最弱評価士の無限査定
ユシィは帝国魔法学院の入学試験で、自身の能力「査定」を披露した――対象の強さや価値を数値化するだけの平凡なスキルだ。試験官たちは笑った。「戦闘には役に立たない」と。
七年後、魔法騎士団は彼女の能力を「最弱評価」と評し、辺境の警備隊へと追放する。辺境はモンスターが徘徊し、盗賊団がわずかな集落を脅かす荒れ地だった。
しかしユシィは真実を知る。彼女の能力は「査定」ではなく、「無限分解」だったのだ。すべてが彼女の操作できるパラメーターである。敵の魔力をゼロにし、武器の硬度を百倍にし、モンスターの知能を抑え、森の成長を加速させることもできる。ユシィは笑い始める。そして――彼女の暴走が始まった。
盗賊団は一瞬で崩れ、モンスターの巣は彼女の前に崩壊する。辺境の町は急速に繁栄し、首都からの視察団も注目するようになる。「最弱」の烙印はすでに過去のものとなった。
だが、影から観察者が現れる。隠された組織「数字の堕落者」――彼女と同じ能力を持つ者たちだ。そしてユシィはまだ知らない、この世界全体が誰かの「査定」によって動いているという真実を。
辺境で咲く少女の力は、やがて帝国の礎を揺るがすだろう。
最弱評価士の無限査定 - 鎮魂草と燻製の煙——グレンツァーの薬草師
夜明け前の詰所は、静かに腐っていた。
ユーティエ・シルヴァニスは手帳を膝に置き、壁を見ていた。正確には、壁を「査定」していた。
【《査定》発動中】
【対象:詰所南壁・木材部分】
【耐久値:18/100・腐食進行率:年間4.2%・推定崩壊まで:約2年半】
「……二年半」
声に出してみた。意味はなかった。ただ、数値を音にすると、少しだけ実感が来る気がした。
壁の向こうでは、まだ暗い樹海から鳥の声が聞こえている。グレンツァー——帝政ヴェルシェン最東端の辺境管区トゥラーゲの中心集落——の夜明けは、霧の中からやってくる。石畳は湿っていて、木柵の外ではたまに何かが動く気配がする。昨夜は牙顎獣——鋼並みの顎を持つ中型の魔獣で、帝都フェルゲシュタットから約820km離れたこの地域に多く生息している——の遠吠えが三度聞こえた。
ユーティエは次のページに移った。武器庫の棚、順番に。
【長剣・一本目:耐久値29/100・刃こぼれ7箇所・使用推奨不可】
【長剣・二本目:耐久値11/100・柄部分に亀裂・使用危険判定】
【短弓・一丁:耐久値——対象消滅・数値取得不可】
短弓は存在しなかった。棚の上に弓を引っかけるための金具だけが残っている。備品台帳を引っ張り出すと、該当欄に薄い字で書かれていた——「魔獣に持ち去られた(理由不明)」。
ユーティエは無表情で、その一行の下に鉛筆で線を引いた。
(魔獣が弓を持ち去る理由は不明だが、持ち去られた事実は明確だ)
備品台帳の紙質を査定すると、インクの経年劣化から逆算して最後の記録からおよそ三年が経過していることが分かった。前任者がいなくなってから、ここには誰も補充を送ってこなかった。数値が、感情なしにそれを告げる。
窓の外が少しずつ白んできた頃、ユーティエは外套を手に取ろうとして、袖が濡れていることに気づいた。正確には、濡れているのは袖ではなかった。
血だった。
前夜の牙顎獣との遭遇で負った腕の裂傷が、夜の間に開いていた。じわりと、じわりと、外套の内側を染めていた。ユーティエはその傷を査定した。
【傷口:左前腕・深度1.4cm・長さ約8cm・感染リスク:中程度・処置推奨:直ちに】
「……なるほど」
詰所の救急箱を開けた。
【包帯:劣化度100%・使用不可】
【消毒液:残量ゼロ・容器のみ】
【医療用針:錆・使用危険】
全滅だった。ユーティエは救急箱を静かに閉じ、棚の上に置いてある「辺境勤務心得・第七版」を手に取った。目次をめくり、第二十三条を開く。
「自傷の処置は現地の医療者に委ねよ。詰所備品への過信は命取りとなる」
……誰が書いたのか知らないが、適切なアドバイスだと思った。
