パンドラ学園〜アヴィスは放課後に〜
新学期初日から寝坊して大慌てのオズ=ベザリウス。教室に駆け込んだ彼の机の上にいたのは、名札に「アリス」と書かれた黒うさぎのぬいぐるみだった。クラスメイトの前で冗談めかして持ち上げたその瞬間、ぬいぐるみが口を開く。「おまえ、私の所有物になったから」——。
舞台は、語り部の家系に生まれた少年オズが通うラトウィッジ学園と、その街ルーメンフィールド。強い感情や記憶が物に宿る「残響魔法」が息づく世界で、記憶を失った喋るうさぎ・アリスと、お人好しでお調子者のオズの奇妙な同居生活が始まります。
オズを陰で支える堅物従者ギルバート(通称ワカメ/うさぎ恐怖症)、オカルト大好きな妹エイダ、豪快で肉好きな叔父オスカー。賑やかなベザリウス家の面々に振り回されながら、アリスは「所有物」宣言の理由も、自分の正体もわからないまま、少しずつオズとの距離を縮めていきます。
「おまえの記憶が戻るまで、俺がおまえのことを覚えててやる」——軽々しくそう言ってのけるオズに、アリスが思わず顔を背ける、そんな放課後の物語。笑って、振り回されて、ほんの少し胸が温かくなるラブコメディ、開幕です。
パンドラ学園〜アヴィスは放課後に〜 - 机の上のうさぎは、突然に
「やっばい、寝坊したああああ!」
オズ=ベザリウスは叫びながら、ルーメンフィールドの朝の空気を切り裂くように走っていた。学園都市の中心にそびえるラトウィッジ学園の時計塔が、無情にも始業十五分前を指している。赤レンガの校舎が朝日に照らされて、いつもよりずっと遠くに見えた。
(なんで今日に限って目覚ましが鳴らないんだよ……!)
新学期初日。クラス替えもない二年の教室は、昨日までと何も変わらないはずなのに、寝坊したという事実だけで世界が終わるような気分だった。金髪のふわっとした短い髪は寝癖で四方八方に跳ね、制服のネクタイは走る振動でさらに緩んで、肩からずり落ちそうになっている。
「おわっ、猫……!」
曲がり角で黒猫が横切り、オズは慌てて体をひねった。ルーメン川沿いの遊歩道を抜けるのが近道だったが、今日はやけに猫が多い。猫を見るたびに、アイツの顔が浮かぶ。
(ギル、今ごろ教室で俺の席を見て呆れてるだろうな)
オズは口元をゆるめた。従者であり親友のギルバート=ナイトレイは、毎朝オズの机に教科書を並べ、寝坊したオズの言い訳を先生にしておくのが日課だった。十年以上も一緒にいる、オズにとっては空気みたいな存在だ。
正門をくぐり、下駄箱で上履きに履き替える。息を切らしながら階段を二段飛ばしで駆け上がり、二年三組の教室の扉を勢いよく開けた。
「おはよう、セーフ! まだ先生来てないよな!?」
教室にいた十人ほどの生徒が一斉に振り返る。その視線が、なぜかオズの顔ではなく、オズの机の上に注がれていることに、オズは一拍遅れて気づいた。
「オズ、お前の机、やばいぞ」
「朝来たら置いてあったんだよ、それ」
「誰かのいたずらか?」
口々に言うクラスメイトたちをかき分けて、オズは自分の席に向かった。窓際から二列目、後ろから三番目の席。そこに、それはいた。
黒くて、ふわふわで、耳の長い、うさぎのぬいぐるみ。
「……なんだこれ」
オズは首をかしげて、ぬいぐるみを持ち上げた。手触りはやわらかく、毛並みはつやつやとしている。新しいものではなく、どことなく古びた風合いがあった。首元には小さな名札がついていて、丸い字で「アリス」と書かれている。
「アリス? 誰の忘れ物だよ、これ」
オズは笑いながら、ぬいぐるみをひっくり返したり、耳を引っ張ったりした。悪戯っぽい笑みが、エメラルド色の大きな瞳の中でいたずらに輝く。
「おーい、持ち主はいませんかー? かわいい黒うさぎちゃんでーす」
