パンドラ学園〜アヴィスは放課後に〜
新学期初日から寝坊して大慌てのオズ=ベザリウス。教室に駆け込んだ彼の机の上にいたのは、名札に「アリス」と書かれた黒うさぎのぬいぐるみだった。クラスメイトの前で冗談めかして持ち上げたその瞬間、ぬいぐるみが口を開く。「おまえ、私の所有物になったから」——。
舞台は、語り部の家系に生まれた少年オズが通うラトウィッジ学園と、その街ルーメンフィールド。強い感情や記憶が物に宿る「残響魔法」が息づく世界で、記憶を失った喋るうさぎ・アリスと、お人好しでお調子者のオズの奇妙な同居生活が始まります。
オズを陰で支える堅物従者ギルバート(通称ワカメ/うさぎ恐怖症)、オカルト大好きな妹エイダ、豪快で肉好きな叔父オスカー。賑やかなベザリウス家の面々に振り回されながら、アリスは「所有物」宣言の理由も、自分の正体もわからないまま、少しずつオズとの距離を縮めていきます。
「おまえの記憶が戻るまで、俺がおまえのことを覚えててやる」——軽々しくそう言ってのけるオズに、アリスが思わず顔を背ける、そんな放課後の物語。笑って、振り回されて、ほんの少し胸が温かくなるラブコメディ、開幕です。
パンドラ学園〜アヴィスは放課後に〜 - 最高の勝利とざまあみろ——アリスの奪還、そして新しい朝
朝の光が、ベザリウス邸の門前に集まった四人の影を長く伸ばしていた。
オズ=ベザリウスは、胸元に手をやる。そこには、妹エイダから渡された護符があった。小さな布袋に入った、乾いた花と古い銀の鈴。オカルト好きの妹が「絶対に効くから」と真剣な顔で握らせてくれたものだ。
もう片方の手には、叔父オスカーから借りた鍵がある。古びた真鍮製の鍵で、ベザリウス家に代々伝わる「ベザリウスの扉の鍵」と呼ばれるものだ。普段はオスカーの書斎の奥にしまわれていて、特別な時にしか持ち出さない。
「オズ、本当に行くんだな」
ギルバートが、松葉杖をつきながら一歩前に出た。右腕はまだ包帯で吊られていて、黒髪は朝の風に揺れている。金色の瞳は、心配そうにオズを見つめていた。
「当たり前だろ。アリスを迎えに行くんだぜ」
オズは笑って見せた。エメラルド色の瞳が、朝日を受けてきらきらと光る。
「……お前、昨日の夜もほとんど眠ってないだろ。顔色が悪いぞ」
「ギルこそ、松葉杖で来るなんて無理しすぎだって。家で待っててもよかったんだぜ?」
「ふざけるな。お前を一人で行かせるわけがないだろ」
ギルバートが、松葉杖の先で地面を強く打った。その音が、静かな朝の空気に響く。
「あらあら、朝から賑やかですわね」
シャロンが、ゆっくりと門の前に歩いてきた。栗色のゆるふわ巻きロングヘアが、朝日を浴びてふわふわと輝いている。薄紫の瞳は、いつも通りの優雅な微笑みを浮かべていた。
でも、その足取りは少しふらついていた。高熱で倒れていたはずの体は、まだ完全には回復していない。右手には、代々レインズワース家に伝わるハリセンが握られている。
「シャロン、無理しなくていいんだぜ? まだ本調子じゃないだろ」
「ふふっ、オズ様こそ。私のことはお気になさらず。アリスちゃんを助けるためですもの。私も行きますわ」
シャロンの笑顔は、いつもと変わらない。でも、その瞳の奥に、疲れの色が浮かんでいることを、オズは見逃さなかった。
「おやおや、皆さんお揃いですな」
ブレイクが、最後にやってきた。銀色がかった白髪を後ろで束ね、前髪が左目を隠している。その左目には、真新しい白い包帯が巻かれていた。
でも、口元にはいつもの飄々とした笑みが浮かんでいる。右手には飴の包み紙。口の中で、カリカリと飴を噛む音がする。
