ダーウィンズゲーム:ゲームオーバーの向こう側
あの日、渋谷で世界が終わった――。
中学の卒業式、親友・シノヅカは言った。「何かあったら、絶対に俺が守るから」。その言葉を胸に、二年後の夏。二人で訪れた渋谷のスクランブル交差点で、突如スマホに浮かんだ蛇の紋章――「ダーウィンズゲームへようこそ」。シノヅカは苦しみながら意識を失い、周囲の人間は二人を認識すらしない。助けるため、迅は自らゲームへと飛び込んだ。
目覚めたのは、誰もいない、空の白い、音のない渋谷。左手首に刻まれた蛇の紋章。与えられた能力は「遅延蒐集(ディレイコレクター)」――触れた物体の時間を約2秒遅らせる、あまりに地味な異能。ポイントを奪い合い、ゼロになれば「転送」される――つまり死。逃げ場のないゲームの中で、迅はかつて母が言った言葉を思い出す。「止めるんじゃなくて、ずらすの。そうすれば、遅れた分は必ず取り戻せるでしょ」。
金属バットを振るうプレイヤーとの初戦闘。遅延蒐集を発動し、辛くも逃走。だが、宮下公園で迅は明確な「視線」を感じる――このゲームのどこかから、誰かが自分を観察している。シノヅカはどこにいるのか。謎の視線の正体は。地味な能力を武器に、少年はゲームの深淵へ
ダーウィンズゲーム:ゲームオーバーの向こう側 - ドクロマスクの狙撃手――道玄坂の罠
道玄坂の空気は、昼間だというのに妙に重たかった。
現実の渋谷なら、この坂道はいつも人で溢れている。買い物袋を提げた若者、急ぎ足のサラリーマン、観光客の笑い声。でも、このゲーム空間の中では、そんな喧騒はどこにもない。あるのは、割れたアスファルトと、風に転がる空き缶の音だけだ。
俺、神崎迅は、道玄坂の入り口にある小さな路地の影に身を潜めていた。隣には、黒いボブカットの少女、柏木鈴音——レインが立っている。彼女は手元のタブレットを操作しながら、時折、鋭い目つきで坂の上を見上げていた。
「金平の本拠地は、この坂の上よ。雑居ビル『ミューチュアル・ビル』。あの男の保険組合、カネヒラ・ミューチュアルの中心地」
レインは、感情のこもらない声で言った。
「ああ。昨日、俺たちが逃げ込んだ場所の近くだよな」
昨日の夜、レインが単独で偵察に出たのを追いかけて、俺はあのビルの近くまで行った。金平の分身に追われて、必死で逃げた。あの時は、本当に死ぬかと思った。
「今日は、あのビルの周辺を調べるわ。昨日の反省を踏まえて、今度はちゃんと準備してから」
「反省……レインが反省するなんて、珍しいな」
「……あんた、私を何だと思ってるの。私だって、失敗から学ぶわ」
レインは、少しむっとしたように言った。十三歳の中学生とは思えないほど大人びているけど、たまにこういう年相応の表情を見せる。そのギャップが、なんだかおかしかった。
「悪かったよ。それで、今日はどうするんだ?」
「まずは、ビルの出入り口を確認する。それから、金平の分身がどのくらいの頻度で巡回しているか、時間を計るわ。あんたは、私の後ろで大人しくしてて」
「了解。俺は、レインの指示に従うだけだ」
俺は、左手首の革バンドを触った。蛇の紋章が、ひんやりと冷たい。
ハンティングゲーム。ターゲットは、ランキング三位、金平英明。あの男を倒せば、シノヅカの手がかりが見つかるかもしれない。要さんはそう言っていた。
シノヅカ。
親友の名前を、心の中で呟く。
あいつは今、現実の病院で眠っている。ゲームに巻き込まれて、意識不明のまま。俺が、このゲームに参加したのは、あいつを助けるためだ。
「……行くわよ」
レインが、路地から一歩踏み出した。
俺も、その後を追う。
道玄坂の坂道は、現実よりもずっと荒れていた。ところどころのアスファルトがひび割れ、雑草が生えている。シャッターの下りた店の前には、ゴミの袋が積み上げられ、生ゴミの匂いが鼻をついた。