教室が笑いに包まれた。オズはこういう時、場の空気を読んで笑いに変えるのが得意だった。困っている人を放っておけない性格だが、それ以上に、人を笑わせることが好きだった。
その時だった。
「おまえ、私の所有物になったから」
オズの手の中で、ぬいぐるみが喋った。
教室の空気が、一瞬で凍りついた。
「……え?」
オズはぬいぐるみを顔の高さまで持ち上げ、まじまじと見つめた。黒いビーズのような瞳が、赤い光を宿してオズを見返している。
「離せ。雑に扱うな。私はぬいぐるみじゃない」
「いや、ぬいぐるみだろ」
「違う。私はアリスだ。そして、おまえは今日から私の所有物だ」
オズは数秒間、無言でぬいぐるみと見つめ合った。それから、ゆっくりと教室を見回す。クラスメイトたちは皆、口をあんぐり開けてこちらを見ている。
「……あっはっは! なんだ、ドッキリか? 誰かリモコンで喋らせてるんだろ?」
オズは笑い飛ばした。そうだ、そうに違いない。新学期初日の余興だ。誰かが用意したサプライズだ。そう思うことにした。
だが、ぬいぐるみは続けた。
「笑うな。私は本気だ。おまえは私のものだ。私がそう決めた」
「はあ……? 何言ってんの、このぬいぐるみ」
「ぬいぐるみと呼ぶな! 私はアリスだと言っているだろうが!」
ぬいぐるみの小さな前足が、オズの鼻を思いきり叩いた。ふわふわのはずの前足は、なぜかずっしりとした重みがあって、オズは思わず「いてっ」と声を上げた。
(痛い。ぬいぐるみに叩かれて、痛い)
オズの頭の中で、何かがゆっくりと音を立てて崩れ始める。
「……おまえ、本当に喋ってるのか?」
「今さら何を言っている。最初から喋っているだろうが」
アリスと名乗るぬいぐるみは、オズの手の中からぴょんと机の上に飛び降りた。小さな体で器用に二本足で立ち、前足を腰に当てるような格好をする。
「いいか、もう一度だけ言う。おまえは今日から私の所有物だ。返事は『はい』か『喜んで』の二択だ」
「選択肢がおかしいだろ」
「どっちだ」
「いや、どっちも嫌だけど」
オズは机に手をついて、ぬいぐるみをじっと見た。黒くてふわふわの毛並み、真っ赤な瞳、生意気な口調。どこからどう見てもぬいぐるみなのに、その存在感は異様だった。
(なんなんだ、こいつ……)
オズの胸の奥で、好奇心と困惑が同時に渦を巻く。この世界には、強い感情や記憶を「残響」として物に宿らせ、一時的に命を吹き込む「残響魔法」という力がある。オズの家、ベザリウス家は代々その使い手である「語り部」の家系で、オズ自身もその存在は身近に感じていた。
でも、これは違う。
「おまえ、もしかして……物語から実体化した存在とか、そういうのか?」
「……何だ、おまえ、知っているのか」
アリスの声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「まあ、家が語り部の家系だからな。そういう話は嫌というほど聞かされて育った」
オズは肩をすくめた。ラトウィッジ学園には、語り部の生徒が約三十人在籍している。オズ自身はまだ正式な語り部ではないが、家の蔵書や叔父のオスカーから、この世界の不思議なルールについては一通り教わっていた。
「なら話が早い。おまえ、私の所有物になれ。今すぐにだ」
「だから、なんでそうなるんだよ」
「私がそう決めたからだ。理由など必要ない」
「理不尽すぎるだろ!」
オズが叫んだ瞬間、教室の扉がガラリと開いた。
「オズ、また寝坊したのか。先生には伝えておいたが、せめて連絡の一つくらい……」
現れたのは、長身の男子生徒だった。黒髪を後ろで軽く束ね、前髪が金色の瞳に少しかかっている。ラトウィッジ学園の制服をきっちりと着こなした姿は、だらしないオズとは対照的だ。
ギルバート=ナイトレイ。オズの親友であり、従者だ。
「ギル! おはよう! 遅かったな!」
「遅かったな、じゃない。お前が早く来い。……それ、何だ」
