最弱評価士の無限査定
ユシィは帝国魔法学院の入学試験で、自身の能力「査定」を披露した――対象の強さや価値を数値化するだけの平凡なスキルだ。試験官たちは笑った。「戦闘には役に立たない」と。
七年後、魔法騎士団は彼女の能力を「最弱評価」と評し、辺境の警備隊へと追放する。辺境はモンスターが徘徊し、盗賊団がわずかな集落を脅かす荒れ地だった。
しかしユシィは真実を知る。彼女の能力は「査定」ではなく、「無限分解」だったのだ。すべてが彼女の操作できるパラメーターである。敵の魔力をゼロにし、武器の硬度を百倍にし、モンスターの知能を抑え、森の成長を加速させることもできる。ユシィは笑い始める。そして――彼女の暴走が始まった。
盗賊団は一瞬で崩れ、モンスターの巣は彼女の前に崩壊する。辺境の町は急速に繁栄し、首都からの視察団も注目するようになる。「最弱」の烙印はすでに過去のものとなった。
だが、影から観察者が現れる。隠された組織「数字の堕落者」――彼女と同じ能力を持つ者たちだ。そしてユシィはまだ知らない、この世界全体が誰かの「査定」によって動いているという真実を。
辺境で咲く少女の力は、やがて帝国の礎を揺るがすだろう。
最弱評価士の無限査定 - 夜明け前の脅威値——赤鉈衆、来たる
手帳の最後のページに、一行だけ残っていた。
「命の数値は、書き換えられなかった」
ユーティエ・シルヴァニスはランプの光の下で、その文字を三度読んだ。書いたのは自分だ。昨夜の廃採掘坑での出来事——助けられなかった男の死、ニーラが抱えていた「間に合わせると決めたのに」という一言——が、まだどこかに引っかかって離れない。数値で測れるものは全部測る。それがユーティエのやり方だった。でも昨夜の死は、測れなかった。書き換えられなかった。
(これも記録に入れるべきか)
ペンを手に取ったまま、手は動かなかった。
詰所の窓の外、シュヴァルツ樹海から流れ込む霧がグレンツァーの木柵を白く染めている。深夜の静寂の中で聞こえるのは、風が木柵の隙間を抜ける音と、遠くで鳴く何かの声だけだった。
ユーティエは椅子にもたれたまま、目を閉じた。
閉じた、つもりだった。
意識が薄くなる直前——《査定》が動いた。
特に意図したわけじゃない。眠りかけた意識が惰性で能力を走らせる、という癖がいつの間にかついていた。視野の外縁に、グレンツァーの木柵沿いの数値がうっすらと広がる。いつもと同じ、夜間の低い数値の羅列——のはずだった。
【《査定》——北東方向・脅威値スキャン中】
【異常検知:通常値の数十倍に相当する脅威値上昇——継続中】
【対象:複数の武装人員・静粛移動パターン——個体数、霧により輪郭のみ確認可能】
目が開いた。
(来た)
ユーティエは一秒で立ち上がった。上着を引いて外套を羽織りながら、脳の別の部分が詰所の設備を確認する。
【《査定》——非常用警報鐘・金属疲労値スキャン】
【発令可能回数:残り二回】
二回。
今夜使えば、残り一回。残り一回が残る。その一回はどこかで使うことになる。では今夜使って、一回を温存するか。それとも今夜は使わず、温存するか。
——一秒で計算した。答えは出た。
ユーティエは警報鐘のロープを引いた。
金属音がグレンツァーの夜に響く。鋭く、短く、二回——ではなく、一回だけ。
階段から重い足音が降りてきた。
ダリオ・ヘルベックが現れた。
——眠っていなかった、とすぐに分かった。灰色の交じる黒髪は乱れておらず、腕当ての帯紐は締め直した跡もない。完全な軍装のまま、一分の隙もなく。左頬の古傷が夜のランプ光に浮かぶ。青灰色の瞳が鋭く部屋を確認して、ユーティエに向けられる。
「北東か」
「はい。複数の武装人員、静粛移動中です」
「数は」
「霧で輪郭のみ。ただし脅威値は赤鉈衆の先鋒と見て問題ありません」