「……静かすぎるわ」
レインが、足を止めて呟いた。
「確かに。プレイヤーの気配が、全然ないな」
「嫌な予感がする。……警戒して。金平の分身は、私たちの顔を覚えてるはずよ」
その時だった。
ドンッ、という鈍い音が、坂の上から響いてきた。
「なんだ!?」
「……あっち。ビルの方から聞こえたわ」
俺たちは、音のした方向へ走った。
坂を上りきったところにある、古い雑居ビルの前。そこで、一人の男が、数人の男たちに囲まれていた。
男は、戦闘用のドクロマスクを着けていた。茶髪がマスクの下から覗いている。身長は高く、細身だけど、立ち姿には妙な迫力があった。右手には、小さな拳銃が握られている。
「おいおい、四人がかりで一人を囲むとか、みっともなくねえか? カネヒラの飼い犬どもは、これだから困るぜ」
ドクロマスクの男が、軽い口調で言った。
「うるせえ! てめえ、組合に潜入して何を盗みやがった!」
手下の一人が、鉄パイプを振りかざして叫ぶ。
「盗み? 人聞きの悪いこと言うなよ。俺はただ、お前さんたちのボスがどんな悪党か、ちょっと覗きに来ただけだぜ」
「ぶっ殺してやる!」
手下が、鉄パイプを振り下ろした。
ドクロマスクの男は、ひらりと身をかわす。そして、拳銃を構えずに、空いた左手で手下の手首を掴んだ。
「……お前、嘘ついてるな」
男の声が、急に低くなった。
「な、なにを……」
「『ぶっ殺してやる』——本気で言ってねえだろ。お前、本当は逃げたいんだろ。でも、仲間の手前、引くに引けねえ。そうだろ?」
手下の顔色が、一瞬で青ざめた。
「な、なんで……てめえ、何を知って……」
「俺の異能はな、嘘発見器って言うんだ。お前さんが吐く嘘が、全部見える。赤い靄みたいにな」
嘘発見器。
俺は、その言葉に反応した。
要さんが言っていた。金平の組合に潜入しているプレイヤーがいるかもしれないって。もしかして、この男が……。
「レイン、あの男、助けるぞ」
「え? ちょっと、無茶しないでって言ったでしょ!」
「あのままじゃ、あの男がやられる。それに、あいつは金平の組合に詳しいかもしれない。情報源として、逃がす手はない」
俺は、路地から飛び出した。
「おい、そこのドクロ! 今、助ける!」
手下たちが、一斉にこっちを向いた。
「なんだ、てめえは!」
手下の一人が、俺に向かって鉄パイプを振りかぶる。
俺は、その鉄パイプに手を伸ばした。
触れた瞬間、遅延蒐集を発動する。
ズンッ。
鉄パイプを振り下ろす動きが、まるで水中のように遅くなった。男の腕が、ゆっくりと、ゆっくりと動く。
「な、なんだ!? 体が、動かねえ!」
「今のうちだ、逃げるぞ!」
俺は、ドクロマスクの男の腕を掴んだ。
「おいおい、あんた、いきなり何しやがる」
「いいから、来い! 話は後だ!」
俺たちは、道玄坂を駆け下りた。
レインが、先回りして路地を指さす。
「こっちよ! 裏通りに入って!」
三人で、狭い路地に飛び込んだ。
手下たちの怒鳴り声が、だんだん遠ざかっていく。
しばらく走って、誰も追ってきていないことを確認すると、俺は膝に手をついて息を整えた。
「はあ……はあ……助かった、のか?」
「ああ、どうやらな。……しかし、あんた、面白い能力持ってるな。触った物の時間をずらす、ってところか?」
ドクロマスクの男が、マスクを外した。
現れたのは、眠たげな三白眼の青年だった。茶髪を無造作に伸ばした、マッシュルームカット。年は、二十歳くらいだろうか。右手の指先が、火薬で黄色く染まっている。
「……あんた、誰なんだ?」
「俺か? 俺は前坂隆二。リュージでいいぜ。あんたは?」
「神崎迅。こっちは、柏木鈴音」
「……あんた、金平の組合に潜入してたのね。何が目的?」
レインが、鋭い目つきでリュージを睨んだ。