「ブレイク、お前……その目、本当に大丈夫なのか?」
「ご心配なく。片目でも、お守りする程度のことはできますよ。それに、エミリーも心配しておりますので」
ブレイクは、肩に乗せた小さな人形を指さした。腹話術用の古びた人形、エミリー。その黒いボタンの目が、朝の光を受けて、一瞬だけ動いたように見えた。
「ブレイクさん、相変わらず余裕ですわね」
「お嬢様こそ、ハリセンをお持ちになるとは。頼もしい限りです」
「当然ですわ。いざとなったら、あなたのお尻を叩いて差し上げますのよ」
シャロンが、笑顔のままハリセンを軽く振った。ブレイクは、大げさに肩をすくめて見せる。
その時、門の向こうから、ぱたぱたとスリッパの音がした。
「お兄様! お待ちになって!」
エイダが、寝間着のまま走ってきた。豊かな胸元が揺れ、肩には黒猫のキティが乗っている。その後ろから、白猫のスノウドロップが追いかけてきた。
「エイダ? どうしたんだ、そんな格好で」
「お兄様、これ、持っていってくださいまし!」
エイダが差し出したのは、小さなガラスの瓶だった。中には、紫色に光る液体が入っている。
「な、なんだこれ……?」
「私が調合した特製の魔除けポーションですわ。影を寄せ付けない効果がありますの。それから、こっちは月の光を集めた聖水。それから、こっちは……」
エイダが、次々と怪しげなアイテムを取り出していく。瓶、袋、お札、骨のようなもの、何かの羽根。
「い、いや、エイダ、気持ちは嬉しいけど、そんなに持てないって!」
「でも……お兄様を守るために、私にできることはこれくらいですの……」
エイダの大きな瞳が、うるうると潤んでいく。
オズは、妹の頭をぽんぽんと撫でた。
「大丈夫だよ。護符、ちゃんと持ってるから。エイダの想いも、一緒に持っていく。だから、心配するな」
「お兄様……」
エイダが、オズに抱きついた。キティが驚いて、地面に飛び降りる。
「おいおい、朝から熱い抱擁だな」
オスカーが、のっしのっしと歩いてきた。長身で、肩幅が広く、陽気な笑顔が特徴の叔父だ。
「オスカー叔父さん。鍵、ありがとな」
オズは、真鍮の鍵を掲げて見せた。
「ああ、それな。ベザリウスの扉の鍵は、どんな扉でも開ける力がある。きっと役に立つはずだ。……それと、オズ」
オスカーの声が、急に真剣になった。
「無茶だけはすんなよ。お前は、すぐに一人で突っ走るからな」
オズは、一瞬だけ言葉に詰まった。
昨日までの自分なら、きっと「大丈夫だ」と笑ってごまかしていた。
でも、もう違う。
「……今度は、一人で抱え込まない。みんなと一緒に行く。約束するよ」
オズは、まっすぐにオスカーの目を見て言った。
オスカーは、少し驚いたような顔をしてから、にっと笑った。
「よし、いい顔になったじゃねえか。行ってこい!」
「おう!」
オズは、仲間たちの顔を見渡した。
ギルバート。シャロン。ブレイク。
みんな、傷だらけなのに、ここに立っている。
(俺は、一人じゃない)
オズは、胸の奥がじわりと温かくなるのを感じた。
「行こう、みんな! アリスを迎えに行くぜ!」
四人は、朝の光の中を、グリムハートの森へと歩き出した。
グリムハートの森の奥地。
かつて語り部戦争の舞台となった場所は、昼間でも薄暗く、古い木々が空を覆い隠していた。地面には湿った苔が広がり、足を踏み入れるたびに、ひやりとした空気が肌にまとわりつく。
「……相変わらず、気味の悪い場所だな」
ギルバートが、松葉杖をつきながら周囲を見渡した。
「ここは、物語の残滓が集まりやすい場所です。気を抜かないでください」
