ダーウィンズゲーム:ゲームオーバーの向こう側
あの日、渋谷で世界が終わった――。
中学の卒業式、親友・シノヅカは言った。「何かあったら、絶対に俺が守るから」。その言葉を胸に、二年後の夏。二人で訪れた渋谷のスクランブル交差点で、突如スマホに浮かんだ蛇の紋章――「ダーウィンズゲームへようこそ」。シノヅカは苦しみながら意識を失い、周囲の人間は二人を認識すらしない。助けるため、迅は自らゲームへと飛び込んだ。
目覚めたのは、誰もいない、空の白い、音のない渋谷。左手首に刻まれた蛇の紋章。与えられた能力は「遅延蒐集(ディレイコレクター)」――触れた物体の時間を約2秒遅らせる、あまりに地味な異能。ポイントを奪い合い、ゼロになれば「転送」される――つまり死。逃げ場のないゲームの中で、迅はかつて母が言った言葉を思い出す。「止めるんじゃなくて、ずらすの。そうすれば、遅れた分は必ず取り戻せるでしょ」。
金属バットを振るうプレイヤーとの初戦闘。遅延蒐集を発動し、辛くも逃走。だが、宮下公園で迅は明確な「視線」を感じる――このゲームのどこかから、誰かが自分を観察している。シノヅカはどこにいるのか。謎の視線の正体は。地味な能力を武器に、少年はゲームの深淵へ
ダーウィンズゲーム:ゲームオーバーの向こう側 - 計算外の少女――ゼロから始まる作戦会議
ハンティングゲームの通知が来た翌日。
俺、神崎迅は、サンセットレーベンズの拠点であるレーベンズ・ルームのソファに座っていた。窓の外は、現実の渋谷と同じように明るい。でも、このゲーム空間には、現実の喧騒はない。静かで、どこか張り詰めた空気が流れている。
「迅、今日からお前には、金平の情報を集めてもらう」
要さんが、壁に貼られた渋谷の地図を指さしながら言った。黒い瞳は真剣で、声には迷いがない。この人はいつもそうだ。やるべきことを、まっすぐに見据えている。
「情報収集……でも、俺、まだこのゲームのこと、全然わかってないよ」
「だからだ。お前の遅延蒐集は、直接戦闘より情報戦向きかもしれない。相手の動きをずらす。それは、相手の出方を探るのにも使える」
要さんは、机の上に置かれたタブレットを手に取った。画面には、金平英明という男の情報が表示されている。ランキング三位。保険組合、カネヒラ・ミューチュアルの運営者。
「それで、誰と組むんだ? リュージさんとか?」
「いや、レインだ。柏木鈴音。あいつはこのゲームの情報分析じゃ右に出る者はいない。お前も、あいつのやり方から学べることは多いはずだ」
レイン。昨日、ちらっと顔を見ただけの、黒いボブカットの少女。確か、十三歳の中学生だったはずだ。あの年齢で、情報分析の天才と呼ばれている。
「無理に仲良くなろうとしなくていい。ただ、あいつの指示には従え。命に関わる」
「……わかった」
俺は頷いた。
要さんは、少しだけ表情を和らげた。でも、その目はまだ笑っていない。ハンティングゲームの通知以来、この人はずっと張り詰めている。無理もない。相手はランキング三位の実力者だ。
「下がってろ、無駄話は後だ。……なんて言いたいところだが、今日は情報収集だ。気を抜くなよ」
「ああ」
俺は立ち上がった。
左手首の革バンドを、無意識に触る。蛇の紋章が、ひやりと冷たい。
——金平英明。
シノヅカを助ける手がかりを持っているかもしれない男。その情報を、俺の手で集める。
「行ってくるよ、要さん」
「ああ。何かあったら、すぐに連絡しろ」
レーベンズ・ルームを出ると、八月の熱気が肌にまとわりついた。
渋谷の街は、現実と変わらないように見える。スクランブル交差点の大きな看板も、センター街の入り口も、道玄坂の坂道も。でも、行き交う人の数は、現実の十分の一もいない。
そして、ここにいる人間は、全員がプレイヤーだ。
左手首に蛇の紋章を刻んだ、命を懸けたゲームの参加者。
「……で、レインはどこにいるんだ?」
俺は、要さんから教えられた待ち合わせ場所へ向かった。渋谷の裏通り、通称「裏渋」。現実では、細い路地に小さな店がひしめく場所だ。でも、ゲーム空間では、その多くが閉まっている。シャッターが下りた店、割れた看板、散乱したゴミ。
しばらく歩くと、小さな公園の前に人影が見えた。