「目的? そんな大層なもんじゃねえよ。ちょっと、あの保険組合の悪事を暴いてやろうと思ってな。まあ、バレちまったみたいだが」
リュージは、軽く肩をすくめた。
「あんたも、金平を狙ってるのか?」
「まあな。あの野郎、下位のプレイヤーからポイントを搾取して、自分は安全圏でふんぞり返ってる。虫唾が走るぜ」
リュージの声に、ほんの一瞬、鋭い刃物のような響きが混ざった。
「……俺たちは、サンセットレーベンズのクラン員だ。今、金平の情報を集めてる。あんたの持ってる情報を、俺たちに教えてくれないか?」
「サンセットレーベンズ? あの、ハンティングゲームに参加するって噂のクランか?」
「ああ。俺たちは、金平を倒す」
リュージは、俺の顔をじっと見た。
「……面白いな。いいぜ、情報をやる。ただし、条件がある」
「条件?」
「俺も、その作戦に混ぜろ。一人で潜入するのも、もう限界だ。仲間がいるってのは、悪くねえ」
リュージが、ニヤリと笑った。
「……あんた、信用できるの? 私たち、あんたのこと何も知らないわ」
「お嬢ちゃん、心配性だな。でも、安心しろ。俺の嘘発見器は、相手の嘘も見抜くが、自分が嘘をついてないって証明にも使える。……今から言うことは、全部本当だ」
リュージは、右手を胸に当てて、芝居がかった仕草で言った。
「俺は、金平英明に復讐したい。あの男は、俺の……大切な人を、ゲームに巻き込んだ。その結果、その人は、もういない」
リュージの瞳の奥に、暗い炎が揺らめいた。
「……わかった。要さんに話を通す。とりあえず、俺たちの拠点に来てくれ」
「お、話が早いな。いいぜ、行こう」
俺たちは、リュージを連れて、レーベンズ・ルームへ向かった。
レーベンズ・ルームは、宇田川町の雑居ビル三階にある。元は雑貨店の倉庫だった空間を改造した、サンセットレーベンズの拠点だ。
ドアを開けると、要さんがホワイトボードの前で、渋谷の地図を眺めていた。
「迅、レイン。おかえり。……そいつは?」
要さんが、リュージを見て、低い声で言った。
「道玄坂で、金平の手下に追われてたところを助けました。前坂隆二さん。金平の組合に潜入してたそうです」
「おう、あんたがサンセットレーベンズのリーダーか。噂通りの、真面目そうな顔してるな」
リュージが、軽い調子で言った。
「……お前、金平の組合にいたのか」
要さんの声が、一段と低くなった。
「ああ。一週間ほど、下っ端として潜り込んでた。あの組合の内情は、嫌というほど見てきたぜ」
リュージは、ソファにどっかりと腰を下ろした。
「話を聞かせてくれ。金平は、どんな男だ」
要さんが、リュージの向かいに座った。
俺とレインも、近くの椅子に座る。
「金平英明。ランキング三位の実力者だが、見た目は普通のサラリーマンだ。スーツを着て、穏やかな笑顔で、加入者に保険の説明をしてる。……だが、あの笑顔の裏には、とんでもない悪意が潜んでる」
リュージの声が、少しだけ重くなった。
「あの組合は、加入者から毎週、ポイントの三割を『保険料』として徴収する。代わりに、攻撃された時の報復を約束する。だが、実際に報復が実行されたことなんて、ほとんどない。金平は、下位のプレイヤーが怯えてるのをいいことに、ポイントを吸い上げてるだけだ」
「……それだけじゃないだろ」
「ああ。脱退しようとした奴は、ビルの地下に監禁される。俺が潜入してた時も、地下から、かすかにうめき声が聞こえた。何人いるかは、わからなかったが」
「……外道だわ」
レインが、小さく呟いた。
「金平の異能は、分身増殖。最大五体の実体分身を作り出し、本体と分身の位置を入れ替えられる。あのビルには、常時、分身が二体警備してる。これは、組合の下っ端が話してた情報だ。俺の嘘発見器で確認した。……本当だ」
「分身が二体……本体は、どこにいることが多い?」
