敗者の信念――影に立つ王
コートの上では、勝者だけが正しい。これは日本中の高校バレーボール界に伝わる“真実”だ。
しかし、伊達工業の鉄壁リベロ、国見英にとっては、何かがずっと違和感を覚えていた。
及川さんは生まれつきの天才ではなかった。でも、彼は誰よりもバレーボールに真剣だった。
青葉城西の及川がインターハイの舞台から姿を消した後、国見は一人コートに立ち、胸に一つの疑問が渦巻く。「僕たちが三年間かけて築いてきたものは、本当にただの敗北だったのか?」
一方、宮城の高校バレーボール界では小さな変化が起きていた。白鳥沢の牛島若利がセンターコートを支配し続ける中、その裏側では目に見えない流れが動き始めている。
ほとんど誰も知らない名前、野村ガッシュ。白鳥沢の三年生ベンチウォーマーで、一度も公式戦のコートに立ったことがない。しかし、外から長年見続けてきた彼には、他の誰も気づかないものが見えていた。
「天才は才能で動く。俺たちは理由で動く。」
国見とガッシュは、スポーツ推薦の不正疑惑を通じて接点を持つ。白鳥沢の推薦枠に絡む隠された“力”。強豪校が選手を使い捨ての駒として扱ってきた静かな現実。
国見は激怒する
敗者の信念――影に立つ王 - 白鳥の影——怒るな、理解しろ
返信を送った夜から、三日が経った。
その間、国見英は何度もスマートフォンを開いては閉じた。見知らぬアカウントからの返信は翌朝に届いていた。短い文面だった。
「7月28日、午後3時。白鳥沢学園正門前。一人で来てください」
地図のリンクが一つ添付されていた。
(行くのか? 行かないのか?)
三日間、その問いが頭の中をぐるぐるした。相手が誰かもわからない。罠かもしれない。ただの悪ふざけかもしれない。でも、あの文面の質量が——「白鳥沢のスポーツ推薦、おかしいと思ったことはないですか?」という一文の重さが、国見を引き止めた。
そして今、国見英は地下鉄南北線の南行きの車内に揺られている。
泉中央行きの電車。仙台駅から北に向かって、車窓の景色が街から住宅地へ、住宅地から丘陵の緑へと変わっていく。七月下旬の空は底抜けに青く、光が強い。電車の中は空調が効いていたが、ドアが開くたびに外の熱気がどっと流れ込んできた。
(白鳥沢か……)
国見の深い茶色の瞳が、窓の外を流れる景色を眺める。黒いショートヘアに汗がにじんでいた。引退してから三日、練習がない体が何となく落ち着かない。腕には試合の青痣がまだ残っていて、シャツの袖の下でくすんだ紫色になっている。
泉中央駅で降りると、ホームに降り立った瞬間、熱波が全身を包んだ。コンクリートが昼の太陽を吸い込んで、足裏から熱を返してくる。駅のロータリーには何台かのタクシーが並んでいて、白い陽炎がアスファルトの上に揺れていた。駅前のコンビニ「ミヤギマート泉中央店」の自動ドアが開くたびに、冷えた空気の匂いが鼻をかすめる。
地図アプリを確認する。白鳥沢学園まで徒歩約15分。スクールバスのルートもあるらしいが、そんなものに乗れる立場ではない。
坂道を登り始めた。
丘陵地帯の住宅街を抜けると、道が急に広くなる。両脇に植え込みが整備され、遠くに煉瓦造りの校舎が見えてきた。まず目に入ったのは、広大な敷地を囲む低い石壁だ。伊達工業のフェンスとは素材が違う。石造りで、上に小さな白鳥のモチーフが彫られている。
歩を進めるたびに、全体像が見えてくる。
敷地面積が、まず違う。遠くに二棟の体育館の屋根が見える。後で知ることだが、一棟はバレー部専用——「鷲羽アリーナ」と呼ばれる施設で、コート3面と200席の観客席を持つ。伊達工業のバレー部が使うのはバスケ部と共用の第一体育館だ。コート2面分。それと比べれば、白鳥沢の施設は別の世界の話に見えた。
正門に近づくと、黒い金属製のゲートの脇に、プレートが並んでいる。全国大会出場のプレート。インターハイ出場記念の銘板。過去10年で7回のインターハイ出場。全国ベスト8が3度。一枚一枚、年度と大会名が刻まれている。
国見は足を止めた。
(これが白鳥沢か)
以前から知っていたはずの事実が、今初めて肌に刺さる感じがした。県内随一の私立強豪校。年間予算1800万円を持つスポーツ振興会が支援する。推薦枠は年間8から10名。入学金免除に授業料半額。寮費の補助。——ここにいる選手たちは、そういう環境で三年間を過ごす。
