氷の御曹司、溶ける日まで
大手商社・朱雀グループの冷徹な御曹司、朱雀透真は誰に対しても感情を見せたことがなかった。部下たちからは「氷の皇帝」と呼ばれ、契約結婚をするという衝撃的なニュースを世間に知らしめる。彼の花嫁は、地味なライトブラウンの髪を持つごく普通の会社員、秋月渚だった。
真実はこうだ。透真の父、朱雀健一会長が「婿選び計画」を始動させたのだ。書面上の妻を得ることで、透真は父の圧力をかわすことができる。月額100万円の報酬を受け取り、渚は2年間、彼の妻の役割を演じることに同意する。
しかし数日後、渚は気づき始める。透真の氷のような外面の下に、予想外の優しさのかけらが隠れていることを。彼女が熱を出したとき、透真は仕事を放り出して看病にあたった。部下を厳しく叱責した後、彼らの成長をひそかに喜んでいる姿を渚は目撃する。世間が冷酷無比だと思っている男は、誰にも見せない優しさを秘めていたのだ。
事態は複雑になる。透真の最も信頼する部下、御影司が渚に恋心を抱き、彼女に逃げるよう懇願する。司の妹・理央は渚に訴える。「本当に兄を愛しているなら、この契約を解消して」と。最も危険なのは、透真自身が気づき始めていることだ
氷の御曹司、溶ける日まで - 名前のつかない感情が、手の中で形になった夜
廊下の沈黙が、まだ体の中に残っている。
昨夜の帝都ホテル——鳳凰の間を出た後の廊下に三人で立ち尽くした、あの静止の時間。御影の手が渚の手の甲に触れた感触。冬馬が渚の肩に置いた手の重さ。そして「守る」という言葉の、低く抑えた声の温度。どれも消えてくれないまま、渚は朝を迎えていた。
鶴翔館——朱雀家の本邸は、早朝に独特の静けさを持つ。使用人たちが動き始める前の、一番薄い時間。渚はサブルームから廊下へ出て、台所へ向かった。冬馬はもう出勤している。靴音が遠ざかる気配で目が覚めたとき、渚はまだ布団の中にいた。起き上がる理由がないのに、横になっていることもできなかった。
台所は広い。シンクも調理台も、渚の旧居——葛飾区の築三十五年のコーポ柴又とは比べものにならないスケールで、最初は遠慮して端の方しか使えなかった。今は少し慣れた。少しだけ。
ケトルを火にかける。
(守る、か)
冬馬があの廊下で言った言葉を、渚はまた脳裏で繰り返していた。「渚を守る」——名前で呼ばれたことに、渚は気づいていた。気づいたのにその場では言葉が出なかった。本心なのかどうか判断できなかった、と言えばその通りだ。でも本当のことを言えば——本心だったとして、それを受け取る準備が、渚にはまだできていなかった。
御影の言葉も、同時に残っている。「契約なら解除できる。僕と一緒に逃げよう」という、あの静かで優しい声。御影の優しさは本物だと渚には分かる。冬馬の言葉が本心かどうかは、分からない。その「分からなさ」の方向に、なぜか渚の気持ちは傾いていく。それがどういう意味なのかを、渚はまだ自分に問わないでいた。
ケトルから蒸気が上がる。
たぷたぷと音がして、渚はぼんやりとそれを見ていた。蒸気がどんどん上がってくる。上がってくる。上がって——
ふわっ、とメガネのレンズが真っ白に曇った。
「あ」
何も見えない。渚は慌てて火を止め、メガネを外した。レンズを服の裾で拭きながら、自分が沸騰したお湯をただ眺め続けていたことを理解する。どれくらいそうしていたのか。
ちょうどその時、玄関のチャイムが鳴った。
渚はメガネをかけ直し、玄関へ向かう。廊下の長さを改めて感じながら歩いて、ドアを開けると——誰もいない。
おかしい、と思った瞬間、チャイムがもう一度鳴った。渚はそこで初めて、自分がドアを開けるより先にチャイムが押されていたことを理解した。一度目を聞き逃していたのだ。
「……すみません、気づかなくて」
扉を開けると、銀灰色のショートボブが朝の光を受けていた。
銀灰色——違う、正確には銀に灰色が混じった、少し透けるような色だ。緩やかにウェーブした髪が顎の線に沿っている。透明感のある紫がかった銀色の瞳が、渚を見て、一瞬だけ柔らかく細くなった。
「お休みのところ申し訳ありません」
落ち着いた声だった。敬語の使い方が自然で、それがこの人の地なのだと分かる。右手首に、銀色のリングがある。シンプルな形だが、見た目に重さがある。
