氷の御曹司、溶ける日まで
大手商社・朱雀グループの冷徹な御曹司、朱雀透真は誰に対しても感情を見せたことがなかった。部下たちからは「氷の皇帝」と呼ばれ、契約結婚をするという衝撃的なニュースを世間に知らしめる。彼の花嫁は、地味なライトブラウンの髪を持つごく普通の会社員、秋月渚だった。
真実はこうだ。透真の父、朱雀健一会長が「婿選び計画」を始動させたのだ。書面上の妻を得ることで、透真は父の圧力をかわすことができる。月額100万円の報酬を受け取り、渚は2年間、彼の妻の役割を演じることに同意する。
しかし数日後、渚は気づき始める。透真の氷のような外面の下に、予想外の優しさのかけらが隠れていることを。彼女が熱を出したとき、透真は仕事を放り出して看病にあたった。部下を厳しく叱責した後、彼らの成長をひそかに喜んでいる姿を渚は目撃する。世間が冷酷無比だと思っている男は、誰にも見せない優しさを秘めていたのだ。
事態は複雑になる。透真の最も信頼する部下、御影司が渚に恋心を抱き、彼女に逃げるよう懇願する。司の妹・理央は渚に訴える。「本当に兄を愛しているなら、この契約を解消して」と。最も危険なのは、透真自身が気づき始めていることだ
氷の御曹司、溶ける日まで - 氷の仮面が割れる夜
ブランケットの温かさを、渚はまだ覚えている。
あの夜——ソファで眠っていた自分の体に、誰かがそっとかけてくれた薄いウールの重みが、数日経った今もどこかに残っている気がして、渚は自分の肩を無意識に抱くことがある。それに気づくたびに「やめなさい」と自分を戒めるのだが、気づけばまた同じことをしている。
(契約の中の行動だ。別に、特別な意味なんてない)
分かっている。分かっているのに——プレシア南青山のサブルーム、十八平方メートルの空間で、渚は鏡の前に立ちながら、今夜これから自分が踏み込む場所のことを考えていた。
帝都ホテル東京——千代田区内幸町に構える、客室数五百二十を誇るこの都市の要塞で、年に四回開かれる財界人の非公式サロン「鳳凰会」の晩餐が、今夜催される。朱雀賢一が主宰するその会は、入会に直接推薦が必要な四十二名の財界人が集う場だ。ディナーコース一人三万八千円、最上階三十五階の専用フロア「鳳凰の間」は一般に非公開——そういう場所に、渚は「朱雀冬馬の妻」として出席する。
賢一から届いた指示書は簡潔だった。「六月の晩餐に同伴のこと」。それだけ。冬馬からは事務的にドレスが指定され、松永——鶴翔館を取り仕切る六十歳の執事——が今夜のために用意してくれたのが、今渚が纏っているものだ。
深紺のドレス。肩から胸元にかけてレースが走り、光の当たり方によって微かに光沢を帯びる。丈は床すれすれ。渚がこれまでの人生で袖を通してきたどんな服とも、質感が違う。
(似合っているのか、私に)
鏡の中の自分を見つめながら、渚は正直なところが分からなかった。コーポ柴又の六畳間で洗濯物を干していた自分と、この鏡の中にいる女が、本当に同一人物なのかどうか。
スマートフォンに手を伸ばす。弟の陸にメッセージを打とうとして、指がわずかに震えた。
——元気にしてる?