対して、伊達工業の推薦枠は年間2、3名。工業高校だから就職実績が優先される。体育館はバスケ部と共用。ロッカールームは六畳のプレハブ棟。
どちらも、宮城県高校バレー界で「常連」と呼ばれる。でも、その「常連」の中身は、こんなに違う。
時刻は午後2時58分。
正門の脇、石壁に沿って植え込みが続いている。その影から、人影が出てきた。
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大きかった。
それが第一印象だった。183センチ、国見より10センチ以上高い。白鳥沢のジャージを着ている——白地に深紅のラインが走る、見覚えのある配色。肩幅が広く、体格は明らかにミドルブロッカーのそれだ。しかし動作に無駄がない。大きな体なのに、存在感の表し方が静かで、踏み出す足が音を立てない。
顔を見て、国見はもう一度その人物を見直した。
漆黒の短髪に、深紅のメッシュが細く走っている。それ自体はさほど珍しくないが、次に気づいたのが目だった。左目が黄金色。右目が深い藍色。オッドアイ——左右の目の色が違う。常に眉をわずかにひそめていて、その表情が真剣さを外側から見ている者に対して自然に通知する。
「国見英くん、ですね」
声は静かで、低かった。質問の形をしているが、確認の口調だった。
「……そうだ」
国見は警戒心を隠さなかった。相手を測るように、真正面から見返す。
「野村岳志です。ガッシュ、と呼んでもらってかまいません」
「体格からついたあだ名か」
「そうです」
感情の上下がない答え方だった。肯定も否定も同じトーンで返ってくる。その均一さが、国見にはわずかに気味悪かった。
「メッセージを送ったのはお前か」
「はい」
「なんで俺に?」
ガッシュはその問いに即答しなかった。黄金と藍の目が国見を静かに見ていた。正門の上の優勝プレートが、午後の光を照り返している。
「[serious]話せる場所に移りましょう。ここは目立ちます」
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ジョリーパスタ仙台東店は、伊達工業から徒歩10分のファミリーレストランだ。国見にとっては見慣れた店で、部活帰りに時々立ち寄っていた。奥のボックス席——4人掛けの窓際——が二人の「作戦会議」の場所になった。ドリンクバーを一杯ずつ頼み、コップを前に向かい合う。
午後の陽光が窓ガラスを斜めに照らしていた。店内はほぼ空いていて、遠くのテーブルに主婦らしき二人組がいるだけだ。BGMは控えめで、二人の間の空気が妙に密度を持った。
「[serious]まず、白鳥沢スポーツ振興会について説明します」
ガッシュは感情を外した声で話し始めた。
白鳥沢スポーツ振興会。白鳥沢学園の父母会が母体となって12年前に発足したスポーツ支援組織だ。会員数約80名、年間運営予算は約1800万円——会費と寄付金、それからOB企業からの協賛金が主な収入源だ。表向きの活動は遠征費の補助、トレーニング機器の購入、施設の整備。それだけ見れば、よくある父母会の延長線上にある正当な団体だ。
でも実態は違う、とガッシュは言った。
「[serious]会長の三笠郁男——地元建設会社『三笠建設』の社長です——を中心とした幹部層が、推薦枠の選定に直接介入しています」
国見はコップを持ったまま、黙って聞いた。
白鳥沢の推薦制度は、年間8から10名の枠がある。入学金免除が約30万円。授業料は半額——年間にして約24万円の減免。寮費は月額2万円の補助。これだけの優遇が、有望な中学生に提示される。推薦の内定は中学3年の夏頃に非公式に決まる仕組みで、その選考過程は外部からほとんど見えない。
問題は、その「見えない過程」の部分だった。
「[serious]幹部の子弟や、振興会への寄付額が大きい家庭の子供が優先的に推薦枠に入る。逆に『不要』と判断された選手の推薦は、理由なく取り消されます」
国見の指がコップを強く握った。
「……それが、どれだけあった話なんだ」
「[serious]僕が確認できた範囲では、過去3年で少なくとも4件。そのうち最も明確なのが今年の一年生、小柴圭太くんの件です」
小柴圭太。ガッシュはその名前を出すとき、初めてわずかに間を置いた。黄金の目が、テーブルの上に落ちた。
