冷たい指輪と、あたたかい嘘
桐島 花(27歳)は、ごく普通の会社員。そんな彼女に、巨大企業クロスフィールド社の後継者である黒崎 蓮(29歳)から、思いがけない提案が舞い込む――契約結婚だ。蓮は会社を継ぐために結婚しているように見せかける必要があり、花は病気の父親の医療費のためにお金が必要だった。どちらにも断る理由はなかった。
二人は「ビジネスパートナー」として同じアパートに暮らし始める。蓮は初日から冷たく、雑談も個人的な質問も一切なし。しかし一緒に暮らすうちに、花は少しずつ気づき始める。彼はこっそり彼女の好きなパンを買い置きし、風邪をひいたときには何も言わずに枕元にスポーツドリンクを置いていく。
そんな時、幼なじみでイケメンの医師・小野 颯太(28歳)が現れる。ずっと花に想いを寄せていたが、なかなか告白できずにいた彼は、契約結婚の話を聞いて慌てて告白する。「本当に俺に気持ちがなかったの?あの冷たい男で本当に大丈夫なの?」
花は動揺する。蓮への募る想いと、颯太とのあたたかい過去がぶつかり合う。さらに蓮の美しい元恋人であるビジネスウーマン、真野 澄(30歳)が現れ、花に囁く。「あの男は誰かを本当に愛することがで
冷たい指輪と、あたたかい嘘 - 夜景と秘密——バルコニーの沈黙
契約結婚の話がまとまってから、三週間が過ぎていた。
レジデンス・プリズマの42階——蓮のペントハウスに花が引っ越してから、毎日がどこか現実感のない日々が続いている。広すぎる部屋、静かすぎる朝、そして極力かち合わないようにしているはずなのに、何故かキッチンでたまに目が合う蓮。花はそれなりに、この奇妙な生活に慣れてきた。
そう思っていた。
「[serious]明後日、パーティーがある」
リビングのソファで書類を読んでいた蓮が、視線も上げずに言った。花はダイニングテーブルで翌日の弁当の献立を考えていたところで、思わず顔を上げる。
「[surprised]パーティー……ですか?」
「クロスフィールドの社内行事だ。お前の同伴が必要になった」
それだけ言って、また書類に目を落とす。
花は「わかりました」と答えながら、内心では焦りが広がっていた。
(同伴って……妻として、ということ?)
考えてみれば、それが契約の内容だ。蓮の妻として振る舞うことが条件なのだから、こういう場面が来るのは当然だった。分かっていた。分かっていたけど、どうしてこんなに動揺しているのか。
ドレスも持っていない。マナーも知らない。クロスフィールドの重役たちを前に、どんな顔をすればいいのかも。
花は手帳を開いて「パーティー 明後日」と書き込みながら、あの分厚い契約書のことを思い出した。月80万円。父の透析費用。全額負担。
——やるしかない。
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翌日の昼過ぎ、コンシェルジュの柏木がインターフォンを鳴らした。
45歳くらいで、いつも穏やかな笑顔の女性だ。花がマンションに越してきた初日から、さりげなく気を遣ってくれている人だった。
「[gentle]黒崎様からのご依頼で、お届けに参りました」
手にしていたのは、大きな白いガーメントバッグだった。
中身を広げると、ネイビーのドレスが出てきた。シンプルで上品なラインのもの。派手すぎず地味すぎず——花が自分で選んでも、こういうのがいいなと思いそうなやつだった。
着てみると、サイズがぴったりだった。
(……私のサイズ、知ってたんだ)
別に驚くことじゃない。蓮なら調べようと思えば何でも調べられる。そういう人だ。頭では分かる。
でも、なぜか胸の奥がむず痒くなった。
契約結婚の夫が、ドレスを用意してくれた。それだけのことだ。それだけのことなのに、ちゃんと花の体型を把握した上で選ばれたドレスが、体にぴったりと合っていることが——どうしてか、少し恥ずかしかった。
花は鏡の前でそのドレスを着たまま、しばらくそこに立っていた。
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翌日の夜。
クロスフィールドタワーの高層フロアは、普段の冷徹なオフィスビルとは別の顔をしていた。
花が知っているのは1階のガラスアートと受付フロアだけだ。でも今夜の28階は、シャンデリアが灯り、白いクロスのかかったテーブルが並び、百人以上の人が集まっていた。女性たちのドレスも宝石も、全部が花の知っている「普通」の感覚を超えている。
「[cold]浮かれた顔するな」
隣を歩く蓮が、小声で言った。
「[serious]……してません」