ギルバートはオズの机の上に立つ黒いうさぎのぬいぐるみを見て、ぴたりと足を止めた。金色の瞳が、みるみるうちに大きく見開かれる。
「……う、うさぎ、か……?」
ギルバートの顔色が、さっと青ざめた。
「そう、うさぎ。かわいいだろ? 喋るんだぜ、こいつ」
「喋る!? 喋るのか!? 余計に怖いだろうが!」
ギルバートは一歩後ずさった。猫と小動物が苦手なギルバートにとって、うさぎのぬいぐるみとはいえ、それはもう立派な恐怖の対象だった。
「おい、そこのワカメ」
「ワカメ……?」
「おまえ、私に触るなよ。噛みつくからな」
「誰が触るか!」
「あはははは! ワカメ! ワカメだってよ、ギル! 髪が海藻みたいだもんな!」
オズは腹を抱えて笑った。涙が出るほど笑った。ギルバートの困った顔を見るのは、オズにとって何よりも楽しい時間だった。
「笑い事じゃないだろ……。それよりオズ、そのぬいぐるみ、どうするんだ」
「どうするって、置いてくわけにもいかないだろ。喋るんだぜ」
「所有物のくせに、勝手に置いていくつもりか。許さんぞ」
「誰が所有物だ」
「おまえだ」
「違う!」
「……オズ、とりあえず、こいつを隠した方がいい。他の生徒が騒ぎ始めてる」
ギルバートの言葉で、オズはようやく教室の空気に気づいた。クラスメイトたちが、遠巻きにこちらを見ながらひそひそと話している。
「あれ、喋ってるよな?」
「語り部の誰かの仕業か?」
「オズの家って、そういう家系だろ」
オズは小さくため息をついて、アリスを抱え上げた。
「……わかった。とりあえず、おまえは俺が預かる。ただし、学校では大人しくしてろよ」
「ふん。私が誰の言うことを聞くと思っている」
「俺の言うことを聞け。所有物だろ」
オズがにやりと笑うと、アリスは一瞬だけ言葉に詰まった。
「……お、おまえ、いつの間に私の所有物になったことを受け入れたんだ」
「受け入れてないよ。でも、そう言えばおまえが黙るなら、いくらでも言ってやる」
「なっ……! き、貴様……!」
「あはは、顔、真っ赤になってる。ぬいぐるみなのに」
「ぬいぐるみではないと言っているだろうが!」
アリスはオズの腕の中でじたばたと暴れたが、オズはそれを軽々と抱え直した。
「はいはい。ほら、授業始まるぞ。おまえはカバンの中な」
「カバンだと!? 私はそんな狭い場所は嫌だ!」
「わがまま言うな。学校では大人しくするって約束しただろ」
「約束などしていない!」
「じゃあ今しよう。はい、約束な」
「ぐ……! お、おまえ、なかなかやりおるな……!」
オズは笑いながら、アリスをカバンの中に押し込んだ。カバンの口を少しだけ開けておくと、中から不満げな声が聞こえてくる。
「……覚えておけよ。私をこんな目に合わせたことを、後悔させてやるからな」
「はいはい。後悔するの楽しみにしてるよ」
オズは席に着き、教科書を開いた。ギルバートが隣の席から心配そうな顔でこちらを見ている。
「……オズ、本当に大丈夫なのか。あれ、何なんだ」
「さあな。でも、まあ、面白そうだろ」
「面白そう、って……」
「退屈な日常に、突然の謎のうさぎ。最高の新学期じゃないか」
オズのエメラルド色の瞳が、きらきらと輝いていた。いたずらを企んでいるときの、あの輝きだ。ギルバートはそれを見て、深いため息をついた。
「……お前がそう言うなら、俺は止めないけどな」
「さすがギル。話がわかる」
「話がわかるんじゃない。諦めてるんだ」
オズは声を出して笑った。その笑い声が教室に響いて、クラスメイトたちの緊張を少しだけ解した。
放課後まで、アリスはカバンの中で意外にも大人しくしていた。時々もぞもぞと動く気配はあったが、声を出すことはなかった。オズは授業の合間に、カバンの中のアリスのことを何度も考えた。
(こいつ、本当に何なんだろうな)