それだけ打って、送信した。この震えが何なのか、渚にはほとんど分かっていた。怖い、という感覚と、もう一つ——冬馬のそばなら、乗り越えられるかもしれないという感覚が、互いに否定し合いながら共存している。その矛盾に、渚は名前をつけないでいた。
――――
帝都ホテルへ向かう車内は、静かだった。
漆黒の短髪に、ダークネイビーのタキシード。隣に座る冬馬は、運転手越しに夜の東京を見つめたまま、口を開かなかった。青灰色の瞳が、流れていく街の灯りを静かに映している。眉間に浮かぶかすかな皺——今夜の会合が「顔見せ」では終わらないことを、冬馬は最初から分かっているのだろう、と渚は感じた。
窓の外、東京の夜景が黒い川のように流れていく。渚はその光の粒一つひとつを目で追いながら、御影の声を思い出していた。
「冬馬が笑ってました。声を上げて、馬鹿みたいに」
——多摩川の土手。転んで膝を擦った傷を、シャツの裾で黙って拭った少年。あの話を聞いてから、渚の中で何かが変わり始めている。目の前の冬馬と、御影が語った少年が、少しずつ繋がり始めている。
でも同時に、御影の優しさも渚の胸の中にある。食堂での生姜焼きの話、耳元で静かに語りかけるような声、渚を見る時の金色の瞳の温度——それらを思い出すたびに、渚は自分の心が二方向に引っ張られているのを感じて、その引っ張られ方に後ろめたさを覚えた。
(比べるつもりじゃない。でも、比べてしまっている)
二人の間に、これまでで最も長い種類の沈黙が満ちていた。
――――
鳳凰の間は、渚の想像よりずっと静かだった。
三十五階、帝都ホテル最上階。五十名収容の専用フロアは、低い照明と重厚なカーテン、そして財界を動かす人間たちの抑制された話し声に満ちていた。窓の向こうに東京の夜景が広がり、その光量の多さが逆に室内の緊張感を際立てている。
渚は冬馬の少し後ろに立って、コース料理の一皿一皿をなんとか処理した。隣席の夫人が話しかけてくれる言葉に、笑顔で返しながら。フォークの角度、グラスの持ち方、会話の切り出し方——創業記念パーティーの時より幾分かは慣れた、はずだった。
晩餐が中盤に差し掛かった頃、賢一がかすかに目配せをした。
渚はその動きを、テーブルの向こう側から見ていた。六十二歳、白髪まじりの会長が、静かに合図を送る。その先に、黒いスーツの男——如月誠一郎がいた。
朱雀グループ総務部渉外課。渚の身辺調査を任されているという人物が、薄いクリアファイルを手に立っている。
(何を、しようとしている)
渚が考え終わる前に、如月は資料を配り始めた。テーブルを囲む財界人たちの手に、一枚の紙が渡っていく。
賢一の声が、穏やかに広がった。
「朱雀の跡継ぎが選んだ伴侶の素性を、正直にお伝えしたく存じます」
その一言の後、室内の空気が変わった。視線が集まってくる。渚の席の隣の夫人が、受け取った紙に目を落とす。
渚の手の中にも、同じ紙が届いた。
秋月渚。二十六歳。朱雀グループ子会社「朱雀フードサービス」一般事務職。年収三百二十万円。葛飾区柴又の築三十五年アパート在住。弟・秋月陸の大学学費を年間百二十万円負担。貯金残高は契約前時点で四十五万円。
数字が、並んでいる。
渚の人生の全体積が、A4一枚に収まっている。
(これが、私の値段)
頭では理解できた。いつかこういうことが来るかもしれないと、薄々感じていたかもしれない。でも実際に活字として目の前に並んだ時——渚の内側で、何かが静かに、しかし確実に崩れ始めた。恥ずかしさとも違う、惨めさとも少し違う。自分の生活が、努力が、弟を養ってきた日々が——数字に変換されて値踏みされる感覚が、全身を内側から圧迫した。
賢一の口調は、最後まで穏やかだった。それが逆に、直接の攻撃より深く刺さることを、渚は全身で理解した。怒鳴られるより、同情されるより、この静かな「開示」の方が——ずっと残酷だった。