シャロンの薄紫の瞳が、真剣な色を帯びている。彼女は「語り部」の家系に生まれた令嬢で、物語や記憶を「語る」ことで実体化させたり、封印したりする残響魔法の使い手だ。
「おや、あれをご覧ください」
ブレイクが、木の幹を指さした。
そこには、黒い霧のようなものが、うっすらと張り付いていた。動いている。呼吸するように、ゆっくりと膨らんだり縮んだりしている。
「グリムハートの影だ……!」
オズは、護符を握りしめた。
「あれは、まだ小さな断片です。本体はもっと奥にいるはずですわ」
「行こう。アリスは、きっとあの奥だ」
オズは、一歩を踏み出した。
湿った土の上を、四人は奥へ奥へと進んでいく。木々はどんどん高くなり、空気は冷たく重くなっていく。
やがて、巨大な洞窟の入り口が見えてきた。
黒い岩でできた、不自然なほど大きな穴。まるで、何かの口のように開いている。
「……ここだ」
オズは、洞窟の奥を見つめた。
真っ暗な闇。何も見えない。
でも、感じる。
(アリスが、いる)
オズは、洞窟の中へと足を踏み入れた。
洞窟の奥は、意外なほど広かった。
天井からは無数の黒い霧が垂れ下がり、壁にはびっしりと影が張り付いている。空気は腐ったような匂いがして、呼吸をするたびに喉が焼けるようだった。
そして、洞窟の一番奥に。
「アリス……!」
オズは、叫んだ。
黒い霧でできた檻のようなものの中に、小さな黒うさぎのぬいぐるみが、ぐったりと横たわっていた。
黒くてふわふわの毛並み。真っ赤な瞳は閉じられていて、いつもの凶暴な空気は、どこにもない。
「アリス! アリス!!」
オズは、駆け出した。
「オズ、待て! 罠かもしれない!」
ギルバートの声も、もうオズの耳には届いていなかった。
オズは、黒い霧の檻に飛びついた。
「アリス! 起きろ! 俺だ! 迎えに来たぞ!!」
霧の檻は、オズの手に触れると、じゅっ、と音を立てて蒸発していく。
でも、すぐにまた、別の霧が集まってきて、檻を修復してしまう。
「くそっ……! 開けろ! 開けろよ!!」
オズは、何度も何度も霧を払った。
手のひらが、冷たい霧に触れるたびに、しびれていく。
「おやおや、ずいぶんと無様な登場だね」
声がした。
洞窟の天井近く、突き出た岩の上に、イカレ帽子屋が立っていた。
常に被っている帽子。不気味な笑み。暗闇の中で、その白い歯だけが、くっきりと浮かび上がって見える。
「テメェ……!」
オズは、イカレ帽子屋を睨みつけた。
「ようこそ、僕のささやかな舞台へ。招待状は出していないけれど、まあ、いいだろう。君たちの熱意には敬意を表するよ」
「アリスを返せ!」
「返せ? 返す? おかしなことを言うね。彼女は、自分の意思でここに来たんだよ。……いや、正確には、僕が『思い出させてあげた』のさ。彼女が、本当は誰を待っているのかをね」
イカレ帽子屋は、ゆっくりと岩の上から飛び降りた。
音もなく、地面に着地する。
「君は、彼女を守れると思っているのかい? 君自身が誰かも分からないのに」
イカレ帽子屋が、オズに近づいてくる。
一歩、また一歩。
「君は、自分の名前以外に、何を知っている? 君の母親はなぜ死んだ? 君の父親はなぜ君を憎む? 君の体に流れる血は、いったい何なんだ?」
オズの胸が、ドキリと鳴った。
「何も知らない。何も分かっていない。そんな子供が、彼女を守れるとでも?」
イカレ帽子屋の笑みが、深くなる。
「笑わせるな。君は、ただの無力な子供だ。周りの人間を巻き込んで、傷つけて、それでもまだ、自分が正しいと思っている」
「……黙れ」
オズは、拳を握りしめた。
でも、足は動かない。
イカレ帽子屋の言葉が、心の奥底に突き刺さる。
(俺は……本当に、アリスを守れるのか?)
