氷の御曹司、溶ける日まで
大手商社・朱雀グループの冷徹な御曹司、朱雀透真は誰に対しても感情を見せたことがなかった。部下たちからは「氷の皇帝」と呼ばれ、契約結婚をするという衝撃的なニュースを世間に知らしめる。彼の花嫁は、地味なライトブラウンの髪を持つごく普通の会社員、秋月渚だった。
真実はこうだ。透真の父、朱雀健一会長が「婿選び計画」を始動させたのだ。書面上の妻を得ることで、透真は父の圧力をかわすことができる。月額100万円の報酬を受け取り、渚は2年間、彼の妻の役割を演じることに同意する。
しかし数日後、渚は気づき始める。透真の氷のような外面の下に、予想外の優しさのかけらが隠れていることを。彼女が熱を出したとき、透真は仕事を放り出して看病にあたった。部下を厳しく叱責した後、彼らの成長をひそかに喜んでいる姿を渚は目撃する。世間が冷酷無比だと思っている男は、誰にも見せない優しさを秘めていたのだ。
事態は複雑になる。透真の最も信頼する部下、御影司が渚に恋心を抱き、彼女に逃げるよう懇願する。司の妹・理央は渚に訴える。「本当に兄を愛しているなら、この契約を解消して」と。最も危険なのは、透真自身が気づき始めていることだ
氷の御曹司、溶ける日まで - 契約書と、肩に残った温度
葛飾区柴又。深夜、一時を過ぎていた。
秋月渚は六畳のローテーブルの前に正座して、ボールペンの先を通帳の数字に当てた。
残高、四十五万三千二百円。
弟・陸の前期学費振込用紙に印字された金額は、八十七万円だった。その下に「振込期限:七月十四日」とある。
ボールペンを置く。また取る。
(計算しなくても分かってる)
それでも計算してしまう。月十八万円の手取りから家賃と光熱費と食費を引いたら、毎月六万円ほどしか残らない。四十五万の貯金から八十七万を払えるわけがない。後期の学費は十一月にまた来る。
渚はテーブルの隅に目を向けた。
両親の位牌が置かれた小さな棚がある。白い布に包まれた、小さな二つの板。三年前の交通事故。渚が二十三歳の時のことだ。あの日から渚は弟の保護者になった。それだけのことだ、と思うようにしている。泣いている暇はなかったし、弱音を吐く相手もいなかった。
封筒が目に入った。
鶴見法律事務所の名前が印刷された、白い封筒。一週間前に届いてから、渚は三日おきに封を開けては閉めてきた。今日は返答の最終期限だった。郵便受けに最終通知が入っていたのは夕方のことだ。
渚は封筒を引き寄せ、折り畳まれた書類を広げた。
『契約婚姻に関するご提案書』と書かれた表紙。その下に条件が並んでいる。
期間、二年。月額報酬、百万円(税引後手取り七十九万円)。
ボールペンの先で、渚は余白に計算を書き込んでいった。七十九万円かける二十四ヶ月。総額は一千八百九十六万円になる。陸の学費は四年で三百五十万ほどかかる。自分の生活費を入れても、残る。ずっと、余る。
(これでいい)
頭の中で、陸の顔が浮かんだ。春に大学に入ったばかりで、電話でいつも「姉ちゃん、無理しなくていいよ」と言う。無理しなくていい、と言われるたびに渚は笑ってごまかしていた。
静かだ、と思った。アパートの外で、どこか遠くを車が通り過ぎる音がする。位牌の前のろうそくは消えている。渚は長い時間、書類を見つめていた。
ドキドキなどしていなかった。
それが逆に怖かった。こんなに重大なことを前にして、自分の気持ちが静かすぎる。震えていない。涙も出ない。ただ、しなければならない、という実感だけがあった。まるで両親が死んだあの日の夜に葬儀社に電話を入れた時のような、あの感覚に似ていた。
渚はペンを取り、契約書の署名欄に「秋月渚」と書いた。
文字が少しだけ滲んだ。それが涙なのか、夜更かしで目が乾いているせいなのか、自分でも判断できなかった。
――――
翌朝、渚は朱雀タワーの前に立った。
