氷の御曹司、溶ける日まで
大手商社・朱雀グループの冷徹な御曹司、朱雀透真は誰に対しても感情を見せたことがなかった。部下たちからは「氷の皇帝」と呼ばれ、契約結婚をするという衝撃的なニュースを世間に知らしめる。彼の花嫁は、地味なライトブラウンの髪を持つごく普通の会社員、秋月渚だった。
真実はこうだ。透真の父、朱雀健一会長が「婿選び計画」を始動させたのだ。書面上の妻を得ることで、透真は父の圧力をかわすことができる。月額100万円の報酬を受け取り、渚は2年間、彼の妻の役割を演じることに同意する。
しかし数日後、渚は気づき始める。透真の氷のような外面の下に、予想外の優しさのかけらが隠れていることを。彼女が熱を出したとき、透真は仕事を放り出して看病にあたった。部下を厳しく叱責した後、彼らの成長をひそかに喜んでいる姿を渚は目撃する。世間が冷酷無比だと思っている男は、誰にも見せない優しさを秘めていたのだ。
事態は複雑になる。透真の最も信頼する部下、御影司が渚に恋心を抱き、彼女に逃げるよう懇願する。司の妹・理央は渚に訴える。「本当に兄を愛しているなら、この契約を解消して」と。最も危険なのは、透真自身が気づき始めていることだ
氷の御曹司、溶ける日まで - 腰に触れた手が、離れない
肩に残った温度のことを、渚はまだ考えていた。
あの夜からもう一週間が経つ。契約初日の深夜、廊下で声をかけられて、肩の上に止まった手の感触が——今もどこかに張り付いている気がして、渚は自分の左肩を無意識に触ってしまう。それに気づくたびに「やめなさい」と自分に言い聞かせるのだが、気づけばまた触っている。
(契約の手だ。意味なんてない)
朝の支度をしながら、渚は鏡を見た。
鏡の中の自分が、見慣れない服を着ていた。
薄いシルバーグレーのドレス。背中が大きく開いていて、スカートは床をわずかに引く。光の角度によってかすかに光沢を持つ生地は、渚がこれまでの人生で袖を通したどの服とも質感が違う。鶴翔館の執事、松永さんが昨日用意してくれたものだ。六十歳の松永は無表情の多い人だが、このドレスを持ってきた時だけ「よくお似合いになります」と短く言った。お世辞なのか本音なのか分からなかったが、渚は「ありがとうございます」と返した。
でも今、鏡を前にすると——自分じゃない誰かが映っているみたいだ、と思う。
薄茶色の髪はアップにまとめられ、小さな銀のイヤリングが耳元で揺れている。いつもコーポ柴又の六畳間で見ていた自分の顔と、同じ顔のはずなのに、違って見える。それが怖かった。この格好でパーティー会場に立つことへの怖さではなく——この服が似合っているのかもしれない、という感覚の方が、なんだか怖かった。
(似合ってたって、何になるんだ)
渚はそっと視線を逸らした。
――――
朱雀グループ本社ビル「朱雀タワー」の大ホールは、渚が想像していたよりずっと広かった。
千代田区丸の内の、地上四十二階建てのガラス張りのビル——その地下二階に、創業記念パーティー専用の大ホールが設けられている。吹き抜けの天井は十メートル近くあり、シャンデリアの光が白い床に複雑な影を落としていた。三百名を超える参加者が生み出す熱気と話し声が、室内に満ちている。
財界の人間たちだ、と渚は思った。
全員がそれを当然の顔で纏っていた。高価なスーツ、宝石、仕立ての良いドレス。誰一人として場違いな人間がいない。渚だけが——ここに含まれていない。そういう感覚が、足元からじわじわと這い上がってくる。
「緊張していますか」
低く静かな声が、すぐ隣から届いた。
渚はわずかに顔を向けた。冬馬が真正面を向いたまま立っている。漆黒の短髪、ダークネイビーのタキシード、白いシャツの胸元に細いタイ。眉間の皺は薄く、口元はいつも通り何も語らない。だがその青灰色の瞳が、一瞬だけ渚の方を見た。
「……少し」
「そうですか」
それだけだった。それ以上の言葉はなかった。でも冬馬は渚の少し前に立ち、緩やかに室内へと進み始めた。エスコートの手が差し出される——右手が。事務的に、確認するような動作で。
渚はその手に自分の手を重ねた。
指先が、ひんやりとしている。
(この人の手は、いつも少し冷たい)
