氷の御曹司、溶ける日まで
大手商社・朱雀グループの冷徹な御曹司、朱雀透真は誰に対しても感情を見せたことがなかった。部下たちからは「氷の皇帝」と呼ばれ、契約結婚をするという衝撃的なニュースを世間に知らしめる。彼の花嫁は、地味なライトブラウンの髪を持つごく普通の会社員、秋月渚だった。
真実はこうだ。透真の父、朱雀健一会長が「婿選び計画」を始動させたのだ。書面上の妻を得ることで、透真は父の圧力をかわすことができる。月額100万円の報酬を受け取り、渚は2年間、彼の妻の役割を演じることに同意する。
しかし数日後、渚は気づき始める。透真の氷のような外面の下に、予想外の優しさのかけらが隠れていることを。彼女が熱を出したとき、透真は仕事を放り出して看病にあたった。部下を厳しく叱責した後、彼らの成長をひそかに喜んでいる姿を渚は目撃する。世間が冷酷無比だと思っている男は、誰にも見せない優しさを秘めていたのだ。
事態は複雑になる。透真の最も信頼する部下、御影司が渚に恋心を抱き、彼女に逃げるよう懇願する。司の妹・理央は渚に訴える。「本当に兄を愛しているなら、この契約を解消して」と。最も危険なのは、透真自身が気づき始めていることだ
氷の御曹司、溶ける日まで - 腹心の刃——友と呼んだ男が、氷を内側から割る夜
パーティーの夜から、三日が過ぎた。
あの五秒間が、渚の中からまだ消えない。
腰に回った腕の重さ。ハイヤーの後部座席で冬馬がぽつりと呟いた「悪くなかった」という言葉の、低く静かな温度。それらが不意に蘇るたびに、渚は自分の頬が熱くなるのを感じて、すぐに「やめなさい」と心の中で叱った。
(あれは役割だ。私は妻を演じている。それだけ)
分かっている。分かっているのに、翔風亭——朱雀フードサービス本社の雀翔ビル八階にある社員食堂で、680円の日替わり定食を乗せたトレーを持ちながら、渚はまた考えてしまっている。
食堂は昼の混雑が最高潮だった。事務員、営業、倉庫担当。さまざまな部署の人間が入り混じって席を埋め、話し声と食器の音と、今日は生姜焼き定食から立ち上がる醤油の香ばしい匂いが混ざり合っている。渚はいつも窓際の隅の席に座る。一人でも自然に見える場所を、入社したてのころから知っていた。
今日もそこへ向かおうとして——声をかけられた。
「秋月さん、ですよね」
振り返ると、銀色がかった灰色の短髪の男が立っていた。
端正な顔立ち。白いシャツの上に濃紺のジャケット、落ち着いた金色の瞳が渚を見て、静かに細くなる。柔和な笑みだった。威圧感はない。でも——渚はすぐに、その顔を知っていた。
契約書の立会い人として、あの日、弁護士・鶴見の事務所に同席していた男。冬馬の腹心として紹介された、経営企画室の室長。
(御影司さん……この人が、私の正体を知っている数少ない一人だ)
渚は自然に警戒が走るのを感じた。笑顔を作りながら、胸の中で姿勢を正す。
「……はい、そうです」
「よかった。少し、一緒にいいですか。会社の人間として、ご挨拶だけでもと思って」
穏やかな口調だった。強引さがない。でも断れる雰囲気でもなかった——断る理由が見当たらない、という意味で。渚はトレーを持ったまま小さく頷いた。
窓際の二人掛けテーブルに向かい合って座ると、御影は自分のトレーを置き、眉を少し上げて言った。
「緊張しなくて大丈夫ですよ。厄介なことを話しに来たわけじゃないので」
「……そうですか」
「生姜焼き、美味しいですよね。ここのは醤油と生姜のバランスが絶妙で」
渚は箸を持つ手を止めた。財界の腹心が、社員食堂の生姜焼きについて語り始めるとは思っていなかった。少しだけ、力が抜ける。
(……この人、わざとやってる)
警戒を解かせようとしている。それは分かった。でも、その手が透けて見えても——効果があることも、渚には分かった。