千代田区丸の内。東京駅から徒歩五分のその場所に、地上四十二階のガラス張りのビルがそびえている。全面ガラスカーテンウォールに初夏の陽光が反射して、渚は思わず目を細めた。一階のエントランスには金箔仕上げの朱雀の彫刻がある。高さ三メートルを超えるそれが、翼を広げたまま静止している。
(ここが、朱雀グループの本社ビル)
渚の職場である朱雀フードサービスも、厳密にはこのグループの子会社だ。だが中央区の雀翔ビル八階で事務仕事をこなしてきた渚にとって、このタワーは別の世界の話だった。会社のロゴは同じなのに、入り口から漂う空気の密度が違う。
受付で名前を告げると、スーツ姿の女性スタッフが「お待ちしておりました」と言い、エレベーターに案内された。ドアが閉まり、階数の表示が上がっていく。三十七、三十八、三十九、四十——。
四十一階で止まった。
案内されたのは応接室だった。渚のアパート全体より広いかもしれない、と最初に思った。窓際から東京の昼光が差し込んでいて、テーブルに置かれた白いカップ、白いソファ、白い床がすべて淡く光っている。外の景色は、いつも自分が見ている東京ではなかった。丸の内の街並みが、遠くまで広がっている。
窓を背にして、男が立っていた。
漆黒の短髪、ダークネイビーのスーツ。身長は百八十センチを超えている。眉間にわずかな皺が刻まれていて、口元には薄い線がある。笑っているようでもなく、無感情なようでもなく、ただそこに存在しているだけで空気が変わるような立ち方をしていた。昨夜メッセージを送ってきた朱雀冬馬という人物が、こんなふうに見えるとは思っていなかった。
(概念の彫刻みたい、と思ってしまった)
馬鹿なことを考えた、と渚はすぐに打ち消した。
冬馬は渚を一瞬だけ見て、テーブルの上の書類に視線を落とした。
「お座りください」
静かな声だった。渚はソファに腰を下ろした。
冬馬は書類を手に取り、目を動かした。渚の経歴書類だろう、と分かった。数秒のうちに、冬馬は言った。
「選定の理由をお伝えします」
「……はい」
「財界との接点がない。社内での知名度も低い。経済的な動機が明確で、感情的なトラブルを起こすリスクが低い。目立たない人間が都合がいい」
淡々とした言葉だった。まるで資材の発注条件を読み上げるような声で。
渚は一瞬だけ、唇を結んだ。
(目立たない人間が都合がいい)
頭で理解した。これは取引だ。感情の入る余地がない言葉を、感情なしに受け取るのが正しい対応だ。渚にはそれが分かっていた。
それでも、唇を結んだのは確かだった。
冬馬は書類から視線を上げた。その瞬間だけ、青灰色の目が渚の顔に向いた。一拍、止まった。何かを確かめるように——渚の目が潤んでいないかを、確認するように——。
それは本当に一瞬のことで、すぐに冬馬の視線は窓の外に戻った。
(気のせいかもしれない)
渚は頭の中に陸の顔を浮かべた。一度だけ。それで十分だった。
ペンを取り、契約書の署名欄に「秋月渚」と書いた。昨夜と同じ文字が、今度は滲まなかった。
冬馬はそれを確認して、「では」とだけ言い、視線を窓に戻した。
エレベーターのドアが閉まった後、渚はしばらく数字の上昇を眺めた。
(目立たない人間が都合がいい)
その言葉が、耳の中でもう一度繰り返された。傷ついた、とは言い切れない。分かっていた言葉だ。分かっていた条件だ。それでも、言葉というのは、知っていても刺さる時がある。
同時に、もう一つのことが渚の胸に引っかかっていた。
冬馬の視線が、一瞬だけ自分の顔に向いた、あの一拍。
(自分の思い過ごしだ)
そう結論づけた。エレベーターが一階に着いて、渚は朱雀タワーを後にした。初夏の陽光の中に出ると、あのガラス張りのビルが背後でまた光っていた。
――――
港区白鷺台。朱雀家の本邸「鶴翔館」は、一区画だけで渚の通ってきた柴又の街区より広いような気がした。