一週間前、初めてここに来た時も思った。契約書のやりとりをした時も、廊下で肩に触れた時も、体温というものを感じさせない冷たさだった。なのになぜ——その冷たさの中に、守られているような感覚があるのか。渚は自分の感覚が信用できなかった。
(契約の手だ。私は役割を果たしている。それだけ)
会場の奥に、ひときわ強い存在感を放つ人物が見えた。
朱雀賢一——冬馬の父、グループ会長——が、数名の人間に囲まれて立っている。六十二歳の白髪まじりの男は、紺のスーツの上からでも分かるほどがっしりとした体格をしていた。財界人の非公式サロン「鳳凰会」を主宰し、日本経済の裏側を動かすとまで言われるその男が、ちょうどこちらに目を向けた。
渚は、足が止まりそうになった。
賢一の視線は優しくない。観察している。測っている。値踏みしている——そういう眼差しだった。
(私は今、その人の息子の妻として立っている)
冬馬の手が、渚の手を少し引いた。自然に、しかし確かに。前を向いて歩け、という意味に受け取った。渚は視線を前に戻した。賢一の目から逃げるように——しかし逃げているように見えないように——足を動かした。
――――
乾杯のスピーチが始まった頃、渚は冬馬の少し後ろに立っていた。
壇上のグループ社長が言葉を紡いでいる。創業から七十二年、先代の意志を受け継いで、今年もグループは——という内容だった。三百人の耳がそこに向いている間、渚はグラスをどう持てばいいのかを考えていた。シャンパンのグラスを持つ正しい方法が、急に分からなくなる。足の置き場も分からなくなる。笑顔の維持の仕方も——。
「十時の方向に立っているのが神戸物産の石川会長です」
低い声が、渚の耳のすぐそばで言った。
ドキッとした。
冬馬が渚の隣に立ち、顔をわずかに傾けてきていた。耳元に口が近い——吐息が、かすかに耳にかかる距離。渚は表情を保つのに少しだけ余計なエネルギーを使いながら、言われた方向に視線を向けた。
「左の方ですか」
「そうです。グループの食料事業と取引がある。会話になった場合は、大阪の話を振ると好む」
声は完全に平坦だった。業務連絡そのものだった。耳元の近さに特別な意味は何もない——ただ小声で伝えるための距離だ。それが分かっていても、渚の右耳はまだ少し熱かった。
「三時の方向、黒いドレスの女性が新藤建設の副社長夫人です。鋭い方なので、経歴を正確に答えられるよう」
渚は視線だけで追った。中年の、品のいい女性だった。確かに目が鋭い。自分も見られていた。
(この人たちの中で、私は何者として立っているんだろう)
答えは分かっていた。朱雀冬馬の妻、として。でもそれが事実ではないことも分かっていて、渚の中でその二つが常に小さく軋んでいた。
乾杯の声が上がった。シャンパングラスが触れ合う音が、あちこちで鳴った。渚も冬馬もグラスを持ち上げ、一口だけ口をつけた。
――――
案の定、夫人たちに囲まれたのは、それから十五分後のことだった。
四人の女性が、自然な流れで渚の周囲に集まった。年齢は四十代から六十代。全員が高価な宝石を身につけ、全員が柔らかく微笑んでいた。その柔らかさの奥に、何かが潜んでいる。渚はそれを感じた。
「秋月さんでしたかしら。ご出身はどちら?」
「東京です。葛飾区の……」
「まあ、下町の方ね」
微笑みは変わらなかった。でも渚の言葉が途切れたのは、下町、という言葉の受け取られ方を一瞬考えたからではなかった。自分の平凡さを説明しようとして、どこから言えばいいか分からなくなったのだ。子会社の一般事務職です、年収三百二十万でした、葛飾区の築三十五年のアパートに住んでいました——そういう言葉が喉のところで詰まる。
「どちらの大学をご卒業?」
「……都内の、私立です」
「どちらの学部?」
そこで渚の言葉が、完全に止まった。
(言えない。経済学部だったとしても、学校名を言えば次の質問が来る。東英でも聖蘭でも慶應でもない、どこにでもある普通の大学名を言った瞬間、この人たちの顔が変わる)
一瞬の沈黙だったが——渚にはとても長く感じた。
「失礼します」
低い声が割り込んだ。