黒いボブカットの少女。左側の髪を、小さなピンで留めている。くすんだ緑色の瞳。左目の下に、泣きぼくろ。右手首には、赤い紐のミサンガ。
柏木鈴音。十三歳。情報分析の天才。
彼女は、俺に気づくと、ほんの一瞬だけ視線を向けて、すぐに手元のタブレットに目を落とした。
「遅いわ。三分十七秒のロス。このゲームで三分は命取りよ」
声は、十三歳とは思えないほど落ち着いていた。感情の色が薄い。まるで、機械と話しているみたいだ。
「ご、ごめん。道に迷って……」
「言い訳はいいわ。時間の無駄。さっさと行くわよ」
レインは、俺の返事を待たずに歩き出した。
俺は慌てて後を追う。
(うわ、思ったより冷たいな……)
心の中で呟く。でも、要さんは「あいつの指示に従え」と言っていた。文句を言っても仕方ない。
「あの、今日はどこへ行くんだ?」
「情報屋を回る。裏渋には、金平の組合に詳しい連中が何人かいる。まずは、その一人に会うわ」
「情報屋って……信用できるの?」
「信用なんてしない。ただ、情報には値段がある。正しい情報なら、それなりの価値。間違った情報なら、売った相手が消える。それだけの世界よ」
レインは、振り返りもせずに言った。
俺は、彼女の背中を見ながら思った。
(この子、本当に十三歳か?)
大人びている、というより、何かを諦めているような雰囲気があった。
しばらく歩くと、レインが突然立ち止まった。
「あんた、足音がうるさいわ。もっと静かに歩けないの?」
「え? 別に普通だと思うけど……」
「普通が一番危険なの。この世界では、普通の動きをしている奴から死ぬ。足音、呼吸、視線。全部、相手に情報を与えてる。あんた、それでよく生きてこれたわね」
彼女は、冷たい目で俺を見上げた。
俺は、何も言い返せなかった。
確かに、俺はまだこのゲームに参加して数日だ。生き延びてこれたのは、運と、要さんに助けてもらったからに過ぎない。
「……まあいいわ。今日は私の後ろを歩いて。何もしなくていい。ただ、邪魔だけはしないで」
「……わかった」
レインは、また歩き出した。
俺は、言われた通り、少し離れて後ろを歩く。
(足手まとい、か)
悔しい。でも、事実だ。俺はまだ、このゲームの戦い方を知らない。
裏渋の路地を、レインは迷いなく進んでいく。時々、閉まった店の前で足を止め、何かを確認する。ポケットから小さなメモ帳を取り出して、素早く書き込む。その動きには、一切の無駄がない。
(すごいな……)
感心していると、レインが小さく舌打ちした。
「……はあ。あんた、今、私のこと「すごい」って思ったでしょ。顔に書いてあるわ。そういう感情は、相手に読まれる。この世界で生き残りたかったら、表情も隠しなさい」
「な、なんでわかったんだよ!?」
「あんたの顔は、本当にわかりやすいのよ。……まあ、それが救いでもあるけど」
最後の言葉は、独り言のように小さかった。
そのとき、レインの足が止まった。
路地の奥、薄暗い場所に、三人の男が立っていた。
全員、黒いスーツ。左手首に、蛇の紋章。そして、腰には警棒のようなものを下げている。
「……見つかったわ」
レインの声が、一気に張り詰めた。
「え? 知り合いか?」
「知り合いじゃない。金平の手下よ。保険組合の取り立て屋。私、昨日、組合の内部資料をちょっと拝見しちゃってね」
「ちょっと拝見って……それ、完全にバレてるじゃないか!」
「だからこうして追われてるの。……あんた、足手まといにならないでよ」
男たちが、ゆっくりと近づいてくる。
真ん中の男が、口を開いた。
「お嬢ちゃん、大人しくしてもらおうか。組合の情報を、どこまで喋った?」
レインは、一歩後退した。
「さあ、どこまでかしら。あんたたちの帳簿、穴だらけだったわよ。搾取したポイントの隠し方も、脱退者を監禁してる場所も、全部」
手下の男たちの表情が、一瞬で変わった。
「このガキ……ぶっ殺せ!」
男たちが、一斉に飛びかかってくる。
そのとき、レインはタブレットを胸に抱えて、俺の方を振り返った。
「迅くん、あんたの異能、見せて」
「え!? いや、でも、俺の能力は……」
「時間をずらすんでしょ? 要さんから聞いてる。あの男のバット、あんたが遅らせて。私がその隙に逃げ道を作る」
レインの声は、驚くほど冷静だった。
俺は、ごくりと唾を飲み込んだ。
(やるしかない……!)