冬馬は、表情を一切変えていなかった。
着席したまま、青灰色の瞳は正面を向いている。その横顔から何も読み取れない。読み取れない、のに——テーブルの下で、渚の右手が拳を握りしめていた。白くなるほど強く。それを、冬馬の視界の端が捉えた。
その瞬間、渚はグラスに手を伸ばした。水を飲もうとした。緊張を誤魔化すように、なんでもない顔をしようとして——グラスを傾けすぎた。
隣席の夫人の腕に、水がかかりそうになった。
音もなく、冬馬の手が渚の手首を掴んだ。
グラスが正される。水はこぼれなかった。夫人が「あら」と小さく笑い、渚は「申し訳ありません」と頭を下げた。それだけのことだった。
でも——渚の手首に残る、冬馬の指の感触が消えない。
「契約の管理」か、それとも「守る意志」か、どちらとも取れる曖昧さのまま。その手は、もう離れている。でも渚の脈が乱れていた。怒っているのか心配しているのか判断できない、でもこの手が温かかった——という矛盾した感覚が、渚の胸の奥に刻み込まれた。
渚は前を向いたまま、その感覚を処理しようとして、処理できなかった。
――――
小休止が告げられた。
財界人たちがそれぞれ席を立ち、廊下や隣室へ散っていく。渚も立ち上がろうとした——その瞬間、冬馬がすっと先に立ち上がり、渚の側に来た。言葉はない。ただ、歩き始める。渚はその背中を追った。
廊下へ出る。人の流れと逆方向に、冬馬は歩いた。奥へ、奥へ。突き当たりまで。
窓があった。
三十五階から見下ろす東京の夜景が、そこにあった。千代田区から港区にかけて広がる光の群れが、黒い空の下で静かに燃えている。二人の他に、誰もいない廊下。
冬馬が、渚の正面に立った。
「あの、すみませんでした。グラスのことは——」
言いかけた渚の言葉が、止まった。
止めたのは声ではなかった。冬馬の手が、渚の肩に置かれた。
ブランケットをかけた夜と、創業記念パーティーで腰に触れた時と——同じ動作の、三度目。でも今回は違う。迷いがなかった。正面から、冬馬の青灰色の瞳が渚を見ていた。
「君のことは、私が対処します」
低く、静かな声だった。でもその声に、普段の事務的な冷静さとは少し違う温度がある。抑制しているのに、抑制しきれていない何かが——声の端に滲んでいた。
(この人が、こんな声を出す)
渚の目が、熱くなった。悲しいわけじゃない。嬉しいわけでもない。この言葉を信じたい、でも契約だからかもしれないと自分の中の何かが許してくれない——その灼けるような葛藤が、目の奥に溜まっていく。
涙が浮かんでいる、と渚は自分で分かった。
冬馬は渚の目が潤むのを見た。肩に置いた手を、離しかけた——その直前で、止まった。
離せない、という受動的な何かではなかった。離してはいけない、という意志が、冬馬の中で初めて「義務」としてではなく「選択」として立ち上がった瞬間だった。
――――
廊下の遠端に、人影があった。
銀色がかった灰色の短髪。柔和な金色の瞳——御影司が、暗い廊下の向こうから、二人を見ていた。
十二年間、冬馬の傍にいた。その表情を、その声の揺れを、誰より正確に読んできた。
——今、冬馬の顔に浮かんでいるものを、御影は一度も見たことがなかった。
氷の皇帝と呼ばれる男が、それを守ろうとして、手を離せずにいる。その意味を、御影は暗い廊下越しに正確に読み取った。
そして同時に——自分が何をしようとしているのかも、理解した。
御影は歩み寄った。冬馬ではなく、渚に向かって。
「渚さん」
静かで、しかし確信に満ちた声だった。渚が振り返る。御影の一歩が、渚に近づいた——その時、御影の指先が渚の手の甲にかすかに触れた。意図的なのか、そうでないのか、判別できない接触。でも確かに、温かかった。
「契約には抜け道があります。朱雀の外に出ることも、できます」
渚の肺が、一瞬動きを止めた。
