牙と粥
飢えと疲労で竹林に倒れていた狼人族の妖魔斬りクロウは、白狐族の跡取りシオンから一杯の粥を差し出される。家同士の政略として恩を売るシオン。だが、礼も言わずに粥をすするクロウの姿と、食べ終えた後の不器用な「礼を言う」という一言が、計算ずくの彼女の胸に小さなざわめきを残す。刀と飢え、家名と矜持、そして地の底から響く霊脈の脈動——二つの家に生きる若き者の出会いが、静かに始まる。
牙と粥 - 白狐の追手——父の冷たい瞳と、守れなかった約束
竹林の朝は、どこか嘘のように静かだった。
風が吹けば、無数の竹の葉がざわざわと鳴る。その音は耳に優しく、けれどもどこか遠く、現実から切り離されたような響きを帯びていた。ヨミノ竹林は、タマツバキ連峰の谷あいに広がる、誰のものでもない場所。白狐族と狼人族、二つの里のちょうど狭間にあって、どちらの掟も届かない。ただ、青白い光と、湿った土の匂いだけが満ちている。
廃小屋の中では、囲炉裏の火が静かに燃えていた。
シオンは、粥を炊いていた。白銀の髪を背中に流し、毛先の淡い藍色が、囲炉裏の火に照らされてゆらゆらと揺れている。薄紅の瞳は、鍋の中の粥を見つめていた。勘当されてから、彼女の頬は心なしか痩け、目の下にはうっすらと隈が浮かんでいる。それでも、鍋をかき混ぜる指先の動きは、どこか優雅だった。白狐の跡取りとして、幼い頃から作法を叩き込まれてきた女の、染みついた品の良さがそこにあった。
「……もう少しで炊き上がりますわ」
彼女は、小屋の隅に座るクロウに、そう声をかけた。
クロウは、刀の手入れをしていた。茶褐色の毛並みに覆われた大きな体を、壁に預けるようにして座っている。手にしているのは、父の形見の刀ヨザクラ。妖魔斬りの家系に伝わる業物で、妖魔の急所を嗅ぎ分けて斬るという。彼は、柄を握り、刀身を引き抜き、じっと眺めていた。
「ああ」
短い返事。それきり、彼はまた刀身に目を落とす。
シオンは、そんなクロウの横顔を、ちらりと盗み見た。琥珀色の瞳は、刀身に映る自分の顔を見つめている。無骨で、不器用で、口数が少ない。けれども、あの夜、倒れかけた自分を黙って介抱してくれた男。
(……なぜかしら)
シオンは、胸の奥に、ちくりと刺すような感覚を覚えた。
(この人といると、計算がうまく回らない)
彼女は、八歳の頃から「施しは投資」と教えられてきた。人に何かを与えるのは、後で何かを返してもらうため。家に利益をもたらすため。そうやって、白狐の跡取りとして、自分の価値を家への貢献で測ってきた。
だが、クロウは違った。
あの夜、クロウは粥を差し出し、水を与え、何も求めなかった。見返りも、恩も、何も。ただ、目の前で倒れかけた女を助けた。それだけだった。
シオンは、その「それだけ」が、どうしても理解できなかった。
(だって、それでは、何の得にもならないのに)
彼女の心の中で、古い価値観が、きしみを上げる。
(この人にとって、私は何の価値もないはずなのに)
そう思うたびに、胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるような気がした。
「……クロウ、あなた、今日も剣の稽古をしていましたのね」
シオンは、粥をかき混ぜながら、何気ない風を装って言った。
「ああ。日課だ」
「朝早くから、ずいぶん熱心ですのね」
「妖魔斬りは、鍛錬と読書が義務だ。怠れば、すぐに腕が落ちる」
彼は、刀身を布で拭きながら、淡々と答えた。
「読書も、なさるの?」
「ああ。妖魔の生態や、土地の霊脈の話が書かれた書物を読む。知識も、武器の一つだ」
「……まあ」
シオンは、少しだけ目を見開いた。
(狼人で、読書を日課にしている人なんて、初めてだわ)
白狐族は、術と品位を重んじる。書物を読むことは、当然の教養だった。だが、狼人族は、刀と鍛錬を重んじる。彼らは、体を動かすことを何より尊び、書物など読まない者も多いと聞いていた。