先頭の男が、警棒を振り上げる。
俺は、男の懐に飛び込んで、その警棒に触れた。
——遅延蒐集。
触れた物体の時間を、数秒遅らせる。
男の警棒が、まるで見えないゼリーの中を動くみたいに、ゆっくりと振り下ろされる。
「な、なんだ!? 体が、動かねえ!」
「今よ、こっち!」
レインが、細い路地へ走り込む。
俺も、全速力で後を追った。
「待て、このガキどもが!」
後ろから怒鳴り声が聞こえる。でも、振り返らない。
心臓が、バクバクと音を立てている。息が切れる。足がもつれそうになる。
「こっち、右に曲がって。次は左。……あんた、遅いわね」
「十三歳のくせに、なんでそんなに速いんだよ!?」
「生き残るためには、足が速い方が有利でしょ。常識よ」
レインは、路地を曲がり、階段を駆け上がり、建物の隙間を縫うように走る。その動きは、まるでこの街の裏道を全て把握しているかのようだった。
「あんたの能力、面白いわ。触れた物の時間を遅らせる。地味だけど、使い方次第ね。あの警棒、あと一秒遅れてたら、あんたの頭は割れてたわ」
「褒めてるのか、それ?」
「事実を言っただけ。……でも、計算外だったわ」
レインが、初めて俺の顔をまっすぐ見た。
くすんだ緑色の瞳が、何かを測るように、じっと俺を見つめる。
「あんた、本当に無茶するのね。相手の攻撃に、正面から突っ込むなんて。普通はしないわ」
「でも、ああするしかなかっただろ。レインを守るためには」
レインは、一瞬だけ、きょとんとした顔をした。
でも、すぐにまた、冷たい表情に戻る。
「……私を守る? あんた、何か勘違いしてない? 私はあんたを利用しただけ。自分の異能を試すのに、ちょうどいいと思ったのよ」
「それでも、結果的に助かっただろ。だったら、それでいいよ」
「……あんた、変なの」
レインは、そう言って、歩き出した。
俺も、その後を追う。
(変、か。まあ、自分でもそう思う)
でも、あの瞬間、レインを守りたいと思ったのは事実だ。
十三歳の女の子が、命を懸けて情報を集めている。その姿を見て、放っておけるわけがなかった。
「追手は撒いたわ。あんたの遅延蒐集のおかげで、時間を稼げた。……礼は言わないわ。あんたが勝手にやったことだから」
「別に、礼なんていいよ」
「……でも、一つだけ言っておく。あんたの能力は、思ったより使える。あの警棒を遅らせたタイミング、完璧だったわ。私の計算では、あと0.3秒早くても遅くても、あんたは死んでた」
「0.3秒!? マジで?」
「マジよ。……あんた、面白いわ」
レインの口元が、ほんの少しだけ、緩んだ。
それは、笑顔と呼ぶにはあまりにも小さな変化だった。でも、俺には、それが彼女の本心のように思えた。
「さあ、拠点に戻るわよ。集めた情報を、要さんに報告しないと」
「ああ。……でも、その前に、ちょっと休ませてくれ。足が、もう限界……」
「だらしないわね。あと十分は歩けるわ。それまでに、呼吸を整えなさい」
「鬼かよ……」
俺は、ふらふらになりながら、レインの後を追った。
レーベンズ・ルームに戻ると、要さんが待っていた。
「どうだった。情報は集まったか」
「ええ。かなり詳しい情報を入手できたわ。……迅くんのおかげで、ちょっと危ない場面もあったけど」
レインが、タブレットを机の上に置く。
要さんは、俺の顔を見た。