「朱雀莉央と申します。冬馬の妹です」
渚の胸の中で、何かが静かに動いた。
(この人が——莉央さん)
昨夜、鶴翔館の玄関棚に置かれていた封筒。聖蘭女子大学の消印と「朱雀莉央」という名前。冬馬が封筒を目にした瞬間の、ごく短い表情の変化。渚はそれを見ていた。
「……秋月渚です。どうぞ、上がってください」
――――
莉央は庭を見渡してから、静かに言った。
「茶室を使わせていただけますか。兄がいないことは確認した上で来ました」
隠さない言い方だった。渚を試しているわけでも、責めているわけでもない。ただ事実を並べる。その真っ直ぐさが、渚には少し冬馬に似ていると思えた。
鶴翔館の庭には茶室がある。静月庵——と松永執事から教わった名前の、小さな木造の建屋だ。庭の奥、手水鉢の脇に静かに建っている。渚はまだ中に入ったことがなかった。
茶室の中は、思っていたより明るかった。障子から朝の光が淡く差し込んでいる。畳の青さが目に優しい。二人で向かい合って座ると、外の庭の音——風が木の葉を揺らす、かすかな音——だけが聞こえた。
莉央はすぐには話さなかった。茶を点てる仕草をするわけでもなく、ただ手を膝の上に置いて、渚を見ていた。値踏みするような目ではない。何かを計るような目でもない。ただ、見ている。
「渚さんを責めに来たわけではありません」
先に言ってくれた。渚は少しだけ、体の力が抜けるのを感じた。
「兄のことを、少しだけ話させてください」
莉央の声のトーンが、ほんのわずかに変わった。敬語の形は保ちながら、どこかに柔らかさが加わる。記憶の中にいる人間のことを話す時の声だ、と渚は思った。
「兄が八歳の時のことです」
渚は膝の上で手を組んだ。
「庭で虫かごを割りました。兄が、虫かごを」
それだけで、渚には少し情景が浮かんだ。八歳の男の子。夏の庭。割れた虫かご。
「泣いていました。声を上げて。私はまだ五歳でしたから、廊下の扉の隙間からそれを見ていた。兄が泣くのを見たのは、あれが最初で最後です」
渚は何も言わなかった。言えなかった、というより——言う必要がないと感じた。莉央が続きを話したいのだと分かったから。
「父の書斎に呼ばれました。兄が」
莉央の指先が、膝の上でわずかに動いた。
「三十分ほどして、廊下に出てきた時——兄の顔から、泣いていた痕跡が全部消えていました。目も、表情も。全部、きれいに。まるで最初からそんな感情など持っていなかったかのように」
渚の胸の奥で、何かがじわりと収縮した。
(父の書斎で、三十分)
言葉にしなくても分かる。八歳の子どもが父親から何を言われたのか。「泣くな」という言葉だけではない何かが、あの三十分の中にあったのだろう。そしてそれが、冬馬という人間の表面を覆う氷の、最初の一層になった。
御影が語った言葉が蘇る。「誰かが痛いのを見過ごせない人間なんです」——多摩川の土手で転んだ御影の傷を、シャツの裾で黙って拭った少年。あの少年と、書斎から出てきた時に泣き痕のなくなった少年が、同じ人間の中に同時にいる。
渚は膝の上の両手が、いつの間にか白くなるほど強く組み合わさっているのに気づいた。
「ブランケットのことは知っています」
渚は顔を上げた。
「兄が人に毛布をかけるのは——記憶している限り、見たことがありません。家族にも」
渚の指先が、冷たくなった。冷たくなりながら、同時にどこかが熱くなった。その矛盾した感覚の意味を、渚はもうほとんど分かっていた。分かっていて、まだ言葉にしないでいた。
――――
莉央はしばらく沈黙した後、渚の目を真っ直ぐに見た。
「お願いがあります」
渚は静かに待った。
「契約という形でそばにいることを、やめてほしいんです」
渚の呼吸が、一瞬、止まった。
莉央は続ける。その目が、揺れている。芯は曲げないまま、でも揺れている。
「誤解しないでください。あなたに消えてほしいと言っているんじゃない。むしろ逆です。兄は——契約という枠の外にしか、本当の感情を認められない人なんです。自分が何かを感じていても、それが契約の範囲内なら『義務だ』と処理できる。でも契約がなければ、言い訳できない」
渚はその言葉を、体の中に受け取った。
