冷たい指輪と、あたたかい嘘
桐島 花(27歳)は、ごく普通の会社員。そんな彼女に、巨大企業クロスフィールド社の後継者である黒崎 蓮(29歳)から、思いがけない提案が舞い込む――契約結婚だ。蓮は会社を継ぐために結婚しているように見せかける必要があり、花は病気の父親の医療費のためにお金が必要だった。どちらにも断る理由はなかった。
二人は「ビジネスパートナー」として同じアパートに暮らし始める。蓮は初日から冷たく、雑談も個人的な質問も一切なし。しかし一緒に暮らすうちに、花は少しずつ気づき始める。彼はこっそり彼女の好きなパンを買い置きし、風邪をひいたときには何も言わずに枕元にスポーツドリンクを置いていく。
そんな時、幼なじみでイケメンの医師・小野 颯太(28歳)が現れる。ずっと花に想いを寄せていたが、なかなか告白できずにいた彼は、契約結婚の話を聞いて慌てて告白する。「本当に俺に気持ちがなかったの?あの冷たい男で本当に大丈夫なの?」
花は動揺する。蓮への募る想いと、颯太とのあたたかい過去がぶつかり合う。さらに蓮の美しい元恋人であるビジネスウーマン、真野 澄(30歳)が現れ、花に囁く。「あの男は誰かを本当に愛することがで
冷たい指輪と、あたたかい嘘 - 蕾のまま咲けない花——契約結婚の朝
封筒が、テーブルの上に置かれていた。
厚みのある白い封筒。差出人の欄には几帳面な文字で「クロスフィールド法務部 顧問弁護士 針生圭吾」と書かれている。
桐島花は、しばらくそれを見つめたまま動けなかった。
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話は、数時間前に戻る。
文京区根津。築35年の木造2階建て。小さな玄関を開けると、どこか懐かしい古い畳の匂いがする。花が育った家だ。今は父・宗一郎がひとりで暮らしている。
花が仕事帰りに寄ると、宗一郎はリビングのソファにぐったりと倒れていた。
透析の帰りだ、とすぐにわかった。週3回、彼は人工透析のために病院へ通っている。終わった後はいつもこうなる。顔色が悪く、体の力が全部抜けたみたいに、ただそこにある。
花は栗色の髪を耳にかけながら、そっとそばに座った。背丈は160センチ、普通体型。今日も会社帰りそのままの格好で、淡いピンクのブラウスにグレーのスカート。左手の薬指には母から譲られた銀のリングが光っている。長年の事務仕事で少し乾燥した手が、そっと父の腕に触れた。
「起こしてごめんな」
宗一郎が目を開けた。申し訳なさそうな、でも少し安心したような顔。62歳。頭に白いものが増えて、昔より随分小さく見える。
「[gentle]全然大丈夫だよ」
花は笑った。
自然に、すんなりと。
でも、台所が目に入った瞬間、その笑顔の裏で何かが冷えた。
テーブルの上に、封筒が束になって積まれている。医療費の請求書だ。
花は気づかないふりをして宗一郎にお茶を作った。湯を沸かしながら、横目でちらりと確認する。一番上の封筒の金額だけで、もう指が止まりそうになった。
月に40万円。それが父の透析にかかる費用だ。高額療養費制度が使えてもそれだけかかる。花の月給は20万円ちょっと。数字が合わない。ずっと合わない。合わないまま、もう何年も経っている。
「[sad]心配かけてすまないな」
宗一郎がまた言った。お茶を受け取りながら、照れくさそうに笑う。
その顔が、胸に刺さる。
(全然大丈夫じゃない)
そう思った。でも言えない。言ったって何も変わらない。変わらないどころか、父をもっと追い詰めるだけだ。だから花はまた笑う。
「[gentle]大丈夫。気にしないで」
本音を隠すのは、もう得意になってしまった。
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夜。
宗一郎が先に眠って、花はひとりリビングに残った。
仏壇の前に座る。小さな写真立ての中で、母・桐島陽子が笑っている。花が18歳のとき、交通事故で亡くなった。もう9年も前のことだ。