冬馬が一歩、前に出た。渚の横ではなく、渚とその夫人たちの間に立つような位置に。青灰色の瞳が、表情を変えないまま夫人たちを見渡した。
「妻は、家庭的で誠実な人間です。それが私が選んだ理由です」
それだけだった。
説明でも弁解でも謝罪でもなかった。ただ事実を述べるように、静かに、しかし何かを遮断するような言葉だった。夫人たちがかすかに笑みを作り直した。「まあ、素敵ですわね」という言葉が一人の口から出て、話題は別の方向に流れた。
渚は、しばらくその場で立っていた。
(今の言葉は……契約上の演技だ)
分かっている。分かっているが、「それが私が選んだ理由です」という一文が、渚の中で静かに残った。業務的な言葉として処理しようとしても、うまくいかなかった。この人が誰かを前にして「選んだ理由」という言葉を使ったのを、渚は初めて聞いた気がした。
(信じたい。でも信じてはいけない)
心の中で、その二つがゆっくり回り始めた。どちらに傾いても、どちらかが嘘になる。渚はグラスをまた一口飲んで、胸のざわめきをシャンパンと一緒に流し込もうとした。
――――
パーティーが後半に入った頃、照明が落とされた。
創業七十二周年を記念した映像上映のためだった。スクリーンに戦後の映像が映し出される。焼け野原の東京、露天で繊維製品を売る若い男——朱雀グループの創業者、宗一郎の映像だった。「血統は事業の礎、信義は朱雀の翼」という言葉が字幕で流れる。三百人が静かにそれを見ていた。
照明が落ちた大ホールは、思ったより暗かった。
スクリーンの光が会場を柔らかく照らしているが、足元はほとんど見えない。人波が緩やかに動いている。映像を見るために移動する人、グラスを手に立ち位置を変える人——渚もその流れの中にいた。
前の人が止まったのに、渚が気づかなかった。
あるいは、足元に大理石の段差があったのを見えていなかった。
体勢が崩れた瞬間、渚の視界が傾いた。
――その一瞬に、腕が回った。
腰に。
背中が、温かいものに引き寄せられた。ふわりと、しかし確実に。渚の体が誰かの体に引き付けられ、倒れるはずだった前方向への動きが、完全に止まった。
「——」
声が出なかった。
冬馬が渚を支えていた。左腕が渚の腰に回っていて、渚の背中は冬馬の胸の前にある。正確には胸板が渚の肩甲骨に当たっていて——その感触があまりにも現実で、渚は自分がまだ傾いているのか、それとも既に止まっているのかを一瞬判断できなかった。
冬馬がゆっくりと、渚を正面に向き直らせた。
スクリーンの光の中で、二人の顔の距離が数センチになった。
渚は冬馬を見た。見ないわけにはいかなかった。こんなに近い距離に、この人の顔があった。眉間の皺が薄い。口元はいつも通り静かだ。だが——青灰色の瞳の奥で、何かが違う。
氷の仮面が、割れている。
わずかに、本当にわずかにだが——冬馬の目が動揺している。理論を組み立てるような目ではなく、言語化できない何かに直面した人間の目だ。渚はこの一週間でいくつかの冬馬の表情を見てきたが、こういう表情は見たことがなかった。渚を見ている。渚「だけ」を見ている。他の何かを処理しているのではなく。
それからすぐに、冬馬は無表情を取り戻した。
でも——腰に回った腕が、離れなかった。
一秒。
二秒。
渚は数えてしまっていた。なぜ数えているのか自分でも分からなかったが、数えずにいられなかった。
三秒、四秒——
五秒で、腕が離れた。
「大丈夫ですか」
声は平坦だった。表情も戻っていた。まるでさっきの数秒間など最初からなかったかのような顔をしている。でも渚は見ていた。あの一瞬に冬馬の目に浮かんだものを、ちゃんと見ていた。
「……はい」
喉がうまく動かなかった。「はい」という一文字だけが、精一杯だった。
遠くから声が届いた。社員らしき数人が「お似合いですね」と笑いながら言っている。小声のつもりだったのだろうが、渚にはちゃんと聞こえた。頬が熱くなった。暗い会場の中でよかった、と思った。顔が赤いのを誰にも見られずに済む。
——でも今は、頬の熱さより、腰の感触の方が気になっていた。
五秒間、ここにあった腕の重さが、まだそこにある気がする。
(胸が……痛いほど鳴っている)
