最弱評価士の無限査定
ユシィは帝国魔法学院の入学試験で、自身の能力「査定」を披露した――対象の強さや価値を数値化するだけの平凡なスキルだ。試験官たちは笑った。「戦闘には役に立たない」と。
七年後、魔法騎士団は彼女の能力を「最弱評価」と評し、辺境の警備隊へと追放する。辺境はモンスターが徘徊し、盗賊団がわずかな集落を脅かす荒れ地だった。
しかしユシィは真実を知る。彼女の能力は「査定」ではなく、「無限分解」だったのだ。すべてが彼女の操作できるパラメーターである。敵の魔力をゼロにし、武器の硬度を百倍にし、モンスターの知能を抑え、森の成長を加速させることもできる。ユシィは笑い始める。そして――彼女の暴走が始まった。
盗賊団は一瞬で崩れ、モンスターの巣は彼女の前に崩壊する。辺境の町は急速に繁栄し、首都からの視察団も注目するようになる。「最弱」の烙印はすでに過去のものとなった。
だが、影から観察者が現れる。隠された組織「数字の堕落者」――彼女と同じ能力を持つ者たちだ。そしてユシィはまだ知らない、この世界全体が誰かの「査定」によって動いているという真実を。
辺境で咲く少女の力は、やがて帝国の礎を揺るがすだろう。
最弱評価士の無限査定 - 霧の中の数値——認められない者の仕事
夜明け前の詰所で、ユーティエ・シルヴァニスは手帳を広げていた。
前夜に記録した足跡のデータ——推定八名から十二名、武装、統制された行軍パターン、北東方向へ消えた——を、地図の余白に書き写す。グレンツァーから北東三十五キロほどに位置する岩山。シュヴァルツ樹海の北縁。その先には何があるか、まだ分からない。
【《査定》——地図・記録データ照合中】
【地形精度:38%——現地情報不足のため推定多数】
「……精度が低い」
つぶやいて、手帳を閉じた。上申できる上官はいない。管区長のダリオ・ヘルベックはまだトゥラーゲに赴任していない——辞令を確認すると、着任予定は来月末だ。それまでの判断はすべて自分一人でやるしかなかった。
ユーティエは能力登録証を引き出しから取り出した。七年前、帝国魔法学園の入学試験で記録された紙。
「査定・E級。非戦闘型・情報系」
帝国の評価は数値を「読む」ことしか測らなかった。「書き換える」可能性は、試験官たちの判断基準の外にあった。あの日の失笑の記憶が浮かんで——すぐに沈んだ。過去は過去だ。今日やるべきことがある。
巡回ルートを地図で確認する。シュヴァルツ樹海外縁部、東方向。霧纏蟲——濃霧を発生させて獲物を惑わす甲虫型の魔獣で、単体は弱いが数百匹の群れで人を窒息させる——の目撃報告が、直近三週間で複数件入っていた。正式な巡回任務として記録するべき地帯だった。
外套を羽織る前に、詰所の扉の裏側に目が止まった。
帝国が辺境警察の各詰所に配布している「辺境勤務心得」——辺境地での単独勤務者が負うべき基本規則を条文形式でまとめた冊子で、壁や扉の裏に貼り付けておく慣例がある——の紙が、そこに貼られていた。几帳面な前任者の仕事か、あるいは最初から印刷されて配られたものか、判断はつかない。ともかく、そこにある。
「辺境勤務心得・第四十二条——巡回前の行き先記録は必ず行え。帰還時刻を明示すること」
(誰も読まないとしても)
ユーティエは鉛筆を取り出し、扉の裏の木材に、几帳面な文字で書き付けた。
「巡回・外縁部東方向・帰還予定:日没前」
筆圧まで整っている。読む人間は、おそらくいない。——それでも、手順は省かなかった。書き終えてから少し間があって、ユーティエは小さく首をかしげた。
(……我ながら、細かいな)
自分でそう思ったのは、たぶん初めてだった。
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シュヴァルツ樹海の外縁部は、朝でも薄暗い。
針葉樹と広葉樹が混在した樹冠が光を遮り、霧が地面すれすれを漂っている。年間の霧発生日数が二百二十日を超えるこの地域では、「晴れ」よりも「霧」の方がずっと日常的だ。足元の腐葉土が柔らかく、足音を吸収する。
巡回を始めて一時間ほどが経った頃——空気が変わった。
