探偵はもう、休んでいる
ある晴れた午後、シエスタ・レイユはソファにだらりと寝そべりながら、優雅にクッキーを食べていた。
「君崎くん、お茶をおかわりしてくれない?」
彼女の相棒、君崎海斗はキッチンからため息をつきつつやかんを手に取る。なぜ世界最高の探偵は家ではこんなにも怠け者なのか?
ここは「探偵チーム」――シエスタ、君崎、ナツナギ・ハルカ、斎賀士道、シャル、そして斎賀士道の共有アパート。個性豊かな面々が一つ屋根の下に暮らしている。これだけの大物たちが揃えば、毎日何かしらとんでもないことが起こるのは当然だった。
ある朝、ナツナギが明るく「朝ごはんを作るね」と宣言した。するとみんなは無言でキッチンから離れていく。説明は不要だった――先週の「完璧なオムレツ」がなぜか全員の眉毛を消し去ってしまったからだ。
シャルは毎朝バルコニーで謎の体操をしている。シエスタはこっそり望遠鏡でそれを観察し、メモを取っている。彼女はそれを「研究」と主張するが、研究ではない。
斎賀士道は毎週火曜日に「チーム規則集」を更新する。誰も読まない。彼だけが真面目にそれを守っている。
君崎はなぜかみんなの世話役になっている――買い物、
探偵はもう、休んでいる - プリン捜査開始と、二つの嵐の予感
木曜の朝、リビングにナツナギ・ハルカの声が響いた。
「[excited]今日こそ絶対においしいごはん作る! 全員分!」
橙色のボブカットを揺らして、エプロンを力強く結ぶ。目がキラキラしている。本気の目だ。
その声を聞いた瞬間、リビングにいた全員の動きが変わった。
君崎海斗はそっと立ち上がり、窓の方へ歩いた。「[sarcastic]……外、風強そうだな」
シエスタ・レイユはソファから音もなく本を取り上げ、するすると廊下の奥へ後退した。「[gentle]読みかけのところがあったのよ」
斎賀士道はバインダーを小脇に抱え、すでに自室のドアに手をかけていた。「[serious]……緊急の記録作業が」
三人それぞれ、別の言い訳。でも動いた方向は全員同じ——キッチンから遠ざかる方向。
先週のオムレツ。あれは本当にひどかった。食べた全員の眉毛が、翌朝なくなっていた。斎賀が「これは事件です」と言って記録した。シエスタが「面白い現象ね」と笑いながら眉を描いていた。
ナツナギは去っていく三人の背中を見た。
「[excited]みんな忙しそうだな~! じゃあ私一人でやるか!」
一切気にしていない。エプロンを叩いて、キッチンに向かった。
——
十分後。
「[excited]まず冷蔵庫の整理からだ! 料理の前はキッチンがきれいじゃないと!」
声がリビングまで聞こえてくる。棚を開ける音。袋がガサガサいう音。ラップの端を引き出す音。
君崎はリビングの端っこで、ひっそりとトーストをかじっていた。自分で作った、何も危険なやつじゃない普通のトーストだ。
しばらくして。
「[surprised]あれ? これなんだろ」
冷蔵庫の奥から、ナツナギがプリンを取り出した。
コンフィズリー・ルーチェの「クラシックプリン」。一個三百二十円。スーパーマルヒロで売っているやつ。前から冷蔵庫の奥で鎮座しているあのプリンだ。賞味期限が切れているはずなのに、今日も変わらない顔をしている。
「[excited]これ誰のー? 賞味期限とっくに切れてるけど捨てていい?」
「[sarcastic]俺のじゃない」
廊下から斎賀の声がした。「[serious]私のものではありません」
ソファの奥、本の陰からシエスタの声がした。「[gentle]わたしは関係ないよ」
誰も名乗り出ない。
ナツナギがゴミ袋を取り出した。プリンをつかんで、袋の口を広げる。
——その瞬間。
「[cold]待て」
低い声だった。ぶっきらぼうで、短くて、それでいて妙に重かった。いつものシエスタの声じゃない。
ナツナギの手が止まった。
シエスタがソファから立ち上がっていた。本を閉じて、ナツナギの方を見ている。紫色の瞳が、ゴミ袋のプリンをまっすぐ見ていた。普段はソファでだらけている目じゃない。本気の目だった。
リビングが静かになった。
「[serious]……シエスタ?」
