最弱評価士の無限査定
ユシィは帝国魔法学院の入学試験で、自身の能力「査定」を披露した――対象の強さや価値を数値化するだけの平凡なスキルだ。試験官たちは笑った。「戦闘には役に立たない」と。
七年後、魔法騎士団は彼女の能力を「最弱評価」と評し、辺境の警備隊へと追放する。辺境はモンスターが徘徊し、盗賊団がわずかな集落を脅かす荒れ地だった。
しかしユシィは真実を知る。彼女の能力は「査定」ではなく、「無限分解」だったのだ。すべてが彼女の操作できるパラメーターである。敵の魔力をゼロにし、武器の硬度を百倍にし、モンスターの知能を抑え、森の成長を加速させることもできる。ユシィは笑い始める。そして――彼女の暴走が始まった。
盗賊団は一瞬で崩れ、モンスターの巣は彼女の前に崩壊する。辺境の町は急速に繁栄し、首都からの視察団も注目するようになる。「最弱」の烙印はすでに過去のものとなった。
だが、影から観察者が現れる。隠された組織「数字の堕落者」――彼女と同じ能力を持つ者たちだ。そしてユシィはまだ知らない、この世界全体が誰かの「査定」によって動いているという真実を。
辺境で咲く少女の力は、やがて帝国の礎を揺るがすだろう。
最弱評価士の無限査定 - 夜明けの数値——椹牙院の影が見ている
前夜のゴランの言葉が、まだ頭の奥で反響していた。
「椹牙院はお前を知っているぞ」
帝国の公式台帳に存在しない名前。《査定》で検索しても、データは何も返ってこなかった。ユーティエ・シルヴァニスは診療所の壁に背を預けたまま、窓の外の薄明かりを見ていた。シュヴァルツ樹海から流れ込む霧が、グレンツァーの木柵を白く塗り込めている。
夜明け前の、いちばん暗い時間だった。
薬草の匂いが部屋に満ちている。鎮魂草——傷薬の原料となる植物で、辺境では一束が銀貨二枚になる——の代わりに使っているらしい別の薬草の、少し青みがかった清涼な匂いだった。ニーラ・ヴォルトが昨夜の処置作業で散らかした計量皿と薬草の束を横目に、ユーティエは目を閉じた。
意図したわけじゃなかった。でも、眠りに落ちかけた瞬間——
【《査定》——外縁スキャン・自動起動】
【北東方向:脅威値急上昇——継続中】
【南方向:化学的異変値——井戸付近に集中、毒物混入の可能性】
目が開いた。
(二方向だ)
ユーティエは立ち上がって、扉を開けた。冷気が顔を打つ。空の端が、かすかに紫がかり始めていた。
ダリオ・ヘルベックは詰所の外で既に剣帯を締めていた。一晩眠っていなかったのか、灰色交じりの黒髪はよれておらず、腕当ての紋章刺繍は夜明け前の薄光の中でくっきりと見えた。左頬の古傷が、寒気に赤く染まっている。
「北東と南が動きました」
「南か」
「井戸です。化学的異変値が集中しています。毒物の可能性が高い」
一秒で、ダリオは顔色を変えた——変えた、というより、決断した顔になった。「住民を優先する。ニーラを呼べ。俺は井戸周辺の警戒に回る」
その瞬間、診療所の扉が内側から勢いよく開いた。
ニーラ・ヴォルトが飛び出してきた。淡い緑色の長髪が束ねられたまま乱れている。黄金色の瞳が、左右を素早く確認する。道具袋は抱えていた。でも——
【《査定》——ニーラ・ヴォルト装備確認】
【防寒外套:装備なし——防寒性能値:0/10】
(……ゼロ)
ユーティエは一瞬だけ考えた。今から告げるべきか。告げる時間があるか。北東の脅威値はまだ上昇している。
「井戸に異変があります、解毒処置を——」
ニーラが走り出した。外套なしで。霧の中に。
ダリオが無言で自分の外套を脱いだ。一秒で丸めて、走るニーラの背中に放り投げた。ニーラがちらりと振り返り、外套を抱えて走り続ける。ダリオは腕組みをして、外套なしで夜明け前の冷気の中に立った。
【《査定》——ダリオ・ヘルベック防寒性能値:0/10】
(管区長と薬草師、二人揃って防寒ゼロ)
数値の不合理さが一瞬だけ頭を占めた。だがダリオは全く意に介していない様子で、北東の方角をすでに向いていた。外套なしで実戦に立つという数値的矛盾を、この男は平然と受け入れている。ユーティエは一拍だけそこに引っかかってから、視野の北東に広がる脅威値へ意識を向け直した。
「行け」
短い言葉だった。ユーティエは頷いて、北東へ走り出した。
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木柵の北東出口を抜けると、霧が急に濃くなった。