ダリオが一度だけ頷いた。無言で戸口の武器掛けから刀剣を取る。その動作に一切の無駄がなかった。
そこへ、詰所の扉が勢いよく開いた。
「ユーティエさん!ダリオさん!」
ニーラ・ヴォルトが飛び込んできた。道具袋を両手に抱えている。淡い緑色の髪が乱れ、頬がランプの光で赤く染まっている。診療所から走ってきたのか、呼吸が少しだけ上がっていた。黄金色の瞳が二人を交互に見る。
「……呼んでいません」
「知ってます」
ニーラはきっぱりと言って、道具袋を胸の前でしっかり抱え直した。
「鎮魂草の在庫が三日前に切れました。だから今夜でないと困ります。処置できる機材を全部持ってきました」
ユーティエとダリオが同時にニーラを見た。
「……今夜、怪我人が出ることが前提の論理ですね」
「はい。だって出るじゃないですか」
ダリオが口元を一瞬だけ動かした——苦笑、に近い何かだった。「診療所に治療拠点を作れ。住民を誘導しながら手当てに入る」
「分かりました」
ニーラが走り去る。ユーティエは一秒だけ、その背中を見た。
【ニーラ・ヴォルト——生命力値:68/100・疲労傾向継続中】
数値はいつも通りだった。でも「今夜でないと困ります」という言葉の論理が、どこか奇妙に胸の中を通り抜けた。感情なのか、それとも別の何かなのか、ユーティエには分類できなかった。
「行くぞ」
---
北東の木柵外縁から、住民の叫び声が届いた。
「いる! 外にいる! 武装した——!」
ユーティエは単独で走った。ダリオが内側の防衛ライン構築に回ることは、走り出す前に二人の間で確認済みだった。外交渉は自分が行く。ダリオが住民を後退させる。役割分担に言葉は要らなかった。
木柵の北東の出口に出た瞬間、松明の光が逆光で視野に満ちた。
霧の向こうに、影が立っていた。
一人だけ。
身長は185センチほど。燃えるような紅色の長髪を後ろで束ね、顔の右側に深い斜めの傷痕が走っている。唇の端がかすかに上がっている——冷笑の癖、と判断するのに一秒かからなかった。後方の霧の中に、複数の気配が静止している。精鋭を控えさせて、自分だけが前に出てきた。
ユーティエは即座に走らせた。
【《査定》——対象:成人男性・ゴラン・ヴィーツ(推定)】
【戦闘力値:89/100——これまで計測した中で最高値】
【実戦経験密度:極めて高い・傭兵部隊長クラス】
これまでの最高値。牙顎獣の群れより高い。霧纏蟲の大群制圧で限界まで削った夜の記憶が、少しだけ戻った。
男が口を開いた。
「帝国の標章が、こんな辺境の外縁に立っているとは」
低く、落ち着いた声だった。威圧ではなく——確認、に近いトーンだった。
「ゴラン・ヴィーツですか」
「名前を知っているか。優秀な辺境警察だ」
含み笑いが混じる。しかしその笑いは、感情的な嘲りではなかった。計算された余裕だ、とユーティエは判断した。
「我々は第十四遊撃隊の残党だ」
第十四遊撃隊——南部辺境紛争で帝国南部の最前線に投入された傭兵部隊。戦争が終わった後、帝国は彼らへの報酬を未払いのまま、関与の事実ごと切り捨てた。その残党が組織した盗賊団が赤鉈衆だ。
ゴランが続けた。声に感情的な起伏はなかった。怒りではなく——長年、蓄積されて冷えた確信の言葉だった。
「帝国のために戦った。血を流した。終わったら使い捨てにされた。それが帝政ヴェルシェンというものだ。その帝国の標章をつけた人間が、捨て地のような辺境に立っている」
ユーティエはゴランの言葉を聞きながら、反射的に《査定》を走らせようとした——その怒りを、憎悪を、数値にしようとした。
できなかった。
【《査定》——感情系数値の読み取り:対象外】
【物理的数値以外への介入:不可】
物理的な数値は読み取れる。でも「帝国に裏切られた者の尊厳」は、数値の構造に乗らない。
ユーティエは一拍の間、自分の内側に目を向けた。