地上三階建ての洋館。一九八七年築とのことだが、外観には古さを感じない。庭園の奥に茶室が見え、手入れされた芝生の緑が夕刻の光に濡れたように輝いている。松永という執事が玄関で待っていた。六十歳ほどの、背筋の伸びた男性だ。
「秋月様、本日よりよろしくお願いいたします」
丁寧なお辞儀をされて、渚は少しだけ戸惑った。自分がお辞儀される側になるとは思っていなかった。
案内されたのは三階東ウイングの客室だった。二十八平米。葛飾のアパートより広い。だが、渚が持ち込んだスーツケース一つ分の荷物を置いてしまうと、部屋の余白がよりはっきりした。壁が広い。クローゼットが大きすぎる。窓の外に庭園が見えるのに、自分だけがそこから浮いているような感覚がある。
(これが私のもので、いいんだろうか)
松永が「お隣が朱雀常務の私室でございます」と言った時、渚は思わず壁を見た。壁一枚。その向こうに冬馬がいる。三十センチか、四十センチか、それだけの厚さの壁を隔てて、契約上の夫が存在する。
近い、と思った。
そして、遠い、とも思った。
壁一枚の物理的な近さと、決して踏み込めない関係性の遠さが、同時に渚の胸に落ちてきた。
夕食は別々とのことだった。松永がそれを伝えた時の口調は「通常の取り決めです」という感じで、渚は「分かりました」と答えた。
一人でダイニングに運ばれた食事を前にして、渚はしばらく箸を置いたままでいた。品数は多く、どれも丁寧に作られていた。だが食卓に自分一人だけというのは、葛飾のアパートで一人で食べていた時とは違う種類の孤独がある。広い食卓に一人でいると、椅子が多すぎることに気づく。
(契約の中でドキドキしてはいけない、と思っていたのに)
渚は苦笑いした。ドキドキどころか、気が滅入りそうになっている。これは想定外だった。
眠れなかった。
深夜、部屋の天井を見つめながら渚は時計を確認した。零時を過ぎている。鶴翔館の廊下は静かで、庭の木が風に揺れる音だけが窓の外から聞こえてくる。
(水でも飲もう)
冷蔵庫に何が入っているか確認していなかった、ということを口実に、渚は立ち上がった。薄手のカーディガンを羽織り、廊下に出る。
廊下の先、突き当たりに、光が漏れていた。
薄い、白っぽい光だ。電気スタンドのような色をしている。渚は足を止めた。あそこはリビングにつながっているはずだ。松永から館の間取りを聞いていた。
(誰かいる?)
そっと近づいた。扉が数センチ開いている。その隙間から光が漏れている。
渚は息を整えてから、扉に手をかけた。
ゆっくり開けると——書類の海の中に、冬馬がいた。
ジャケットを椅子の背に掛けて、ワイシャツ姿でデスクに向かっている。周囲には資料が積まれていて、ノートパソコンの画面が白く光っている。冬馬は渚が扉を開けた気配に気づいているはずだが、振り向かなかった。
渚は声をかけようとして、止まった。
何と言えばいい?「眠れないんですか」は的外れだ。「お仕事中すみません」では用件がない。「ここにいてもいいですか」は意味が分からない。
言葉が出ないまま、渚の目がソファの端に向いた。
ブランケットが畳まれていた。薄手の、ライトグレーのブランケット。
考えるよりも先に、渚の手が動いていた。ブランケットを取り、冬馬の背中に向かって一歩、また一歩と近づいていった。
書類のページをめくる音がしていた。それが止まった。
冬馬の背中が、わずかに強張った。
気のせいかもしれない、と渚は思った。でも確かに見えた。冬馬の肩がほんの少し上がり、そしてまた戻った。
渚がブランケットを冬馬の肩にかけようと手を伸ばした、その瞬間——冬馬が立ち上がった。
反射的に、渚は一歩下がった。
冬馬が振り返った。青灰色の目が渚を見ている。ブランケットが渚の手の中にある。冬馬はそれに視線を一度やって、無言で受け取った。そして——渚の肩に、掛けた。
距離が、三十センチもなかった。
冬馬の手が渚の肩の上に置かれた。ブランケットを掛けるための動作だ。それだけだ。一拍、その手が止まった。
