氷の御曹司、溶ける日まで
大手商社・朱雀グループの冷徹な御曹司、朱雀透真は誰に対しても感情を見せたことがなかった。部下たちからは「氷の皇帝」と呼ばれ、契約結婚をするという衝撃的なニュースを世間に知らしめる。彼の花嫁は、地味なライトブラウンの髪を持つごく普通の会社員、秋月渚だった。
真実はこうだ。透真の父、朱雀健一会長が「婿選び計画」を始動させたのだ。書面上の妻を得ることで、透真は父の圧力をかわすことができる。月額100万円の報酬を受け取り、渚は2年間、彼の妻の役割を演じることに同意する。
しかし数日後、渚は気づき始める。透真の氷のような外面の下に、予想外の優しさのかけらが隠れていることを。彼女が熱を出したとき、透真は仕事を放り出して看病にあたった。部下を厳しく叱責した後、彼らの成長をひそかに喜んでいる姿を渚は目撃する。世間が冷酷無比だと思っている男は、誰にも見せない優しさを秘めていたのだ。
事態は複雑になる。透真の最も信頼する部下、御影司が渚に恋心を抱き、彼女に逃げるよう懇願する。司の妹・理央は渚に訴える。「本当に兄を愛しているなら、この契約を解消して」と。最も危険なのは、透真自身が気づき始めていることだ
氷の御曹司、溶ける日まで - 契約という名の鎖が解けた朝——氷の皇帝、初めて父に立つ
昨夜、握り返した。
それだけのことだ。たった一つの動作。でも渚は台所に立ちながら、右手の指先を無意識に左手のひらへ押し当てていた。確かめるように。まだそこにある温度を——冬馬の手の温度を——確かめるように。
(ちゃんと、握り返した)
契約があった。条件があった。恋愛は禁止、と書かれた紙があった。それでも昨夜、渚の手は動いた。自分の意志で、冬馬の手を握り返した。その事実が、今朝の渚の胸の中でじわじわと熱を持ち続けている。
同時に——封書の中の名前が、その熱に水をかける。
婿選別計画の筆頭候補令嬢。鳳凰会最大の財閥系家系に連なる名前。冬馬の表情が一瞬だけ緊張したあの名前が、渚の脳裏でまだ光っている。冬馬はその名前を知っていた。知った上で、渚の手を離さなかった。それが——どういう意味なのか、渚はまだ全部を飲み込めていない。
コーヒーメーカーの前に立つ。豆を引いてから抽出する、という手順が頭にあったはずなのに、気づいたら抽出ボタンを先に押していた。カチッという音。機械が動き始める。
数秒後、カップに透明な湯だけが落ちてきた。
「……あ」
渚はそのカップの前で三秒ほど固まった。薄茶色の髪が耳に落ちかかっている。栗色の瞳が、湯気の立たない無色のカップを見つめている。ぼうっとしすぎて、そういえば豆を入れていないことを完全に失念していた。
廊下から靴音がした。
振り返ると、冬馬が台所の入り口に立っていた。出勤前の礼服姿——今日は特に、全身が締まっている。漆黒の短髪、青灰色の瞳。眉間にわずかな皺。いつもと同じ冬馬の表情だ。でも、いつもと少し違う何かが、その空気に含まれている。渚には分かった。昨夜から、この人の持つ空気の質感が、少し変わった。
冬馬の視線がカップに落ちた。透明な湯。豆のないまま抽出された何もない液体。
何も言わずに冬馬は渚の隣に立ち、カップをそっと渚の手から取った。シンクに中身を捨て、コーヒーメーカーの引き出しを開けて、豆を適量入れる。容器をセットし、ボタンを押す。一連の動作が、静かで無駄がない。
豆を挽く音が台所に広がった。
渚はその横顔を盗み見た。冬馬は窓の外に視線をやったまま、機械の動作を待っている。朝の光が窓から差し込んで、横顔の輪郭を淡く縁取っている。眉間の皺。薄く引き結ばれた口元。それでも——昨夜、あの声で名前を呼んだ人の顔だと渚は知っている。
(この人の手が、私の手を引き戻した)
渚の左手がそっと自分の右手のひらに触れた。昨夜の温度が、まだそこにあるような気がした。
抽出されたコーヒーをカップに注ぎ、冬馬が渚に差し出した。何も言わない。でもその所作が、昨夜以前とは質の違う距離感で成立している。渚はカップを両手で受け取り、一口飲んだ。ちゃんと香りがある。ちゃんとコーヒーだ。
その時、玄関の棚に置かれたままの封書に、冬馬の目が止まった。
昨日、如月が持参した賢一からの封書——六月の鳳凰会晩餐会の同伴出席通知と、令嬢の名前が書かれたあの白い封筒。渚はそれをまだそこに置いていた。開けたまま、畳まれた状態で。