ユーティエは手帳を閉じ、外套を羽織った。袖のあたりに気を配りながら、朝霧の中に出た。
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グレンツァー診療所は、詰所から二本の路地を挟んだ場所にある小さな建物だった。木の扉に「診療中」の板が掛かっている。押すと、薬草の匂いが漏れてきた。濃い、草の香り——鎮魂草だ、とユーティエはすぐに判断した。傷薬の原料に使われる、シュヴァルツ樹海の主要採取資源のひとつ。
扉を押した。
中では、背を向けた少女が薬草を刻んでいた。
淡い緑色の長髪が、束ねられて背中に垂れている。小柄な背中。白いエプロンが薬草の汁で薄く染まっていた。刻む手の動きは、迷いがなく、リズミカルだ。
ユーティエが扉を閉める音に、少女が振り返った。
黄金色の瞳だった。
その瞳がユーティエを見た瞬間——ぱっと赤くなった。視線が床に落ちた。身体が少し縮んだように見えた。
「あ……えっと、いらっしゃい、ませ」
声が少し裏返っていた。ニーラ・ヴォルト——グレンツァー診療所を一人で営む17歳の薬草師——の人見知りは、見ていて分かるくらい正直だった。
ユーティエは余計なことを言わなかった。左袖をまくって、裂傷を見せた。
空気が変わった。
ニーラの視線が、床からユーティエの腕へ、真っ直ぐに飛んだ。黄金色の瞳が傷口を見た瞬間、顔の赤みが引いて、代わりに仕事の顔が出てきた。
「座ってください、そっちの椅子に。動かさないで」
声のトーンが変わっていた。さっきの遠慮がちな声じゃない。迷いのない、処置者の声だ。
ユーティエは黙って椅子に座った。ニーラは棚から手際よく道具を引き出している——洗浄用の薬液、清潔な布、縫合針、そして何種類かの薬草を練り合わせたらしい緑色のペースト。動作に無駄がなかった。
洗浄が始まった。冷たい薬液が傷口に触れる。ユーティエは表情を変えなかった。
「……痛くないですか」
ニーラが傷口を拭きながら聞いた。視線は手元から外れていない。
「痛みではない」
「では何ですか」
「慣れていない感覚です。他者に身体を委ねることに」
ニーラは少しだけ動きを止めた。それから、また続けた。何も言わなかった。
縫合が始まった頃、ユーティエの目がニーラの前腕に止まった。エプロンの袖がまくれていて、腕の内側にいくつものやけど痕が走っているのが見えた。古いもの、比較的新しいもの、大小さまざまだ。薬草を煎じる際の鍋、加熱した道具——処置の跡が、皮膚に刻まれていた。
ユーティエが一瞬、そこを見た。無意識だった。
【《査定》——対象:ニーラ・ヴォルト】
【基礎生命力値:71/100】
【免疫値:68/100——辺境環境への適応顕著】
【慢性疲労蓄積量:推定睡眠不足・連続62日超】
【総合評価:環境負荷に対して生存力が予測値を大幅に上回る】
……予想より、ずっと高かった。
フェルゲシュタット中枢の、設備の整った医療施設で働く医師たちでもこれほどの数値を持つ者は多くない。辺境の粗末な診療所で一人で働きながら、この数値を維持している。
(どういうことだ)
ユーティエが内心で考えているうちに、ニーラが包帯を手首に固定しようとした。その指が、ユーティエの手首をそっと持ち直した。
——温かかった。
ユーティエの息が、ほんの少し止まった。自分でも気づかないくらいの、ほんの一瞬だ。でも確かに止まった。
ニーラがその変化を感じたのか、視線だけが一瞬ユーティエの顔に来た。すぐに手元に戻った。
「もう少しだけ」
静かな声だった。ユーティエは視線を窓の外に移した。霧が少し薄くなっている。
「……そのやけど痕は」
口をついて出た言葉だった。余計なことを聞く気はなかったのに。
ニーラは包帯の端を結びながら、少しの間があってから答えた。
「三年前のことです。父が牙顎獣に襲われて……夜中だったので、慌てて薬を煎じていたら、柄が熱くなっていることに気づかなくて」
笑いながら言った。苦笑いじゃない。本当に少し可笑しそうに。