自分もまた——帝国魔法学園で「E級・非戦闘型」と判定されて、制度的に冷遇された。能力登録証に記された「査定(情報系E級)」という文字一つで、進路の九割が閉ざされた。帝国に数値で測られ、辺境に送られた。ゴランとは、理由も事情も規模も違う。でも「帝国に切り捨てられた」という構造だけは、同じだった。
その事実に、ユーティエは動揺した——表情には出さなかった。
ゴランが赤色の瞳をユーティエに向けた。
「帝国の残骸を守るつもりか」
一拍。
「守る対象は人です」
それだけ言った。短く、余分なものを削いだ答えだった。
ゴランの唇の端が、わずかに止まった。予測の外にある言葉だったのかもしれない——一瞬だけ、霧の中の静寂が濃くなった気がした。
その間を埋めるように、ゴランが右手を上げた。
霧の中の精鋭が、動き始めた。
---
第一波が来た。
木柵の外縁に散った赤鉈衆の先鋒が、三方向から同時に動く。ユーティエは《査定》を広げながら、内側へ走って戻った。
【《査定》——武器耐久値操作・開始】
【対象:武装人員・分散移動中——同時多点操作の限界に到達しつつあります】
(三話の霧纏蟲の時と同じだ)
あの夜、三百体を超える魔獣を一人で書き換えながら意識の端まで削れた感覚が、記憶として戻ってくる。今夜の相手は数が少ない代わりに一体一体の戦闘力が高い。散開して闇に溶け込むから、視野での追跡が難しい。
木柵内側でダリオの声が響いていた。
「補修区画は保つ。北側の古い杭は貫かれる。誘導ルートはそちらに絞れ」
南部辺境紛争の実戦経験から染み付いた判断だった。グレンツァーの木柵のどこが強く、どこが脆いか——ダリオはそれを把握した上で、敵が来やすい場所を限定していた。
住民たちが後退していく。その中に、自警団らしき老人が数名いた。
「また帝国の警察が逃げるんじゃないか」
「前の担当官は三日で逃げたぞ」
ダリオが老人たちの方を一度だけ向いた。「後ろへ下がれ」
声に感情はなかった。ただ、重さがあった。老人たちが黙った。
その瞬間だった。
老人の一人が後ずさりした拍子に、肘が警報鐘のロープに当たった。
ガラン、と鐘が鳴った。
静寂。
ユーティエは《査定》を無意識に警報鐘に走らせた。
【《査定》——非常用警報鐘・残発令可能回数:0】
手帳の端に、ユーティエはすばやく書いた。「残:0」。
ダリオが視線をこちらに向けた。その額に、指先が一瞬だけ当たった——苦笑、あるいは諦観の仕草だった。
ユーティエは無言のまま、第一波の対処に戻った。
木柵の北側の脆弱区画から先鋒の一人が突破を試みる。剣の耐久値を一気にゼロに下げる。金属が軋み、刃が根本から折れる音がした。動きが止まる。ダリオの部下が内側から対処に入る。
視野の端に、診療所の方向が見えた。
灯りがついている。ニーラが動いている。第一波の混乱で傷を負った住民が、すでに運び込まれているようだった。ニーラの小さな影が、休む間もなく動いていた。
【ニーラ・ヴォルト——生命力値:66/100・処置作業中・体力消耗継続】
ユーティエは戦場の状況を処理しながら、もう一度診療所の方向に視線を向けた。
数値は保っている。
三度目に視線を向けた時、ユーティエはそれが「習慣になっている」ことに気づいた。混乱の中でニーラの体力値を確認する、という行動が、意図なく繰り返されていた。
なぜそうしているのか——ユーティエには、まだ答えが出なかった。出ないまま、戦闘に意識を戻した。
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第一波が膠着した。
赤鉈衆の先鋒が動きを止めた。撤退の気配が霧の中に広がっていく。ゴランが精鋭を引かせた——消耗戦ではなかった。今夜は偵察だった。グレンツァーの防衛体制、辺境警察の対応能力、弱点となる区画の位置——それを見に来ただけだった。