冬馬がその封書を手に取り、一度だけ渚を見た。
渚の目が、封書の文面をすでに見ていることを、二人同時に知った。短い沈黙が落ちた。冬馬は封書を内ポケットに収め、コートを手にした。
玄関へ向かう手前で、一度だけ止まった。
振り返る角度が、昨夜と同じだった。廊下の光の落ち方も、冬馬の立ち方も、ほとんど同じだった。言葉は来なかった。でも青灰色の瞳が渚を捉えた一瞬に、「昨夜の続きを持ったまま、今日も行く」という意志が確かに存在していた。
渚の胸の奥で、脈が一拍遅れて強く打った。
扉が閉まった。
――――
朱雀タワー三十八階。経営企画室——会長・社長直属の参謀機関として十五名の室員を率いるこの部署のフロアは、午前中から低い緊張感が漂っていた。
御影司はデスクで書類を広げながら、コーヒーカップを口元に運んだ。金色の瞳が画面を走る。銀灰色がかった淡い髪が、蛍光灯の光の下で静かに揺れている。
端末に、今日の十五時の会議スケジュールが表示されていた。
会長室。朱雀賢一。朱雀冬馬。
(一人で行くつもりだろう、冬馬は)
御影は画面から目を離し、窓の外——千代田区の空を見た。快晴だった。東京の空が、妙に澄んでいる。こういう日の午後に、重要な何かが起きることを、御影は長い経験で知っていた。
冬馬とは東英大学時代からの十二年だ。お互いを見ていれば、大体のことは分かる。今日の冬馬の背中が語っていた——闘いに行く、と。ただし今回は、論理と数字を武器にするのではなく、別の何かを持っていく気がした。
昼休み、御影は朱雀フードサービスのフロアに内線を入れた。
――――
「翔風亭」——朱雀タワー一階の社員食堂は、席数二百八十の昼の喧騒の中にあった。日替わり定食の香りが漂っている。壁際の二人席で、御影は渚を待った。
渚が現れたのは十二時十分過ぎだ。薄茶色の髪を緩やかにまとめ、いつもの控えめな表情で席につく。小さな銀のイヤリングが、食堂の光を受けてかすかに光った。
「呼び立ててしまってすみません」
「いえ、こちらこそ」
二人は向かい合った。御影は日替わり定食を、渚はサラダとスープを選んでいた。ランチの喧騒が周囲を覆っている。だから逆に、この二人席だけが妙に静かだった。
御影が一口、定食に箸をつけた。それから、静かに口を開いた。
「渚さんに、正直に話したいことがあって」
渚がスプーンを止めた。御影を見る。
「冬馬の過去や、状況の話ではなく——私自身のことを」
柔和な顔のまま、金色の瞳に痛みが滲んだ。それを隠そうとしていない。渚は御影の目から目を離せなかった。
「渚さんのことを、好きだと思っていました」
声は低く、静かだった。周囲の話し声がそれを包む。
「過去形で言いました。でも正直なことを言えば、今も完全には消えていない。それが今の私の状態です」
渚の手が膝の上で、そっと握りしめられた。感謝と、申し訳なさと——それから、自分の感情がどこに向かっているかという確認が、同時に胸を押し寄せた。
御影が続けた。眉を少し上げる癖が出ている。それが、この人が言葉を慎重に選んでいる時のサインだと、渚は最近分かるようになっていた。
「今日の午後三時に、冬馬が会長室に呼ばれます。四十二階。賢一さんとの対話です」
渚の息が、わずかに止まった。
「冬馬は一人で行きます。補佐はつけない。私にも、そこに入る権限はない」
御影の声が、微かに低くなった。
「あの人が今日、何を話すのかは分からない。でも——昨夜の冬馬は、初めて何かを選択しました。それを持ったまま父親の前に立つということが、あの人にとって何を意味するか」
言い終えて、御影はコップに手を伸ばした。水を一口飲む。その動作が、感情を整えるための間だと渚には分かった。
「冬馬が笑ったのを、私は何度も見ています。でも誰かのために感情を使おうとするのは——あの人が今回、初めてやっていることです」
渚は何も言えなかった。言葉が来なかった。ただ、御影の言葉が胸の奥まで届いていた。
御影が席を立った。定食の皿は半分以上残っていた。
「冬馬に似合いの人間は、あなたでした」
それだけ言って、御影は先に食堂を出た。後ろ姿が人混みに消えていく。銀がかった淡い髪が、一瞬だけ窓の光を受けた。
渚は一人で残った。冷めかけたスープの前で、御影の言葉が胸の中でゆっくりと沈んでいく。