(この人は、私が思っていた狼人と、少し違う)
シオンは、鍋の中の粥を、静かにかき混ぜた。
「……できましたわ。どうぞ、おあがりになって」
彼女は、粥を椀に盛り、クロウに差し出した。
クロウは、刀を鞘に収め、椀を受け取った。
「……礼を言う」
その言葉に、シオンの胸が、また、ちくりと痛んだ。
(また、その言葉)
あの日、竹林で粥を差し出した時も、クロウはそう言った。何の打算もなく、ただ、礼を言った。
(私は、あの時、あなたの恩を売ることだけを考えていたのに)
シオンは、唇を噛んだ。
二人は、囲炉裏を挟んで、向かい合って座った。
クロウは、黙々と粥を口に運ぶ。シオンも、自分の椀を持ち、粥をすする。囲炉裏の火が、ぱちぱちと音を立てて燃える。小屋の外では、風が竹を揺らし、ざわざわと葉擦れの音が続いていた。
静かな時間だった。
けれども、その静けさは、どこか危ういもののようにも感じられた。
「……おいしいですわね」
シオンは、ぽつりと呟いた。
「ああ。うまい」
クロウは、短く答えた。
シオンは、その言葉に、ほっと胸をなでおろした。
(私が炊いた粥を、おいしいと言ってくれた)
それは、家名を失ってから初めて、自分のしたことが誰かに受け入れられた瞬間だった。
(……何を考えているの、私)
シオンは、自分の心の動きに、戸惑いを覚えた。
(私は、白狐の跡取りだった女。計算で人を測ってきた。それが、こんなことで……)
彼女は、椀を持つ手に、少しだけ力を込めた。
食事が終わると、クロウは、また刀の手入れを始めた。シオンは、囲炉裏の火を整え、食器を片付ける。
「……クロウ、あなたのその刀、とても美しいですわね」
シオンは、クロウの手元を見つめながら言った。
「ヨザクラ。父の形見だ」
「……お父様の」
「ああ。妖魔に喰われた」
シオンは、息を止めた。
「……ごめんなさい、軽率なことを聞きましたわ」
「気にするな。お前が謝ることじゃない」
クロウは、刀身を拭きながら、静かに言った。
「俺の父は、妖魔斬りだった。母は、俺が物心つく前に病で死んだ。父は、俺が十三の時に、妖魔に喰われた。それ以来、一人で生きてきた」
彼の声は、淡々としていた。感情を押し殺しているというより、事実をそのまま述べているだけのように聞こえた。
「一人で粥を炊いて、一人で食って、一人で眠る。それだけの暮らしだ」
シオンは、何も言えなかった。
(この人は、ずっと一人だったのね)
彼女は、自分のことを振り返った。白狐の本家に生まれ、跡取りとして育てられ、何不自由なく暮らしてきた。家名という、大きなものに守られて。
(でも、私は、その家名を失った)
(この人は、最初から何も持っていなかった)
(それなのに、この人は、私に粥を差し出した)
シオンの胸の奥が、熱くなった。
「……私も、もう、家には戻れませんの」
シオンは、自分の手元を見つめながら、ぽつりと言った。
「ああ。勘当されたんだろう」
「……ええ。家名に泥を塗ったから、と」
「家名か」
クロウは、刀を鞘に収め、囲炉裏の火を見つめた。
「俺には、家名なんてものは、よく分からん」
「……分からない?」
「ああ。俺は、妖魔斬りの家に生まれた。だが、家名がどうとか、家を守るとか、そういうことは考えたことがない。ただ、目の前の妖魔を斬る。それだけだ」
彼は、火を見つめながら、静かに言った。
「お前は、家名に縛られていたんだろう。だが、今は、その縛めから解かれた。そう考えれば、少しは楽になるんじゃないか」
シオンは、顔を上げた。
(……この人は、本当に、私のことを考えてくれている)
彼女の胸の奥で、何かが、静かにほどけていくような感覚があった。
「……あなたは、不思議な方ですわね」
シオンは、少しだけ笑った。
「そうか知らん」
クロウは、いつもの口癖を言った。
