探偵はもう、休んでいる
ある晴れた午後、シエスタ・レイユはソファにだらりと寝そべりながら、優雅にクッキーを食べていた。
「君崎くん、お茶をおかわりしてくれない?」
彼女の相棒、君崎海斗はキッチンからため息をつきつつやかんを手に取る。なぜ世界最高の探偵は家ではこんなにも怠け者なのか?
ここは「探偵チーム」――シエスタ、君崎、ナツナギ・ハルカ、斎賀士道、シャル、そして斎賀士道の共有アパート。個性豊かな面々が一つ屋根の下に暮らしている。これだけの大物たちが揃えば、毎日何かしらとんでもないことが起こるのは当然だった。
ある朝、ナツナギが明るく「朝ごはんを作るね」と宣言した。するとみんなは無言でキッチンから離れていく。説明は不要だった――先週の「完璧なオムレツ」がなぜか全員の眉毛を消し去ってしまったからだ。
シャルは毎朝バルコニーで謎の体操をしている。シエスタはこっそり望遠鏡でそれを観察し、メモを取っている。彼女はそれを「研究」と主張するが、研究ではない。
斎賀士道は毎週火曜日に「チーム規則集」を更新する。誰も読まない。彼だけが真面目にそれを守っている。
君崎はなぜかみんなの世話役になっている――買い物、
探偵はもう、休んでいる - 朝日とプリンと謎の影
夜が深い。
トワミ区の路地裏に、人の気配があった。
街灯の光が届かない場所。アパートの壁と塀の間、幅一メートルもないような細い暗がり。そこに人影がひとつ、じっと立っていた。
フードを深くかぶっているせいで、顔はまったく見えない。背丈は中くらい。男か女かもわからない。ただ、その視線だけが、闇の中で確かに動いていた。
視線の先には、古びた三階建てのアパート。
メゾン・フリューゲル。
表札の文字は薄れていて、読みにくい。外壁にはつたが這っていて、築年数を正直に語っている。でも二階の窓には明かりがついていた。夜中の一時を過ぎても、誰かが起きているらしい。
人影はゆっくりと、ポケットから何かを取り出した。
古い写真だった。
街灯の反射光だけで確認できるくらい、くたびれた一枚。写真には二人の人物が写っていた。一人は銀色の長い髪をした少女。もう一人は——顔のあたりが、焼かれていた。焦げた跡が黒々と残っていて、もとの顔がどんな顔だったのか、まったくわからない。
人影の指先が、銀髪の少女の顔を静かになぞった。
「[cold]……見つけた」
低い声。感情の読めない、平坦なつぶやき。
それだけ言って、人影は写真をポケットにしまった。そのまま路地の奥へ歩いていき、闇に溶けるように消えていった。
メゾン・フリューゲルの二階の明かりは、しばらくそのまま灯っていた。
——
朝の六時半。
キッチンに陽光が差し込んでくる。トワミ中央駅の方角から、遠く電車の音がした。
君崎海斗はフライパンの前に立っていた。
黒いショートヘアはまだ少し寝ぐせが残っていて、白いシャツのネクタイも緩いまま。細身の体つきで、身長はだいたい百七十センチ。目は深い茶色で、なんというか、よく動く目だ。今もフライパンの卵を見ながら、ちょっとだけ眉間に皺を寄せている。考え事をするとすぐそうなる癖がある。本人は気づいていない。
六人分のトーストがトースターに入っている。
サラダのボウルがカウンターに並んでいる。
コーヒーメーカーがゴポゴポと音を立てている。
普通に考えたら、これって朝の家事だ。探偵の仕事じゃない。
君崎は卵を返しながら、頭の中で今日のメンバーの状態を整理した。
シエスタは昨夜遅くまで何か読んでいたから、たぶん目覚めが悪い。トーストよりも温かいものを先に出したほうがいい。ナツナギは朝食に張り切ることがあるけど、今日は台所に来させないほうが全員のためになる。先週のオムレツ事件がまだ記憶に新しい。なぜあれで全員の眉毛が消えたのか、未だに謎だ。斎賀は几帳面だから時間通りに起きてくる。シャルは——たぶん今頃ベランダで謎の体操をしている。
君崎は自分がこういうことを自然にやっていることに、たまに気づく。
誰が何を食べたいか。誰の体調が悪そうか。誰が今日は機嫌がいいか悪いか。