(俺は、何も知らないのに)
「オズ、奴の言葉に耳を貸すな!」
ギルバートの声が、洞窟に響いた。
「お前は、一人で全部抱え込もうとして、失敗した。でも、今は違う。俺たちがいる。お前は、一人じゃないんだ!」
「そうですわ。オズ様は、私の大切な幼なじみですもの。見捨てるわけがありませんわ」
「坊ちゃん、ここは一つ、彼女に格好いいところを見せてくださいな」
仲間たちの声が、オズの背中を押す。
(……そうだ)
(俺は、一人じゃない)
オズは、顔を上げた。
エメラルド色の瞳が、まっすぐにイカレ帽子屋を捉える。
「……俺が誰かなんて、どうでもいい」
オズは、はっきりと言った。
「俺は、アリスの所有物で、アリスは、俺の所有物だ。それだけで、十分だろ?」
オズは、笑った。
イカレ帽子屋を真っ向から見据えて、いつもの明るい笑顔で。
「……何だって?」
イカレ帽子屋の笑みが、一瞬だけ消えた。
「俺が誰か分からなくても、アリスが誰か分からなくても、関係ない。俺は、あいつと一緒にいる。それだけだ。それ以上でも、それ以下でもない」
オズの声が、洞窟にこだまする。
「お前が何を言おうと、俺はアリスを連れて帰る。それが、俺の答えだ」
その時だった。
黒い霧の檻の中で、何かが動いた。
「……おまえ」
小さな声が、洞窟に響いた。
オズは、弾かれたように振り返った。
檻の中で、黒うさぎのぬいぐるみが、ゆっくりと目を開けていた。
真っ赤な瞳が、オズを見つめている。
「……やっと、迎えに来たのね」
アリスの声が、震えていた。
「このバカ。遅いんだよ、バカ」
真っ赤な瞳から、涙がこぼれ落ちた。
ぬいぐるみの黒い毛並みを、涙が濡らしていく。
「アリス……!」
オズは、檻に手を伸ばした。
「ほう……面白い。本当に面白いね、君は」
イカレ帽子屋が、笑い声を上げた。
「ならば、見せてもらおうか。君たちの絆とやらを」
イカレ帽子屋が、手を振り上げた。
洞窟中の黒い霧が、一斉に動き出す。
うねり、渦巻き、巨大な塊となって、オズたちに襲いかかってきた。
「オズ、後ろだ!!」
「皆さん、私の後ろへ!」
シャロンが、ハリセンを構えた。
「残響魔法、展開しますわ。——語り継がれし物語よ、今ここに、その残響を!」
ハリセンが、淡い光を放つ。
空気が振動し、古い物語の残響が、洞窟に満ちていく。
「おや、お嬢様、無理は禁物ですぞ」
ブレイクが、前に出た。
「エミリー、君もそう思うだろう? ……ええ、ええ、分かっておりますとも。では、少しだけ、働きますか」
ブレイクは、飴をガリッと噛み砕いた。
次の瞬間、ブレイクの体が、ふわりと宙に浮いた。
銀色の髪が、風に舞う。
「我が剣は、物語を断つ刃。イカレ帽子屋——その名を借りる者よ、お前の舞台は、ここで終幕だ」
ブレイクが、黒い霧の塊を斬り裂いた。
霧は悲鳴のような音を立てて、霧散していく。
「さすがはパンドラ最強と謳われた男。片目でも、その切れ味は鈍っていないか」
「お褒めにあずかり光栄ですな」
「オズ! 今のうちに、アリスを!」
「おう!」
オズは、黒い霧の檻に向かって走った。
「ベザリウスの扉の鍵よ、開け!」
オズは、オスカーから借りた鍵を、檻に突き立てた。
カチリ。
鍵が回る音。
黒い霧でできた檻が、音を立てて崩れていく。
「アリス!」
オズは、黒うさぎのぬいぐるみを、両手で抱き上げた。
ふわふわの毛並み。温かい。
「おまえ……本当に、来たのか」
アリスの声が、オズの腕の中で震えた。
「当たり前だろ。お前は、俺の所有物だぜ」
「……バカ。遅い。本当に、遅いんだよ」
アリスが、オズの腕に噛みついた。
痛い。