宮城県の中学バレー界で、小柴は昨年の宮城県選抜候補に名前が挙がった選手だ。スパイクの精度と、ブロックの読み能力で注目されていた。白鳥沢への推薦も、一時は内定に近い状態にあったという。
ところが今年の春、推薦は取り消された。理由として振興会側が示したのは「実力不足の再評価」という文言だった。
「[serious]同じ枠を争っていたのが、三笠翔太くんです。会長・三笠郁男の甥にあたります。小柴くんの父親は建設現場の作業員で、振興会への寄付額は三笠家の10分の1にも満たない」
国見は口を閉じていた。
ガッシュが数字を出すたびに、それが単なる話ではなくなっていく。具体的な金額、具体的な名前、具体的な事実。感情論ではなく、構造として問題の輪郭が描かれていく。
「[serious]小柴くんは今、バレーを辞めようとしています」
その一文が、室内の空気を変えた。
国見はコップをテーブルに置いた。音が出た。
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「[angry]それのどこが推薦制度だ」
声が低くなった。腹の底から出てくる声だった。
「金を積んだ家の子供を選んで、実力のある選手を追い出して——それは制度じゃない。買収だろ。小柴は今どこにいる。今すぐ——」
「[serious]国見くん」
ガッシュの声は低く、静かだった。国見が席を立ちかけた動きを、その一声が止めた。
「[serious]怒るな。理解しろ。これが現実だ」
短い言葉だった。でも、その重さが違った。感情を削ぎ落とした言葉が、かえって真芯を打つことがある。国見は立ちかけた体を、ゆっくりと椅子に戻した。
ガッシュはコップを両手で包むように持ちながら、続けた。
「[serious]振興会の会長・三笠郁男は地域の有力者です。地元の建設業界に影響力を持ち、宮城県高体連とも関係が深い。白鳥沢の監督・鷲尾辰巳は就任15年のベテランで、全国ベスト8を3度達成した人物ですが、その結果を維持するために振興会の要求を黙認してきた側面がある。今すぐ感情で動けば、証拠を揃える前に動きを封じられます」
「[cold]……お前は、それで三年間黙ってたのか」
声は低いままだったが、今度は怒りとは別の何かが混じっていた。
ガッシュが黄金と藍の目を上げて、国見を見た。
「[serious]三年間、記録した。それだけです」
その言葉に、国見は黙った。
ガッシュがスマートフォンを取り出した。画面を操作して、テーブル越しに国見に向けた。表計算ソフトのファイルだった。縦軸に年度、横軸に選手名と推薦の可否、そして別の列に振興会への寄付額の推定値。自作の分析表だった。
数字が並んでいる。年度ごとに、誰が推薦を得て、誰が落とされたか。そして、その家庭の寄付額との相関関係。きれいに、静かに、積み上げられたデータ。
国見はその画面を見て、しばらく動かなかった。
(三年間、この男はベンチからコートを眺めながら、これを作っていたのか)
試合に一度も出られなかった三年間。公式戦出場がゼロ。それがどういう日々だったか、国見には完全には想像できない。でも、その時間に何もしていなかったわけではなかった——この画面が、そう言っていた。
まだ全部は腑に落ちなかった。でも、この男の三年間が無駄ではなかったことだけは、理解した。
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「[serious]一つ聞いていいか。振興会の手口が、ここまで巧妙になったのはなんでだ。最初からこういうやり方だったのか?」
ガッシュは少し間を置いた。窓の外に目をやった。
「[serious]8年前を調べてみてください」
「8年前?」
「[serious]ミヤギカップ——宮城県高体連が主催する招待試合です。8年前にそこで、審判による不公正判定が発覚した。特定のチームに有利な判定を繰り返した審判2名が資格停止処分を受けた事件です。ミヤギカップ不正審判事件、と呼ばれています」
国見は眉をひそめた。聞いたことはなかった。自分が中学生になる前の話だ。
「[serious]その事件の後、県高体連は審判のローテーション制を導入しました。審判を動かすという直接的な手法は封じられた。でも振興会はその後、手口を変えた。制度そのものを内側から歪める方向に。推薦制度という、合法的な枠組みの中に、不透明な裁量を埋め込む形に」
「……証拠が残りにくい」
