探偵はもう、休んでいる
ある晴れた午後、シエスタ・レイユはソファにだらりと寝そべりながら、優雅にクッキーを食べていた。
「君崎くん、お茶をおかわりしてくれない?」
彼女の相棒、君崎海斗はキッチンからため息をつきつつやかんを手に取る。なぜ世界最高の探偵は家ではこんなにも怠け者なのか?
ここは「探偵チーム」――シエスタ、君崎、ナツナギ・ハルカ、斎賀士道、シャル、そして斎賀士道の共有アパート。個性豊かな面々が一つ屋根の下に暮らしている。これだけの大物たちが揃えば、毎日何かしらとんでもないことが起こるのは当然だった。
ある朝、ナツナギが明るく「朝ごはんを作るね」と宣言した。するとみんなは無言でキッチンから離れていく。説明は不要だった――先週の「完璧なオムレツ」がなぜか全員の眉毛を消し去ってしまったからだ。
シャルは毎朝バルコニーで謎の体操をしている。シエスタはこっそり望遠鏡でそれを観察し、メモを取っている。彼女はそれを「研究」と主張するが、研究ではない。
斎賀士道は毎週火曜日に「チーム規則集」を更新する。誰も読まない。彼だけが真面目にそれを守っている。
君崎はなぜかみんなの世話役になっている――買い物、
探偵はもう、休んでいる - 査察と、プリンと、チームの要
昨夜のシエスタの言葉が、まだ頭の中に残っている。
「やっと、自分から聞いてくれたね」
君崎海斗は革表紙の日記帳を引き出しの奥に押し込んだまま、火曜日の朝を迎えた。外はまだ薄暗い。トワミ区の空が、じんわりと白くなり始めている。
リビングに下りると、斎賀士道がすでにダイニングテーブルの前に立っていた。
いつも背筋が伸びている人だが、今日はさらに伸びている気がする。テーブルには書類の束、評議会への提出ファイル、そして分厚いバインダー——査察対応マニュアル第47版。斎賀の手が、ページを静かになぞった。
「[serious]本日の査察に向けて、最終確認を行います」
「[serious]分かった」
ナツナギ・ハルカが眠そうな顔をしながら橙色のボブカットをぐしゃりと押さえてリビングに現れた。黄金色の目がぱちぱちと開閉する。それからソファを見て、首を傾げた。
シエスタが、いた。
クッションを抱えて横になっているのではなく——珍しく、背筋を伸ばしてソファに座っていた。銀色のロングヘアを片方にまとめて、青いリボンをちゃんと結んでいる。膝の上に本を置いているが、ページはめくれていない。紫色の目が、テーブルの上の一点を見ていた。
君崎海斗が目を向けると、シエスタの視線がちらりとこちらに来た。
何も言わない。でも昨夜と違う顔だった。硬い、とまでは言えない。ただ——緊張している。
初めて見る顔だ、と君崎海斗は思った。
ナツナギが手を挙げた。
「[excited]あ! 査察官さん来るなら、お茶菓子を出せばいいんじゃない? 私が焼くよ!」
エプロンを取りに立ち上がった、その瞬間。
「「「ダメです」」」
君崎海斗、シエスタ、斎賀の三人が、ほぼ同時に言った。
ナツナギが足を止めた。黄金色の大きな目が、三人を順番に見る。
「[surprised]え……なんで!? 三人とも同じタイミングで!?」
斎賀が即座にバインダーを開いた。
「[serious]ルールブック第88条。来客時の手料理は、事前にチーム全員の承認を必要とします」
「[surprised]そんな条文あったの!?」
「[serious]全員が読んでいないだけです」
淡々と答えて、バインダーを閉じた。
ナツナギがしばらく「うーん」と唸った後、しぶしぶ椅子に座った。君崎海斗は小さく息をついた。リビングの張り詰めた空気が、わずかにほぐれた。
シエスタが「……ふふ」と短く笑った。本当に小さな声だったが、君崎海斗は聞こえた。
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インターホンが鳴ったのは、十時ちょうどだった。
斎賀が玄関へ向かった。君崎海斗はリビングに立ち、ナツナギはテーブルの端に座り、シエスタはソファのまま動かない。
ドアが開く音。足音が廊下を進んでくる。
現れたのは、五十代くらいの男性だった。
黒縁の眼鏡。灰色の混じった短い髪。紺色のスーツはよれのひとつもなく、上着の内ポケットが少しだけ膨らんでいる。ヴェリタス探偵評議会の査察官——タカヤマ、とバッジに書いてある。