シオンは、その言葉に、今度ははっきりと微笑んだ。
(ああ、私、この人のそばにいると、自然に笑える)
彼女は、自分の心が、少しずつ、クロウに惹かれていることを、認めざるを得なかった。
(……でも、これは、いけないこと)
白狐と狼人。その二つの種族の間に、深い溝があることを、シオンは知っていた。四百二十年前のオモイカネの乱以来、両種族は血を分かつことを禁じられてきた。婚姻はおろか、親しくすることすら、許されない。
(私が、この人に、こんな気持ちを抱くなんて)
シオンは、自分の胸の奥に生まれた感情を、必死に押し殺そうとした。
だが、押し殺せば押し殺すほど、その感情は、ますます大きくなっていくようだった。
夕方になった。
竹林の中は、昼間よりもさらに薄暗くなり、青白い光が、竹の幹にまとわりつくように漂っていた。
シオンは、小屋の外に出て、竹の葉を集めていた。囲炉裏の火を絶やさないようにするためだ。
クロウは、小屋の近くで、素振りをしていた。
ヨザクラを振るたびに、空気が裂ける音がする。彼の体は、無駄のない動きで、竹の葉を一枚、また一枚と切り裂いていく。
シオンは、その姿を、竹の陰から見つめていた。
(……強い人)
彼女は、クロウの背中を見ながら、そう思った。
(この人なら、私を守ってくれるかもしれない)
そう思った瞬間、シオンは、自分の考えに、はっとした。
(何を考えているの、私は)
(私は、この人に、何かをしてもらうことばかり考えている)
(それでは、家にいた頃の私と、何も変わらないじゃない)
シオンは、唇を噛みしめた。
「……クロウ、そろそろ中に入りませんこと?」
彼女は、声をかけた。
「ああ。もう少しで終わる」
クロウは、素振りを続けながら答えた。
シオンは、彼の返事を聞くと、先に小屋の中へ戻った。
囲炉裏の火を整え、粥の残りを温める。
(私にできることは、これくらいしかない)
シオンは、鍋の中の粥を見つめながら、そう思った。
(でも、この人と一緒にいると、不思議と、心が落ち着く)
彼女は、囲炉裏の火に手をかざした。
火の温もりが、冷えた指先に、じんわりと染み込んでくる。
(この温もりが、ずっと続けばいいのに)
シオンは、そう願った。
だが、その願いは、長くは続かなかった。
夜が訪れた。
竹林は、闇に包まれた。月明かりが、竹の葉の隙間から差し込み、地面に白い斑点を落としている。
クロウとシオンは、囲炉裏の火を挟んで、静かに座っていた。
「……今日は、少し冷えますわね」
シオンは、自分の肩を抱くようにして言った。
「ああ。もうすぐ冬だ」
「冬……この竹林は、冬になると、どうなりますの?」
「雪が積もる。竹が、重みで折れることもある」
「まあ……そうなりますのね」
シオンは、囲炉裏の火を見つめた。
「……私は、冬の竹林を見たことがありませんわ。シラユキ郷にいた頃は、冬になると、里の中に閉じこもっていましたから」
「そうか。なら、今年の冬は、ここで雪を見ることになるだろう」
「……そうなりますわね」
シオンは、少しだけ微笑んだ。
(この人と、冬を越す)
そのことが、彼女の心を、ほんの少しだけ温かくした。
「……クロウ、あなたは、寒くはありませんの?」
「平気だ。狼人の体は、寒さに強い」
「そうなの……うらやましいですわ。白狐は、どちらかというと、寒さが苦手で」
シオンは、自分の体を抱きしめるようにした。
クロウは、そんなシオンを見て、少し考えてから、自分の上着を脱いだ。
「これを着ろ」
彼は、上着をシオンに差し出した。
「え……でも、あなたが寒くなってしまいますわ」
「俺は平気だ。お前の方が、寒そうに見える」
シオンは、差し出された上着を、しばらく見つめた。
(……この人は、本当に、私に優しい)
彼女は、ゆっくりと手を伸ばし、上着を受け取った。
「……ありがとうございますわ」