(契約の外側でしか、本当の感情を認められない)
その言葉が、渚の中に何かを可視化した。渚はこの数週間、「契約を守ること」と「冬馬のそばにいたいこと」の間で何かを選んでいたわけではない。でも気がついたら——「冬馬のそばにいたい」という気持ちの方が、先に自分の中にあった。契約はその後ろにある。そういう順番になっていたのだと、莉央の言葉が初めて渚に気づかせた。
(私はもう、選んでいた)
自覚が、静かに落ちてきた。
その自覚と一緒に——「好き」という言葉が、渚の胸の内側で初めて形を持った。
声に出していない。出せなかった。でも確かにそこにある。その言葉の重さに、渚は一瞬、呼吸の仕方を忘れた。
「渚さん」
莉央の声が、少し低くなった。
「兄が、あなたのことを『渚』と呼んでいます」
渚の胸の中で、何かが矢のように刺さった。
名前で呼んでいる——それを莉央が知っている。莉央が知るということは、冬馬が莉央に話したのか、莉央が何かの形で聞いたのか。どちらにしても、それは「契約の妻」に対して冬馬が向ける言葉の種類ではない。
莉央の目に、涙が一度だけ光った。こぼれる前に収まった。でも渚はそれを見た。
――――
夕刻、茶室から一人で戻る渚の背中を、廊下の窓越しに見ている視線があった。
冬馬だった。
早めの帰宅だった。玄関を入った時、庭に人影があることに気づいた。渚の後ろ姿——薄茶色の髪が夕日を受けて、少し赤みを帯びている。歩き方がいつもと少し違う。どこか、内側に何かを抱えている人間の歩き方だ。
莉央が来ていた。
玄関棚に残っていた封筒を昨夜見た時から、いつかこうなると思っていた。妹は必ず渚に会いに来る。自分が先に手を打つべきだったかもしれない。でも——何を言うべきだったのか、冬馬にも分からなかった。
リビングへ向かうと、廊下の向こうから渚が歩いてきた。
鉢合わせた。ほぼ同時に、二人が立ち止まる。
渚の表情が、いつもと違う。泣いたわけではない。でも何かが変わった後の顔をしている。何かを決めた、というより、何かを知ってしまった人間の顔。
二人の間に、沈黙が生まれた。これまでとは質の異なる沈黙だった。昨夜の廊下の沈黙とも、初めてハイヤーに乗った夜の沈黙とも、違う。言葉の前の静けさではなく——言葉の必要性を問い直しているような、そういう沈黙。
渚の手に、小さな鍵があった。茶室の鍵だろう。
廊下の段差に、渚の足先が引っかかった。体が前に傾く——鍵が指から滑り落ちた。カチン、と硬い音。
二人が同時に屈んだ。
冬馬の手が、渚の手に重なった。
鍵を拾う前の一瞬。どちらの手も、止まった。
冬馬は鍵を拾い、立ち上がった。渚も立ち上がる。冬馬は渚に鍵を渡そうとして——手が、離れなかった。渚の手を包んだまま、数秒が経過した。渚が顔を上げると、冬馬が真っ直ぐに渚を見おろしていた。三十センチを切った距離。氷のように冷たいはずの青灰色の瞳が、今この瞬間だけ、少し違う温度を持っているように見える。
冬馬が先に手を離した。
でもその手が空中で一瞬、迷ったような軌跡を描いた——渚はその動きを、見逃さなかった。
――――
リビングのソファに対面で座った。
外の夜景が窓の向こうに広がっている。東京の光がビルの隙間から見える。白鷺台の空は少し暗い。遠くに東京タワーの赤い光が見えた。
沈黙が続いた。冬馬が先に口を開いた。
「昨夜の廊下で」
低い声。渚は顔を上げた。
「なぜ何も言わなかった」
責めている声ではない。純粋に、問いている。でもその問い方が冬馬らしかった——感情を絞り込んで、一番核心だけを言葉にする。
渚は少し考えてから、正直に答えた。
「冬馬さんの言葉が本心なのかどうか、判断できなかったので」
言い終えてから、渚は少し後悔した。傷つけるような言い方だったかもしれない、と思った。でも嘘をつく気にはなれなかった。
冬馬の表情が、石のように固まった。
冬馬は立ち上がり、窓際へ歩いた。東京の夜景を背に、しばらく外を見ていた。渚はその背中を見ていた。漆黒の髪が夜景の光を受けて、輪郭だけが少し明るい。
沈黙が続いた。
それから冬馬が振り返った。ゆっくりと、渚のそばへ歩み寄ってくる。渚が立ち上がるより先に、冬馬が渚の手を両手で包んだ。
温かかった。