「三階の執務室にいることが多い。だが、あの男は用心深い。何かあれば、すぐに分身と入れ替わって逃げる。本体を捕まえるのは、至難の業だぜ」
要さんは、しばらく黙って考え込んだ。
「……リュージ、お前の嘘発見器は、本体と分身の区別がつくのか?」
「さあな。分身は、本体と同じ言葉を喋る。嘘も、本体と同じようにつく。……やってみなけりゃ、わからねえ」
「そうか。……迅、レイン。今の情報を踏まえて、作戦を立てる。今夜、あのビルに潜入する」
「今夜!? 急すぎないか?」
「金平は、リュージが逃げたことで警戒を強めるはずだ。時間をかければかけるほど、あのビルの警備は厳しくなる。……やるなら、今夜だ」
要さんの黒い瞳が、真剣な光を放っていた。
「……わかった。やろう、要さん」
「……私も、賛成よ。情報は多い方がいい。それに、今夜なら、金平の不意を突ける」
「へえ、お嬢ちゃんもなかなか大胆だな。……まあ、俺も行くぜ。あの野郎の顔に、一発お見舞いしてやる」
リュージが、不敵に笑った。
「ただし、無茶はするな。全員、無事に帰ってくる。それが最優先だ」
要さんの言葉に、全員が頷いた。
夜が来るまで、俺たちはそれぞれ準備をした。
要さんは、ホワイトボードにビルの見取り図を描き、侵入経路を確認した。レインは、タブレットで金平の分身の行動パターンを分析していた。リュージは、ソファで拳銃の手入れをしながら、時折、窓の外を眺めていた。
「……迅の兄ちゃん、ちょっといいか?」
リュージが、突然、俺に声をかけてきた。
「迅の兄ちゃん? 俺、十六歳なんだけど」
「細かいことは気にすんな。……あんた、どうして金平と戦おうと思った? あの男は、ランキング三位の化け物だぜ。命を懸ける価値があるのか?」
「……俺の親友が、このゲームに巻き込まれて、意識不明になってる。金平を倒せば、その手がかりが見つかるかもしれない。だから、戦うんだ」
「……親友、か。あんた、いい顔してるな。嘘じゃねえ。……あんたの言葉、信じるぜ」
リュージは、そう言って、また窓の外に目を向けた。
「……俺も、あんたと同じだ。復讐の相手が、金平ってだけさ」
その横顔は、どこか寂しげだった。
夜。
道玄坂は、昼間よりもさらに暗く、不気味だった。街灯はほとんど消え、ビルの窓という窓は、黒く沈んでいる。風が吹くたびに、どこかで看板が軋む音がした。
俺たち四人は、ミューチュアル・ビルの裏口に集まっていた。
「作戦を確認する。リュージが嘘発見器で警備の分身の位置を探る。レインが、予測演算で分身の動きを読む。迅は、俺と一緒に突入する。……いいな?」
「ああ」
「ええ」
「了解だぜ。……まあ、あんまり気張るなよ。死んだら元も子もねえ」
リュージが、ドクロマスクを着け直した。
「行くぞ」
要さんが、裏口のドアをゆっくりと開けた。
ギィ、という音が、静かな夜に響く。
中は、真っ暗だった。
「……足音に気をつけろ。分身は、音に敏感だ」
リュージが、小声で言った。
俺たちは、一列になって、廊下を進んだ。
一階は、受付らしきカウンターがあった。昼間は、ここで加入者が手続きをするのだろう。今は、誰もいない。
「……二階に、動きがある。一体だ」
リュージが、目を細めて、上の階を見上げた。
「嘘発見器で、分身の気配がわかるのか?」
「いや、足音だ。俺の耳は、結構いいんだぜ」
「……二階には、加入者の待機所があるわ。分身が、見回りをしてるんでしょうね」
レインが、タブレットを操作しながら言った。
「二階を迂回して、三階へ行く。階段は、あっちだ」
要さんが、廊下の奥を指さした。
俺たちは、足音を殺して、階段へ向かった。
階段を上る。一段、また一段。心臓が、ドクドクと脈打つ。
三階に着いた。
廊下の突き当たりに、金平の執務室があるはずだ。
「……静かすぎる」
レインが、不安そうに呟いた。
「ああ。……何か、おかしい」
その時だった。