「お前、怪我はないか?」
「大丈夫。ちょっと走っただけだよ」
「そうか。……で、金平の情報は?」
レインは、タブレットの画面を操作して、壁のモニターに情報を映し出した。
「金平英明。ランキング三位。異能は『摩利支天』。実体を伴う自分のコピーを、最大五体まで作り出し、操作できる。コピーは本体と位置を入れ替えることも可能。つまり、見えている金平が、必ずしも本体とは限らない」
「分身、か。厄介だな」
「ええ。しかも、コピーには実体があるから、物理攻撃も通じる。でも、コピーを倒しても本体にはダメージがない。本体を見つけて、確実に仕留める必要があるわ」
「その本体の居場所は?」
「道玄坂の雑居ビル。カネヒラ・ミューチュアルの表向きの事務所がある場所よ。でも、地下に、もっと広い施設がある。脱退者を監禁しているのも、おそらくそこ」
「脱退者を、監禁……?」
俺は、思わず声を上げた。
「そうよ。金平の保険組合は、加入者から毎週、ポイントの三割を搾取してる。脱退しようとした者は、地下に閉じ込めて、無理やりポイントを奪い続ける。マイナスにならないギリギリまで、搾り取るの」
レインの声は、淡々としていた。でも、その瞳の奥には、静かな怒りが燃えているように見えた。
「ふざけんなよ……! 人の命を、なんだと思ってるんだ!」
俺は、拳を握りしめた。
怒りで、体が震える。
「迅、落ち着け。……その怒りは、戦う時に取っておけ」
要さんの声は、低く、落ち着いていた。でも、その目は、俺と同じ怒りを宿している。
「レイン、金平の戦力は? 手下は何人いる?」
「確認できただけで、二十人以上。全員、金平の保険に加入させられてる。つまり、金平の言いなり。異能のレベルは低いけど、数が多いわ」
「二十人……か。正面から潰すのは、難しいな」
「でも、ハンティングゲームに参加するなら、金平の本体を倒す必要がある。手下を全員倒す必要はないわ。本体さえ仕留めれば、終わる」
「ああ。……迅、お前の遅延蒐集が鍵になる。金平の分身の動きを、お前がずらす。その隙に、俺が本体を見つけて、仕留める」
「俺の能力で、できるのか……?」
「できるようにする。お前の能力は、まだ伸びる。レインの分析でも、そう出てる」
俺は、レインを見た。
「ええ。あんたの遅延蒐集は、まだ発展途上。触れた物体の時間を遅らせるだけでなく、範囲を広げたり、遅延時間を延ばしたり、応用次第で強力な武器になる。……私の計算では、あんたはこの戦いの鍵になるわ」
レインの言葉に、俺は驚いた。
(俺が、鍵……?)
「ただし、一つだけ言っておく」
レインは、真剣な顔で、俺と要さんを見た。
「私は戦わない。情報分析だけ。危なくなったら、逃げるから」
その言葉に、俺は耳を疑った。
「え……? でも、仲間なんだろ? 一緒に戦わないのか?」
「仲間? 私は、あんたたちと一緒に死ぬつもりはないわ。生き残るのが、一番大事。戦うのは、あんたたちの勝手。私は、情報を提供する。それだけよ」
「ふざけるなよ! それじゃあ、レインは、俺たちが死んでも平気なのかよ!」
「平気よ。あんたたちが死んでも、私は生き残る。それだけの話」
レインの声は、氷のように冷たかった。
俺は、彼女のその態度に、腹が立った。
でも、同時に、違和感もあった。
(この子、本当にそう思ってるのか?)