(午後三時。四十二階)
渚は静かに立ち上がった。
――――
午後二時五十分、渚は朱雀タワーのエレベーターホールに立っていた。
勤務時間中だ。上長には「体調不良で早退」と伝えた。嘘ではないかもしれない。胸の中が落ち着かなくて、普通に画面を見ていられる状態ではなかった。
エレベーターのボタンを押す。四十一階を選んだ。四十二階は役員フロアで生体認証が必要だが、四十一階——冬馬の常務室のある階なら、秘書に頼めば待機できるかもしれない。何の確証もないままここまで来た。来てしまった。
(契約妻として、というわけじゃない)
渚には分かっていた。今ここにいるのは「朱雀冬馬の妻として」ではない。ただの秋月渚として、冬馬のそばにいたくて来た。それだけだ。それだけのことが、渚をここまで動かした。
――――
四十二階、会長室。
午後三時ちょうどに、冬馬は扉を開けた。
百二十平方メートルの空間に、静寂が満ちていた。全面ガラスの窓から東京の全景が広がっている。その窓を背に、朱雀賢一が椅子に座っていた。
六十二歳。白髪まじりの髪、穏やかな顔。財界における発言力が絶大な男が、今日は穏やかな表情のまま、机の上に書類を広げていた。薄いクリアファイル。印刷されたデータ。弁護士との通話記録の写し。秋月家の経済状況を示す数字が、そこに整然と並んでいる。
「座りなさい」
静かな声だった。怒りはない。それが——直接の糾弾より残酷だと、冬馬は分かっていた。感情のない声で真実を並べられる方が、反論する隙がない。
冬馬は座らなかった。机の前に立ったまま、父の目を見た。
賢一が書類の一枚を指先で押した。
「秋月渚さん。年収三百二十万円。葛飾区の築三十五年のアパート暮らし。弟の学費を一人で負担している。月額百万円の契約金の動機は、弟の進学費用と生活再建」
声は淡々としていた。事実を読み上げる口調。
「お前が私に隠したかった事情は、だいたい理解した」
沈黙が落ちた。
冬馬はその沈黙の中で、自分の中に起きていることを確かめた。怒りではない。逃げたい、という感情でもない。二十八年間、この父の前では完全な無表情と論理による応答だけを選んできた。今日も同じように処理することが、冬馬にはできた。
できた、はずだった。
「それが、お前の答えか」
賢一の目が、息子をまっすぐに見た。
冬馬は数秒、黙っていた。
それから、口を開いた。
「契約だったとしても」
声は低く、抑えられていた。ただし今日は——論理で構成された言葉ではなかった。
「私が選んだことに変わりはない。その選択は今日以降も、私自身のものです」
一度も視線を逸らさなかった。言葉は少ない。でもそこに、冬馬が二十八年間この部屋で使わなかったものが入っていた。感情として言葉を発した、初めての瞬間だった。
賢一がその言葉を聞いた。
息子の顔を見た。第三話の晩餐会の夜に垣間見た変化——あの時に「何かが変わり始めた」と感じた直感が、今日確信になった。三十年間、自分が設計してきたものが、今、手を離れた。その事実が賢一の表情を、単純な怒りでも単純な失望でもない、もっと複雑な色に染めた。
その時だった。
部屋の隅に控えていた如月——総務部渉外課の担当者——が、緊張のあまり手にしていた書類をばさりと落とした。
重厚な沈黙が、間の抜けた音で一瞬だけ割れた。
如月が真っ青な顔で素早く屈んで書類を拾い始める。賢一も冬馬も、何も言わない。ただその数秒間、ぴんと張り詰めていた空気に、どこかひどく人間的な隙間が生まれた。如月が「も、申し訳ございません」と消え入りそうな声で言いながら書類を抱え込む様子を、冬馬はほとんど表情を変えずに横目で捉えた。
――――
四十一階の廊下で、渚は待っていた。
冬馬の秘書——若い男性社員で、渚の顔を「奥様」として知っていた——が、上の階から何かが終わる気配を感じ取ったのか、廊下の端で静かに立っていた。渚はその少し先、窓際に立って東京の夜景が始まりかける空を見ていた。西の空が橙色に染まっている。日が傾き始めている。
エレベーターの扉が開いた。
冬馬が出てきた。
渚を見た瞬間、冬馬の足が止まった。一秒。それから再び歩いてくる。その顔に、驚きとも問いかけとも取れる表情がかすかに浮かんだ。普段の無表情より、ずっと薄い仮面だった。
「なぜここに」