音が、消えた。
鳥の声も、風の音も、葉のざわめきも。まるで世界から音量を絞り取ったように、静寂だけが残る。
【《査定》——環境変化検知】
【音響吸収率:異常上昇中——霧纏蟲の先触れと推定】
【視界前方・霧密度:急上昇中】
「来た」
声は静かだったが、内側では素早く動いていた。後退ルートを確認する——背後三十メートルに倒木、左側は沼地、右側は斜面。退路はない。前方から霧の壁が迫ってくる。白い、重い霧だ。
査定を広域展開する。霧の中に無数の生命反応が現れた。
【霧纏蟲群・個体数:推定三百四十〜三百九十体】
【移動速度:毎秒0.8m・包囲形成中】
【外殻硬度値:各個体 72〜88/100】
「……多い」
一頭の牙顎獣とは、規模が違う。あの時は一点を書き換えるだけで良かった。今回は三百体以上——同時に数値を操作しようとすれば、意識がどこまで分散するか、試したことがない。
試す前に窒息する可能性がある。
ユーティエは一秒、考えた。
(ブロックに分けて処理する)
全体を一度に書き換えようとしない。エリアごとに区切って、段階的に制圧する。論理は単純だ。あとは意識が持つかどうか——それだけ。
左手の魔法紋が熱を帯びた。査定を最大展開。視界が数値の層で覆われる。霧の中に浮かぶ無数の赤い点——それぞれに外殻硬度の数値が付いている。
最初のブロック、七十体。外殻硬度を一斉に書き換える——ゼロへ。
ごとっ、という鈍い音が、霧の中から聞こえた。七十体が同時に地面に落ちた音だ。
だが代償が来た。頭の後ろを鈍器で殴られたような感覚。視野の端がぼやける。
(次。続ける)
二ブロック目、八十体。書き換える。また落ちる音。頭の痛みが増す。手が震えていた——けれど止まらなかった。
三ブロック目、四ブロック目。
五ブロック目に差し掛かったところで、視界が一瞬、真っ白になった。
(……っ)
膝が折れそうになるのをこらえて、木の幹に手をついた。呼吸が乱れている。一時的な視野の喪失。意識の分散が限界に近づいている。
(まだ残り約百体)
ゆっくりと息を吐く。焦るな。ブロックを小さくする。五十体、三十体、二十体と段階を細かくして、一つずつ処理していく。時間がかかった。体感では十分以上——実際には三分ほどだったかもしれない。
最後の一体が地面に落ちた時、霧が晴れ始めた。
静寂が、今度は違う意味で戻ってきた。
ユーティエは幹にもたれたまま、右手を見た。細かく震えている。怖かったから、ではない。自分の限界の輪郭を、初めてはっきりと触った時の震えだ。力の上限が、まだ見えない——けれど今日分かったことがある。上限は、少なくとも昨日の自分が思っていた場所より、ずっと遠かった。
そこへ。
霧が完全に晴れた林の向こうから、老人が一人、のんびりと歩いてきた。
樹海民だろう——帝国の戸籍制度に組み込まれることを拒み、シュヴァルツ樹海の内部で独自の暮らしを続ける少数民族の一人だ。樹海の地形と生態に精通し、帝国からは事実上の化外の民として放置されている。毛皮の外套を纏い、細い目で地面を見ながら、独り言を言っている。
「……おかしいなあ」
立ち止まって、あたりを見回す。地面に散らばった霧纏蟲の死骸——外殻が砕けて、一面に甲虫の残骸が広がっている——を見て、老人はしばらく黙った。
「今年は不思議な年だ」
ひとりごとの続き。
「外縁の虫が全部、同じ日に死んでいる」
そのまま歩き続けて、ユーティエの横を通り過ぎようとした。目は合わなかった。いや、一瞬だけ合った——老人はユーティエを見て、特に驚く様子もなく、ただ「あんたも珍しいのを見たね」とでも言いたそうな表情で、また歩き出した。
ユーティエは声をかけ損ねた。
老人の背中が樹海の奥に消えてから、手帳を取り出して記録した。
「樹海民・目撃あり・詳細不明」
それだけ書いた。書きながら、少しだけ——本当に少しだけ——おかしいと思った。
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グレンツァーに戻ったのは、午後の早い時間だった。