この手の温度を、渚は知っている。ブランケットをかけられた朝。創業記念パーティーの夜、腰に回った腕の重さ。帝都ホテルの廊下での、肩の上の手。全部が——この手の温度だった。記憶がそこへ収束する。
冬馬が口を開いた。
「第二話の夜、渚が肩に手を置いた時」
渚は小さく、肺の中の空気が揺れた。
「合理的に処理しようとした。書類作業をしていた。渚は寝かせるべきだった。そういう判断をするつもりだった」
冬馬の声は、いつもより少しだけ——速い。抑制されているが、その下に何かが流れているのが分かる。
「なのに動けなかった。理由を探したが見つからなかった。それが初めて——おかしいと思った瞬間だ」
渚は手の中に力が入らないでいた。握り返したいのに、体が動かない。
「パーティーの夜、腰に手を回した。あれも義務だと思っていた。渚が転びそうだったから。でも五秒間、離さなかった。必要以上に。それに気づいた時」
冬馬は言葉を一度切った。眉間にわずかな皺が刻まれている。自分の言葉を組み立てながら話しているのだと渚には分かった。設計された言葉ではなく、今ここで初めて形になっている言葉だ。
「渚のそばに……いたい」
その言葉が、静かに落ちた。
「契約はもういい。お前のそばにいたい。それだけだ」
言い終えてから、冬馬の呼吸がわずかに乱れた。ほんの少し。ほとんど気づかないくらい。でも渚は気づいた。この人がこんな声を出すのを、聞いたことがない。「氷の皇帝」が——今、感情を選択した。
渚の喉の奥に、何かが詰まった。
泣くつもりはなかった。泣いたら負けだと思っていた。何に負けるのかは分からなかったけれど。
渚は、握られた手を、握り返した。
それだけだった。言葉はなかった。でも二人と——それを見ていない誰もかもが同時に知った。それが答えだということを。
冬馬の手の力が、少しだけ強くなった。
――――
翌朝。
玄関に気配があったのは、冬馬がコートを手にしたのと同じタイミングだった。チャイムではなく、直接ノックする音。
松永が対応するより先に、冬馬が扉を開けた。
黒いスーツの男が立っていた。朱雀グループ総務部渉外課——如月誠一郎。四十八歳。賢一の指示で渚の身辺調査を担当している男だ。渚はこの人物を鳳凰会の晩餐で見た。薄いクリアファイルを配った男。
如月は冬馬に向かって深く頭を下げ、無言のまま白い封書を差し出した。
冬馬はそれを受け取った。表を一瞥する。賢一の名前。それだけで内容の性質が分かる。
封を開けた。折り畳まれた便箋を、音を立てずに広げる。渚は冬馬の少し後ろで、廊下の壁際に立っていた。封書の内容は見えない。冬馬の背中だけが見えた。
冬馬がゆっくりと振り返り、封書を渚に向けた。
渚は受け取らなかったが、読んだ。
穏やかな文体だった。礼儀正しく、丁寧で、怒りの気配がない。だからこそ——その内容が、刃のように渚の目に入ってきた。
六月の鳳凰会晩餐会への「家族同伴出席」の通知。
そして、一人の令嬢の名前。鳳凰会会員の資産家の娘——婿選別計画の候補者の一人。
冬馬が封書を折り畳み、自分の内ポケットに収めた。
渚は冬馬を見た。昨夜の言葉を撤回しないという意志が、その動作の中にあると分かった。それでも——封書の中の令嬢の名前が、渚の胸の中でまだ光っていた。
(嫉妬、だ)
認めたくなかった。でも確かにそれだった。嫉妬という感情の重さを、渚は今朝初めて自分の中に見つけた。契約相手の女の名前を読んで、自分の胸が静かに揺れた。それが嫉妬でなければ何なのか。
渚は左手を、右手でそっと触れた。昨夜、冬馬に握られた手。その温度を確かめるように。
冬馬が玄関を出る前に、一度だけ振り返った。
「渚」
名前だけ、呼んだ。続きは来なかった。でも冬馬の青灰色の瞳が渚を見る目の中に、昨夜のままの何かが残っていた。言葉のない続きが、その視線の中にあった。
扉が閉まった。
玄関が静かになった。渚は一人で立ち、左手を握ったまま、白い封書がどこかへ消えていった方向を見ていた。令嬢の名前と、冬馬の手の温度が、胸の中で同時に息をしている。この嫉妬の感情を持つ自分を、渚はまだ持て余している。
でも——それを感じることのできる自分が、今ここにいる。
賢一の次の手は、確かに動き始めていた。