声は静かだった。責めていない。ただ、聞いた。
渚は答えた。
「来たかったので」
言ってから、少し恥ずかしくなった。「来たかった」——それだけの理由だ。論理もない、義務もない。でも渚には、その言葉以外に正直な答えがなかった。
冬馬が渚の前に立った。夕光が廊下に差し込んで、二人の影を長く伸ばしている。
冬馬の手が動いた。
渚の手に、触れた。昨夜と同じように。今日も同じように。指先が重なり、それから——手のひらごと、握った。
渚の胸の奥で、何かが静かに形を作った。名前のつかない感情が、昨夜から今日をかけて少しずつ固まってきたものが、この手の温かさの中で、確かな輪郭を持った。
(好きだ)
分かっていた。もう分かっていた。ただ認めるのが怖くて、名前をつけるのを後回しにしていた。でも今、この廊下で、夕光の中で——渚にはもう、ごまかしようがなかった。
二人が繋いだ手を、賢一が見た。
会長室の扉が開いて、賢一が廊下に出てきた。如月が後ろに控えている。賢一の視線が、冬馬と渚へ、それから握り合った二人の手へと落ちた。
怒りではなかった。
三十年間守ってきた「血統は事業の礎」という価値観が、息子の一つの選択の前で——初めて揺れた瞬間の顔だった。値踏みでもない、拒絶でもない。賢一は渚をまっすぐに一度だけ見た。初めてまともに向き合う視線だった。
「調査はまだ終わっていない」
静かな声だった。それから、わずかな間を置いて。
「橘澄佳(たちばな・すみか)」
令嬢の名前を、賢一は口にした。鳳凰会の中でも最大の財閥系——橘財閥の一人娘。その名が持つ意味を、冬馬は即座に読んだ。縁談の押しつけだけではない。朱雀グループが次の十年で手を結ぶべき事業展開の相手として、橘の名前は財界に確かな重みを持っていた。
冬馬の顎に力が入った。一瞬だけ。
渚はその表情の微かな変化を見逃さなかった。令嬢の名前が持つ意味は渚には測れない。でも冬馬がその名前を受けてわずかに緊張したことは、確かに届いた。
(怖い)
嫉妬ではなかった。それよりもっと柔らかくて、切ない感情だった。冬馬が自分を選んだことで、何かを失うかもしれない——その恐怖が、渚の胸の中に静かに広がった。
渚の手が、冬馬の手をそっと解こうとした。
引き戻された。
冬馬が、渚の手を離さなかった。言葉はなかった。力が強くなったわけでもなかった。ただ——離さない、という意志だけが、その繋いだ手の中にあった。
賢一が踵を返した。扉が静かに閉まった。廊下に二人だけが残された。
東京の夕景が窓の外に広がっている。橙色が紺に変わりかけている。街の灯りが一つずつ増えていく。
渚は握られた手を見た。それから冬馬の横顔を見た。冬馬はまっすぐ前を向いている。会長室の閉まった扉を見ているわけでもない。ただ、この廊下に立っている。渚の手を持ったまま。
「冬馬さん」
声が出た。自分でも少し驚いた。名前を呼ぶ、ただそれだけのことが、今日は違う温度を持っていた。
冬馬が渚を見た。青灰色の瞳に、夕光が映っている。
「今日、一人で行ったんですね」
それ以上の言葉が出てこなかった。でも冬馬には伝わったと思った。一人で行って、一人で闘って、それでも帰ってきた——その事実に渚が何かを感じていることが、きっと伝わったと思った。
冬馬がわずかに目を伏せた。それから元に戻した。
「橘の名前が出た以上、父は次の手を打つ」
声は静かで、冷静だった。感情を持った直後に、論理に戻る。この人の癖だと渚には分かる。
「それでも」
少し間があった。
「昨夜のことを、撤回するつもりはない」
渚の胸の奥で、脈が乱れた。
この人が今日、父親の前で初めて感情として言葉を使ったことを、御影から聞いて渚は知っていた。二十八年間封じ続けた何かを、今日この人は解き放った。その上でまだ、昨夜を撤回しないと言っている。
「……はい」
渚の声も、小さかった。でも確かに出た。
二人は廊下に立ったまま、しばらく何も言わなかった。握り合った手の温度だけが、二人の間に確かにあった。契約という名前で始まった関係が、今この夕光の廊下で、別の何かに静かに変わっていった。
橘澄佳という名前が、この先に嵐として待ち構えていることを、二人はまだ知らない。いや——冬馬は、何となく感じているかもしれない。だからこそ、この手を離さない。
東京の夜景が、窓の外で始まろうとしていた。