食事を進めながら、最初は他愛のない話をした。朱雀フードサービスのシステム更新の話。八階食堂の改装計画の話。御影は渚の言葉一つひとつに、身を少し乗り出すようにして反応した。目が細くなるたびに、渚は「この人は、単なる社交辞令でこうしているわけじゃない」という奇妙な感覚を覚えた。でも気のせいだと処理した。気のせいにしなければならなかった。
そして、御影がふと話の向きを変えたのは、定食も半分になった頃だった。
「冬馬が、こう見えて——昔は随分と違ったんですよ」
渚の手が、わずかに止まった。
「どんな……ふうに」
「笑ってました。声を上げて、馬鹿みたいに」
御影の金色の目が、少し遠くを見るように細くなった。記憶を手繰り寄せる人間の目だ、と渚は思った。
「中学の頃です。学校をよく抜け出して、多摩川の土手まで行ってました。二人で。土手の草が長くて、うっかり足が滑って、俺が転んだんです。膝を石でかなり深く擦って、血が出て——」
御影は少し笑った。懐かしむような笑みだった。
「冬馬は何も言わなかったんです。ただ、自分のシャツの裾を引っ張って——それで、俺の傷を拭いた。ハンカチも持ってないのに、制服が汚れるのを気にもしないで、黙って」
渚はトレーの上の生姜焼きを見つめた。
胸の中で、何かが揺れていた。
(あの人が……そんなことを)
初めて会った日に冬馬が言った言葉が、不意に蘇った。「目立たない人間が都合がいい」という、あの言葉。応接室で渚を値踏みするように見た、あの冷たい青灰色の目。それと——御影が今語る、シャツの裾で傷を拭う少年の姿が、同じ人間のものだとどうしても繋がらなかった。
(繋がらない。でも——もし、繋がるなら)
「誰かが痛いのを、見過ごせない人間なんです」
御影の声は静かだった。自慢でも告発でもなく、ただ事実を置くような口調だった。でもその声に、何かが滲んでいることを渚は感じた。友情という言葉では収まりきらない何か。それが何なのかを渚は考えようとして——止めた。他人の感情の名前を勝手に決めるのは、失礼な気がした。
食事が終わりに近づく頃、渚は自分がいつの間にか箸を止めていたことに気づいた。冬馬のことが、もっと知りたかった。
その感情が——嬉しさとも悔しさとも、焦がれるような痛みともつかない、複雑な形をして渚の胸の中にある。嬉しいのは、あの氷のような男の向こうに確かな人間がいると知ったからだ。悔しいのは——それを、他の誰かから教えてもらっていることだ。
御影がふと、渚のコートの袖に目を向けた。
無言で、細い糸くずを指先でそっと取る。
一秒にも満たない動作だった。でもその瞬間、食堂の喧騒がどこか遠くなった。御影の指先が袖から離れる。二人が同時に、相手の目を見た。
渚の胸の奥で、何かが乱れた。
(違う。この乱れは、御影さんへの——じゃない)
そうではなかった。渚にはわかった。この動揺の正体は、御影のことではなく——冬馬の知らない側面を、他の誰かの言葉で知ったことへの、どこか理不尽な痛みだった。自分で確かめたかった。自分の目で見たかった。そう思ってしまっている自分を、渚はまだうまく処理できなかった。
「また」
御影は立ち上がりながら、柔かく言った。
「彼のこと、よく見ててあげてください」
その言葉の意味を、渚は昼の食堂の光の中でしばらく考えていた。
――――
夕刻、朱雀タワーの三十八階は静かになっていた。
経営企画室——会長・社長直属の参謀機関として機能するその部署は、中期経営計画やグループ再編を担う十五名の室員が日中は書類と数値に追われているが、残業が続くこの時間帯には一人、また一人と退室していく。
御影司は自分の執務机で資料に向かっていた。
扉が開いたのは、窓の外の空がオレンジから藍に変わり始めた頃だった。
御影は顔を上げた。
廊下から入ってきた人物の姿に、室内に残っていた数人が一様に背筋を伸ばした。朱雀冬馬だった。四十一階の常務室から、珍しく自ら降りてきた。漆黒の短髪、目の下にうっすらとした疲労の影。それでも姿勢は一切崩れていない。青灰色の目が室内を一瞥して、まだ残っている室員に無言で視線を投げた。