足元の草が朝露で濡れている。松明はない。《査定》が自動的に視野を広げて、霧の向こうにある気配を数値に変換していく。
【《査定》——前方脅威値スキャン中】
【単独個体——戦闘力値:91/100——完全な戦闘モードへ移行済み】
【後方に精鋭複数名——待機状態——首領の命令待ち】
ユーティエは足を止めた。
ゴラン・ヴィーツが霧の中に立っていた。
燃えるような紅色の長髪が、夜明け前の湿気を含んで重く束なっている。顔の右側、額から顎にかけて走る深い斜めの傷痕が、夜明けの薄明かりの中でくっきりと浮かぶ。唇の端に、いつもの冷笑の気配がある。
昨夜と同じ構図だった。
でも昨夜とは、数値が別物だ。昨夜の戦闘力値は「偵察モード」の数値だった。今この瞬間の91という数値は——これが本番だと、明確に告げている。
ユーティエは短剣ではなく、腰の後ろから別のものを引き出した。帝国紋章を力任せに削り取られた軍刀——三話で廃屋の土中から見つけた、あの刃だ。削られた紋章の跡が、夜明けの光の中で荒削りに光る。
ゴランの数値が、揺れた。
【《査定》——ゴラン・ヴィーツ内部値変動検知】
【怒りでも恐怖でもない——記憶の再起動に近い変動】
(記憶の再起動)
ユーティエはその分類を言語化する前に動いた。軍刀を正面に構える。ゴランの視線が刃に落ちて——一瞬だけ、止まった。
その一瞬を、逃さなかった。
【《査定》——目標:ゴラン・ヴィーツ装備・幅広戦闘刀】
【重量値書き換え開始——段階的処理モード:第一分割】
廃採掘坑でのやり方を踏襲する。一気に書き換えず、分割して処理する。自分の消耗を抑えながら、じわじわと相手の動きを鈍らせる。
ゴランが踏み込んできた。速い。91という数値は伊達じゃなかった。
ユーティエは後退しながら剣を捌く。受けるたびに腕に衝撃が走るが、同時に《査定》の書き換えを分割で継続する。ゴランの刀が、少しずつ——本当に少しずつ——重くなっていく。
三合目、ゴランが気づいた。
「……お前、何かしているな」
低く落ち着いた声だった。問い詰めるでもなく、確認する口調だった。
「刀が重い」
四合目。ゴランの踏み込みが、コンマ数秒だけ遅れた。
【《査定》——重量値書き換え:第三分割完了——現在値312/100(通常の三倍)】
ゴランが刀を地面に突いて、一歩退いた。鋭い赤色の瞳が、ユーティエを正面から見据える。その視線の奥に怒りはなかった——計算があった。
「……損切りだ」
後ろの精鋭たちに向けて、低く短く告げた。「撤退」
霧の中で人の気配が後退し始める。足音が遠ざかる。戦術的な撤退、迷いのない判断だった。元傭兵の生存の合理性——負けを認めて逃げることを躊躇わない、それがゴラン・ヴィーツだ。
ゴランが振り返りながら、最後に一言だけ置いていった。
「椹牙院がお前の力の名前を知っている。そして俺が何者かの答えを、お前は自分で出しておけ」
霧が、その言葉ごとゴランを飲み込んだ。
ユーティエは動かなかった。軍刀を下ろして、《査定》を霧の向こうへ向ける。脅威値が遠ざかり、数値が下がっていく。
【《査定》——「椹牙院」:登録データなし】
答えを持たないまま、ユーティエは夜明けの霧の中でゴランの背中が消えるのを見送った。
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空が完全に明るくなった頃、ユーティエは診療所前に戻った。
ニーラが、外に座り込んでいた。
ダリオの外套を毛布代わりに体に巻いて、道具袋を膝の上に乗せて、壁に背を預けて——目が半分閉じている。疲れ果てた半眠り状態だった。それでも道具袋は膝から落ちていない。
ユーティエが近づくと、ニーラの黄金色の瞳がうっすらと開いた。
「……全員、解毒できました」
声がかすれている。朦朧としながら、でもはっきりと言った。それから外套に顔を埋めて、眠そうに付け足した。
「管区長さんの外套、燻製の匂いがします」
ユーティエは一秒、考えた。
今この瞬間の優先事項を整理する——解毒完了の確認か、燻製の匂いへの返答か。
「全員に症状はありませんか」
「ないです。軽度の嘔吐が三名、あとは未摂取でした」
「分かりました」
「……燻製」
「何ですか」
「いえ、独り言です」
ニーラがまた目を閉じた。緊張が解けたような、静かな脱力だった。
その後、住民たちが一人ずつ、ユーティエの前に現れ始めた。