「間に合わなかったんです、結局。でも……だから今度は間に合わせようと思って、ここにいます」
ユーティエは返答に詰まった。
「間に合わなかった」ことを、笑いながら話せる。その「笑い方」の意味が、ユーティエには数値として処理できなかった。
悲しくて笑うのか。強がりで笑うのか。本当に乗り越えているから笑えるのか。
どの数値にも当てはまらなかった。
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処置が終わらないうちに、診療所の扉が開いた。
「ニーラちゃん!ちょっと見てくれ、犬にちょいと引っかかれただけなんだが」
入ってきたのは、中年の猟師だった。右前腕を押さえている。押さえているその腕の袖が、半分ほど赤く染まっていた。
ニーラが近づいて袖をめくった。
「……どこの犬ですか、これ」
「いや、でかい犬で」
「噛み痕の幅が、これくらいあります」
両手の親指と人差し指で輪を作って示した。直径20センチ近くある。
「ちょっと大きめの犬で」
「牙顎獣ですね」
「……まあ、そんな感じの」
端の椅子でそれを聞いていたユーティエは、無表情のまま手帳に目を落とした。
【《査定》——猟師の前腕・牙圧痕分析】
【顎圧:推定380〜420kg相当——牙顎獣・成体の標準範囲内】
……犬ではあり得ない。ユーティエは一瞬、それを指摘すべきかどうか考えた。考えて——ニーラがすでに「牙顎獣ですね」と言って処置を始めているのを見て、手帳を閉じた。
猟師の処置が終わらないうちに次の扉が開いた。
今度は老人だった。全身が薄紫色に変色している。
「ニーラ嬢、今年は季節の変わり目が急でいかんな。体が冷えてのう」
ニーラが老人を一瞥した。薄紫。指先の変色。瞳孔の散大。
「魔獣毒の症状を三つ以上満たしています」
教科書を読み上げるような、淡々とした声だった。
「そうかのう、まあ冷えっていうのも」
「横になってください。すぐ始めます」
「冷えなんじゃないかと」
「横になってください」
語気は変わらなかった。ただ、圧があった。老人は大人しくベッドに横になった。
ユーティエは端で見ていた。静かに、ただ見ていた。
そこへ三人目が入ってきた。八歳か九歳の子どもだった。母親らしき女性が後ろについている。
「昨日の夕飯に、牙顎獣の牙を丸呑みしました」
ニーラの動きが止まった。
「……それは」
「でかいやつ」
「緊急事態です」
言いながら、全く動じていなかった。手がすでに次の道具を取りに動いていた。三人同時の処置を、ニーラは一人でやり始めていた。
ユーティエは、ぼんやりとその光景を見ていた。
(七年間、数値の上で死を知っていた)
帝国魔法学園の図書館には、辺境の死亡統計が記録されている。トゥラーゲ管区の平均寿命42歳。魔獣被害による死亡率。医療格差。数値として、ユーティエはそれらを知っていた。
でも。
死を笑い飛ばして生きている人間を、正面から見たことは——なかった。
「間に合わなかったけど、今度は間に合わせる」
その言葉を、笑いながら言えること。それは何なのか。どんな数値で表せるのか。
ユーティエには、まだ分からなかった。
処置の合間に、ニーラがちらりとユーティエの方を見た。
「辺境警察の、新しい方ですよね」
少し目線を外しながら言った。人見知りが戻ってきていた。
「よろしくお願いします、です」
ユーティエは少し間を置いた。
「……よろしく」
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診療所の騒動が落ち着いたのは、日が傾き始めた頃だった。
最後の患者——牙の子ども——が母親と一緒に帰っていくのを見送って、ニーラはため息を一つついた。疲れたというより、仕事が終わった時の、静かな息だ。
「……あの、」
目線が少し外れたまま、ニーラが言った。
「煤灯亭に行きますか。一人で食べるより、顔を知っておいた方が後々楽ですよ」