シオンは、上着を肩にかけた。
クロウの体の温もりが、まだ残っている。狼人の、少しだけ土と汗の匂いが混じった、それでいて不思議と心地よい匂いが、シオンの鼻腔をくすぐった。
(……温かい)
シオンの胸が、ぎゅっと締め付けられた。
(この温もりを、私は、もっと感じていたい)
彼女は、上着の襟元を、そっと引き寄せた。
「……クロウ」
シオンは、小さな声で呼んだ。
「何だ」
「……私、あなたに出会えて、よかった」
シオンの声は、かすかに震えていた。
クロウは、一瞬だけ、シオンを見た。
琥珀色の瞳が、囲炉裏の火に照らされて、金色に輝く。
「……そうか知らん」
彼は、そう言って、火に目を戻した。
シオンは、その横顔を見つめながら、自分の心臓が、早鐘を打っているのを感じていた。
(……ああ、私は、この人のことが、好きなんだわ)
彼女は、初めて、自分の気持ちを、はっきりと自覚した。
(白狐の私が、狼人のあなたを)
(そんなこと、許されるはずがないのに)
シオンは、唇を噛みしめた。
胸の奥が、甘くて、苦い。
(でも、今は、この気持ちを、誰にも知られてはいけない)
彼女は、目を閉じた。
囲炉裏の火が、ぱちぱちと音を立てて燃えている。
その音だけが、静かな夜の小屋に、長く響いていた。
——その時だった。
クロウが、突然、顔を上げた。
「……来る」
彼は、低い声で言った。
「え……?」
シオンは、目を開けた。
クロウは、すでに立ち上がり、ヨザクラを手に取っていた。
「複数の気配だ。五人……いや、六人か。小屋の周りを囲んでいる」
シオンは、顔色を変えた。
(……まさか)
彼女は、耳を澄ませた。
白狐の耳が、微かに動く。
——確かに、外に、複数の気配があった。
(この気配……シラヌイ)
シオンは、体を強張らせた。
「……ミカドの追手よ」
彼女は、震える声で呟いた。
「追手か。お前を連れ戻しに来たのか」
「……ええ。白狐の術を、家の外に持ち出すことを、父は許さない。私の頭の中には、術の知識が染みついている。だから、その知識ごと、私を消そうとしているの」
クロウは、静かにヨザクラを抜いた。
刀身が、小屋の中の暗がりで、青白く輝く。
「お前は、そこでじっとしていろ」
クロウは、シオンに背を向けたまま言った。
「……だめよ。あなたを巻き込むわけにはいかないわ」
「巻き込むも何も、もう巻き込まれている」
クロウは、小屋の入り口に立った。
「それに、俺は、目の前で女が捕まるところを、黙って見ていられるような男じゃない」
彼は、そう言って、小屋の外へ出た。
シオンも、慌てて後を追った。
外は、闇に包まれていた。
月明かりが、竹の葉の隙間から差し込み、地面に白い斑点を落としている。
その斑点の中に、五つの影が立っていた。
白狐五人衆、シラヌイ。
ミカド家直属の術士五人組。幻術と呪符で追跡・捕縛を担う、白狐の中でも特に腕の立つ者たちだ。
彼らは、白い着物を身にまとい、顔には狐の面をつけていた。
「……見つけたぞ、シオン様」
一人が、低い声で言った。
「お家の掟を破り、家名を汚したお方。ご同行願います」
シオンは、唇を噛みしめた。
「……私は、もう、家の者ではありませんわ。放っておいてくださいな」
「それはなりませぬ。白狐の術を、家の外に持ち出すことは、許されぬ。あなたの頭の中にある知識、そのすべてを、家に返していただく」
「……私の頭の中の知識を、返すですって……?」
「ええ。あなたの命と引き換えに」
シラヌイの一人が、呪符を取り出した。
「……下がっていろ、シオン」
クロウが、シオンの前に立った。
「お前ら、白狐の追手だか何だか知らんが、その女に手を出すなら、容赦はしない」
クロウは、ヨザクラを構えた。
「……狼人か」
シラヌイの一人が、面の下からクロウを睨んだ。
「白狐の家のことに、狼人が首を突っ込むとは、いい度胸だな」
