冷たい指輪と、あたたかい嘘
桐島 花(27歳)は、ごく普通の会社員。そんな彼女に、巨大企業クロスフィールド社の後継者である黒崎 蓮(29歳)から、思いがけない提案が舞い込む――契約結婚だ。蓮は会社を継ぐために結婚しているように見せかける必要があり、花は病気の父親の医療費のためにお金が必要だった。どちらにも断る理由はなかった。
二人は「ビジネスパートナー」として同じアパートに暮らし始める。蓮は初日から冷たく、雑談も個人的な質問も一切なし。しかし一緒に暮らすうちに、花は少しずつ気づき始める。彼はこっそり彼女の好きなパンを買い置きし、風邪をひいたときには何も言わずに枕元にスポーツドリンクを置いていく。
そんな時、幼なじみでイケメンの医師・小野 颯太(28歳)が現れる。ずっと花に想いを寄せていたが、なかなか告白できずにいた彼は、契約結婚の話を聞いて慌てて告白する。「本当に俺に気持ちがなかったの?あの冷たい男で本当に大丈夫なの?」
花は動揺する。蓮への募る想いと、颯太とのあたたかい過去がぶつかり合う。さらに蓮の美しい元恋人であるビジネスウーマン、真野 澄(30歳)が現れ、花に囁く。「あの男は誰かを本当に愛することがで
冷たい指輪と、あたたかい嘘 - 紫陽花が咲く庭で——契約じゃない、本物の言葉
あの夜から、花はずっと起きていた。
颯太が手配してくれた6畳一間のアパートで、天井を見上げたまま夜が明けた。明かりをつけていない部屋に、朝の白い光がカーテンの隙間から差し込んでくる。
メロンパンのことを、何度も思い出した。
袋の上からそっと触れた時の感触。蓮が電車に乗って谷中まで行って、コムギノカゼで買ってきたパン。一言も言わずに、毎朝カウンターに置いてあった。
(なんで、あんなことを言ったんだろう)
「余計なことをした」——その声が、耳の奥でまだ響いている。
でも。
「俺は最低な男だ」と声が震えているかもしれない蓮のことを、花は頭から追い払おうとして、追い払えなかった。
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文京区根津の桐島家は、朝の光の中で静かだった。
梅雨の時期特有の、雨上がりの空気。湿った土の匂いがして、小さな庭の紫陽花が、青と紫の花を重そうに揺らしている。雨粒が一滴ずつ、花びらの上を転がって落ちていく。
蓮が、フェンスの前に立っていた。
黒いシンプルなシャツ。いつものスーツではない。右耳のシルバーのイヤーカフだけが、朝の光を受けてかすかに光っていた。黒髪の赤いメッシュが、風もないのになんとなく乱れている。
インターホンを、押せなかった。
来るまでは分かっていた。颯太のクリニックで「明日、花のいる場所を自力で調べる」と決めてから、ずっとそこに向かっていた。コンシェルジュの柏木が、以前花の父・宗一郎宛ての郵便物から実家の住所を把握していたことを教えてくれた。「蓮様、最近様子がおかしいと思っていました」と柏木は言って、メモを差し出した。
なのに、ここに来て——庭の紫陽花を見た瞬間、足が止まった。
これが花の世界だ、と思った。
谷中の商店街。コムギノカゼの袋。母から譲られたシンプルな銀のリング。そしてこの、手入れのされた小さな庭の花。蓮がいた世界——タワーマンションのペントハウス、役員会議室、ホテルのバーラウンジ——とは全く違う場所に、花はいた。
(俺が来ていいところなのか、ここは)
情けない、と思った。29歳になって、人の家の前で動けなくなっている。
縁側から、足音がした。
庭に出てきたのは、年配の男性だった。白いシャツに、くたびれたエプロン。洗濯物を取り込もうとしていたらしく、手にタオルを持っている。それが花の父・桐島宗一郎だと、蓮には分かった。62歳。慢性腎臓病で週三回透析に通っている。でも今この瞬間、その人は医療費の話でも契約の話でもなく——フェンスの外に立っている蓮をまっすぐ見て、無言で玄関の方を指さした。
追い払うわけでも、値踏みするわけでもない。
ただ——来たなら入れ。そういう顔だった。
蓮の中で何かが動いた。
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花が玄関を開けたのは、父から「外に誰かいる」と告げられてから三分後だった。