渚は自分の胸の奥を意識した。速い。こんなに速く脈打っているのは、転びかけた驚きだけではない。それだけではないことが分かっていて、だからこそ怖かった。
(この人の腕が離れてほしくなかった——なんて、思ってはいけない)
スクリーンの映像が続いている。創業者の若い顔が、どんどん歳を重ねていく。三百人が静かにそれを見ている。渚もそちらを向いて立っていたが、映像は何も見えていなかった。
会場の柱の陰で、グラスを傾けている人物がいた。
朱雀賢一だった。
渚と冬馬のシルエットから、その視線はまだ離れていなかった。腰に回った腕を、五秒を、賢一は静かに観察していた。その目に浮かんでいるのは単純な疑念ではなかった。計算でも疑惑でもなく——息子が人間的な揺らぎを持つ瞬間を、初めて目撃した者の、複雑な何かだった。賢一はグラスを静かに傾けて、映像の方に目を戻した。
――――
帰路のハイヤーの後部座席は、静かだった。
東京の夜景が、窓の外を流れていく。皇居の濠の水面が一瞬だけ光って消えた。信号が赤になり、車が止まる。また動く。二人の間に会話はなく、ただその沈黙が満ちていた。
渚は窓の方を向いていた。
腰の感触を、まだ意識していた。意識しているということを意識しているという、二重のやっかいな状態だった。忘れようとすると余計に鮮明になる。五秒間の腕の重さと、あの瞬間に冬馬の目に浮かんでいた動揺の色と——渚の頭の中でそれらがゆっくり回り続けていた。
「……今日は、悪くなかった」
冬馬の声が、静かに届いた。
窓の外を見たまま、低く、ぽつりと。誰かに向けて言っているのか、自分に言っているのか分からないような、そういう声だった。
渚は少し間を置いてから、答えた。
「ありがとうございます」
声が、わずかに震えた。気づかれたかどうかは分からなかった。冬馬はそれ以上何も言わなかった。渚も何も言わなかった。信号が変わり、ハイヤーがまた動き出した。
――――
鶴翔館の自室に戻り、渚はドレスを脱いで部屋着に着替えた。
鏡台の前に座ると、アップにまとめていた髪がばらけた。薄茶色の毛先がばらりと肩に落ちる。その顔が——頬が、まだ赤かった。ハイヤーの中でも、鶴翔館に入る時でも、赤みが引いていなかった。
(まだ赤い)
渚は両手で顔を覆った。手のひらが冷たくて、それが少し気持ちよかった。でも何も解決しない。手のひらの冷たさが引いたら、また頬の熱さに戻る。
今夜のことを整理しようとした。
会場で感じた場違い感。夫人たちに囲まれた時の言葉の詰まり方。冬馬が前に出てきた時の「それが私が選んだ理由です」という声。そして——照明が落ちた大ホールで、五秒間、腰に回っていた腕。
(整理できない)
一つ一つを合理的に処理しようとすると、必ず「でも」が来る。あの言葉は演技だ、でも目の動揺は本物だった。あの腕は反射だ、でも五秒間は反射にしては長すぎる。全部を「契約」の範囲に収めようとするたびに、何かがはみ出る。
もう一度あの瞳の動揺を見たい——という気持ちが、静かに浮かんだ。
渚は両手で顔を覆ったまま、少しの間そのままでいた。
(この感情に名前をつけてはいけない)
分かっている。分かっているから、名前をつけないでいる。名前をつけた瞬間に、何かが変わってしまう気がした。
壁一枚の向こうに、冬馬の部屋がある。今頃何をしているのかは分からない。書類を読んでいるのかもしれない。あるいは——あの五秒間のことを、もう忘れているのかもしれない。
(忘れていたとしても、当然だ)
渚は顔から手を離した。鏡の中の自分がまだ赤い顔をしている。渚はそれを見て、少しだけ苦笑いした。情けないような、でも少しだけ何かが温かいような——変な気持ちだった。
その夜、鶴翔館の一角では。
朱雀賢一が書斎の電話を取っていた。短い言葉を、静かな声で告げている。相手は総務部渉外課の如月誠一郎——渚のことを知れば知るほど賢一の疑念は深まるはずの、身辺調査を任せた人物だった。
だが賢一の胸の内には、今夜目撃した「息子の五秒間」が静かに刻まれていた。三十年間グループを率いてきた男が、息子の冷たい目の奥に一瞬だけ見た揺らぎを——どう解釈するのか、それはまだ賢一自身にも分からなかった。