名刺を一枚取り出して、斎賀に渡した。表情は崩れない。挨拶の言葉も最小限だ。椅子に座ることも確認してから座る人間だ、と君崎海斗はすぐに分かった。
「[serious]書類を拝見します」
斎賀が準備していたファイルを差し出した。タカヤマはページを一枚ずつめくっていく。沈黙が続く。リビングの時計が、秒針の音だけを刻んでいた。
やがてタカヤマが顔を上げた。
「[serious]整合性は申し分ない」
斎賀が静かに「ありがとうございます」と答えた。
「[serious]ただ、今期の解決件数が規定ギリギリですね。実際の捜査能力も確認させていただけますか」
斎賀の眉がわずかに動いた。書類だけで終わると思っていたのだろう。君崎海斗もそう思っていた。
一秒だけ間があった。
「[serious]分かりました」
君崎海斗が答えた。斎賀より先に。タカヤマの目がこちらに向く。
君崎海斗はシエスタに目を向けた。視線だけで——頼む、と伝えた。
シエスタが一拍おいて、ソファから立ち上がった。
「[gentle]査察官、少し協力してもらえますか」
声が静かで、落ち着いている。さっきまでの緊張が、どこかへ消えていた。
タカヤマが向き直ると、シエスタはゆっくりと歩み寄った。観察する目で、タカヤマを見ている。右の腕時計。靴の先端のすり減り方。上着の左内ポケットの膨らみ——少し不自然に、重い。
「[gentle]今朝、自宅で鍵を一度なくしかけましたね」
タカヤマが動かない。
「[gentle]いつもは右ポケットに入れているのに、今日は別の場所に入れた。どこに入れたか確信が持てなくて、少し不安なまま出てきた——今も、バッグの中に鍵が二本入っています」
タカヤマが眼鏡の奥で、少しだけ目を細めた。それから無言で内ポケットに手を入れた。
鍵が二本。
長い沈黙。
「[cold]……正確ですね」
それだけだった。表情は変わらない。でもペンを持つ手が、メモに何かを書き足した。
「[excited]わあ! かっこよかった!!」
ナツナギがテーブルを叩いた。厳かな空気が一瞬で砕けた。タカヤマの目が、ナツナギに向く。ナツナギは気づかず「すごいすごい!」と連呼している。
君崎海斗は天井を見上げた。まあ、そういうことだ。
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「[serious]では次は、現場観察を」
「[excited]任せて!!」
ナツナギが勢いよく立ち上がった。
タカヤマがリビングを見渡しながら言った。
「[serious]この部屋で、最近移動したものがあります。どれか分かりますか」
ナツナギが「よっしゃ」と小声で言いながら、リビングを歩き始めた。ソファの周りをぐるりと一周して、窓際に移動して、ホワイトボードの前で止まって、またキッチン方向へ戻ってきて——五分かけて、冷蔵庫の横で膝をついた。
「[serious]ここの床、少し擦れた跡がある」
指でなぞりながら言う。それから立ち上がって、冷蔵庫を横目で見た。
「[serious]冷蔵庫が……三センチくらい、最近動いた気がします!」
タカヤマが眼鏡を押し上げた。
「[serious]なぜそう判断しましたか」
ナツナギが笑顔で言った。
「[excited]わかんないけど、なんか絶対そう!」
チーム全員の手が、同時に顔へ向かった。君崎海斗は額を押さえた。斎賀が小さく咳払いをして、前に出た。
「[serious]補足いたします。ルールブック第101条——冷蔵庫下の掃除は月一回と定めており、先週実施の記録があります。その際に移動しています」
バインダーから記録用紙を出して、タカヤマに差し出した。
タカヤマが二枚の紙を見比べた。ナツナギの「勘」と、斎賀の「記録」。
長い沈黙。
「[cold]……なるほど」
今度のメモは、少し長かった。
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タカヤマが最後に、四人の顔を順番に見た。
「[serious]一つ聞かせてください。このチームをうまく機能させている要は、誰ですか」
シエスタがナツナギを見た。
ナツナギが斎賀を見た。
斎賀が何かを言いかけて、止まった。そして、静かに視線を動かした。
全員の目が、君崎海斗に集まった。
「[serious]俺は別に——」
「[gentle]キミサキくんがいなければ、今日の査察は最初の五分で終わっていたわ」