残響魔法で動く人形やぬいぐるみは、オズも見たことがある。でも、アリスから感じる存在感は、それらとはまったく別物だった。意志があり、感情があり、明確な目的を持っている。
(俺の所有物になった、か)
オズはノートの端に、落書きで小さなうさぎを描いた。黒く塗りつぶして、目を赤くする。なかなか似ている。
(まあ、悪くない)
オズは口元をゆるめた。退屈な毎日が、少しだけ色づいたような気がした。
放課後、オズとギルバートは連れ立って教室を出た。アリスはオズの腕の中にいて、むすっとした顔で前を見ている。
「で、どうするんだ。そいつを家に連れて帰るのか」
「そうするしかないだろ。捨てるわけにもいかないし」
「捨てるだと!? 誰が誰を捨てるって!?」
「捨てないよ。連れて帰るんだろ」
「ふん。当たり前だ。おまえは私の所有物なのだからな」
「所有物はどっちだよ」
「ワカメは黙っていろ」
「だからワカメじゃない!」
「あはは! ワカメ! いい加減認めろよ、ギル」
「オズまで……!」
三人(?)は、ルーメンフィールドの街を歩いた。学園から北西へ徒歩十五分。ベザリウス邸は、閑静な住宅街の中にある。オズの家は代々語り部の家系で、中流貴族階級に属している。使用人が三人住み込みで働く、二階建ての邸宅だ。
「ただいまー!」
玄関を開けると、いい匂いが漂ってきた。
「おかえりなさい、オズ様。ギルバート様も、いらっしゃいませ」
出迎えたのは、ベザリウス家のハウスキーパー、ケイトだった。オズが物心ついた頃から家にいる、家族同然の存在だ。
「ケイト、今日は何の匂い?」
「オスカー様が、夕食は肉料理にするとおっしゃって」
「肉!」
アリスが突然、オズの腕の中で叫んだ。ケイトが驚いたように目を見開く。
「オズ様、そのぬいぐるみは……」
「あー、これ、拾った。喋るんだ」
「喋るぬいぐるみ……。またオスカー様が何か買ってきたのかと思いました」
「叔父さん、そんなに変なもの買ってくるの?」
「ええ、まあ、色々と」
ケイトは苦笑いした。
「お兄様! おかえりなさいませ!」
リビングから、オズの妹エイダが飛び出してきた。オズより二歳年上の十八歳だが、おっとりとした性格で、幼げな顔立ちをしている。豊満なスタイルに、ゆるく波打つ長い髪。ラトウィッジ学園の制服ではなく、部屋着のワンピース姿だった。
「エイダ、ただいま。今日は早かったんだな」
「ええ、風紀委員のお仕事が早く終わりましたの。それで、お兄様、そのぬいぐるみは何ですの?」
エイダはオズの腕の中のアリスを見つめた。その大きな瞳が、ゆっくりと輝き始める。
「お兄様……それ、呪われてるわ」
「呪われてる?」
「ええ、間違いないわ。黒いうさぎに赤い目。これはもう、呪いのぬいぐるみに決まってるのよ。お兄様、どこで見つけたの? もしかして、学園の地下書庫とか? それとも、グリムハートの森の近く?」
エイダはオカルト好きで、自分の部屋には禍々しいコレクションを隠している。オズはそのことを知っていて、時々エイダの部屋から変なものがリビングに流出してくるのを目撃していた。
「エイダ、目が怖い。もっと普通に、かわいいねとか言ってくれない?」
「だってお兄様、呪いのぬいぐるみなんて、こんなに素敵なことないじゃない! ちょっと見せて! 私のコレクションと並べてみたいの!」
「おい、私は呪いのぬいぐるみではない。アリスだ」
「まあ! 喋ったわ! やっぱり呪われてるのね! 素敵!」
「だから呪われてないと言っているだろうが! 話を聞け!」
「お兄様、この子、私の部屋に連れて行ってもいい? 一晩だけでもいいの。呪いの種類を調べたいの」
「やめろ! 私は行かないぞ! おい、所有物、何とか言え!」
アリスがオズの腕にしがみついてきた。小さな前足が、オズの制服をぎゅっと掴む。
(こいつ、意外と怖がりなのか?)