線香に火をつけると、細い煙がゆっくりと立ち上がった。
「[whispers]お母さん、私がんばるから」
小さな声で言う。誰に聞かせるわけでもなく、ただ呟く。
庭に目を向けると、窓の外に紫陽花の株が見えた。母が植えたやつだ。毎年梅雨になると、大きな花を咲かせる。でも今はまだ固い蕾のまま、うつむいている。
なんか自分みたいだなと、花はぼんやり思った。
その時だった。
郵便受けがカチャリと鳴った。
こんな時間に? 首をかしげながら玄関に出る。郵便受けを開けると、白くて分厚い封筒が入っていた。
差出人:クロスフィールド法務部 顧問弁護士 針生圭吾。
クロスフィールド——。
花でも知っている名前だ。不動産、金融、ITを手がける巨大な会社。港区虎ノ門に本社ビルを構えていて、年商は4800億円とかそういう話をニュースで見た気がする。日本のどこかで誰かが家を買ったり、お金を借りたりするとき、たいてい裏側にその会社がいる。そういう存在だ。
なんでそんな会社から、自分に手紙が来るんだろう。
封を開ける。丁寧な書体で、びっしりと文章が書かれている。
花は立ったまま読み始めて、途中で床に座り込んだ。
契約結婚の提案、と書いてあった。
条件は箇条書きになっていた。
——期間、2年。
——月額報酬、80万円。
——父の医療費、全額負担。
——恋愛感情の持ち込み禁止。
——互いの私生活への不干渉。
何度も読んだ。
3回、4回、5回。
文字の意味は分かる。でも現実として飲み込めない。月80万円。父の医療費、全額。2年間、クロスフィールドの御曹司・黒崎蓮の妻として振る舞うこと——それだけで。
(こんなうまい話、あるわけない)
そう思う。でも目が台所の方へ動いた。テーブルの上の、あの請求書の束。次の透析費用は、もう払えるかどうか分からない。
手が震えていることに気づいた。
花は契約書を両手でぎゅっと握った。
「[serious]……行くしかない」
声に出した。小さく、でもはっきりと。
庭の紫陽花がまだ、固い蕾のままそこにあった。
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翌朝。
花はクローゼットの奥から、ネイビーのスーツを引っ張り出した。就活以来、一度も着ていないやつ。ハンガーにかけてみると、しわが一本入っている。アイロンをかけて、なんとか形にした。
鏡の前に立つ。
いつもの自分とは少し違う顔が映っていた。茶色の瞳が、緊張でちょっと硬い。栗色の髪はきっちりひとつにまとめた。手の乾燥が少し目立つな、と思って、ハンドクリームを丁寧に塗ってから家を出た。
電車に乗り、港区・虎ノ門へ向かう。
普段は文京区と中央区の間を行き来する生活だ。文具メーカー「トリスタ文具」の営業事務として5年、受発注の管理をしたり、見積書を作ったり、来客対応をしたり。淡々としているけど、それなりに好きな仕事だった。
でも今日は、その世界とは全然違う場所へ行く。
虎ノ門の駅を出た。
それで、クロスフィールドタワーが目に入った。
でかい、と思った。でかいとか、そういう次元じゃなかった。地上38階建てのガラスと鉄のビルが、朝の光を全部反射して輝いている。周りのビルが全部小さく見える。花が毎日通っているトリスタ文具の日本橋オフィス、あのビル全体がここのエントランスにすっぽり入りそうなくらいだ。
足が止まった。
(私、場違いすぎる……)
スーツを着てきたけど、全然足りない気がする。自分がものすごく浮いている気がする。あの自動ドアを押して中に入れるのか、そもそも自分みたいな人間が——。
その瞬間、父の顔が浮かんだ。
ソファにぐったりと倒れていた、あの顔。小さくなったなと思った、あの顔。心配かけてすまないな、と言った、あの笑顔。
花は一度深く息を吸って、足を踏み出した。
父を守るためなら、何だってやる。