「家だの掟だの、俺には関係ない。俺は、あの女を守ると決めた」
クロウの声は、静かだった。
だが、その言葉には、確かな決意が込められていた。
シオンは、クロウの背中を見つめた。
(……この人は、私を守ると言ってくれている)
彼女の胸の奥が、熱くなった。
(でも、それでは、この人が危ない)
シオンは、クロウの背中に、そっと手を伸ばした。
「……クロウ、逃げて。あなた一人なら、きっと逃げられるわ」
「馬鹿を言うな」
クロウは、振り返らなかった。
「俺は、お前を置いて逃げたりはしない」
その言葉に、シオンの涙が、あふれた。
(……この人と、もっと一緒にいたかった)
彼女は、心の底から、そう思った。
——その時。
竹林の奥から、静かな足音が聞こえた。
竹の葉を踏む、微かな音。
シラヌイたちが、左右に分かれ、道を開ける。
その奥から、ゆっくりと、一人の男が歩いてきた。
銀白の毛皮に、白髪交じりの長い鬚を胸元まで垂らしている。左眉には古い術傷の跡。指には、家長の証である翡翠の指輪。
ミカド・レイガ。
白狐の本家、ミカド家の家長。
シオンの父だった。
「……シオン」
レイガの声は、静かで、よく通った。
薄紫の瞳が、娘の姿を、冷たく見据えている。
「……父上……」
シオンは、声を震わせた。
レイガは、ゆっくりと歩みを進め、クロウとシオンの前に立った。
「家を汚した娘に、用はない」
レイガは、冷徹に言い放った。
「だが、白狐の術を、狼人に渡すわけにはいかぬ。その狼人の命、ここで絶て」
シラヌイたちが、一斉に動いた。
「……来るか」
クロウは、ヨザクラを構え直した。
——次の瞬間。
シラヌイの一人が、呪符を放った。
「幻術・白夜」
呪符が、空中で弾けた。
白い光が、竹林全体を包み込む。
クロウの視界が、真っ白に塗り潰された。
「……くっ」
クロウは、目を細めた。
だが、光は、彼の視界からすべてを奪っていた。
(……幻術か)
彼は、嗅覚を研ぎ澄ませた。
狼人の鋭い嗅覚が、敵の気配を探る。
——だが。
「無駄だ。我らの幻術は、嗅覚すら狂わせる」
シラヌイの声が、あちこちから聞こえる。
前から、後ろから、右から、左から。
無数の影が、クロウの周りを囲んでいた。
「……どこだ」
クロウは、刀を振るった。
しかし、刃は空を切るだけだった。
「そちらではない」
——ドッ。
腹に、重い衝撃。
クロウは、蹴り飛ばされ、竹の幹に背中から叩きつけられた。
「……がっ」
竹が、折れる音がした。
クロウは、地面に倒れ込み、咳き込んだ。
「クロウ!」
シオンが、叫んだ。
彼女は、懐から浄化の符を取り出そうとした。
だが、その手を、シラヌイの一人が掴んだ。
「動くな、シオン様」
「……離して!」
シオンは、必死に抵抗した。
しかし、シラヌイの腕力は、衰えた彼女の力では、振りほどけなかった。
「おとなしくなされ。家に戻れば、命は保証してやると、家長がおっしゃっている」
「……いや、私は、戻らないわ!」
シオンは、涙を流しながら叫んだ。
「戻らぬなら、その狼人の命はないぞ」
シラヌイの言葉に、シオンは、ぴたりと動きを止めた。
「……クロウを、殺すの……?」
「ええ。家の掟を破った狼人を、生かしておくわけにはいきませぬからな」
シオンは、震えた。
クロウは、竹にもたれながら、立ち上がろうともがいた。
「……シオン、来るな」
彼は、掠れた声で言った。
「……お前は、戻れ。お前が戻れば、助かるんだろう」
「……でも、それでは、あなたが……」
「俺のことは、気にするな」
クロウは、地面に手をつき、必死に体を起こそうとした。
だが、足が震えて、踏ん張れない。
「……その狼人の命が惜しければ、家に戻れ、シオン」
レイガが、冷たい声で言った。
シオンは、父の顔を見た。
薄紫の瞳は、感情を映さない。
(……父上は、本気だわ)
シオンは、クロウを見た。