年配の男が、帽子を手に持ったまま立ち止まった。「……お前が守ったのか」と言った。「役に立つとは思っていなかった」と付け加えた。
素直な感謝ではなかった。辺境警察への長年の不信が、言葉を短く、ぶっきらぼうにしている。でも来たのだ、この男は。それだけのことに、ユーティエは何も言えなかった。
別の女が「子どもが無事だった」と言った。それだけ言って、去った。
また別の老人が頭を下げた。言葉はなかった。
ユーティエは手帳を開いた。これを数値にしようとした。感謝の量を、何らかのパラメータに変換しようとした。
——できなかった。
感謝という感情は《査定》の系に乗らない。数値が出ない。でも確かに、これが自分に届いている。届いているという事実だけは、はっきりと分かった。
ユーティエは手帳を一拍そのまま持って、それから閉じた。書かなかった。
ダリオが防衛後の点検から戻ってきた。外套なしで一晩過ごした割には、全く消耗した様子がない——南部辺境紛争を三年生き延えた男の体は、こういう夜に慣れているのだろう。
ダリオはユーティエの前で立ち止まり、三文字だけ言った。
「よくやった」
それだけだった。でも、その三文字が持つ重さを、ユーティエは数値ではなく別の形で受け取った。灰翼旅団——かつて魔法騎士団第三師団として南部辺境紛争を戦い抜き、戦後の政治的内紛で解体された精鋭部隊——に所属していた男が、その経験の全部を乗せて告げる「よくやった」は、簡単な言葉ではなかった。
ユーティエは頷いた。
ちょうどその時、ニーラが立ち上がろうとした。
よろけた。
長時間しゃがんだまま処置を続けていた膝が固まっていたのか、体が斜めに傾く。ユーティエが反射的に腕を出した。ニーラの肩がユーティエの前腕に当たって、止まった。
ニーラが小さく、ユーティエの腕を掴んだ。安定するまでの一瞬——指先がユーティエの腕を一度だけ、しっかりと握ってから離れた。
どちらも言葉を足さなかった。
ニーラが立ち上がり、道具袋を肩にかけ直した。ユーティエは腕を下ろした。ダリオが視線を北東に戻した。
三人の間に、言葉はなかった。
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夕刻、詰所に一人で戻ったユーティエは、荷物の奥から一枚の紙を取り出した。
七歳の時に発行された、帝国の能力登録証だった。
帝国の「能力登録令」——国民は七歳時に能力を帝国に届け出る義務があり、虚偽申告は懲役五年——によって発行された公式証書だ。紙は少し黄ばんでいた。十年以上、荷物の奥にあった。
「査定・E級」
帝国の魔法適性評価制度——S級からF級まで七段階、S級は十万人に一人——の最下位から二番目。帝国魔法学園の入学式で、この登録証を晒した時、周囲が笑った。「情報系E級」という分類は、非戦闘型の最低評価を意味していた。
ユーティエは、その文字を今夜初めて違う目で見た。
七歳が「査定」と記録した力は、今夜ゴランの幅広戦闘刀を封じた。戦闘力値91の元傭兵首領を退かせた。住民を毒から守った。
「査定・E級」という四文字と、今夜の事実は、同じ登録証の上に乗らない。
ユーティエは登録証を荷物に戻した。奥深くではなく——すぐ取り出せる位置に、置いた。外から見れば同じ動作だったかもしれない。でも意味は、別の方向を向いていた。
窓の外、シュヴァルツ樹海の暗さが深まっている。
ユーティエは手帳を開いて、今夜初めて、数値でも記録でもない一文を書いた。
「椹牙院とは何か」
答えを持たないまま、問いを書いた。それが自分にとって新しい行動だと、書いてから気づいた。今まで手帳には事実と数値しか書かなかった。問いを書いたことが、なかった。
手帳を閉じて、窓の外を見た。
樹海の暗さは動かない。ただそこにある。
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シュヴァルツ樹海の北縁、霧が最も濃い区画。
昨夜からそこにいた人影が、ようやく動いた。
ゴランでも赤鉈衆でもない。気配が静かすぎた。呼吸の音がない。存在しているだけのような佇まい。その人影は、小さな筒を取り出して、訓練された鳥の脚に括り付けた。
鳥を放つ。
羽音が一瞬だけ、霧の中に響いた。
鳥が消えていく方角——帝都フェルゲシュタット。帝国本土から東へ約八百二十キロのこの地から、首都へ向かう唯一の方向。
詰所の窓で、ユーティエは樹海の闇を見ていた。
見えないものが動き始めていることを、まだ知らない。