冷たい指輪と、あたたかい嘘
桐島 花(27歳)は、ごく普通の会社員。そんな彼女に、巨大企業クロスフィールド社の後継者である黒崎 蓮(29歳)から、思いがけない提案が舞い込む――契約結婚だ。蓮は会社を継ぐために結婚しているように見せかける必要があり、花は病気の父親の医療費のためにお金が必要だった。どちらにも断る理由はなかった。
二人は「ビジネスパートナー」として同じアパートに暮らし始める。蓮は初日から冷たく、雑談も個人的な質問も一切なし。しかし一緒に暮らすうちに、花は少しずつ気づき始める。彼はこっそり彼女の好きなパンを買い置きし、風邪をひいたときには何も言わずに枕元にスポーツドリンクを置いていく。
そんな時、幼なじみでイケメンの医師・小野 颯太(28歳)が現れる。ずっと花に想いを寄せていたが、なかなか告白できずにいた彼は、契約結婚の話を聞いて慌てて告白する。「本当に俺に気持ちがなかったの?あの冷たい男で本当に大丈夫なの?」
花は動揺する。蓮への募る想いと、颯太とのあたたかい過去がぶつかり合う。さらに蓮の美しい元恋人であるビジネスウーマン、真野 澄(30歳)が現れ、花に囁く。「あの男は誰かを本当に愛することがで
冷たい指輪と、あたたかい嘘 - 砕けた世界、残されたメロンパン——どん底の夜
プリンの甘さが、まだ舌の奥に残っている気がした。
昨夜の廊下でのやりとり——「冷蔵庫に入れておかないと傷む」と言いながら書斎に消えた蓮の背中。あの言葉が、花の頭の隅でまだぐるぐると回っていた。
今日、蓮は朝から機嫌がよくも悪くもなく、いつも通りだった。スーツを着て、書類を手に持って、玄関を出る前に一言だけ「今日は遅い」と言った。それだけ。
でも花が気づいていたのは、その朝、蓮がキッチンのカウンターに袋を一つ置いていったことだ。コムギノカゼの袋。谷中まで行かないと買えない、あのクルミパンと——メロンパンが、一つずつ。
(また行ってきたんだ。電車に乗って)
花はその袋を見て、少し変な気持ちになった。嬉しいのか恥ずかしいのか、うまく説明できない感覚。でも昼食は、颯太への返事をどうするかという考えに追われて、手をつけないまま時間が過ぎた。
メロンパンは、夕方になっても袋の中にあった。
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クロスフィールドタワーの38階、カンファレンスホール・アーチ。
収容人数60名の大会議室は、今日の重役会議のために埋まっていた。磨き上げられた長テーブル。高い天井。港区の景色が窓から広がっている。
蓮はスクリーンの前に立っていた。
黒髪に赤のメッシュ。185センチの背丈。右耳のイヤーカフが、会議室の照明を反射してかすかに光っている。その立ち姿は、この場所に生まれつき属しているように見えた。
プレゼンは順調だった。
次期後継者としての経営ビジョン。IT部門の刷新計画、不動産事業の海外展開、ESG投資への転換。資料は完璧に整理されていて、数字の根拠も明快で、重役たちの反応も悪くなかった。何人かは頷いていた。
蓮が結論のスライドに移ろうとした、その瞬間だった。
テーブルの上座に座っていた黒崎剛一が、静かに立ち上がった。
61歳。クロスフィールド会長。蓮の父。冷たい眼光と、抑制された動作。会議室の空気が、その立ち上がった動作だけで少し変わった。
「[serious]皆さんに、お伝えしなければならないことがあります」
声は穏やかだった。でもそれが余計に不気味だった。
蓮が眉をわずかに動かした。
剛一がリモコンを操作した。スクリーンの画面が切り替わる。
蓮の目が、固まった。
そこに映し出されていたのは——契約書だった。
花と蓮が交わした、あの契約書のコピー。「期間は2年」「恋愛感情を持ち込まない」「月額80万円」「協議離婚」——全ての条項が、60名の目の前でスクリーンに映えていた。
「[serious]この結婚は、後継者として認められるための、パフォーマンスです」
淡々と言い切った。
会議室が凍りついた。
重役たちが互いに顔を見合わせる。小声のざわめき。テーブルの端——征司が、唇の端をほんのわずかに上げていた。目は正面を向いたまま、でもその口角の動きだけが全てを語っていた。
(征司が渡した)
蓮は、立ったまま、動けなかった。
反論できない。契約は事実だ。「本気だ」と言えるプライドも、今ここでそれを言えば涙を流した人間のように見える恐怖も、全部が重なって——蓮の口は、完全に閉ざされた。