でも、嬉しい。
「いてて、相変わらずだな」
「うるさい。おまえが遅いのが悪いんだ」
その時だった。
「感動の再会は、そこまでにしてもらおうか」
イカレ帽子屋の声が、洞窟の奥から響いた。
見ると、イカレ帽子屋の周りに、黒い霧が集まっていた。
さっきまでとは比べ物にならないほどの、巨大な霧の塊。
「彼女は、僕の大事な『お姫様』だ。君たちには、渡せない」
霧が、形を変えていく。
巨大な口。鋭い牙。無数の目。
グリムハートの影の本体が、その姿を現した。
「な、なんだあれ……!」
「あれが、グリムハートの影の本体……物語の残滓が、ここまで巨大化するなんて」
「これは、手強いですな」
ブレイクの表情から、笑みが消えた。
「さあ、お姫様。お帰りの時間ですよ。僕と一緒に、物語の続きを見に行きましょう」
影が、オズの腕の中のアリスに向かって、ゆっくりと近づいてくる。
「……!」
アリスが、オズの腕の中で震えた。
(怖い)
(あいつは、私を連れて行こうとしている)
(また、暗い場所に)
(また、一人で)
「……いやだ」
アリスが、小さく呟いた。
「私は、もう、一人はいやだ」
オズは、アリスを抱きしめる腕に、力を込めた。
「大丈夫だ。俺がいる。絶対に、離さない」
「……おまえ」
アリスの真っ赤な瞳が、オズを見上げる。
「おまえ、私を、守ってくれるのか」
「守るも何も、お前は俺の所有物だろ。所有者が、所有物を守るのは、当然だぜ」
アリスは、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと、オズの腕から降りた。
「……なあ、オズ」
「ん? どうした?」
「私も、おまえを守る」
アリスの声が、はっきりと響いた。
「え?」
「おまえが、私を守るっていうなら、私も、おまえを守る。……そうだろ? 所有物は、お互いさまだろ」
アリスは、オズの前に立った。
小さな黒うさぎのぬいぐるみが、巨大な影の前に、一人で立ちはだかる。
「おや、お姫様。まさか、抵抗なさるおつもりで?」
「うるさい。私は、おまえなんかに、連れて行かれない」
アリスの真っ赤な瞳が、燃えるように光った。
「私は、オズの所有物だ。だから、オズのそばにいる。それ以外の場所なんて、知らない」
アリスが、口を大きく開けた。
「——おいで、影」
その瞬間だった。
洞窟中の黒い霧が、一斉にアリスの方へと流れ込んでいった。
「な、何をしている!?」
「私は、影を喰らう。物語の残滓も、記憶の欠片も、全部、私が喰ってやる」
アリスが、黒い霧を、食い始めた。
黒い霧が、アリスの口の中へ、吸い込まれていく。
「やめろ! それは、僕の——!」
「うるさい! これは、私の力だ! 私が、初めて、自分の意志で使う力だ!」
アリスの体が、黒い光に包まれていく。
ぬいぐるみの体が、みるみるうちに大きくなっていく。
黒い毛並みが、風もないのに逆立つ。
真っ赤な瞳が、暗闇の中で、二つの太陽のように輝いた。
「まさか……黒うさぎの、真の力……!」
イカレ帽子屋の声が、初めて震えた。
「おまえが、私の記憶を、ぐちゃぐちゃにした」
アリスの声が、洞窟に響き渡る。
「おまえが、私を、暗い場所に連れて行った」
「おまえが、オズを、泣かせた」
「だから、おまえは、私が喰う」
アリスが、巨大な口を開けた。
グリムハートの影の本体が、悲鳴を上げた。
「ギャアアアアアアア!!!」
影が、アリスの口の中へ、吸い込まれていく。
巨大な霧の塊が、みるみるうちに小さくなっていく。
「ば、馬鹿な……! グリムハートの影が、喰われるだと……!?」
「どうした? さっきまでの余裕は、どこへ行った?」