オズはおかしくなった。さっきまであんなに威張っていたのに、エイダの迫力に押されて震えている。
「エイダ、悪いけど、こいつは俺の部屋に置くよ。今日は色々あって疲れてるんだ」
「まあ、残念……。でも、明日でいいわ。明日、絶対に私の部屋に連れてきてね、お兄様」
「絶対やだ」
「ふふっ、楽しみだわ」
エイダは嬉しそうに笑って、リビングに戻っていった。オズはほっと息をつく。
「……おまえ、妹が苦手なのか?」
「……ああいう、笑顔で迫ってくるタイプは苦手だ」
「あはは、正直だな」
「笑うな!」
その時、リビングから豪快な笑い声が聞こえてきた。
「おお、オズ! 帰ったか! 聞いたぞ、喋るうさぎを拾ったんだってな!」
現れたのは、オズの叔父オスカーだった。百九十センチの長身で、陽気な笑顔が特徴の四十五歳。ベザリウス家の現当主で、オズとエイダの父親代わりだ。
「叔父さん、もう聞いたの? 情報が早いな」
「ケイトが教えてくれたんだ。それで、そのうさぎがお客さんか?」
「まあ、そんなところ」
「よし! それなら、歓迎会だ! 肉を焼こう! 今日は特上の肉を買ってきたんだ!」
「肉!」
アリスの声が、さっきよりずっと大きくなった。
「おお、うさぎも肉が好きか! いいぞいいぞ、たくさん食べなさい!」
「肉! 肉を出せ! 今すぐだ!」
「あははは! 元気がいいな! よし、今すぐ焼こう!」
オスカーはアリスをオズからひょいと取り上げると、肩に乗せてリビングへと消えていった。
「肉! 肉! 肉!」
「あはは! この子は気に入ったぞ!」
オズとギルバートは顔を見合わせた。
「……叔父さん、ああいうの好きだからな」
「オズ、大丈夫なのか。色々と、大丈夫なのか」
「まあ、何とかなるだろ」
オズは笑いながら、リビングへ向かった。
夕食は、オスカーの言った通り、肉尽くしだった。ステーキ、焼き鳥、肉じゃが、ハンバーグ。テーブルの上に並んだ料理の数々に、アリスは目を輝かせた。
「すごい……! 全部、私が食べていいのか!?」
「もちろんだ! 遠慮するな! 歓迎会だからな!」
「おまえ、いい奴だな! 気に入ったぞ!」
「おお、それは嬉しいな! オズの友達はみんな良い子だ!」
「友達ではない。私はオズの所有者だ」
「所有者? なんだそれ、新しい遊びか?」
「叔父さん、深く考えないで」
「そうかそうか、若いっていいな!」
オスカーは豪快に笑って、ステーキを頬張った。エイダはにこにことアリスを観察している。ギルバートは落ち着かない様子で、時々アリスをちらりと見ては、目を逸らしていた。
「ギル、大丈夫か? うさぎが近くにいて」
「だ、大丈夫だ。ぬいぐるみだしな。……ぬいぐるみ、だよな」
「ワカメ、私をぬいぐるみ扱いするな」
「ひっ! 喋った!」
「ギル、今さらだろ」
食卓は笑いに包まれた。オズはその光景を見ながら、胸の奥がほんの少し温かくなるのを感じた。
(こういうの、久しぶりだな)
ベザリウス家の食卓は、いつも賑やかだった。でも、オズが物心ついた頃から、そこにはある種の「欠落」があった。オズの父は、オズを忌み嫌っていた。母はオズが幼い頃に亡くなった。オズを愛してくれたのは、オスカーとエイダと、ギルバートと、使用人たちだった。
(俺は、家族に恵まれてる)
オズはそう思うことにしていた。そう思わなければ、心が壊れてしまいそうだったから。
「オズ、どうした? 食べないのか?」
「え? ああ、食べてるよ。ほら」
オズは慌ててステーキを口に運んだ。肉の味が、舌の上でじゅわりと広がる。
「おいしいな、これ。叔父さん、どこで買ったの?」
「駅前の新しい精肉店だ! ルーメン川の近くにできた店でな、なかなか良い肉を置いてるんだ!」
「へえ、今度俺も行ってみるよ」
「おお、いいぞ! ついでに、店の看板娘が可愛くてな! オズも気に入ると思うぞ!」
「看板娘!? 叔父さん、それ早く言ってよ!」
「お前、そういう反応だけは本当に早いな!」
「オズ……。お前、それでいいのか」
「……おい、所有物。看板娘とは何だ」
アリスの声が、急に低くなった。
「え? 看板娘は看板娘だよ。お店の前に立ってる、可愛い女の子のこと」
「ふーん。おまえ、そういうのが好きなのか」
「まあ、可愛い子は好きだよ。男として当然だろ」
「私の所有物が、勝手に他の女に目移りするな!」
アリスはフォークをテーブルに叩きつけた。小さな前足で、器用にフォークを握っていた。
「おまえ、フォーク使えるのかよ」
「今はそんな話をしているんじゃない! おまえは私の所有物だ! 私以外の女を見るな!」
「理不尽すぎるだろ!」