「[serious]そのプリンを捨てるのは早計ね。まず持ち主を特定してから判断すべきよ」
ナツナギがゆっくりプリンをカウンターに置いた。
「[surprised]え……本気?」
シエスタはすでにホワイトボードに向かっていた。マーカーを取り上げて、迷いなく書く。
『プリン捜査』
君崎は口を半開きにした。
——
捜査は本気だった。
シエスタがホワイトボードにチームメンバー全員の名前を書いて、矢印でプリンと繋ぎ始めた。「シエスタ→プリン(関係性:不明)」「君崎海斗→プリン(関係性:否定)」「ナツナギ→プリン(関係性:発見者)」「斎賀→プリン(関係性:否定)」。矢印がどんどん増えていく。相関図が複雑になっていく。どう見てもプリン一個に対する図じゃない量になってきた。
君崎は渋い顔で立っていた。
「[sarcastic]……本当にやるのか、これ」
「[gentle]探偵チームでしょう。やるに決まってるわ」
「[sarcastic]探偵チームがプリンの持ち主を本格捜査するのか」
「[serious]おかしいですか」
いつの間にか斎賀も部屋に戻ってきていた。メモ帳とペンを持っている。背筋が伸びている。仕事モードの顔だ。
「[serious]捜査には記録が必要です。全員に証言を取ります」
斎賀がメモ帳を開いた。
「[serious]君崎さん。このプリンに心当たりは?」
「[sarcastic]ない」
「[serious]シエスタさんは?」
「[gentle]ないわ」
「[serious]ナツナギさんは?」
「[surprised]私が買ったなら覚えてるよ! 知らない!」
斎賀がメモに書いた。『全員:知らない』。
記録の意味がほぼない。
君崎はため息をついて、財布を出した。「[serious]……スーパーマルヒロのポイントカード、誰か持ってるか。購入履歴を確認できるかもしれない」
「[gentle]賢いわね」
「[excited]行ってくる!」
「[sarcastic]君は料理してくれ」
「[surprised]あ、そうだった」
結局、スーパーへは君崎が向かうことになった。
——
戻ってきた時、リビングの状況はさらに悪化していた。
ホワイトボードの相関図がさらに増殖していた。「プリン」を中心に、矢印が放射状に伸びている。「購入経路」「購入推定日」「動機(?)」まで書いてある。動機の欄には「不明」と大きく書かれていた。
そしてナツナギが、冷蔵庫に上半身を突っ込んでいた。下半身だけがキッチンに出ている。
「[serious]……何してる」
もごもごと声が聞こえた。「[excited]プリンの気持ちになったら分かるかと思って! 冷たくて暗いとこにずっといたらどんな気持ちかなって!」
斎賀が横でメモを取っていた。目が死んでいた。
しばらくして、ナツナギが冷蔵庫から頭を出した。
「[sad]冷たくて美味しそうだった……でも何も分からなかった」
「[serious]そうですか。記録しておきます」
君崎はマルヒロのポイントカード履歴を確認していた。三ヶ月分のレシートデータ。コンフィズリー・ルーチェのプリンが購入されていたのは——一件。六週間前、月曜の午後。
「[serious]買った人間は……一人だ。でも誰かは分からない。カードの名義は俺だけど、俺が買った記憶はない」
シエスタがホワイトボードを見ながら言った。「[gentle]面白いわね」
「[sarcastic]面白いで済む話じゃないだろ」
「[gentle]六週間前の月曜。海斗、その日何してたか覚えてる?」
「[serious]……普通に買い物行ったと思う。記録はない」
シエスタが微かに笑った。笑いを引っ込めるような、小さな動きだった。
何か知っている顔だ。
君崎がそう思った瞬間——
ドアポストがカタンと鳴った。
——
夕方、斎賀がポストを確認した。チラシが二枚。それと、封書が一通。
差出人:ヴェリタス探偵評議会。
リビングに戻ってきた斎賀の顔が、なんかおかしかった。
「[serious]……皆さん、少しよろしいですか」
声のトーンで、全員が封書を見た。