パチン、という音がして、廊下の照明が一斉に点灯した。
「なっ!?」
まぶしさに、思わず目を細める。
そして、気づいた。
廊下の壁際に、人影が立っている。
一人、二人、三人……。
「……ようこそ、サンセットレーベンズの皆さん」
スーツを着た、普通のサラリーマン風の男。だが、その顔には、薄気味悪い笑みが張り付いていた。
金平英明の分身だ。
「おやおや、四人もいらっしゃった。これは、歓迎しなければなりませんね」
もう一体の分身が、反対側から現れた。
「……罠か」
要さんが、低く呟いた。
「罠? 人聞きの悪い。私は、お客様を歓迎しているだけですよ。……ですが、無断で入ってこられると、こちらも対処を考えねばなりません」
分身が、一歩、前に出た。
「リュージ、レイン、下がってろ!」
要さんが、叫んだ。
「火神槌!」
要さんの拳が、真っ赤に輝いた。超高熱の炎が、拳を包み込む。
「おっと、危ない。……ですが、あなたの相手は、私ではありませんよ」
分身が、不気味に笑った。
次の瞬間、廊下の天井が、音を立てて崩れた。
「うわっ!?」
瓦礫が、俺たちの前に降り注ぐ。
「迅! レイン! 無事か!?」
「大丈夫だ! レインは!?」
俺は、振り返ってレインを探した。
レインは、俺の少し後ろに立っていた。
だが。
「……残念でしたね。狙いは、あなたです。お嬢さん」
レインの背後に、もう一体の分身が立っていた。
「……え?」
レインが、振り返ろうとした。
その瞬間、分身の手に握られたナイフが、閃光のように走った。
ザシュッ。
「……あっ……!」
レインの小さな体が、くの字に折れた。
腹部から、真っ赤な血が噴き出す。
「レイン!!!」
俺は、叫んだ。
レインが、ゆっくりと倒れる。
黒いボブカットが、血の海に広がる。
「……ああ、すみません。手が滑りました。……ですが、あなたたちが勝手に入ってきたのが悪いんですよ」
分身が、血のついたナイフを、ぺろりと舐めた。
「てめえ……よくも、レインを!!」
頭の奥で、何かが弾けた。
怒りで、視界が真っ赤に染まる。
「迅、落ち着け! まずはレインを!」
要さんの声も、遠くに聞こえる。
俺は、床に落ちていた椅子を掴んだ。
遅延蒐集、発動。
椅子を、分身に向かって投げつける。
「おや、物を投げるなんて、野蛮ですね」
分身が、ひらりと身をかわす。
だが、椅子は、分身の動きに合わせて、時間をずらして軌道を変えた。
「なっ!?」
ドガッ。
椅子が、分身の顔面に直撃した。
「まだだ……まだ、終わってない!」
俺は、廊下の壁に立てかけてあった棚を蹴倒し、その破片を次々と投げつけた。
触れた物の時間を、ずらす。
ずらして、ずらして、ずらして。
分身たちの動きが、少しずつ遅れていく。
「……面倒な能力ですね。ですが、無駄ですよ。私たちは、本体ではありません。あなたの攻撃は、本体には届かない」
分身が、嘲笑うように言った。
「うるさい! お前らを全部倒して、本体を引きずり出してやる!」
「迅、無茶をするな! お前の能力は、連続使用には限界があるはずだ!」
要さんが、俺の肩を掴んだ。
「でも、レインが……レインが!」
「わかってる。だから、まずは撤退する。レインを助けるのが先だ!」
「……くそっ!」
俺は、唇を噛み締めた。
「リュージ! 本体の位置はわかるか!?」
「……ダメだ。分身どもが、入れ替わり立ち替わり、嘘の言葉を吐きやがる。俺の目でも、区別がつかねえ!」
リュージが、悔しそうに叫んだ。
「無駄ですよ。私の分身は、私自身です。嘘も、真実も、すべて私のものです。……あなたたちに、本体を見つけることはできません」
分身が、ゆっくりと拍手をした。
「……下がるぞ。迅、レインを背負え。リュージ、援護しろ」
「わかった」
俺は、血まみれのレインを抱き上げた。
軽い。