その意味を室員たちは瞬時に理解した。三分もしないうちに、室内は二人きりになった。
冬馬は御影の向かいの椅子を引くこともなく、窓の前に立った。腕を組み、御影に背中を向けたまま、東京の夜景を眺めている。
長い沈黙があった。
やがて、冬馬が口を開いた。
「渚と話したそうだな」
御影の手が、資料の上で止まった。
渚。——「秋月さん」でも「妻が」でもなく、呼び捨ての名前が、冬馬の口から出た。おそらく冬馬本人は気づいていない。いや——少しは気づいているかもしれない。だからこその、窓の外への視線だ。
御影は资料を静かに伏せた。
「昼食を一緒にしました」
「……何を話した」
「多摩川の土手の話」
冬馬の肩が、ほんの僅かに揺れた。止まった、と言う方が正確かもしれない。揺れたのではなく、何かに引っかかったように静止した。
「なぜ」
「彼女は、あなたのことを何も知らないから」
「それを教える必要があるのか」
「ある、と思ったので」
冬馬がようやく振り返った。青灰色の目が御影に向く。感情を読ませない目だ。十二年間、この目を見続けてきた御影には——でも、その奥でわずかに揺れているものが見えた。本人がそれを認めていないだけで、確かにそこにある。
「本当にただの契約なのか」
御影は正面から問うた。遠回しにする気はなかった。
冬馬は一拍、間を置いた。
「それ以外の何だ」
答えは即座だった。でも——その速さが逆に、何かを語っていた。考える間もなく出てくる答えは、長い時間をかけて自分に言い聞かせた言葉の反射だ、と御影は思った。本当に疑いのない人間は、もっと鈍く、もっとのんびりと答える。
御影は椅子から立ち上がった。
机を回り込み、冬馬の正面に立つ。窓の外から差し込む夜の光が、二人の間に落ちていた。
「なら」
御影は冬馬の目を見たまま、静かに言った。
「俺が渚さんを好きになっても、お前には関係ないな」
その言葉が、室内に落ちた。
冬馬は動かなかった。
表情も変えなかった——変えなかった、のだが。御影には分かった。仮面の奥で、何かが急速に収縮した。感情が表に出る前の一瞬の、制御の痙攣のようなもの。冬馬がこれまで誰の前でも見せたことのない種類の、静止だった。
何も返さない。
返せない——その沈黙の重さを、御影は全身で感じていた。十二年の友情の上に、今、自分は何を投じたのか。壊すつもりはなかった。ただ——確かめなければならなかった。
そのとき、冬馬の背後の机から、書類の束がばさりと滑り落ちた。
二人が同時に屈みかけた。頭がぶつかる直前で止まる。互いの顔が、三十センチの距離に来た。
一瞬だけ、場の空気が緩んだ。
御影は苦笑した。冬馬は……眉間の皺を深くした。二人が顔を上げると、互いの表情は元に戻っていた。そして重い沈黙が、再び室内を満たした。
冬馬は落ちた書類を拾わずに、御影の脇を抜けてドアへ向かった。
扉に手をかけたところで、立ち止まった。背中を向けたまま、何かを言おうとして——言わなかった。
扉が閉まる音だけが、残った。
――――
プレシア南青山のキッチンに、玉ねぎを炒める甘い匂いが広がっていた。
渚は夕食の後片付けを終えて、少し迷ってから肉じゃがを作り始めていた。特に理由はなかった。ただ、手を動かしていないと落ち着かなかっただけだ。
人参を切る。じゃがいもを切る。豚肉を炒める。いつも通りの順番で、いつも通りの量で作る。弟の陸が「姉ちゃんの肉じゃがが一番好き」と言うたびに、渚はいつも「そんな大げさな」と笑っていた。
でも今夜は、陸のために作っているわけじゃなかった。
(どうしてこんなに、頭の中がうるさいんだろう)
御影が語った川の記憶が、ぐるぐると回っている。黙ってシャツの裾で傷を拭った少年の話。誰かが痛いのを見過ごせない、という言葉。そしてその言葉を語る御影の顔に宿っていた——友情とも、それ以外とも決めきれない揺らぎ。
渚は木べらを持ったまま、コンロの火を少し落とした。