斎賀がゆっくり開封した。読む。読みながら顔が青くなっていく。
「[serious]フィアンマの今期活動実績が……規定件数を下回っています。来週月曜の査察で改善が確認できなければ、活動支援金——評議会から年間約一千二百万円が支給される制度ですが——その減額措置を取る、という通知です」
プリン捜査の熱気が、一瞬で消えた。
「[serious]……件数、あとどれくらい足りない」
「[serious]三件です。来週月曜まで」
「[serious]六日で三件か」
ナツナギが手を挙げた。「[scared]一千二百万って……それがなくなったら家賃とか……」
「[serious]ヤバいね、は流石に違います。かなりまずい状況です」
シエスタは封書を一度見た。一秒。それだけ見て、そっとソファに横になった。天井を見ている。表情が読めない。
「[gentle]……そうかな」
それだけ言った。
君崎はシエスタをちらりと見た。天井を見つめる目が、少し暗い。でも何も言わない。
「[serious]今依頼は入ってるか」
「[serious]現時点でゼロです。飛び込みを待つか、評議会に働きかけるか……」
「[serious]具体的に動くしかないな。明日から当たる」
斎賀がメモを取り始めた。プリン捜査のメモ帳が、今度は査察対策のページになった。
ナツナギが「[sad]ご飯できてるよ……食べよ」 と小さく言った。
今日作った料理は、普通においしかった。眉毛はなくならなかった。でも全員、あまり味が分からなかった。
——
深夜、君崎が玄関に水を取りに行ったついでにポストを確認した。
封筒が一通入っていた。
差出人名がない。住所もない。切手もない。直接ポストに入れた封筒だ。
開けると、中に紙が一枚。手書きの文字。インクは黒。筆跡は丁寧で、でもどこか急いだような乱れがある。
『名探偵シエスタへ。あなたが忘れたものを、わたしは覚えている』
それだけだった。
君崎はリビングに戻った。シエスタがまだ起きていた。ソファでクッキーを食べながら本を読んでいる。いつも通りの姿だ。
「[serious]これ、ポストに入ってた」
紙を差し出す。
シエスタが本から目を上げた。紙を受け取る。読む。
一秒。二秒。三秒。
シエスタの表情が消えた。
さっきまでだらけていた顔が、すっと平らになった。目が動いていない。帰り道で一瞬だけ見せた、あの鋭い目に近い。普段は奥にしまってある顔だ。
「[serious]……知ってる人からか?」
シエスタが一呼吸おいた。
それから——笑った。いつものだらけた、穏やかな笑顔。
「[gentle]知らないよ。いたずらじゃないかな」
嘘だ。
君崎にはわかった。答えるまでの間が長すぎた。笑う前に目が一瞬だけ逃げた。口の端の動きが、笑顔を作りに行くときのそれだった。二年間一緒にいれば、シエスタの本気の表情と作った表情の差くらいはわかる。
「[serious]……シエスタ」
言いかけた。
引っ込めた。
シエスタが話す気がない時に押しても意味がない。それも二年間で学んでいた。
「[gentle]おやすみ、海斗」
シエスタが本を閉じて立ち上がった。自室へ向かう。廊下の角で一度も振り返らなかった。
足音が遠くなった。ドアが静かに閉まる音がした。
——
君崎はリビングに一人残った。
テーブルの上に、査察の通知が置いてある。ホワイトボードにはまだプリン捜査の相関図が残っている。矢印と名前とクエスチョンマークが書き連ねられた、意味のあるんだかないんだかわからない図。
カウンターにプリンがある。コンフィズリー・ルーチェ。六週間前に誰かが買った。
君崎は革表紙の日記帳を取り出した。カリグラフ堂で買った一冊千八百円のやつ。ページを開いて、書いた。
——査察まで六日。件数が三件足りない。明日から動かないとまずい。
ペンを止めた。
——シエスタの嘘を、俺は見抜いた。でも何も言えなかった。
リビングの窓から、トワミ区の夜の路地が見える。街灯がアスファルトを照らしている。静かだ。
——あの紙切れ一枚が、どうしてシエスタをあんな顔にさせたのか。
プリンの謎より、査察より、今夜は그게 頭から離れなかった。