胸の奥で、何かが壊れていく音がした。
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ドアが、勢いよく開いた。
全員の視線が、そちらへ向いた。
息を切らして、花が飛び込んできた。
栗色の肩までの髪が乱れている。スーツ姿——昼休みに抜け出してきた格好のまま。頬が赤い。走ってきたのか、タクシーを降りてからここまで駆け上がってきたのか。茶色の瞳が、会議室を一瞬で見渡して、蓮を見つけた。
柏木から届いたメッセージは、一言だけだった。「蓮様が大変です」。それだけで十分だった。
「[crying]この結婚は——本物です」
声が、震えていた。
重役たちが黙る。剛一でさえ、静かに花を見つめた。
花は続けた。声が涙でにじんでいる。
「[crying]確かに最初は、契約でした。でも今の私は——」
そこで、涙が止まらなくなった。
花自身、この瞬間まで、自分の気持ちをここまで明確に感じていなかった。でも言葉が口から出てきた。体が先に知っていた。この人のことが——好きだ。
場の空気が揺れた。誰かが咳払いをした。誰かが、花から目を逸らした。
そして蓮が口を開いた。
静かな声だった。でも刃のように鋭かった。
「[cold]余計なことをした」
花が、固まった。
「[cold]お前は契約通り、黙っていればよかった」
感情がない声だった。
でも花には分かった。蓮の銀色の瞳が、一瞬だけ揺れていた。ほんの一瞬だけ。でもすぐに、氷のように戻った。
花の顔から、表情が消えた。
ジワリと、胸の真ん中が痛くなった。骨が折れるとか血が出るとかじゃない。もっと静かで、もっと深いところが、ぐ、と潰れる感覚。
重役たちがざわめいている。その音が、遠く聞こえた。
花はゆっくりと頭を下げた。視線を床に落としたまま、踵を返した。
会議室のドアが、静かに閉まった。
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エレベーターの中が、静かだった。
花は壁にもたれた。膝に手を当てて、唇を強く噛む。泣き声が出そうで、出したくなくて、肺の奥に押し込めた。うまくいかなかった。空気が震えるような嗚咽が、のどを上がってくる。
42階のボタンが光っている。
ペントハウスの玄関を開けた。広いリビング。静かすぎる部屋。花は真っ直ぐクローゼットへ向かった。
スーツケースを引っ張り出す。ゴロゴロと転がる音が、静寂を割った。
服を畳む。手が震えていた。震えているのに畳もうとしている、その動作が自分でもおかしかった。でも止められなかった。ちゃんと畳んで出ていかないと、何か大事なものを忘れてしまうような気がした。
化粧品。手帳。母から譲られたシンプルな銀のリング——はずさなかった。
リビングを横切った時、足が止まった。
キッチンのカウンターに、袋がある。
コムギノカゼの袋。今朝、蓮が谷中から買ってきた。クルミパンとメロンパンが、手つかずのまま残っている。
(今朝も、電車に乗って買いに行ったのに)
その瞬間、声を殺した嗚咽が漏れた。
唇を手の甲で押さえた。でも止まらなかった。肩が震える。なんで、と思った。なんでこんなにちゃんとしてくれるのに、あんなことを言うんだろう。なんでこんなに遠いんだろう。
花はメロンパンに手を伸ばした。袋の上から、少しだけ触れた。それからそっと、手を離した。
背を向けた。
「[gentle]花様——」
玄関の方から、柏木の声がした。エレベーターホールまで出てきていたらしい。穏やかな45歳の顔が、今は心配そうに曇っている。
花はエレベーターのボタンを押した。振り返らなかった。
扉が開く。スーツケースを引いて乗り込む。扉が閉まる。
一人になった。
花はその場でずるずるとしゃがんだ。スーツケースの取っ手を両手で握ったまま、小さくなった。泣いていた。声もなく、ただ涙が出た。
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「[crying]もう……帰るところが、ない」
電話口で、声がそう漏れた。
颯太は一秒も間を置かなかった。
「[serious]来い。すぐ来い」
それだけ言った。
文京区・小野クリニック。築28年の3階建てのビル。3階が颯太の住居で、クリニックの裏手に颯太の知り合いが貸しているアパートがある。颯太はそこを手配して、花を待っていた。