オズは、笑った。
「ざまあみろ。お前の大事な影は、俺の所有物の腹の中だぜ」
「……くっ」
イカレ帽子屋が、後退した。
「面白い。本当に面白い。まさか、彼女が自分の意志で力を解放するとは」
イカレ帽子屋の笑みが、戻ってきた。
でも、その笑みは、さっきまでの余裕の笑みとは、どこか違っていた。
「ならば、次の舞台で会おう。君の答え、楽しみにしているよ」
イカレ帽子屋は、深々とお辞儀をした。
そして、残った黒い霧の中へ、溶けるように消えていった。
「待て!」
オズが追いかけようとしたが、もう遅かった。
洞窟には、静けさが戻っていた。
黒い霧は、すべて消え去っていた。
「……終わった、のか?」
ギルバートが、松葉杖をつきながら、周囲を見渡した。
「ええ、どうやら、今回は、終わったようですわ」
シャロンが、ほっと息を吐いた。
「いやはや、肝を冷やしましたな」
ブレイクが、新しい飴を口に入れた。
そして、オズの腕の中では。
「……おまえ、なかなかいい所有物だな」
アリスが、小さな声で呟いた。
ぬいぐるみの体は、元の大きさに戻っていた。でも、その毛並みは、さっきまでよりも、もっと黒く、もっと艶やかに輝いているように見えた。
「お互いさまだろ」
オズは、アリスを抱きしめた。
「……うん」
アリスが、オズの胸に顔を埋めた。
ラトウィッジ学園に戻ると、シャロンが提案した。
「皆さん、お疲れでしょう。わたくしの屋敷で、お茶会を開きませんこと?」
「いいね! 賛成!」
「オズ、お前、少しは休めよ。顔色が、まだ悪いぞ」
「ギルこそ、松葉杖でずっと歩いてきたんだから、休めって。ほら、肩貸すぜ」
「いや、それはいい。……というか、逆に俺が支えたいくらいだ」
「なんだそれ。どっちが怪我人だよ」
オズが笑うと、ギルバートも、少しだけ口元を緩めた。
レインズワース邸の庭園。
シャロンお気に入りのティーガゼボに、白いテーブルクロスがかけられ、焼き菓子と紅茶が並べられた。
「肉は!? 肉はないのか!?」
アリスが、テーブルの上を見渡して、叫んだ。
「あらあら、アリスちゃんは、本当に肉がお好きですのね。後で、肉まんを用意させますわ」
「本当か!? じゃあ、早く! 早く持ってこい!」
「アリス、お前、さっき影をあんなに食ったのに、まだ食うのかよ」
「うるさい! 影と肉は別腹だ!」
アリスが、オズの腕に噛みついた。
「いてて、分かった分かった。肉まん、俺の分もやるから、離せって」
「本当か!? なら、許してやる」
アリスが、ぱっと離れた。
「現金だなあ」
「おやおや、相変わらず仲がよろしいことで」
ブレイクが、飴を噛みながら笑った。左目の包帯が、午後の光の中で白く浮かび上がっている。
「ブレイク、あなた、本当に大丈夫なの? その目……」
シャロンが、心配そうにブレイクを見つめた。
「ご心配には及びませんよ、お嬢様。片目でも、お嬢様のハリセンから逃げるくらいのことはできます」
「あら、それは良かったですわ。では、遠慮なく」
シャロンが、笑顔のまま、ハリセンを振り下ろした。
バシッ。
「おっと、危ない。……今のは、本当に当たるかと思いましたな」
ブレイクが、ひらりと身をかわした。
「ふふっ、まだまだですわね」
「お嬢様のハリセンは、相変わらずお見事で」
二人のやりとりを見て、オズは笑った。
(やっぱり、この二人は、こうでなくちゃな)
「……オズ」
ギルバートが、オズの隣に座った。
「ん? どうした、ギル。改まって」
「お前、無茶しすぎだぞ」
ギルバートの声が、少し震えていた。
「あの洞窟で、一人で檻に飛びついたり、影の前に立ったり。お前が死んだら、どうするつもりだったんだ」