「[serious]外部からは正当な選考に見えます。内部の基準の問題として処理される。訴えても、制度上の透明性を証明する義務は振興会にはない。8年かけて、彼らはそういう仕組みを作った」
国見はテーブルに肘をついた。コップの中の液体がわずかに揺れた。
(8年間。その間に積み上げられた構造が、今の白鳥沢を支えている)
頭の中で、インターハイ県予選の場面が浮かんだ。白鳥沢の鉄壁のブロックに、何度も弾かれた仲間のスパイク。あの壁は、単純な力の差だったのか。もちろん力の差はある。だが、その力を積み上げるための環境そのものが、こういう構造の上に成り立っていたとしたら——。
まだ答えは出ない。でも、今まで「純粋な差」だと思っていたものへの疑念が、初めて芽生えた。そのことが、国見にとっては静かな衝撃だった。怒りとは違う、もっと冷たいもの。
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二時間が経っていた。
窓の外の光が傾き始めていた。午後の日差しが橙がかって、テーブルの上に長い影を作っている。ドリンクバーのコップは二人とも空になっていた。
「[serious]小柴に直接会って話を聞きたい」
国見は言った。テーブルに向けていた目を、ガッシュに向ける。
「[serious]急ぎすぎると、小柴くんが危険にさらされます」
「どういうことだ」
「[serious]小柴くんはまだ白鳥沢に在籍しています。一年生として。振興会が推薦を取り消した後も、一般入試で入学してきた。そういう子です。でも今、彼の立場は非常に不安定だ。こちらが動いていることが振興会に伝われば、小柴くんへの圧力になる可能性がある。数日以内に、接触の機会を作ります」
国見は黙ってそれを受け取った。納得できない部分もある。でも、ガッシュのやり方には筋がある。感情ではなく、現実から逆算した手順だ。
二人は連絡先を交換して、店を出た。
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仙台市宮城野区の夕暮れは、暑さがわずかに和らいでいた。西の空が橙色に染まって、電柱の影が長く伸びている。路上を走る車の音が、遠くから届く。
並んで数歩歩いてから、国見は立ち止まった。
「[serious]なんで俺に連絡した。白鳥沢の外の人間が必要だったとしても、なんで俺なんだ」
ガッシュも立ち止まった。
少しだけ黙った。その沈黙は逡巡ではなく、言葉を選んでいる感じだった。
「[serious]白鳥沢の外の人間が必要だった、というのはその通りです。でも、君を選んだのには別の理由がある。君は及川徹を追いかけていた」
国見の口が少し開いた。
「[serious]及川さんは才能ではなく意志で動いた人間だ。どれだけ壁があっても、自分を削り続けた。そういう人間が見ていた宮城のバレー界を、君も同じ目線で見ていたんじゃないか、と思いました」
及川徹の名前が出た瞬間、国見の中で何かが動いた。胸の奥の、まだ整理できていない場所が、わずかにざわついた。
才能ではなく意志で動いた人間。
ガッシュはそれを見ていて、何も言わなかった。
「……連絡する」
それだけ言って、国見は先に歩き出した。
背後でガッシュの足音が別の方向に消えていく。国見は振り返らなかった。
信頼すべきかどうか、まだ決めかねている。白鳥沢の部員が白鳥沢の不正を告発しようとしている——そのこと自体に、どこか引っかかりがある。なぜ今なのか。本当の動機は何なのか。この男が国見に見せていないものが、まだあるかもしれない。
でも。
ガッシュが提示した数字と記録は、感情ではなく事実として国見の胸に刺さっていた。小柴圭太という名前が、頭から離れない。宮城県選抜候補に選ばれた選手が、金の論理で推薦を取り消され、バレーを辞めようとしている。その事実だけは、消えない。
スマートフォンを取り出した。連絡先の画面を開く。「野村岳志」の名前が表示された。
(証拠も人脈も権限もない。何から始めればいい)
国見はその問いを、まだ自分に答えられない。でも、問い自体は確かに生まれた。引退した高校生が、県内最大の組織的権力と対峙する方法を探さなければならないという、途方もない課題が。
夕暮れの光が国見の影を長く伸ばした。
スマートフォンをポケットにしまって、また歩き出した。