静かな声だった。でも迷いがなかった。
昨夜とは違う。あの夜は暗いリビングで、プリンを見つめながら、どこか遠くを向いて話していた。今は正面から、君崎海斗を見て言っている。
君崎海斗は何も言えなかった。
タカヤマがペンを動かした。書類に判を押す、乾いた音が一つ。
「[cold]合格です。活動支援金は維持とします」
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玄関のドアが閉まった。
リビングに残された四人が、しばらく無言で立っていた。
それから、全員の力が抜けた。
ナツナギが床に崩れ落ちた。「疲れたーーー」と天井に向かって叫んだ。君崎海斗もソファの肘掛けに寄りかかった。シエスタがソファに沈み込んで、クッションを顔に押しつけた。
斎賀だけが直立のまま、バインダーを胸に当てて、小さく、静かに、右手で握り拳を作った。
誰も見ていないところで、ガッツポーズ。
ナツナギが偶然それを見た。「斎賀くん!?」と声を上げた。斎賀の耳が、微妙に赤くなった。
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夜になった。
アーケードの電灯が消えて、メゾン・フリューゲルのリビングには間接照明だけが灯っている。ナツナギが床に座ってクッションを抱え、斎賀はダイニングの椅子に腰掛けてルールブックを開いているが、ページをめくっていない。君崎海斗はソファの端に座って、何となくホワイトボードのプリン相関図を眺めていた。
冷蔵庫が開く音がした。
シエスタが何も言わずに冷蔵庫の奥に手を入れて、コンフィズリー・ルーチェのプリンを取り出した。テーブルの真ん中に置いた。
全員が黙って、プリンを見た。
「[gentle]これ、わたしが君崎くんのために買ったんだよ」
ナツナギが大きな目をさらに大きくした。
「[surprised]えっ!? じゃあシエスタさんのだったの!?」
斎賀がルールブックをテーブルに置いた。
「[serious]……なぜ三ヶ月間、冷蔵庫に入れたままにしていたんですか」
シエスタが少し間を置いた。
「[gentle]渡す機会を探していたの。そのうち、海斗が自分で気づいてくれるかなと思って」
斎賀が静かに言った。
「[serious]……ルールブック第58条に、食品にはラベルを貼ること、という規則があります。それさえ守っていれば」
全員が「それは確かに」という顔になった。誰も否定できなかった。
君崎海斗はプリンを手に取った。容器の底が少し冷たい。コンフィズリー・ルーチェのロゴが、薄く見える。
「[serious]……じゃあ、食べていいのか」
シエスタが肩をすくめた。
「[gentle]とっくに賞味期限は切れてるけどね」
君崎海斗は無言でプリンをテーブルに戻した。
沈黙が続いた。四人で、テーブルの上のプリンを見ていた。
それから、誰ともなく笑い出した。ナツナギが「えー!!」と叫んだ。斎賀が珍しく声を立てて笑った。シエスタが口元を手で押さえながら、肩を揺らしていた。
君崎海斗も笑いながら、プリンの容器を見た。三ヶ月間、誰のものか分からないまま冷蔵庫の奥で眠っていたプリン。答えは最初からそこにあったのに、誰も正しい場所に名前を書かなかった。
まあ、そういうことだ。
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深夜、君崎海斗は日記帳を開いた。カリグラフ堂の革表紙が、指先に馴染んだ重さで触れる。
今日のことを書いた。査察の合格。タカヤマの無表情。ナツナギの「絶対そう!」。斎賀のガッツポーズ。シエスタが自分から言った言葉——キミサキくんがいなければ、最初の五分で終わっていた。プリンの謎の結末と、賞味期限切れのオチ。
ページを一枚めくって、ペンを止めた。
手紙のことが、頭の隅に戻ってきた。シエスタが「また動き始めた」と言った、差出人のこと。今日は何もなかった。チームは笑っていた。でもその話が消えたわけじゃない。
静かな夜だ。でも同じくらい静かだった夜に、ハナミチ通りでフードの人物に声をかけられた夜のことを、君崎海斗はまだ覚えている。
ペンを持ち直して、最後の一行だけ書いた。
——手紙の件は、まだ終わっていない。
ノートを閉じた。窓の外、トワミ区の夜は静かだった。