「あははは! これは面白いことになってきたな! オズ、お前、うさぎに本気で好かれてるぞ!」
「叔父さん、笑い事じゃないです」
「お兄様、三角関係の始まりね。私、どっちを応援しようかしら」
「エイダ、お前も笑い事じゃないだろ」
食卓は、夜遅くまで賑やかだった。
その夜、オズは自分の部屋でアリスと向かい合っていた。
オズの部屋は二階の角部屋で、窓からはルーメンフィールドの街並みが一望できる。机の上には教科書とノートが積み上げられ、ベッドの上にはアリスが座っていた。
「……で、おまえは何者なんだ」
オズは椅子に座り、ベッドの上のアリスを見た。
「……わからない」
アリスの声が、小さくなった。
「わからない?」
「……私には、記憶がないんだ。気がついたら、あの教室の机の上にいた。それより前のことが、何も思い出せない」
オズは黙って、アリスの言葉を聞いていた。
「自分が何者なのかも、なぜあそこにいたのかも、何も。ただ、おまえを見た時に、おまえは私の所有物だって、そう思った。それだけは、はっきりと」
「……なんで俺だったんだ」
「わからない。でも、おまえを見た瞬間に、こいつだって思ったんだ。おまえが、私の……何かだと」
アリスはうつむいた。小さな黒い耳が、しょんぼりと垂れている。
(こいつも、俺と同じなのかもしれない)
オズは思った。自分が何者かわからないまま、世界に放り出された存在。オズ自身も、父に「生まれてこなければよかった」と言われたあの日から、自分の存在理由をずっと探していた。
「……なら、俺が覚えててやるよ」
アリスが顔を上げた。
「……え?」
「おまえの記憶が戻るまで、俺がおまえのことを覚えててやる。おまえが今日、俺の机の上にいたこと。俺のことを所有物だって言ったこと。ワカメに噛みつこうとしたこと。肉を死ぬほど食ったこと。全部、俺が覚えててやる」
オズは笑った。エメラルド色の瞳が、月明かりにきらきらと輝いている。
「……なんで、そんなことを」
「なんでって、そうしたくなったから。俺がそうしたいんだ。文句あるか?」
アリスはしばらくオズを見つめていた。それから、ふいっと顔を背けた。
「……ない。ないけど……おまえ、そういうことを軽々しく言うな。勘違いするだろうが」
「勘違いって、何の?」
「……うるさい! もう寝る! おまえもさっさと寝ろ!」
アリスはベッドの枕に飛び込むと、毛布にくるまってしまった。
「おまえ、ぬいぐるみのくせに寝るのかよ」
「ぬいぐるみじゃない! 寝る! おやすみ!」
「はいはい、おやすみ」
オズは笑いながら、部屋の電気を消した。暗闇の中で、アリスの小さな寝息が聞こえてくる。
(記憶がない、か)
オズは窓の外を見た。ルーメンフィールドの街は、静かな夜に包まれている。遠くで、ルーメン川の流れる音がかすかに聞こえた。
(俺も、おまえも、同じだな)
オズはベッドに近づき、アリスの毛布をかけ直してやった。
その時だった。
アリスが、ぱちりと目を開けた。
「……おまえ、今、何か聞こえたか」
「え? 何も聞こえないけど」
アリスは起き上がり、耳をぴんと立てた。黒い耳が、何かを探るように動く。
「……何か、呼んでいる」
「誰が?」
「わからない。でも、私の名前を……」
オズは窓を開けた。夜風が部屋に流れ込む。街は静かだ。何の音も聞こえない。
「気のせいだろ。今日は疲れたんだよ。ほら、寝ろ」
「……ああ」
アリスは再び毛布にくるまった。オズは窓を閉め、カーテンを引いた。
その夜、ラトウィッジ学園の正門前。
黒い霧のようなものが、ゆっくりと地面を這っていた。月明かりに照らされた正門の影から、ぼんやりと浮かび上がるようにして、それは形を成していく。
「……アリス」
声がした。人の声なのか、風の音なのか、区別がつかないような声。
「アリス……見つけた……」
黒い霧は、学園の敷地を囲むようにして、ゆっくりと動き出した。
オズの部屋では、アリスが毛布の中で小さく震えていた。
(何かが、私を呼んでいる)
アリスは目を閉じた。何かを思い出そうとする。でも、何も浮かばない。ただ、暗い闇の底で、誰かが自分の名前を呼んでいる。その声が、ひどく懐かしいような、それでいて恐ろしいような、不思議な感覚だった。
(私は、何者なんだ)
アリスはオズの方をちらりと見た。オズは床に布団を敷いて、もう眠っている。無防備な寝顔だった。
(……おまえが、私の何かだと、そう思った)
アリスは小さくため息をついて、目を閉じた。
(だから、おまえは私の所有物だ。私が、そう決めたんだ)
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