気づいたら動いている。見習い探偵だった頃からの癖だ。周りを観察して、先に動く。そうしていれば揉め事が減る。チームのバランスが取れる。
問題は、そのせいで俺がなんでも引き受けすぎていることだ、と君崎は思う。
でも今はそれよりも、卵を焦がさないことのほうが重要だった。
朝食の準備の途中で、冷蔵庫を開けた。
バター。牛乳。昨日の残りのスープ。マスキングテープに「斎賀」と書かれた豆腐。マスキングテープに「ナツナギ」と書かれたヨーグルト。そういえばシエスタだけは一度もラベルを貼ったことがない。名探偵の食べ物に名前は不要、とか言って。
奥のほうに、プリンがあった。
君崎はちょっと手を止めた。
コンフィズリー・ルーチェの「クラシックプリン」。スーパーマルヒロでも売ってる、一個三百二十円のやつだ。カラメルが苦めで大人向けの味。それはいい。問題は——このプリン、かなり前からここにある。
賞味期限、もう切れてるはずなんだよな。
君崎は眉間に皺を寄せたまま、プリンのフタを確認した。うん、切れてる。でも見た目はなぜか普通だ。崩れてもいないし、変色もしていない。まるで昨日買ってきたみたいな顔をして、冷蔵庫の奥に鎮座している。
誰のプリンなのか、チームの全員が「自分のじゃない」と言っている。
じゃあ誰が買ったんだ。
「……まあいいか」
今考えることじゃない。君崎は冷蔵庫の扉を閉めた。とりあえず今朝は朝食を作ることのほうが先だ。プリンの謎はあとで考える。たぶん考えない。
そのとき、階段のほうからトントンと軽い足音がした。
「[gentle]海斗くん、おはよう」
声は一階から聞こえた。
扉を開けると、廊下にモリヤ・タケが立っていた。七十二歳。メゾン・フリューゲルの大家で、一階に住んでいる。もとは小学校の先生だったらしく、背筋がしゃんとしている。白髪を後ろで丸くまとめていて、今日は薄いグレーのカーディガンを着ていた。手には紙袋を提げている。
袋の中から、たい焼きの匂いがした。
「[gentle]ヤマブキさんが今朝早く持ってきてくれてね。あんこ。六個あるから、みんなで食べなさい」
「[surprised]えっ、ありがとうございます」
ハナミチ通りにある「たい焼きヤマブキ」。一匹百八十円の、トワミ区で行列のできる店だ。ナツナギのお気に入りだから、知らせたら喜ぶ。
「[serious]……それでね」
モリヤさんの声のトーンが、少しだけ変わった。
「[serious]昨夜、また騒いでたでしょ」
「あ」
「[serious]十一時過ぎに、ドンって音がして。それからしばらく笑い声が」
君崎は目を逸らした。昨夜のことを思い出す。シャルとナツナギが金曜映画ナイトのDVD選びで揉めて、最終的にじゃんけんになって、シャルが勝って、ナツナギが悔しくてクッションを投げたやつだ。
「[sad]すみません。注意します」
「[serious]お願いします。でもまあ」
モリヤさんは少し間を置いた。それからちょっとだけ、口元が緩んだ。
「[gentle]あなたが一番苦労してるのは、わかってますよ」
君崎はなんとも言えない気持ちになった。
七十二歳のおばあさんに見抜かれている。
「[gentle]たい焼き、冷めないうちにね」
「[gentle]はい。ありがとうございます、本当に」
モリヤさんは満足そうに頷いて、階段を降りていった。
君崎は紙袋を持ったまま、しばらくそこに立っていた。
キッチンからコーヒーの香りが漂ってくる。トースターがチンと鳴った。
よし。飯の準備、続けるか。
——
朝食が終わって、片付けも終わって。
君崎は自室に戻った。
窓から朝の光が入ってくる。トワミ区の住宅街はのんびりしていて、通りには時々自転車が通るくらいだ。空は青い。雲ひとつない。
君崎は机に座って、引き出しから革表紙のノートを取り出した。
「カリグラフ堂」で買った日記帳。一冊千八百円。文房具店だけど、万年筆の品揃えが地域で一番だと店主のヤジマさんは言っていた。この日記帳も、そこで選んだ。特に理由はない。なんとなく、革の手触りが好きだったから。