フェンスの横に、蓮が立っていた。庭の紫陽花を向いたまま、背中を花に向けている。その背中を見た瞬間、花の頭から全ての言葉が消えた。
蓮が、ゆっくり振り返った。
スーツじゃない。シンプルな黒いシャツ。いつも鋭く整っている銀色の瞳が——今日は少し違う。疲れているような、でも何か決めてきたような、不思議な顔をしていた。
花は声をかけようとした。でも先に蓮が口を開いた。
「[serious]……紫陽花、きれいだな」
「[surprised]え」
「[serious]お前の母親が植えたやつか」
花は少し間を置いてから、頷いた。「[gentle]そうです。毎年この時期に咲くんです」
蓮はもう一度、花を見た。それから視線を地面に落として、ゆっくり息を吸った。
しばらく、沈黙が続いた。
雨上がりの空気がひんやりしていて、紫陽花の青が鮮やかだった。どこかで鳥が鳴いていた。
「[cold]……俺は」
言いかけて、蓮が止まった。喉の奥で、何かが引っかかっているみたいに。
(この人、何を言おうとしてるんだろう)
花は黙って待った。
「[serious]14の時に、母が死んだ」
静かな声だった。でも、その一言の重さに、花の体が少しだけ固まった。3話のバルコニーで、震えながら短く言っていた言葉と同じだ。でも今日は——何かが違う。
「[serious]それからずっと、誰かを本気で好きになるのが怖かった。また失うのが怖かった。だから……感情を入れないルールを作った。契約にすれば傷つかなくて済むと思ってた」
蓮は花から少し目を逸らした。
「[serious]でも——お前がメロンパンを嬉しそうに食べてる顔を見た時。風邪をひいた夜、眠れなくて枕元にポカリ置いた時。会議室に飛び込んできたお前を、失いたくないと思った瞬間」
声が、かすかに震えた。
「[serious]全部、本物だった」
花の目から、涙が出てきた。止めようとしたけど、止まらなかった。
「[serious]……俺は最低な男だ。怖くて、プライドを捨てられなくて、お前を突き放した。あんな言い方をした」
蓮が花を見た。その銀色の瞳が、揺れていた。普段は絶対に見せない、剥き出しの顔をしていた。
花は泣いていた。でも、笑ってもいた。
「[crying]……最悪な告白の仕方ですね」
「[serious]……分かってる」
一歩、蓮に向かって歩いた。
二歩。
そして——蓮の胸に、顔を押し付けた。
しばらく、蓮は動かなかった。どうすればいいか分からない、みたいに少し固まっていた。でもそれからゆっくり、両腕が花の背中に回ってきた。
ぎこちなかった。それでも——きちんと、抱きしめてくれた。
花の母が植えた紫陽花が、雨粒を弾いて揺れていた。
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しばらく経って、蓮が花をそっと離した。
何も言わずにポケットに手を入れて、小さな箱を取り出した。
契約の際に弁護士事務所が用意したリングとは全然違う、地味なくらいシンプルな指輪が入っていた。でも——これは蓮が自分でジュエリーショップを回って選んだものだ、と花には分かった。どうして分かるのか、うまく説明できないけれど。
「[serious]契約書は破棄する」
蓮の声が、少し低かった。
「[serious]今度は——本物として、隣にいてくれ」
花の左手を、少し迷うようにして取った。指輪をはめようとして——蓮の手が、わずかに震えていた。
この人が震えているのを、花は初めて見た。
花は自分から指を差し伸べた。
「[gentle]……うん」
指輪がはまった瞬間、蓮が小さく、ほっとしたみたいに息を吐いた。長い緊張がほどけたような、これまで一度も見たことのない顔だった。
庭の紫陽花が、朝の光の中で揺れていた。
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その夜、颯太のスマホに花からメッセージが届いた。
文字は短かった。「ありがとう、颯太」それだけ。
颯太はクリニック3階の自室の窓際に立って、文京区の夜景を見た。灯りのついた民家。遠くを走る車のヘッドライト。静かな住宅街。
しばらくそのままでいた。
(ああ、そうか)
長年、胸の奥に置いてきたものが、ゆっくりと降りていく感じがした。悔しくないと言ったら嘘になる。でも——不思議と、清々しかった。