渚は息の仕方を忘れた。
肺が動くのを止めて、それを自分でも意識する。ブランケットの重さが肩にある。その上から、冬馬の手の温度がある。大きな手だ、という無意味なことを渚の頭が考えた。
胸の奥の、一点が激しく脈打っていた。こんな感覚を、渚は知らなかった。知らなかったのに、どうしてこれが何なのか分かってしまうのだろう。
(契約の中でドキドキしてはいけない)
さっきそう思ったばかりなのに。
冬馬が口を開いた。
「風邪を引かれると、契約に支障が出る」
低く、静かな声だった。事務的な言葉だった。
でも。
渚は冬馬の横顔を見た。その顎の線が、わずかに固い。眼差しの奥で、何かを堪えているような——。
一瞬だけ、そう見えた。
冬馬は無言でデスクの椅子に戻った。書類に視線を落として、ページをめくる。それきりだった。
「……おやすみなさい」
渚はそれだけ言って、廊下に出た。扉を静かに引いて、閉める。
廊下は真っ暗だった。
渚は壁に背を預けて、少しだけそこに立っていた。肩の上に、まだ冬馬の手の温度が残っている気がした。ブランケットが肩に触れている。ブランケット越しに伝わった、あの一拍の重さ。
(何だったんだろう、あれは)
――――
部屋に戻り、渚はベッドの端に腰掛けてスマートフォンを取り出した。
陸への短いメッセージを打つ。
『お金のことは大丈夫になりそう。心配しないで』
送信ボタンを押した。陸はもう寝ているだろう。返信は朝になるはずだ。
渚はスマートフォンを置いて、仰向けになった。天井を見る。
安堵しているかと思ったら、そうでもなかった。弟の学費の問題は解決した。それは良かった。良かったはずだ。
なのになぜ、こんなに頭の中が騒がしいのか。
肩に残った感触のことを、渚は何度も考えた。「風邪を引かれると契約に支障が出る」という言葉のことも。あの言葉は正しい。契約の話をするなら、そういう言葉になる。それ以外の意味はない。
それ以外の意味はない、はずだ。
(でも、あの一拍は何だったんだろう)
手が止まった、あの一拍。
渚は天井に向かって小さく息を吐いた。
(契約の中でドキドキしてはいけない。私はそういう立場じゃない)
言い聞かせる。何度でも言い聞かせる。これは仕事だ。二年間の契約だ。感情を持ち込んではいけない。
それが分かっているのに、目を閉じると肩の感触が戻ってくる。
眠れないまま、渚は夜の中にいた。
――――
一方、リビングでは。
冬馬は書類を手に取り、文字を追った。
頭に入らなかった。
一度ページを戻す。もう一度読む。やはり内容が入ってこない。初めて経験することだった。仕事中に集中が途切れるという経験が、冬馬にはほとんどなかった。
スマートフォンが振動した。
弁護士・鶴見からのメールだった。
「契約は本日付で正式に発効しました」
冬馬はその文面を読んだ。
計画は予定通りに進んだ。父の婿選別計画を封じる既成事実が出来た。合理的に考えれば、これは成功だ。充足感があって然るべき状況だ。
なのに冬馬の胸に生じたのは、充足感ではなかった。
名前のつかない、何か別のものだった。
冬馬はデスクの上で、自分の右手のひらを見た。ブランケットを渡した時の手だ。渚の肩の上に置いた時の手だ。一拍、止まった手だ。
(なぜ止まった)
分からなかった。合理的な説明がつかない。風邪を引かれると困る、それは本当のことだ。ブランケットを掛けるのは合理的な判断だ。ならばなぜ、手が一拍だけ、止まったのか。
冬馬はわずかに眉を寄せた。
東京の夜景が窓の外に広がっている。無数の光が格子状に並んで、遠くに東京タワーの赤が滲む。いつもと変わらない夜だ。何も変わっていない。
そう言い聞かせてみたが、その言葉は空洞のように胸に響いた。
今夜を境に、何かが静かに変わり始めたことを、朱雀冬馬はまだ言語化できなかった。ただ右手のひらを見つめたまま、しばらく動かないでいた。