「してる。肩に力が入ってる。視線を気にするな」
花はそっと肩を下げた。
確かに、視線がある。重役の妻たちだろうか、きらびやかなドレスの女性たちが品定めするようにこちらを見ている。花は下町の文具メーカーで働く営業事務で、年収320万円で、手がちょっと乾燥しがちで——こんな場所に来るべき人間じゃない。
(でも来てしまった。やるしかない)
グラスを受け取って、蓮の少し後ろに立つ。蓮は次々と声をかけてくる役員たちと話をしていた。花はほとんど何も言わなくていい。微笑んでいれば、それでいい。それが今夜の仕事だ。
——そう思っていた時だった。
「これはこれは。蓮くんの、奥さんですか?」
振り返ると、恰幅のいい中年の男が笑顔で立っていた。
穏やかそうな顔。柔らかい笑みを浮かべている。白髪交じりの頭を軽く下げて、「お似合いですねえ」と言った。でも、その目が笑っていない。にこにこした表情の奥で、何かを探るように花を見ている。
(この人は……)
「黒崎征司です。蓮くんの叔父にあたります」
——蓮の叔父。クロスフィールドの専務取締役。そういえばそんな人物がいると、最初に渡された書類に名前があった。
花が「桐島花と申します」と頭を下げると、征司はそのまま花のそばに寄った。周りには他のグループが話している。蓮はその輪の中にいて、こちらを向いていない。
征司がそっと耳元で言った。
「[whispers]蓮くんはね、人を愛せない人間なんですよ」
花は固まった。
「[whispers]お母さんを亡くしてから、ずっとね。あの子は誰のことも——本当の意味では、愛せないんです。もちろん、あなたのことも」
穏やかな声で、笑顔のままで言われた。それが余計に、不気味だった。
征司は軽く会釈して、人混みの中に消えていった。
花はグラスを持ったまま、その場で少し動けなくなった。
(人を愛せない……)
分かっていた。これはビジネスだ。感情を持ち込まない契約だ。そもそもそういう条件で始まった話で、蓮が花のことを好きになるとか、そういう話は最初から存在しない。分かっている。
なのに、なんでこんなに胸がざわざわするんだろう。
——その時、背中に温かいものが触れた。
「[cold]そっちは重役の妻が多い。飲み物を持ったまま立ち尽くしてると目立つ」
蓮が、いつの間にか隣に来ていた。手のひらが花の背中にそっと添えられている。誘導するような、さりげない仕草。
その温かさが、征司の言葉を一瞬だけ遠ざけた。
(……この人が、人を愛せないって?)
花は自分の混乱が増していくのを感じながら、蓮の隣を歩いた。
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パーティーが中盤に差し掛かった頃、花はそっと会場の端に移動した。
グラスの中の白ワインを半分残したまま、広い窓の外を見る。東京の夜景が広がっている。港区から見える光の海。クロスフィールドタワーから見下ろす東京は、花が毎日通っている文京区とは全然違う角度だった。
(高いな……)
ぼんやりとそう思った時、バルコニーのガラス扉の向こうに、人影があることに気づいた。
黒い背中。黒髪に赤のメッシュ。185センチの背丈。
蓮だった。
パーティーの輪から抜け出して、一人でバルコニーに立っている。右耳のシルバーのイヤーカフが、夜景の光を反射して小さく光っていた。
花は少し迷ってから、ガラス扉を押し開けた。
4月下旬の夜風が頬をなでた。思ったより涼しい。花はドレスの肩が少し冷えるのを感じながら、蓮の隣に並んで立った。
蓮は振り返らなかった。
二人とも、しばらく何も言わなかった。
遠くに東京タワーが見える。橙色の光が、夜の空気の中で滲んでいる。会場の中の話し声と音楽が、ガラス一枚越しに遠く聞こえる。
花はグラスを両手で持ちながら、横にいる蓮の横顔をちらりと見た。
険しくもなく、柔らかくもない。ただ、遠いところを見ている顔だった。
征司の言葉が、また頭に浮かんだ。お母さんを亡くしてから。
花は口を開いた。自分でもよく分からないまま、言葉が出た。
「[gentle]……お母さんのこと、聞いてもいい?」
沈黙。
蓮は答えなかった。
花は言いすぎたかと思った。余計なことを聞いた。契約にそんな条項はない。お互いの私生活に干渉しない——そう書いてあった。でも今更引っ込めるタイミングも分からなくて、花はただ夜景を見つめていた。
しばらくして、蓮が口を開いた。
「[serious]……母さんは」
声が、少しだけ、いつもと違った。
「俺が14の時に、死んだ。それだけだ」