エントランスを入ると、1階のロビーに高さ8メートルくらいのガラスアートが飾られていた。橋をモチーフにしたやつで、光が当たるとキラキラと色が変わる。社是が「架橋と開拓」なんだと、昨夜読んだ書類に書いてあった。なるほどな、と思った——全然なるほどじゃないけど。
受付に近づくと、スーツ姿の女性スタッフが顔を上げた。
「[serious]桐島、花、と申します。黒崎会長との……お約束があって」
名前を告げると、スタッフは微笑んだ。
「お待ちしておりました、桐島様」
その一言が、余計に心臓に来た。待ってた、ということは、向こうは最初から来ると思っていたわけだ。断る選択肢なんて、最初からなかったみたいに。
専用エレベーターへ案内される。ドアが閉まると、花はそこで初めて小さく息を吐いた。
鏡張りのエレベーターに自分が映っている。
ちゃんとしてる、と思った。外見だけは。
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最上階。会長室。
重い扉を開けると、部屋の奥に男が立っていた。
窓を背にして立っているせいで、逆光になっている。でも威圧感は、それだけでもう十分すぎるくらいだった。
グレーのスーツ。ほぼ白に近い銀髪をきっちりと整えて、背筋がまっすぐだ。顔には深い皺。でもそれが老いに見えない。研ぎ澄まされた、という感じ。鋭い目つきが、花を真っすぐに捉えた。
黒崎剛一。クロスフィールドの会長、61歳。書類にそう書いてあった。
花は「失礼します」と言って、頭を下げた。
剛一は何も言わなかった。
長い沈黙。花は頭を上げながら、彼の視線を正面から受け取った。足元から、ゆっくりと、値踏みするように。
「[cold]君のような普通の女性が、うちの息子の相手としてふさわしいと思うかね」
静かな声だった。怒鳴っているわけでもない。ただ、冷たい。石みたいに冷たい。
心臓がドクンと跳ねた。
怯みそうになった。一歩、引きそうになった。
でも——。
「[serious]ふさわしいかどうかは、私が決めます」
言葉が出た。
自分でも驚いた。ちゃんとした声だった。かすれてもいないし、震えてもいない。
剛一の目が、一瞬だけ変わった。
何かを、確かめるような目だった。
それからゆっくりと、鼻で笑った。嘲笑ではなく——なんだろう、少しだけ意外そうな、そんな感じの笑い方。
彼はデスクに歩み寄り、上に置かれた書類を花の前に差し出した。
契約書。昨夜読んだのと同じ内容が、より正式な形で印刷されている。顧問弁護士・針生圭吾の署名がすでにあった。
花はペンを受け取った。
少し止まった。本当に少しだけ。
それからサインした。
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エレベーターのドアが閉まった。
その瞬間、膝がガクガクと震え出した。
すごい。こんなに震えるものなのか。
1階に着く。ドアが開く。花はフラつきながらエレベーターを出て、近くの壁にもたれかかった。心臓がバクバクしている。さっきから全部ちゃんとやれていたはずなのに、体の方が今になって「怖かったんだけど!」と言い始めた感じがする。
(何をしてしまったんだろう)
でも。
(もう後には引けない)
ロビーを行き交うスーツ姿の人たちが、花の横をさっさと通り過ぎていく。みんな目的地がある。みんなちゃんと歩いている。花だけが壁にもたれて、ひとりで動けない。
高さ8メートルのガラスアートが、正面に見えた。光の加減で、さっきとは違う色に輝いている。青みがかった白。
橋、か。
架橋と開拓。
橋を渡るのって、けっこう怖いもんだよな。と花はぼんやり思った。渡り終えるまで、落ちないか不安じゃないか。
でも渡らなかったら、向こう岸には行けない。
花はゆっくりと壁から離れた。
足が、まだ少し震えている。それでも一歩、踏み出した。
出口へ向かって、歩き始めた。
来週。レジデンス・プリズマへの引越し日が迫っている。
花はまだ、契約結婚の相手の顔を知らない。