白衣は脱いでいた。普段着のシャツ。淡い銀色のくせ毛が、少し乱れている。花が到着した時、颯太はクリニックの裏口の前に立っていた。黄金色の瞳が花を見て、一瞬だけ何かをこらえるように細くなった。
何も聞かなかった。
「[gentle]こっちだよ」
それだけ言って、先に歩いた。
裏手のアパートの1階、6畳一間。清潔だけど素っ気ない部屋。颯太が麦茶を持ってきて、花の隣に座った。二人分の距離を、少しだけ開けて。
花は少し落ち着いてから、ぽつぽつと話した。
会議室のこと。スクリーンに映った契約書のこと。「余計なことをした」という蓮の声。
颯太は黙って聞いた。
途中、颯太の手がテーブルの上でぐっと握りしめられたのを、花は見た。怒りをこらえているのが分かった。でも颯太は声に出さなかった。
全部話し終わった後、颯太はゆっくり口を開いた。
「[gentle]ここにいていいよ」
それだけだった。それ以上でも以下でもなかった。
花の体が、少しだけほぐれた。
温かい。颯太の部屋は温かい。麦茶も温かい。颯太の声も、いつも通り穏やかで、責めない。
なのに。
頭の中に、メロンパンが浮かんだ。袋の上から触れた、あのやわらかい感触。蓮が電車に乗って谷中まで行って買ってきた、あのパン。「冷蔵庫に入れておかないと傷む」と言いながらプリンを置いた夜。バルコニーで「14の時に死んだ」と震えながら言った声。タクシーの中で、窓の外を向いたまま「助かった」と漏らした一言。
——余計なことをした。
あの声が、耳から離れない。
颯太の隣にいるのに、蓮のことしか考えられない自分が情けなかった。花はうつむいた。また涙が滲んできた。
颯太がそれに気づいていないはずがなかった。
颯太は花の背中を見ていた。何も言わなかった。静かに立ち上がって、麦茶をもう一杯注いだ。花の前に、そっと置いた。
その動作の中で、颯太は理解し始めていた。
先日の庭での告白。「今は答えられない」という花の言葉。あの時は、まだ分からなかった。でも今夜、この涙の理由を見れば——答えは、もうとっくに出ている。
颯太は椅子に座り直した。花の隣に、少し離れて。温かいお茶が、湯気を立てていた。
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ペントハウスの玄関が、静かに開いた。
蓮が帰宅したのは、夜遅かった。
誰とも話さなかった。会議の後、誰かが声をかけてきたはずだが、何を言われたか覚えていない。ただ車に乗って、ここに帰ってきた。
玄関を開けた瞬間、気づいた。
花の靴が、ない。
リビングに入る。電気を点ける。クローゼットが開いたままだった。スーツケースが消えていた。
静かだった。
静かすぎた。
鼻歌も、冷蔵庫を開ける音も、どこかでスマホを落とす間の抜けた音も——何もない。
蓮はキッチンに歩いていった。
カウンターの上に、コムギノカゼの袋がある。今朝、電車に乗って谷中まで行って買ってきた。クルミパンと、メロンパン。花が食べなかった。手つかずのまま、ここにある。
蓮は椅子に座った。
袋を見た。
部屋が静かすぎて、自分の呼吸の音だけが聞こえた。
会議室で言った言葉が、頭の中で繰り返されていた。「余計なことをした。お前は黙っていればよかった」——言った。確かに言った。花が「本物です」と叫んだ瞬間、自分が本気にならざるを得なくなる状況が怖くて、一番残酷な方法で遮断した。
花の顔が、浮かんだ。表情が消えた瞬間の顔。頭を下げて出ていく後ろ姿。
胸の真ん中に、重たい空洞が広がっていた。
これを知っている。この感覚を、知っている。
14歳の冬。病院の廊下。母が死んだと告げられた夜——その時と同じ種類の、何かが永遠に欠けてしまったような感覚。
(取り返しのつかないことをした)
初めて、そう思った。プライドでも恐怖でもなく、ただそれだけが胸の中に残った。
蓮はメロンパンに手を伸ばしかけた。
止まった。
花が食べなかったなら、自分も食べられない。理由は言葉にできない。ただ、そう思った。
袋を、静かにカウンターに戻した。
部屋の中に、風が吹くことも、誰かが動く音もなかった。蓮はしばらく、そこに座ったままでいた。
胸の空洞の中で、何かがかすかに動いていた。まだ形にならない何かが。壊れたと思った瞬間に、何かが始まろうとしているような——そんな感覚だけが、暗い部屋の中にあった。