短い言葉。でも最後の「それだけだ」の部分が、かすかに震えていた。
花は何も言わなかった。
「かわいそうに」も「大変だったね」も言わなかった。言葉が浮かばなかったわけじゃない。そういう言葉が正しくないと、なんとなく分かっていた。同情されたい人間じゃないと、この三週間で少しだけ分かってきていた。
だから花はただ、隣に立ち続けた。
夜風が吹いた。東京タワーの光が、相変わらず滲んでいる。
蓮がゆっくりと息を吐いた。
それはため息というより、何か長い間ずっと張っていたものが、少しだけほどけたような呼吸だった。肩の線が、わずかに下がった気がした。
花は気のせいかもしれないと思いながら、でも気のせいじゃないとも思った。
二人はそのまま、しばらくそこにいた。何も言わないまま、夜景を見ていた。それで十分だった。
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帰りのタクシーの中は静かだった。
後部座席に蓮と花が並んで座っている。お互い、窓の外を向いている。車内の照明は暗くて、流れていく夜の街が窓ガラスに映っている。
花は膝の上で手を組みながら、今夜のことを頭の中で整理しようとしていた。征司のあの言葉。蓮の背中に添えられた手の温かさ。バルコニーの沈黙。14の時に死んだ、と震えながら言った声。
タクシーが赤信号で止まった。
静寂の中で、蓮がぼそっと言った。
「……今日は、助かった」
花は「え?」と聞き返した。
蓮はもう窓の外を向いていた。
何も言わない。聞こえなかったかのように、ただ夜の景色を見ている。
花は聞き返した自分を後悔した。確かめたかったのに、確かめられなかった。聞き間違いじゃないよな——でも蓮はもうこちらを見ていないから、もう一度聞けない。
花は前を向いて、胸の中でその言葉をもう一度繰り返した。
——助かった。
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ペントハウスに戻って、自分の部屋に入った。
ドレスのまま、ベッドに倒れ込む。天井が白い。シーリングライトの光が、丸く広がっている。
花はそのまましばらく、天井を見ていた。
征司の顔が浮かぶ。あの笑顔のまま耳元で囁いた声。人を愛せない人間なんですよ。それが事実かどうかは知らない。知らないけど、あの言い方は——なんか、嫌だった。事実だとしても、あんな言い方をしなくていい。
(……私、なんで腹が立ってるんだろう)
ビジネスの話だ。蓮が誰かを愛せるかどうかは関係ない。2年間、妻として振る舞えばいい。それだけだ。
でも、バルコニーで蓮が言った言葉が、繰り返し頭の中で聞こえてくる。14の時に死んだ。それだけだ。あの声の震え。あの瞬間に蓮が何を感じていたかは分からない。でも花は、何かを感じた。
ビジネスだからと言い聞かせようとした。
でも、なぜかうまくいかない。
花は片腕を目の上に置いて、暗くした。
胸の奥で、何かがゆっくりと、形を変えようとしていた。
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翌日の夜、花は実家に電話をかけた。
父の宗一郎は元気そうな声で出た。透析の調子はどうかと聞くと、まあまあだと言った。先生がよくやってくれてるから助かってると笑った。その「先生」というのが小野クリニックの院長——颯太のことだと、花は知っている。
「そういえば」と宗一郎が言った。
「[gentle]颯太くんがさ、この前の検査の時に花のことを心配してたぞ。最近どうしてるかって」
「[surprised]颯太くんが?」
「そうだよ。花が急に引っ越したって聞いて、びっくりしてたみたいでな」
花は「ああ……そうか」と返した。
電話を切った後、スマホの画面をぼんやりと眺めた。連絡先を開くと、「小野 颯太」の名前があった。最後にメッセージを送ったのはいつだったか。半年……いや、もっと前かもしれない。
父の次の定期検査は来月だ。小野クリニックに行かなければ、と花は思った。行かなければいけない。それは分かっている。
でも、なんとなく、少しだけ気まずいような感覚もあった。
花はスマホをテーブルに置いて、窓の外を見た。
その夜、クロスフィールドタワーの中では——パーティーで目撃したことを頭の中で整理しながら、征司が静かに電話をかけていた。
「桐島花という女性について、詳しく調べてくれ」
穏やかな声。笑顔のままで、そう言った。
蓮がバルコニーで女の背中に手を添えていた。あの場面が征司の頭を離れない。契約結婚が、本物に変わる前に——手を打っておく必要があった。