を、そっと避ける。
——指先が、シオンの首筋に触れた。
「……っ」
シオンは、思わず息を呑んだ。
クロウの指は、戦傷で硬くなっていた。ごつごつとした、剣士の指。その指が、自分の首筋に触れた瞬間、背中を何かが駆け抜けた。
(な、なに、これ)
シオンの胸の奥で、心臓が早鐘を打つ。
クロウは、すぐに手を離した。
「……すまん」
「……いえ」
シオンは、うつむいた。頬が熱い。火のせいだけではない。
(この感覚は、何)
シオンは、自分の心臓の音を聞きながら、混乱していた。
クロウは、囲炉裏の火を見つめていた。
(……今の、何だ)
指先に残る、シオンの首筋の感触。あの柔らかさ。あの温かさ。
(気にするな。ただ、上着を直しただけだ)
クロウは、自分に言い聞かせた。
だが、胸の奥に、説明のつかないざわめきがあった。
雨は、ますます強くなっていた。
小屋の隙間から、滴が落ちてくる。ポタリ、ポタリと、土間の上に小さな水たまりを作る。
クロウは、立ち上がると、小屋の隅にあった古い板切れで、屋根の隙間を塞いだ。
「これで、少しはましだろ」
「……ありがとう」
シオンは、クロウの上着を肩にかけたまま、囲炉裏の火を見つめていた。
焚き火の明かりが、クロウの横顔を照らしている。琥珀色の瞳が、炎の光を受けて、金色に輝いていた。
(この人に、守られてる)
シオンは、生まれて初めての感覚に、戸惑っていた。
白狐の跡取りとして、常に自分が誰かを守り、誰かを導く立場だった。計算し、先を読み、家のために動く。それが、シオンの生き方だった。
だが、今は違う。
この狼人の剣士は、シオンの計算も、家名も、何も知らない。ただ、目の前で弱っている女を、助けた。それだけ。
(ああ、私は……)
シオンは、胸の奥で、何かがほどけていくのを感じた。
夜が、更けていく。
雨は、まだ止まない。
囲炉裏の火が、二人の影を壁に映し出していた。
「……あなたは、どうしてこの竹林に?」
シオンが、ぽつりと尋ねた。
「妖魔斬りの仕事だ。この竹林に、タケヤミが出る」
「……タケヤミ」
シオンは、身を強張らせた。
(あの、タケヤミ)
自分を敗走させた、あの妖。
「お前も、タケヤミを知ってるのか」
「……ええ、少し」
シオンは、曖昧に答えた。家名を失った身で、白狐の跡取りだったとは、言いたくなかった。
クロウは、それ以上、詮索しなかった。
「お前、名前は」
「……シオン。前に、名乗ったでしょう」
「そうだったか」
クロウは、少し考えてから、言った。
「俺はクロウだ」
「ええ、知ってる」
シオンは、小さく微笑んだ。
(この人、私の名前、覚えてなかったのね)
それが、少しだけおかしかった。
「……ねえ、クロウ」
「何だ」
「……私、帰る場所がないの」
シオンは、囲炉裏の火を見つめながら、言った。
クロウは、黙って聞いていた。
「家を、出てきた。もう、戻れない」
「そうか」
クロウは、短く答えた。
「俺もだ」
シオンは、顔を上げた。
「……え?」
「俺も、帰る場所はない。ずっと、一人でやってきた」
クロウの声は、淡々としていた。
シオンは、クロウの横顔を見つめた。
(この人も、一人なの)
同じ孤独を持つ者同士。
(なのに、どうして、こんなに安心するの)
シオンは、クロウの上着の襟を、そっと握りしめた。
沈黙が、流れる。
だが、それは、苦しい沈黙ではなかった。
囲炉裏の火の音と、雨の音だけが、小屋の中を満たしていた。
シオンは、初めて、何も返せないまま、誰かと食卓を囲む温もりを感じていた。
(ああ、これが、そうなのね)
シオンの目尻から、また、涙がこぼれた。
だが、それは、さっきまでの涙とは違っていた。
静かで、温かい涙だった。
夜が、明けようとしていた。
雨は、いつの間にか弱まり、遠くの空が、うっすらと白み始めている。
クロウは、囲炉裏の火の番をしながら、浅い眠りについていた。
——かさり。
竹林の奥から、気配がした。
クロウは、即座に目を覚ました。
(……来たか)
狼人の鋭い嗅覚が、小屋の外の気配を捉える。複数。三……いや、四人か五人。
(人間か、妖魔か)
クロウは、静かに立ち上がり、ヨザクラに手をかけた。
シオンも、目を覚ました。
「……どうしたの」
「誰か来る。お前は、そこに隠れてろ」
クロウは、シオンを小屋の隅に庇うように立った。
シオンは、外の気配を感じ取った。白狐の耳が、微かに動く。
(……シラヌイ)
間違いない。ミカド家の追跡衆。幻術と呪符を操る、五人組。
シオンは、唇を噛んだ。
(私を、追ってきた)
(クロウを、巻き込むわけにはいかない)
シオンは、震える声で、言った。
「……クロウ、私、嘘をついてた」
クロウは、振り返らずに、言った。
「何だ」
「……私、白狐の本家、ミカド家の者なの。勘当された、ただの白狐」
クロウは、黙っていた。
「外にいるのは、私を追ってきた追手。あなたを巻き込むわけにはいかない。だから、私を置いて、逃げて」
シオンの声は、震えていた。
クロウは、ゆっくりと、ヨザクラの柄を握り直した。
「……お前は、どうするつもりだ」
「……私は、捕まる。それで、あなたは助かる」
「それで、お前は死ぬのか」
シオンは、答えなかった。
クロウは、小さく息を吐いた。
「……そうか知らん」
クロウの口癖だった。
「だが、俺は、目の前で女が捕まるところを、黙って見てるような男じゃない」
クロウは、ヨザクラを鞘から抜いた。
静かな音だった。
だが、その刀身は、夜明け前の薄暗い小屋の中で、青白く輝いていた。
「白狐と狼人の確執は、俺も知ってる。お前が白狐だってことも、分かってた」
シオンは、目を見開いた。
「……知ってて、助けたの」
「ああ」
クロウは、小屋の外を見据えた。
(守るべきものが、できた)
その重さを、クロウは初めて知った。
刀を握る手に、力がこもる。
竹林の奥から、幻術の気配が、ゆっくりと近づいてくる。
「お前は、そこでじっとしてろ」
クロウは、シオンに背を向けたまま、言った。
「……クロウ」
シオンの声が、かすかに震える。
クロウは、答えなかった。
ただ、ヨザクラを握りしめ、小屋の扉へと歩き出した。
夜明け前の竹林に、冷たい風が吹き抜ける。
竹の葉が、ざわざわと音を立てた。
その音は、遠く、地の底から響く脈動の音と、重なっていた。Noveliaとは?
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