レインの瞳の奥に、一瞬だけ、何か別の感情が見えた気がした。
「……レイン、お前のその考えは、前から知ってる。今さら、俺が何か言うつもりはない」
要さんは、静かに言った。
「カナメさん……そうよね。あんたは、私のことを、よく知ってる」
レインは、少しだけ寂しそうな顔をした。
でも、すぐにまた、冷たい表情に戻る。
「作戦は、明日の夜。それまでに、各自、準備をしておいて。私は、もう少し金平のビル周辺を調べるわ」
「ああ。頼んだ」
レインは、タブレットを抱えて、部屋を出ていった。
俺は、要さんに尋ねた。
「要さん、レインのこと、知ってるの?」
「……あいつは、このゲームで、一人で生きてきた。誰も信じず、誰にも頼らず。それが、あいつの生き残り方だ。……俺には、それを責める資格はない」
「でも、仲間なんだろ?」
「ああ。だから、俺は、あいつが逃げるなら、それでいいと思ってる。あいつが生き残れるなら、それで」
要さんの声は、真剣だった。
俺は、何も言えなかった。
(レインの計算高さの裏には、何かある。……絶対に)
俺は、そう確信していた。
夜。
レーベンズ・ルームの窓から、渋谷の街並みが見える。
現実の渋谷は、この時間、ネオンと人で溢れているはずだ。でも、ゲーム空間は、静かで、暗い。
「……レイン、まだ戻ってないのか?」
俺は、部屋の中を見回した。
要さんは、奥の部屋で、武器の手入れをしている。リュージさんやスイは、それぞれの部屋にいる。
でも、レインの姿がない。
「要さん、レインは?」
「ん? ……まだ戻ってないのか? おかしいな。確か、金平のビル周辺の偵察に行くと言っていたが」
「まさか、一人で行ったのか!?」
「あいつは、いつも単独行動だ。……だが、今日は、金平の手下に追われたばかりだ。危険かもしれない」
要さんの顔が、一瞬で真剣になった。
「迅、悪いが、お前、レインを探してきてくれないか? 俺は、念のため、ここで待機する。何かあれば、すぐに連絡する」
「わかった! 行ってくる!」
俺は、レーベンズ・ルームを飛び出した。
夜の渋谷を、道玄坂方面へ走る。
心臓が、ドキドキと音を立てている。
(頼む、無事でいてくれ……!)
道玄坂の雑居ビル群が見えてきた。
その中の一棟、古びた五階建てのビル。金平の本拠地。
ビルの周囲に、人の気配はない。
でも、裏手の路地から、かすかに物音が聞こえた。
俺は、息を殺して、路地を覗き込む。
そこにいたのは、レインだった。
壁際に追い詰められ、三人の男に囲まれている。
そして、その三人の顔は、全員、同じ顔だった。
「……金平の、分身……!」
金平英明の分身。
スーツ姿の、一見普通のサラリーマン風の男。でも、その目は、獲物を狙う蛇のように冷たい。
「おやおや、こんな夜中に、小さな探偵さんが迷い込んだのかな? 君が、私の組合の資料を盗んだ子だね?」
レインは、壁に背をつけて、タブレットを胸に抱えていた。
「……あんたのところの帳簿、本当に杜撰なのね。あれじゃあ、誰でも盗めるわよ」
「口の減らない子だ。……まあいい。君の異能、『世界関数』だったね? 全ての動きを予測する。面白い能力だ。だが、私の分身は、君の予測を超える」
分身が、一歩、レインに近づく。
レインの顔が、初めて、恐怖に歪んだ。
「……来ないで」
俺は、その瞬間、路地に飛び出していた。
「おい、やめろ!!」
分身たちが、一斉に俺を見る。
「ほう? お前は……サンセットレーベンズの新入りか。たしか、遅延蒐集の使い手だとか」
「レインから離れろ。……でないと、お前ら全員、ぶっ飛ばす」
「ははは、面白いことを言う。君の能力は、触れた物の時間を遅らせるだけ。攻撃力はない。そんな能力で、私の分身に勝てると?」
分身が、ゆっくりと近づいてくる。
俺は、レインの前に立った。
「迅くん、何してるの……! 逃げなさい!」
「嫌だね。……こういう時、どうする? 自分に問いかけるんだ。……答えは、決まってる」
俺は、分身の一人に、正面から突っ込んだ。
「なに!?」
分身の拳が、俺の顔面を狙って繰り出される。
俺は、その拳に、自分の手のひらを合わせた。
——遅延蒐集!