彼は、必死に立ち上がろうとしている。
(……この人が、死んでしまう)
シオンの胸が、張り裂けそうだった。
(……私が戻れば、この人は助かる)
彼女は、涙を流しながら、レイガに問いかけた。
「……私が戻れば、この人は助かるのね」
レイガは、無言で頷いた。
シオンは、クロウに向き直った。
「……ごめんなさい」
彼女は、震える声で、そう言った。
「……ごめんなさい、クロウ」
クロウは、何か言おうとした。
だが、言葉は出なかった。
シオンは、シラヌイに腕を引かれ、竹林の闇の中へ消えていった。
「……クロウ……」
彼女の声が、遠ざかっていく。
クロウは、地面に倒れたまま、その声を聞いていた。
「……シオン」
彼は、掠れた声で、彼女の名を呼んだ。
だが、その声は、もう、彼女には届かなかった。
竹林に、静けさが戻った。
月明かりが、折れた竹の幹に照りつけている。
クロウは、しばらく、動けなかった。
腹に受けた蹴りの痛みが、じわじわと広がっていく。
(……守れなかった)
彼は、地面を、拳で殴った。
(……俺は、また、守れなかった)
父のことも、母のことも、そして、シオンのことも。
自分は、いつも、何も守れない。
クロウは、歯を食いしばった。
血の味が、口の中に広がる。
(……シオン)
彼は、竹林の闇を見つめた。
彼女が消えていった方角。
シラユキ郷の方角。
(……俺は、お前を、助けに行く)
クロウは、ゆっくりと体を起こした。
腹の痛みが、鋭く走る。
それでも、彼は、立ち上がった。
廃小屋に戻ると、囲炉裏の火は、まだかすかに燃えていた。
そのそばに、一つの椀が転がっていた。
シオンが、最初に差し出した粥の椀。
クロウは、その椀を拾い上げた。
両手で包み込むように、握りしめる。
(……あの女は、計算で俺に近づいたのかもしれない)
クロウは、そう思った。
(白狐の跡取りが、狼人に粥を差し出す。そこには、何かしらの打算があったはずだ)
彼は、そう考えていた。
だが、それでも。
(……あの女は、俺を守ろうとした)
シオンの、涙で濡れた顔が、瞼の裏に浮かぶ。
「……ごめんなさい」
彼女の、震える声が、耳の奥に残っている。
(……あの女は、俺の命を助けるために、自分を犠牲にした)
クロウの胸の奥に、怒りと、喪失感が、渦巻いた。
(……俺は、あの女に、何もしてやれなかった)
彼は、椀を握りしめる手に、力を込めた。
刀を握る手が、震える。
(……シオン)
クロウは、初めて、自分が誰かに惹かれていたことに気づいた。
そして、同時に、その相手を守れなかった無力さに、打ちのめされた。
(……俺は、あの女を、取り戻す)
彼は、囲炉裏の火を見つめながら、静かに決意した。
夜が、更けていく。
竹林の奥で、風が、ざわざわと鳴った。
翌朝。
クロウは、廃小屋の外に立っていた。
腹の痛みは、まだ残っていたが、歩けないほどではなかった。
彼は、シラユキ郷の方角を、じっと睨んでいた。
(……白狐の里か)
クロウは、ヨザクラを背負った。
それから、粥の椀を、布に包んで、懐にしまった。
(……あの女が、俺に差し出した椀だ)
彼は、まだ痛む腹を押さえながら、一歩を踏み出した。
白狐と狼人の契りが禁じられていることなど、彼の頭にはなかった。
彼は、ただ、自分の名を呼んだ、あの声をもう一度聞くために、追手の勢力圏へと向かう。
竹林の朝は、静かだった。
だが、その静けさの奥で、何かが、じわりと動き始めていた。
クロウが去った後の竹林の奥深く。
窪地の影から、黒い霧のようなものが、ゆっくりと湧き上がってくる。
カゲビト。
フトマニの妖魔が生み出す、下級の眷属。
その気配が、竹林の闇の中で、じわりと広がり始めていた。Noveliaとは?
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