十三歳の女の子の体は、あまりにも軽すぎた。
「……ごめん、迅くん。私が……もっと早く、動けてたら……」
レインが、かすれた声で呟いた。
「喋るな! 絶対に、助けるからな!」
「火神槌!!」
要さんの拳が、壁を溶かした。
真っ赤に焼けた穴が、外へと通じる。
「行くぞ!」
俺たちは、その穴から外へ飛び出した。
後ろで、分身たちの嘲笑うような声が聞こえた。
「……逃げても無駄ですよ。あなたたちは、もう、私の獲物です」
その声は、夜の闇に溶けていった。
レーベンズ・ルームに戻ると、俺はレインをソファに横たえた。
腹部の傷は深い。血が、止まらない。
「リュージ、救急箱はどこだ!?」
「待て、俺がやる。……俺は、こういう時の手当てには慣れてる」
リュージが、慣れた手つきで、レインの服を切り裂き、傷口を確認した。
「……運がいい。内臓までは達してない。だが、血が足りない。このままじゃ、危険だ」
「どうすればいい!?」
「补给ポイントで、簡易医療品を手に入れる。俺が行ってくる」
「俺も行く!」
「迅、お前はレインのそばにいろ。……お前が一番、レインの安心になる」
要さんは、そう言って、部屋を出て行った。
「……迅くん」
レインが、うっすらと目を開けた。
「レイン、喋るな。今、要さんが薬を……」
「……私、計算通りに動けなかった。あの分身の動き、予測できたはずなのに。……ごめん、迅くん。私が、もっと早く動けてたら」
「違う! 悪いのは、俺だ。俺が、もっと強ければ、お前を守れた。……俺の能力が、もっと強ければ!」
俺は、拳を握りしめた。
爪が、手のひらに食い込む。
「……あんたの能力は、悪くねえ。時間をずらす。あれは、使い方次第で、とんでもない力になる。……俺の嘘発見器も、あの野郎には通じなかった。悔しいが、相性が悪すぎる」
リュージが、苦々しげに言った。
「……金平は、本気で俺たちを殺しに来てる。あの分身の動き、明らかに殺意があった。……これ以上、あの男を野放しにはできない」
要さんが、补给ポイントから戻ってきた。
手には、白い医療キットが握られている。
「レイン、これを飲め。止血剤だ」
「……ありがとう、カナメさん」
レインが、弱々しく薬を飲んだ。
「今夜は、もう動くな。レインの容態が安定するまで、俺たちは待つ。……だが、金平は、確実に俺たちを狙ってくる。次の接触は、もっと激しいものになる」
要さんの声は、静かだった。
でも、その静けさが、逆に怖かった。
「……迅、お前は、自分の能力を過信するな。お前の遅延蒐集は、まだ発展途上だ。無理に連続使用すれば、お前自身が壊れる」
「……わかってる。でも、あの時は、そうするしかなかった」
「ああ。……お前の判断は、間違ってなかった。レインを助けるために、よく動いた。だが、次は、もっと上手くやれ」
要さんが、俺の肩を、ポンと叩いた。
「……はい」
俺は、うつむいた。
レインの「ごめん、迅くん」という言葉が、頭から離れない。
ごめん、じゃない。
謝るべきなのは、俺の方だ。
俺が、もっと強ければ。
俺の能力が、もっと、もっと強ければ。
レインに、こんな思いをさせずに済んだのに。
「……まだだ。まだ、終わってない」
俺は、呟いた。
窓の外では、夜の渋谷が、静かに、しかし確実に、何かの気配を孕んでいた。
金平英明は、きっと、もう次の手を打っている。
俺たちは、このままでは、負ける。
でも、負けるわけにはいかない。
レインを守るためにも。
シノヅカを助けるためにも。
俺は、もっと強くならなければならない。
遅延蒐集の、本当の力に、気づかなければ。
夜風が、カーテンを揺らした。
レインの寝息だけが、静かな部屋に響いていた。Noveliaとは?
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