敗者の信念――影に立つ王
コートの上では、勝者だけが正しい。これは日本中の高校バレーボール界に伝わる“真実”だ。
しかし、伊達工業の鉄壁リベロ、国見英にとっては、何かがずっと違和感を覚えていた。
及川さんは生まれつきの天才ではなかった。でも、彼は誰よりもバレーボールに真剣だった。
青葉城西の及川がインターハイの舞台から姿を消した後、国見は一人コートに立ち、胸に一つの疑問が渦巻く。「僕たちが三年間かけて築いてきたものは、本当にただの敗北だったのか?」
一方、宮城の高校バレーボール界では小さな変化が起きていた。白鳥沢の牛島若利がセンターコートを支配し続ける中、その裏側では目に見えない流れが動き始めている。
ほとんど誰も知らない名前、野村ガッシュ。白鳥沢の三年生ベンチウォーマーで、一度も公式戦のコートに立ったことがない。しかし、外から長年見続けてきた彼には、他の誰も気づかないものが見えていた。
「天才は才能で動く。俺たちは理由で動く。」
国見とガッシュは、スポーツ推薦の不正疑惑を通じて接点を持つ。白鳥沢の推薦枠に絡む隠された“力”。強豪校が選手を使い捨ての駒として扱ってきた静かな現実。
国見は激怒する
敗者の信念――影に立つ王 - 鉄壁の外側——敗者の夏の終わりに届いたメッセージ
最後のスパイクがフロアに落ちる音を、国見はずっと覚えている。
ドン、と鈍い音。それだけだった。
歓声でも悲鳴でもない。ただ、ボールが床を打つ音。それで全部終わった。
白鳥沢学園——仙台市泉区の丘陵地帯にそびえる私立強豪校。過去10年でインターハイ出場7回。全国ベスト8を3度。宮城の高校バレー界で「越えられない壁」と言われ続けてきたチームだ。
その壁に、今年も弾かれた。
伊達工業の体育館に差し込む夕方の光が、床板に長い影を作っていた。国見英は汗で重くなったユニフォームのまま、ネットの向こう側をぼんやり見つめている。もうチームメイトの誰もいない。シューズが床にこびりついた松ヤニを踏む感覚も、遠くの教室から聞こえる吹奏楽部の音も、全部なんか遠かった。
汗と土埃と、古いゴムの匂い。
国見はその匂いが、少しだけ好きだった。でも今日は、息が詰まる感じがした。
身長170センチ、スレンダーな体。黒いショートヘアはやや癖があって、今はそこに汗がにじんでいる。深い茶色の瞳は鋭い、と周りから言われることが多い。でも今この瞬間は、その目に何も力が入っていなかった。左耳の小さな切り傷痕が夕光に浮かぶ。腕にはまだ今日の試合でついた青痣が残っていて、それが紫色に変わり始めていた。
(負けた)
頭の中で、何度もリプレイされる。第二セット終盤、19対23。仲間のスパイクが白鳥沢のブロックにはじかれる映像。はじかれて、はじかれて、また弾かれた。「鉄壁」と呼ばれる伊達工業のブロックは機能していた。でも、相手の攻撃を止めることはできなかった。最後は国見自身が打った一本が、空振りになった。
どん、という音だけが残る。
体育館の高窓から、仙台の夏の夕暮れが滑り込んでくる。橙色の光が床を染めて、国見の影を長く伸ばした。
誰かがドアを閉めた音がした。
それで完全に、一人になった。
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ロッカールームはいつも通り、むっとするほど狭かった。
六畳ほどの空間。ロッカー12台、古い木のベンチ、壁に貼られた二枚の写真。どちらも過去のインターハイ出場時のもので、日焼けして色が薄くなっている。国見は壁に背中を預けて、床にそのまま座り込んだ。膝を抱えて、ユニフォームを脱ぐ気力もない。
窓から虫の声が聞こえた。もう夏が終わりに近い音だった。
視線は自然と、その写真に向いた。
でも頭の中にあるのは、写真じゃない。
一年前の記憶だった。
この体育館で行われた練習試合。青葉城西のユニフォームを着た男が、セッターとしてコートに立っていた。
及川徹。
天才じゃない。全国レベルで見れば、スペックだけなら及ばない選手はいくらでもいた。でも、あの男のバレーは違った。サーブの精度、トスの判断、コートを読む目——全部が、積み上げた努力の跡だった。一本一本に、削った時間の重さがあった。
仙台駅東口から3分の高架下、幅8メートルのコンクリートの空間。及川が深夜まで壁打ちを続けていたという話を、国見は人づてに聞いたことがある。才能がないなら時間で埋めるしかない、と言っていたらしい。
その及川でも、白鳥沢には勝てなかった。
インターハイ県予選。2セット対3セット。及川が最後にあのコートに立った試合だ。国見はスタンドから見ていた。及川が最後にトスを上げる瞬間を、今でも覚えている。納得はしてなかったと思う。でも諦めてもいなかった。負けた後の及川の顔が、そう言っていた。
それから及川は引退して、国見の視界から消えた。
その背中を追いかけながら、国見は三年間を戦ってきた。
でも今日、自分たちも同じように負けた。
(俺たちの三年間は、本当に負けだったのか)
声にならない問いが、頭の中をぐるぐる回る。答えが出ない問いだとわかっていても、止まらなかった。
国見はスマートフォンを取り出して、及川のSNSアカウントを開いた。もう更新は止まっている。最後の投稿は3ヶ月前だ。