「ギル……」
ギルバートの金色の瞳が、潤んでいた。
「俺は、お前の従者だ。お前を守るのが、俺の仕事だ。なのに、俺は、また、お前を守れなかった」
ギルバートの声が、涙声になっていく。
「松葉杖なんかついて、何の役にも立たなかった。お前が危ない目に遭うのを、見ていることしかできなかった」
「ギル、違うだろ」
オズは、ギルバートの肩に手を置いた。
「お前がいてくれたから、俺は、あそこで諦めなかったんだ。お前の声が、俺を後ろから支えてくれた。それで十分だろ」
「オズ……」
「それに、お前、松葉杖なのに、あの洞窟までついてきてくれたじゃん。それ、すげえ格好いいぜ」
「……は?」
ギルバートが、涙をぬぐいながら、怪訝な顔をした。
「だって、怪我してるのに、親友を助けに来るんだぜ。絵になるだろ。なあ、アリスもそう思うだろ?」
「え? あ、ああ。まあ、ワカメにしては、頑張ってたんじゃないか」
アリスが、肉まんを頬張りながら、そっぽを向いた。
「ほら、アリスも褒めてるぜ」
「褒めてない! ていうか、誰がワカメだ!」
ギルバートが、いつもの調子で怒鳴った。
「あはは、いつものギルだ」
オズが笑うと、ギルバートも、つられて笑った。
涙の跡が残る顔で、でも、確かに笑っていた。
その時、庭園の入口から、元気な声が聞こえてきた。
「お兄様! ご無事でしたの!?」
エイダが、スキップしながら走ってきた。その後ろから、オスカーが、のんびりと歩いてくる。
「エイダ! それに、オスカー叔父さんも」
「お兄様、アリスちゃんも、皆さんも、ご無事で何よりですわ! それで、それで、影はどうなりましたの? 禍々しい感じはありましたの? 私、もっと詳しく聞きたいですわ!」
エイダの目が、きらきらと輝いている。
「相変わらずだな、エイダは。でも、おかげで助かったよ。護符、効いたみたいだ」
「本当ですの!? やっぱり、私の魔除けは最強ですわ! でも、次は、もっと禍々しいのが欲しいですわね。例えば、呪いの人形とか、血の契約書とか……」
「エイダ、それは、護符じゃなくて、呪物だろ」
「呪物でも、お兄様を守れるなら、何でもいいのですわ!」
エイダが、満面の笑みで言った。
「ははは、エイダは、相変わらずオカルト大好きだな」
オスカーが、豪快に笑った。
「オスカー叔父様! それより、お肉を焼きましょう! お祝いですわ!」
「おお、いいね! よし、肉を焼こう! 盛大にな!」
「肉!? 肉か!?」
アリスが、耳をピンと立てた。
「アリスちゃんも、お肉がお好きですのね。では、庭でバーベキューをいたしましょうか」
「お嬢様、レインズワース家の庭でバーベキューとは、なかなか豪快ですな」
「たまには、よろしいでしょう? それに、オズ様たちは、お肉を焼くのがお好きなようですし」
「おやおや、では、使用人一同、準備をいたしますか」
こうして、レインズワース邸の庭で、急遽、バーベキュー大会が開かれることになった。
肉を焼く煙が、夕暮れの空に昇っていく。
オスカーが、豪快に肉をひっくり返し、エイダが、怪しげなスパイスを振りかける。
アリスは、焼ける前から肉をつまみ食いして、シャロンに優しく叱られていた。
ギルバートは、松葉杖をつきながらも、オズの皿に肉を取り分けてくれた。
ブレイクは、飴を噛みながら、エミリーと腹話術で会話をしている。
「エミリー、君も肉を食べるかい? ……え? 人形は食べない? それは残念だ」
「ブレイク、お前、本当に楽しそうだな」
「ええ、まあ。賑やかなのは、良いことですから」
ブレイクが、包帯の下の左目を、そっと撫でた。