御影司は優しい人だ、と思う。穏やかで、聡明で、渚の警戒を自然に解いた。あの糸くずを取る指先の動作——あれは「親切」の形をしていた。でも「それ以上」の境界線の上にあることを、渚は感じていた。
(でも私が今、頭の中で考えているのは御影さんのことじゃない)
そこに気づいて、渚は少し困った。
御影が教えてくれたことで、冬馬への渇望がかえって大きくなっている。他の誰かの言葉で彼の内側を知ることへの、もどかしいような焦りがある。自分の目で見たい。自分の耳で聞きたい。あの氷の向こうに確かにいる人間の声を——そう思ってしまっている自分に、渚はどう名前をつければいいか分からなかった。
(名前をつけてはいけない。まだ)
鍋に出汁を注ぎ、蓋をする。
リビングの時計が深夜零時を回った頃、渚はソファに腰を下ろして膝を抱えた。明日も七時には起きなければならない。分かっているのに、目が閉じられなかった。
気がついたら、眠っていた。
――――
玄関の扉が静かに開く音がした。
廊下を歩く靴音が、リビングの前で止まる。
深夜の帰宅だった。冬馬はコートを脱ぎながらリビングに入り——そこで止まった。
ソファに、渚がいた。
膝を緩やかに抱えたまま、横に傾いて眠っている。薄茶色の髪が頬にかかっている。小さな銀のイヤリングが、窓から差し込む月光の中で鈍く光っていた。部屋着のまま、毛布もかけずに。
冬馬は少しの間、そこから動かなかった。
(何をしている、俺は)
起こせばいい。それだけのことだ。声をかければ、渚は目を覚ます。自分の部屋に戻る。それで終わりだ。合理的に、そうすればいい。
でも冬馬の足は、リビングの奥の棚へ向かっていた。
引き出しを静かに開ける。薄いウールのブランケットを取り出す。渚の傍に近づく——月光の中で静かに輝く寝顔の前で、冬馬の手が空中で止まった。
起こそうと伸ばした手が、そのままの形で浮いている。
渚の睫毛が、月の光の中で細かく揺れていた。疲れているのだろう。眉間には皺がない。こういう顔をするのか、眠っている時は——冬馬はそんなことを、どうでもいい事実として頭の隅に記録した。
手をそっと引いた。
代わりに、ブランケットを渚の体にかけた。肩から膝の上まで。乱れた髪には触れなかった。息遣いが聞こえる距離のまま、一秒だけ立っていた。
それから踵を返して、廊下へ出た。
扉を引いて閉める——その動作を終えた瞬間、薄く目を開けた渚には聞こえなかったかもしれないが、廊下を遠ざかっていく靴音は確かにあった。
渚はブランケットの重みを感じた。
体の上に落ちた温かさを感じた。
目を完全に開ける直前で、止まった。このまま開けてしまったら、何かが変わってしまう気がした。それが怖かったのか、それとも——この温かさの中にもう少しいたかったのか、渚自身にも分からなかった。
(御影さんの優しさと、この人の沈黙——どっちが)
問いが、途中で止まった。
比べるつもりじゃなかった。なのに比べてしまっている。それに気づいた瞬間、渚の胸の奥が、じわりと痛んだ。この感情の正体を、渚はもうほとんど分かりかけていた。
でもまだ、名前をつけなかった。
――――
翌朝。
冬馬は朱雀タワーへと向かう廊下を、いつもと同じ歩幅で歩いていた。
エレベーターの前を通り過ぎた時、昨夜の経営企画室での自分の声が脳裏をかすめた。御影の問いに、自分はなんと答えたか。「それ以外の何だ」。——端的で、正しい答えだ。何の問題もない。
「渚と話したそうだな」
その言葉を、冬馬は自分の口から出したものとして認識していなかった。「秋月さん」と言おうとして、なぜそうならなかったのか。舌が勝手に動いた。ただそれだけだ。
——それだけだ、と冬馬は思った。
廊下の途中で、足が一瞬だけ止まった。
止まった理由を、冬馬は自分に問わなかった。問わないことを選んだ。
だが、その「選んだ」という事実だけが——朱雀冬馬の氷に、ひびのような線を刻み始めていた。