「才能がなくても勝てる方法は必ずある」
その一文だけが、そこにあった。
国見はその言葉を、3ヶ月間ずっと答えが出ないまま持ち続けている。本当にそうなのか。それとも、負けた自分を慰めるために信じようとしているだけなのか。わからない。
ロッカーの錆びた金具が、少し光っていた。
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外に出ると、夏の夕方の空気が体を包んだ。
アスファルトが昼間の熱をまだ吐き出していて、靴底から伝わってくる。汗のにじんだユニフォームを着替えてきたけれど、なんか体がまだ重かった。バッグのストラップを肩に引っかけて、国見は伊達工業の校門を出た。
金網フェンスの前を通り過ぎる。
普段なら、ここから体育館の練習風景が見えるはずだ。後輩たちが汗を流しているのが。でも今日は静かだった。試合のある日だから、みんな観戦に行っていたのかもしれない。フェンスの向こうは、ただの空き地みたいに静まり返っている。
国見はそこで少しだけ足を止めた。
(来年は、俺たちがいない)
それだけ考えて、また歩き出した。
仙台市宮城野区の夕暮れ。工場と住宅が混在する街並み。遠くに仙台市街のビル群のシルエットが浮かんでいる。夕焼けを背景に切り取られたその輪郭が、なんか今日は妙にくっきり見えた。電柱の影が長く伸びて、国見の影と重なった。
電線に雀が一羽とまっていた。
国見は何となくそっちを見た。雀は国見を気にする様子もなく、少しだけ羽をふくらませて、そのまま動かなかった。どこか遠くで夕方の工場の音がしている。低く、規則的な音。
チームメイトはそれぞれ別々に帰った。誰かを誘う気分でもなかったし、誰かに誘われたくもなかった。顧問の追田信也——42歳、元実業団選手、温厚な男——は後処理のために学校に残っている。試合後の書類仕事だ。追田は結果がどうであれ、そういう仕事を丁寧にこなすタイプだった。
誰かと話したいわけじゃない。
慰めてほしいわけでも、ない。
ただ、この敗北の意味を、まだ自分の中で処理できていなかった。
国見はゆっくりした足取りで歩き続けた。夕焼けが地面を赤く染めている。蝉の声が遠くから届いて、それもだんだんと小さくなっていく。
その時、スマートフォンが震えた。
ポケットから取り出す。見慣れないSNSアカウントからのメッセージ通知だった。
「白鳥沢のスポーツ推薦、おかしいと思ったことはないですか?」
国見は路上で足を止めた。
夕暮れの薄闇の中、スマートフォンの画面だけが白く光っている。差出人のアカウント名は英数字の羅列だ。プロフィール画像もない。アカウント作成日を確認すると、今日の日付になっていた。
今日。今日作られたアカウント。
国見はその文章を、もう一度読んだ。
「白鳥沢のスポーツ推薦、おかしいと思ったことはないですか?」
しばらく、立ち尽くした。
スポーツ推薦。宮城の高校バレー界でその言葉は、ごく普通に飛び交う。白鳥沢学園では年間8から10名の推薦枠があると言われていた。入学金の免除、授業料の半額減免、寮費の補助——強豪校が有望な選手を集めるための制度だ。バレー界隈にいれば、そのくらいの話は耳に入ってくる。
対して、伊達工業の推薦枠は年間2から3名程度。工業高校だから進学実績よりも就職実績が優先される。同じバレーをしていても、どの学校にいるかで持てる選択肢がまるで違う。それは国見も肌で知っていることだった。
でも「おかしい」とは、何が?
制度の話をしているのか。それとも、もっと具体的な何かがあるのか。
国見は画面を見つめた。
電柱に止まっていた雀がどこかへ飛んでいった。その羽音だけが、夕方の空気に小さく響いた。
(及川さんが戦ってきたのは、才能だけだったのか)
なんで今そんなことを考えたのかわからない。でも、そういう連想が浮かんだ。コートの上でどれだけ努力しても壁があった。でも、コートの外側でも、見えていない何かが動いていたとしたら。
「才能がなくても勝てる方法は必ずある」
さっき見た及川の言葉が頭に浮かぶ。
国見はその言葉の意味を、3ヶ月間ずっと「バレーの話」として解釈してきた。練習量、戦術、メンタル、チームワーク。コートの上の話として。でも今この瞬間、その言葉が少し違って聞こえた。
勝てる方法は必ずある。
コートの外側でも?
国見は画面をスクロールする。返信ボタンが画面の下に見えた。
送るか、送らないか。
今日の試合の疲れがまだ全身に残っている。腕の青痣が、バッグのストラップを押し返してくる。汗が乾いて体が少し冷えてきた。
この差出人が何者なのかわからない。悪意ある話かもしれない。ただの憶測かもしれない。それ以前に、引退した自分がこれを拾い上げる理由なんてあるのか。
(あるのか?)
国見は自分に聞いた。
胸の奥で、何かがじわりと熱くなった。それは悔しさとも怒りとも違う、もっと静かで、でも確かな何かだった。コートの上での戦いは今日終わった。三年間のバレーは、今日で終わった。
でも、この画面の向こうにある問いかけは、別の何かを指していた。
国見は長い間、路上に立ち続けた。夕焼けが少しずつ暗くなっていく。街灯が一本、パッと灯いた。
最後に一度だけ、深呼吸した。
そして、返信ボタンを押した。