冬馬の表情が、石のように固まった。怒りでも驚きでもなかった。自分の内側で、何かが断ち切れる直前の——静止のような表情だった。
「司」
一言だけ、冬馬が言った。
御影は冬馬を見なかった。金色の瞳が、まっすぐに渚を見ている。
渚は冬馬を見た。次に御影を見た。また冬馬を見た。
冬馬の「守る」が、義務から来るものなのか、本心から来るものなのか——渚には分からない。御影の「逃げよう」が、純粋な優しさなのか、別の感情から来るものなのか——それも分からない。
三人が廊下に立ち尽くしたまま、数秒の沈黙が落ちた。
その沈黙は、重かった。息ができないほど重かった。渚の手の甲に、御影の指先が触れた感触が残っている。肩に置かれた冬馬の手の温度が、まだある。二つの温度が同時に存在していて、渚はどちらが本物なのか判断しようとして——できなかった。
――――
廊下の奥から、足音が近づいてきた。
黒いスーツの秘書が、丁寧に頭を下げながら言った。
「会合の再開をご案内申し上げます」
三者の膠着が、外部の力によって解かれた。
冬馬が、渚の肩から手を離した。何も言わなかった。踵を返して、鳳凰の間へ向かって歩き始める。背中が遠ざかっていく。
渚はその背中を追いかけようとして——足が止まった。一瞬だけ。
廊下に、渚と御影だけが残った。
「今夜、答えを出さなくていいです」
御影の声は、強制しなかった。静かに、言葉を置いていくような言い方だった。それだけ言って、御影も会合へ戻っていく。
渚は一人、廊下に立った。
遠ざかる冬馬の背中を、目で追った。「守る」という言葉が、まだ耳の中にある。あの声の低さが、普段と違ったことを、渚は聞き逃さなかった。
(この人は——なぜ、あんな声を出したんだろう)
御影の優しさは本物だと分かる。冬馬の言葉が本心かどうかは、分からない。その「分からなさ」が——渚を冬馬から目が離せなくする理由なのだと、渚はこの廊下でようやく少し理解し始めていた。
――――
帰路の車内、二人の間に再び沈黙が流れた。
でも、今夜の沈黙は質が違った。創業記念パーティーの帰りの静けさとも、初めてハイヤーに乗った夜の緊張とも、違う。なんというか——言葉にならない何かが、その沈黙の中に満ちていた。
渚の手が、膝の上で微かに震えている。廊下での一連の出来事が、まだ体の中を流れていた。あの指先の触れ方、あの肩への手、あの「守る」の声——どれも消えてくれない。
冬馬は窓の外を向いていた。
東京の光が、フロントガラスを流れていく。車が止まる。また動く。
冬馬の視界の端が、渚の震える手を捉えた。
左手が、わずかに動いた。渚の手へと、向かいかけた——止まった。
その「止まった」事実だけが、車内の空気に静かに落ちた。
渚はその動きに気づかなかった。気づいていたとしても、それに名前をつける準備が、まだできていなかった。
――――
鶴翔館に戻ると、玄関脇の棚の上に封筒が一通置かれていた。
冬馬が先に気づいた。差出人の欄に目を落とす——「聖蘭女子大学」の消印と、「朱雀莉央」という名前。
冬馬の表情が、一瞬だけ動いた。何かを処理するような、ごく短い変化。それから何も言わず、封筒をそのままにして自室へ入っていった。廊下に靴音が遠ざかり、扉が静かに閉まる。
渚は封筒を手に取った。
朱雀莉央——冬馬の妹だ、と渚は知っていた。二十二歳、聖蘭女子大学文学部四年。まだ一度も会ったことがない。
指先が、封筒の表面をなぞった。見知らぬ文字。見知らぬ名前。それでも何かが、この薄い紙の中に入っている気がした。
(この人は、冬馬のことを——どう思っているんだろう)
廊下でまだ答えの出ていない問いを胸に抱えたまま、渚は扉の前に立ち尽くした。今夜起きたことが、少しずつ体の奥に沈んでいく。冬馬の「守る」という言葉が、まだ静かに鳴り続けている。
渚はそっと封筒を元の場所に戻した。今夜は、開けられない。
この封筒の中身が、また何かを変えてしまう予感がした。