石畳の道を歩いていると、水桶を持った女が振り返った。四十代くらい、日焼けした顔。目が合った。ユーティエは足を止めて、端的に言った。
「外縁部東方向の霧纏蟲の群れを制圧しました。推定三百五十体以上。今後しばらくは発生しないと思います」
女は動かなかった。じっとユーティエを見て、それから隣の露台にいた男に目を向けた。男も聞いていたらしく、こちらに顔を向けている。
「……帝国から来た新人が、一人でか」
声のトーンが、最初から信じていない。
「霧纏蟲は数百匹で動く」と女が言った。「一人でできるわけがない」
「どうせ霧に驚いて逃げてきただけだろ」と別の声がした。いつの間にか、三人四人と人が集まり始めていた。グレンツァーの住民たちだ。帝国の辺境警察——選考に落ちた者や問題を起こして左遷された者が流れ着く、実質的な棄民部署——に対する不信は、前任者たちが何も成果を残さず去り続けた歴史によって塗り固められている。ユーティエはその歴史を数値では測れないが、今この空気感で分かった。
反論はしなかった。
感情的な反発は、情報収集にならない——それが一つ。もう一つ、もっと大きな理由があった。自分の力の正体を証明したくなかった。数値を書き換える能力など、誰にも知られてはいけない。能力登録令——国民は七歳時に能力を帝国に届出・登録する義務があり、虚偽申告は懲役五年——の制度下で、「査定・E級」と登録されたまま全く別の能力を行使していることが露見すれば、どうなるか。想像するまでもなかった。
沈黙を保ったまま立っていると、住民たちの会話は勝手に別の方向へ転がっていった。
「そういえば、今年の外縁は——」
「霧神の話だろ。樹霊信仰では年に一度、霧神が外縁を清める日があるって」
「ちょうどその時期じゃないか」
「そうか、霧神が動いたのか」
「だとしたら今年は恵みがある年だ」
誰もユーティエの方を向いていなかった。話し合いはどんどん進んで、「霧神が外縁の虫を清めた」という方向で完全に結論が出た。帝国から来た新人警察官が一人で数百体の霧纏蟲を制圧した——という可能性は、最初から検討の俎上にすら乗らなかった。
ユーティエは無表情のまま、その会話を聞いていた。
(霧神か)
詰所の扉を閉めた瞬間、右手が——ゆっくりと、気づかないくらい小さく——握られた。
怒りではない、と思う。正確には分からなかった。ただ、何かが、軋んだ。
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詰所のドアをノックする音が聞こえたのは、それから一時間ほど後のことだった。
机で地図を広げていたユーティエは顔を上げた。扉を開けると——ニーラ・ヴォルトが立っていた。
淡い緑色の長髪を束ねて、白いエプロンを外套の下に着たまま。黄金色の瞳が、ユーティエを見てわずかに揺れた。手には陶器の小鉢を持っている。薬草の蒸気が、白くゆらいでいた。
「あの……」
少し、言い淀んだ。視線がユーティエの顔に向いて、すぐに陶器の鉢に落ちる。
「外縁に行かれたと聞いて。顔色が——あまり良くなかったので」
ユーティエは自分の顔を意識した。
【現在ステータス:視野回復中・慢性的な疲労蓄積・外見上の異変:あり】
(……査定するまでもなかったな)
「薬湯です。鎮魂草と、あと少し眠れるための草を混ぜました。飲んでおいてください」
そう言って、陶器の鉢を差し出してきた。強制ではなく、ただ差し出す、という感じ。強引さも遠慮も両方ない、不思議な渡し方だった。
ユーティエはそれを受け取った。
温かかった。
薬湯の匂いが、鼻の奥に入ってくる。鎮魂草の青さと、もう一種類の草の、少し甘い香り。
「……ありがとうございます」
必要最低限の言葉を選んで返した。ニーラはそれを聞いて、少し、表情が和らいだように見えた。きれいに整った顔立ちをしているが、笑うと幼さが出る——腕のやけど痕と薬草処置の跡が、清潔なエプロンと対比されて、この少女がどれだけ働いてきたかを静かに語っていた。
「今日、大変だったんですか」
さりげない、探るわけでも詮索するわけでもない問い方。人見知りの彼女にしては珍しく、自分から聞いてきた。
ユーティエは少し迷った。