「……なあ、ブレイク。その目、本当に、戻らないのか?」
オズが、真剣な顔で尋ねた。
「さて、どうでしょうね。戻るかもしれませんし、戻らないかもしれません」
「……ごめん。俺のせいで」
「坊ちゃんが謝ることではありませんよ。これは、俺の判断ミスです。……それに」
ブレイクは、新しい飴を口に入れた。
「片目になったおかげで、前よりも、お嬢様の美しさが、はっきりと見えるようになりました。これも、悪くない」
「……お前、本当に、シャロンのこと、大好きだな」
「ええ、まあ。お嬢様は、俺のすべてですから」
ブレイクの声は、いつもの飄々とした調子だった。
でも、その言葉には、嘘偽りのない、真っ直ぐな想いが込められているように、オズには感じられた。
夜が更けていく。
バーベキューが終わり、オズとアリスは、ベザリウス邸へと帰ってきた。
オズの部屋。
窓から月明かりが差し込み、部屋の中を青白く照らしている。
オズは、ベッドに腰掛けていた。
アリスは、オズの膝の上にいた。
「……なあ、オズ」
「ん? どうした?」
「私、まだ、思い出せないの」
アリスの声は、小さく、か細かった。
「自分が誰なのか。何のために、ここにいるのか。……何も、思い出せないの」
オズは、黙って聞いていた。
「でも、おまえたちといると、思い出せなくても、いいかなって、思うの」
アリスが、顔を上げた。
真っ赤な瞳が、月明かりを受けて、揺れている。
「おまえたちといると、楽しい。お肉も、いっぱい食べられる。ワカメは、面白い顔をする。シャロンは、笑顔で怖いことを言う。ピエロは、飴を噛んでる。エイダは、変なものを持ってくる。オスカーは、肉を焼く」
「なんだ、それ。みんなの紹介かよ」
「……うるさい。最後まで聞け」
アリスが、オズの指を、小さな前足でぎゅっと握った。
「だから、私は、もう、思い出せなくても、いいかなって。……おまえたちと一緒にいられるなら」
オズは、アリスの頭を、優しく撫でた。
ふわふわの毛並みが、指の間をすり抜けていく。
「なら、思い出すまで、一緒にいるだけだ」
オズは、静かに言った。
「お前が思い出すまで、ずっと。俺が、お前の記憶の代わりになってやる。だから、焦らなくていい」
「……おまえ」
「所有物が、所有者の記憶を管理するのは、当然だろ」
「……うるさい、バカ」
アリスが、オズの胸に顔を埋めた。
「おまえ、本当に、バカだな」
「よく言われる」
「でも、嫌いじゃない」
アリスの小さな声が、オズの胸に響いた。
「……ありがと」
オズは、アリスを抱きしめた。
月明かりが、二人を静かに包んでいた。
その夜、ラトウィッジ学園の屋上。
風が吹いていた。
夜の学園は、昼間の賑やかさが嘘のように静かで、赤レンガの校舎が、月明かりに浮かび上がっている。
その屋上の端に、一人の男が立っていた。
イカレ帽子屋。
帽子のつばを指で押さえながら、彼は、街の灯りを見下ろしていた。
「さて、次の物語の幕が上がる」
彼の口元に、不気味な笑みが浮かぶ。
「主役は——あの坊ちゃんかな?」
風が、彼のコートをはためかせた。
「君は、まだ、何も知らない。自分が、何者なのかを」
彼は、帽子を深くかぶり直した。
「だが、それでいい。物語は、知らない方が面白い。……次の舞台で、会おう、オズ=ベザリウス」
イカレ帽子屋は、夜の闇に溶けるように、消えていった。
オズの部屋。Noveliaとは?
Noveliaは、AIでライトノベルや二次創作を「読んで・数タップで作って・キャラクターと会話できる」プラットフォームです。挿絵つきの新作が毎日届き、無料で始められます。