煤灯亭——グレンツァー唯一の宿場兼酒場で、情報が集まる場所でもある。
ユーティエは一瞬考えた。情報収集の場として有効、という判断が先に来た。
「行きます」
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煤灯亭の店内は、燻製の煙と人の声でいっぱいだった。石造りの壁、木のテーブル、天井の低い空間。店主のヴェーラ・ムント——元帝国軍の炊事兵だったという50代の女性——が、大きな鍋をかき混ぜながらユーティエに一瞥をくれた。
「新顔か。飯は樹海鹿の燻製煮込みしかないぞ」
「それで」
「銅貨三枚」
ユーティエは財布を出した。
二人が向かい合ってテーブルに座ると、ニーラは昼間より少し饒舌になった。診療所での人見知りが、慣れた場所のせいか薄れている。
「最近、物資が来ないんです。薬草の在庫が特に。鎮魂草はまだ樹海で採れますけど、消毒に使う素材は本土からの馬車便がないと手に入らなくて……月に一度来るはずなんですが、先月は来なかったので」
煮込みを運びながら話していた。ユーティエは聞きながら、内心でグレンツァー全体の脅威マッピングを始めていた。
【物資供給:月次馬車便・先月遅延・物流リスク:上昇傾向】
【薬草在庫:鎮魂草——自給可能、消毒素材——枯渇リスク高】
「それと、牙顎獣の目撃が増えています。町の外縁に近いところで。木柵が老朽化していて……」
【木柵:耐久値——昨日の査定で記録済み。外縁防壁として機能限界に近い】
ユーティエが黙って煮込みを食べていると、ニーラが少し間を置いてから言った。視線は煮込みに落ちたまま。
「あなたみたいな人が来てくれると、少し……頼もしい気がします」
ユーティエは間をおかずに返した。
「頼もしい根拠は何ですか」
「……なんとなく」
ニーラの耳が赤くなった。ユーティエは会話の着地点を失った。とりあえず煮込みを食べた。
燻製の鹿肉は、思っていたより柔らかかった。濃い出汁の味がした。フェルゲシュタットでは食べたことのない、粗野だが体に沁みる味だった。
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詰所への帰り道、ユーティエは一人だった。
ニーラとは診療所の前で別れた。「おやすみなさい」と言って、ニーラは扉を閉めた。ユーティエは頷いた。それだけだった。
霧がまた濃くなっている。石畳が湿っていて、靴音が低く響く。
ユーティエは歩きながら、ニーラの査定値を反芻していた。基礎生命力値71。免疫値68。慢性的な睡眠不足。それでも、予測を大幅に超えた生存力。
そして「間に合わなかったけど、今度は間に合わせる」という言葉。
(数値が高いことと、間に合わないことがある)
その二つは矛盾しない。でも、矛盾しないはずなのに、どこかで何かが引っかかっていた。数値だけでは捉えられない何かが、今日この場所にあった気がした。ユーティエにはまだ、その何かに名前をつけられなかった。
詰所まであと百メートルというところで、足が止まった。
南の廃屋——ニーデル川沿いにある、三年前に牙顎獣の群れに壊された旧水車小屋の方向——の近く、地面に何かが残っていた。
ユーティエはしゃがんだ。霧の中に目を凝らす。
足跡だった。複数。大きさと間隔が揃っている。獣のものではない。
【《査定》——足跡群・解析】
【足跡数:推定8〜12名分】
【荷重値:成人男性・武装時相当——素材・金属防具の圧力痕あり】
【歩幅パターン:統制された行軍——訓練を受けた集団の移動と判断】
【通過時刻:推定3〜4時間前】
武装した人間の集団が、夜の間にグレンツァーの外縁を通っていた。
ユーティエは立ち上がり、その足跡が向かった方向——北東、シュヴァルツ樹海の奥——を見た。霧が深くて、何も見えなかった。
手帳を出して、足跡の詳細を記録した。荷重値。歩幅。人数の推定範囲。方向。時刻。
それだけ書いて、詰所に向かった。
今夜この町で、まだ分からないことが一つ増えた。