分身の拳が、ゆっくりと止まる。
「ぐっ……!? 体が、動かん!」
「今だ、レイン! 逃げるぞ!」
俺は、レインの手を掴んで、走り出した。
「ちょ、ちょっと、迅くん!?」
レインの手は、驚くほど小さくて、冷たかった。
「……逃がすか」
別の分身が、俺たちの前に回り込む。
「前にもいる! ……迅くん、あんた、どうするの!?」
「こうするんだよ!」
俺は、路地の壁を蹴って、分身の頭上を飛び越えた。
「な!?」
着地して、すぐにまた走る。
「あんた、今、壁を蹴って……!? 普通、できないわよ!?」
「必死だったら、なんでもできるんだよ!」
「……計算外よ。あんた、本当に計算外」
俺たちは、道玄坂を駆け下りて、裏通りへ逃げ込んだ。
分身たちは、追ってこない。
「……追手は、来てないわ。多分、ビルから離れられないんだわ。分身の射程距離は、約二キロ。あそこが限界だったの」
レインは、息を切らしながら言った。
俺も、膝に手をついて、荒い呼吸を繰り返す。
「はあ……はあ……助かった、のか?」
「ええ。……助かったわ。あんたのおかげで」
レインは、俺の顔をじっと見た。
「……あんた、私がいないと死ぬわよ」
「え? 逆だろ。俺が助けたんだから」
「いいえ。あんたは、一人で突っ込みすぎる。今日だって、相手が分身じゃなくて本体だったら、死んでたわ。……私の分析が、あんたの命を守る。だから、あんたは、私がいないと死ぬ」
レインの声は、相変わらず冷たかった。
でも、その瞳の奥に、ほんの少しだけ、温かいものが見えた気がした。
「……そうだな。じゃあ、これからも、俺のことを分析してくれよ。俺が無茶しないように、ちゃんと見張っててくれ」
「……え?」
レインが、きょとんとした顔をする。
「俺、まだこのゲームのこと、よくわかってない。だから、レインに教えてほしいんだ。戦い方も、生き残り方も。……ダメかな?」
レインは、しばらく黙っていた。
そして、小さくため息をついた。
「……あんた、本当に変なの。私みたいな、逃げてばかりの奴に、教えを請うなんて」
「逃げるのも、生き残るための戦いだろ? 要さんも言ってた。レインの生き残り方を、俺は学ぶべきだって」
「カナメさんが、そんなことを……」
レインは、少しだけ、うつむいた。
「……わかったわ。教えてあげる。でも、私は、あんたを守るつもりはない。あんたが勝手に学ぶのよ」
「ああ、それでいい。ありがとう、レイン」
俺は、笑顔で言った。
レインは、俺の笑顔を見て、一瞬だけ、照れたような表情をした。
「……礼は、結果で返して。あんた、明日の作戦で、死なないこと。それが、私への一番のお礼」
「ああ、約束する。絶対に、死なない」
俺たちは、夜の渋谷を、レーベンズ・ルームに向かって歩き出した。
レインの計算高さの裏にある孤独。
俺は、その理由を、まだ知らない。
でも、いつか、きっと知りたいと思った。
この小さな情報屋が、なぜ、一人で戦い続けるのかを。
夜風が、生ぬるく吹き抜ける。
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