スマホの画面を見て、颯太は返信した。「幸せになれよ。俺はまた次のタイミングを逃したから」
数秒後、花から「最悪すぎる」という返事が来た。颯太は少し笑った。
「患者の診察に戻る」
それだけ送って、既読にしてからスマホをポケットに入れた。
目の端が少し熱かった。でも颯太は白衣を手に取って、階段を下りていった。
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翌朝、南青山のマノ・キャピタルのオフィスに、澄は早く来ていた。
窓の外には、朝の青山の通りが広がっている。ここから見える景色は好きだ。5年前、一人でこの会社を作った時から変わらない景色。
デスクの上には、新しいスタートアップへの出資案件の資料。次のプロジェクト。次のビジネス。
澄はその資料を開く前に、窓の外を一度だけ見た。
(……蓮が、谷中まで行ってたのか)
花が言っていた言葉が、まだ頭にある。電車に乗って、メロンパンを買いに行っていた。一言も言わずに、毎朝置いておいた。——2年間、蓮の隣にいて、そんなことをしてもらったことは一度もなかった。
それが嫉妬なのか、それとも別の何かなのか、澄には上手く整理できなかった。でも、ひとつだけ分かることがあった。
(あの人、本気だったんだ。あの子のことが)
デスクの隅の、小さな写真立てに目が行った。蓮との2ショットじゃない。マノ・キャピタルを創業した日に、一人で撮った記念写真だ。笑ってる。本当にうれしそうな顔で。
「[whispers]……私も、次に進まなきゃね」
小さく呟いて、資料のページをめくった。
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クロスフィールドタワーの38階、会長室。
朝の光が、東京の街を照らしている。高いところから見ると、街はいつもより静かに見えた。
黒崎剛一は、征司を立ったまま待っていた。
専務取締役・黒崎征司が入ってきた。温厚な笑顔。でもその目の奥に、計算が見え隠れする。
剛一は短く言った。
「[serious]もういい。あの子たちは本物だ」
征司の表情が、固まった。
「[serious]……しかし、会長——」
「[cold]下がれ」
一言だった。それ以上でも以下でもなかった。征司は歯を食いしばってから、頭を下げて退室した。
部屋に一人になって、剛一は引き出しを開けた。
古い写真が一枚入っている。亡き妻・彩子の写真だ。温かい目をしている。蓮と同じ形の、少し細い目。
剛一はそれを取り出して、窓際に置いた。東京の朝の光が、写真の上に落ちる。
「[whispers]……あの子は、お前に似た女を見つけたよ」
声が低かった。硬い声だったけど、その奥に——父親の顔が、確かにあった。
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レジデンス・プリズマのエントランスに、花が入ってきた。
コンシェルジュの柏木が、カウンターの奥で顔を上げた。45歳の穏やかな顔が、ほっとしたように和らいだ。
「[gentle]お帰りなさいませ、桐島様」
花は笑った。「[gentle]ただいまです、柏木さん」
エレベーターに乗って、42階へ。扉が開いて、ペントハウスの玄関を開ける。
この部屋に「ただいま」と思ったのは、初めてだった。
蓮がリビングにいた。コーヒーを二つ、新しい食器で用意してある。先日二人で選んだ、白くてシンプルなカップ。
花は荷物を置いて、蓮の隣に座った。
窓の外には、夜の東京の夜景が広がっていた。たくさんの灯りが、静かに瞬いている。
コーヒーを一口飲んだ。温かかった。
しばらく、二人で夜景を見ていた。
「[gentle]……ねえ」
「なんだ」
「[gentle]明日も、メロンパン買ってきてくれる?」
蓮が少し間を置いた。それから、ぶっきらぼうに言った。
「[cold]冷蔵庫を見ろ」
花が立ち上がって冷蔵庫を開けると——コムギノカゼの袋が入っていた。クルミパンとメロンパンが、ちゃんと二つずつ。
「[laughing]……もう!」
花が笑った。蓮も、口角がほんの少しだけ上がった。
テーブルの上には、二人で選んだ食器だけがある。契約書はもうない。
東京の夜景が、窓の向こうで静かに光っていた。
これが、始まりだった。