何を話すか、ではなく——何を話さないか、を考えた。
「巡回でした。特に問題はなかった」
ニーラは頷いた。それ以上は聞かなかった。
ちょうど良い距離感、とユーティエは思った。聞かなければ答えなくて済む。この少女は、そういう距離の取り方を知っているのか、あるいは自然にそうなっているのか——どちらなのかは、まだ分からなかった。
「飲んだら少し横になってください」
最後にそう言って、ニーラは扉の外に出た。去り際に振り返って、一度だけユーティエと目が合った——すぐに逸れた。耳が少し赤い気もしたが、外の風のせいかもしれなかった。
扉が閉まる。
ユーティエは薬湯の鉢を両手で持ったまま、しばらく動かなかった。温かさが掌に残っている。
町の住民たちは霧神のおかげだと言った。機能しない警察官が来て、何も見ていないと判断した。ユーティエはそれを否定しなかったし、するつもりもない。自分の力を知られることは、選択肢にない。
それでも——誰も気づかなくても、薬湯は温かかった。
(…)
薬湯を一口飲んだ。草の青さと、わずかな甘みが、喉の奥に広がった。
悪くない味だった。
---
翌朝、ユーティエはデータ収集のために町外れへ出た。
南側、ニーデル川沿いの廃屋群——三年前に牙顎獣の群れに破壊された旧水車小屋の跡地——の周辺は、人が来ない。査定の練習場所として使えるかもしれないと思って、足を向けてみた。
廃屋の壁が崩れ、木材が腐って地面に沈んでいる。川の音が低く聞こえる。霧は薄く、朝の光が廃材の隙間を斜めに切っている。
査定を走らせた。
建材の耐久値、地盤の硬度、川の流量データ——そこまでは普通だった。廃屋の奥、土に半ば埋もれた何かに反応が出た。
【金属反応——鉄系合金・長物・埋没深度:約30cm】
(……刃物か)
土をかき分けると、軍刀が出てきた。
帝国軍の長刃——帝国正規軍の兵士に支給される規格品で、刀身の根本に所属部隊を示す帝国軍紋章を刻印する慣例がある。その紋章があるべき位置が、力任せに削り取られていた。他の部分は経年劣化による錆だが、その一箇所だけは違う。切削の角度と深さが全く異なる。
査定を当てた。
【刻印除去箇所——削痕解析】
【力量:成人男性・強い力・単発作業と推定】
【削除の意図:高い確率で意図的かつ感情的】
【痕の深さと角度の乱れから:焦り、または怒り、の状態での作業と判断】
数値が語る。紋章を残したくなかった者の意志が——査定を通して、ユーティエの指先に届いた。
帝国軍の刀から帝国の印を消す。帝国軍の兵士が自ら紋章を削るとすれば、それは脱走か、あるいは帝国への反逆を意味する。正規軍の装備に帝国紋章がないということは、その持ち主が帝国から切り離された——あるいは自ら切り離した——存在であることを示している。それは同時に、前夜に記録した武装集団が、少なくともその一部に帝国軍の訓練と装備を持ちながら、帝国に属さない組織として動いている可能性を示唆していた。
前夜に記録した足跡データが頭に浮かぶ。武装した集団、統制された行軍、北東方向——シュヴァルツ樹海の奥。そして今、土の中に埋まっていた、帝国紋章を削り取られた軍刀。
二つの点が、一本の線で繋がり始めた。
組織的な動き。帝国の正規軍ではない——しかし、かつては帝国に属していた可能性がある何か。
ユーティエは軍刀を回収して、外套の内側に収めた。詰所に戻り、手帳を開く。「武装集団の足跡」の記録の横に、今日のデータを書き加えた。刀の寸法、刻印除去の位置、削痕の特徴、発見場所。
報告できる上官はまだいない。記録だけが積み上がっていく。
窓の外、東の方角。シュヴァルツ樹海が霧に覆われて、暗く、深く、広がっている。あの樹海の奥に、何かがいる。
手帳の余白に、ユーティエは数値ではなく一つの疑問文を書いた。
「捨てたのか、逃げたのか」
軍刀の主への問いだった。帝国の印を消した者は——自分から捨てたのか、それとも捨てられたのか。
インクが乾く前に、ユーティエはもう一度その言葉を見た。
問いはもう一つの意味を持っていた。辺境に流れ着いた自分への問いでもあるような気がして、ユーティエはそっと手帳を閉じた。