本格的な攻略は、翌夜以降に持ち越された。
引き際にゴランがユーティエとの間合いを一度だけ詰めた。
足音はほとんどしなかった。霧の中から、気配だけが近づいてくる感じだった。ユーティエは《査定》を走らせながら、動かなかった。
「お前の力は、帝国の制度が知る限りのものではないだろう」
低い声が、霧に溶けるように届いた。
「数値で測られ、捨てられた者の力が——こんな辺境の端で花を咲かせているとは」
ユーティエは答えなかった。ゴランは続けた。含み笑いが、わずかに深くなった。
「椹牙院——帝国の公式組織台帳には決して載らない、表の秩序の外で動く情報収集機関だ——はお前を知っているぞ」
霧の中に、その言葉が残った。
ユーティエは動かなかった。
椹牙院——今ゴランが説明した通り、帝国の公式記録には存在しない組織だ。辺境警察に支給される組織台帳に載っていないのは当然だった。しかし「表の秩序の外で動く情報収集機関」の名をゴランが知っていること自体が——そしてそこがユーティエを知っているという断言が——今夜最大の不確定要素として視野の中に浮かんだ。
【《査定》——「椹牙院」:登録データなし】
数値が出ない。情報がない。測れないものが、今夜また一つ増えた。
ゴランの気配が遠ざかっていく。影が霧に溶けていく。
ダリオが隣に立った。
「明日が本番だ」
短く、確信のある言葉だった。反論の余地がない事実として告げた声だった。
ユーティエは頷いた。
---
戦闘後の静寂の中で、ユーティエは診療所に向かった。
扉を開けた瞬間——
ニーラが振り返った。
動きやすさのために外套を脱いでいた。白い処置着の下、薄い肩の線が見える。燃えるような緑色の長髪は束ねが少し緩んでいて、首筋の横に一房こぼれていた。黄金色の瞳が、驚いた形に開く。
ニーラは胸元に外套を引き寄せた。反射的な動作だった。
ユーティエは一歩、下がった。扉の縁に手をかけたまま、視線を斜め上の壁に向けた。一秒だけ、そこにあった。
「——怪我は」
ニーラの声は、少し上ずっていたが、すぐに医療者の落ち着きに戻った。
「ありません」
「……そうですか」
一拍の間があった。
「あなたは」
自分でも、なぜそれを聞いたのか、すぐには分からなかった。問い返したことの意味を言語化する前に、言葉が出ていた。
ニーラが外套を少しだけ下ろして、ユーティエを見た。黄金色の瞳がかすかに揺れる。それから、静かに頷いた。「大丈夫です」
どちらも、それ以上は言わなかった。
ユーティエは扉の縁から手を離し、診療所の壁際に立った。ニーラが処置に戻る。薬草の匂いが部屋に満ちている。鎮魂草の代わりに使っているらしい別の薬草の、少し青みがかった清涼な匂いだった。
夜明けまで、あと少しだった。
窓の外、ダリオが見張りに立っているのが分かった。足音が一度だけ診療所の窓の前を通り、止まった。窓の方向に視線が向いた気配がした——そして何も言わずに、ダリオの視線は北東へ戻っていった。
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シュヴァルツ樹海の北縁、霧が最も濃くなる区画。
木々の影の中に、人影があった。
ゴランでも、赤鉈衆の構成員でもない。気配があまりにも静かすぎた。呼吸の音もなく、衣擦れもなく、ただそこに存在しているだけのような佇まい。
その人影は、グレンツァーの明かりをしばらくの間、無感情に見つめていた。今夜の一連の戦闘を——ユーティエの《査定》の作用範囲を、武器の崩壊タイミングを、防衛ラインの設計を——全て、記録していたように。
やがて人影は霧の奥へ溶けていった。
グレンツァーの灯りだけが、夜明け前の暗闇の中で、小さく揺れていた。