ボールペンを取って、昨日の続きのページを開く。
今日の日付を書いた。
それから、少し考えてから書き始めた。
——今朝も六人分の朝食を作った。モリヤさんがたい焼きを持ってきてくれた。ヤマブキのあんこ味。美味かった。
——ここまで書いて、ちょっと手が止まった。
(これって、探偵の仕事じゃないよな)
どこかで何度も思ってきたことが、また浮かんだ。
朝食作って、片付けして、買い出しして、仲裁して。チームのバランスを取るのが得意だからって、気づいたら全部引き受けてる。
ヴェリタス探偵評議会から届出を出して、正式に「フィアンマ」として活動してる公認探偵チームのはずなのに。
公認探偵っていうのは、警察庁の外部諮問機関から認定を受けた人たちのことで、警察の捜査にも助言できる、立派な制度の中にいる人間のはずなんだ。日本全体で約八十名しかいないエリートのはずなんだ。
なのに俺がやってること、世話係じゃないか。
君崎はペンを止めて、天井を見上げた。
不満なのかというと、そうでもない。みんながちゃんと飯を食えて、機嫌よく過ごせてると、なんか落ち着く。それはそれで本当だ。
ただ、なんというか。
俺がこのチームにいる理由って、なんなんだろう、とたまに思う。
シエスタはこの世界に七人しかいない「名探偵」の称号を持っていて、国際探偵機関から最高評価を受けた人間だ。約五年前に最年少でその称号を取った、本物のすごい人間だ。他のメンバーもそれぞれちゃんとした力がある。
俺は——見習い時代から観察と気配りで動いてきた。それが役に立つのはわかってる。でも、なんか、もっと違う何かがあるんじゃないかとも思う。
(シエスタのことも、よくわからないし)
なんでそこで名前が出てくるんだ、と思いながら、でも消せなかった。
シエスタはああいう人だ。家の中ではソファで寝そべってクッキーを食べてて、紅茶のおかわりを当然のように要求してくる。でも一回本気になったときの推理は、本当にすごい。あの目で、俺を見るときがある。深くて静かな目で。
何を考えてるのかわからない人だ。
君崎は首を振って、日記帳に目を戻した。余計なことを書く前に閉じたほうがいい。シエスタはこの日記の存在を知っている気がするし——なんとなく、そんな気がする。根拠はない。ないけど。
ペンを持ち直して、最後の一文を書こうとしたとき。
窓の外で、何かが動いた。
視界の端に映った、小さな影。
君崎はすっと顔を上げた。
窓の外、二階からの視点。アパートの裏手の路地。誰かが、いた——気がした。フードかなにかをかぶった、暗い色の服の人物。でも。
もう誰もいない。
路地には空気だけが残っている。木の葉がわずかに揺れている。それだけだ。
「[serious]……気のせい、か」
自分に言い聞かせる。
このあたりは住宅街だ。朝から通行人がいてもおかしくない。今のはたまたま視界に入っただけで、深い意味はない。
そう思おうとした。
でも眉間の皺は、なかなかほぐれなかった。
胸の奥で何かが、ちりっとした感じで刺さっている。なんだろう、これ。不安、というほどじゃない。でも、「何でもない」と切り捨てるには、少しだけ気になる。
君崎はもう一度、窓の外を見た。
路地は静かだった。どこかで鳥の声がした。トワミ公園の方角から、かすかに。
日記帳を閉じた。革の表紙が指先に触れる。冷たくて、少し硬い感触。
引き出しにしまって、立ち上がった。
今日もいつも通りの朝だ。共有リビングではそろそろ誰かが起きてきて、たい焼きを見つけて騒ぐだろう。冷蔵庫のプリンについて、また誰かが何か言うかもしれない。斎賀は今日が火曜日じゃないか確認してから、ルールブックの更新作業の予定を立て始めるだろう。
いつも通りの、フィアンマの朝。
君崎は扉を開けて、廊下に出た。
キッチンの方向から、誰かの声がした。たぶんたい焼きを発見した誰かだ。テンションが高い。ナツナギかもしれない。
君崎は少しだけ口元を緩めて、そっちへ向かった。
さっきの窓の外のことは、もう少しだけ頭の隅に残っていたけど、それはまだ君崎自身も気づいていなかった。