敗者の信念――影に立つ王
コートの上では、勝者だけが正しい。これは日本中の高校バレーボール界に伝わる“真実”だ。
しかし、伊達工業の鉄壁リベロ、国見英にとっては、何かがずっと違和感を覚えていた。
及川さんは生まれつきの天才ではなかった。でも、彼は誰よりもバレーボールに真剣だった。
青葉城西の及川がインターハイの舞台から姿を消した後、国見は一人コートに立ち、胸に一つの疑問が渦巻く。「僕たちが三年間かけて築いてきたものは、本当にただの敗北だったのか?」
一方、宮城の高校バレーボール界では小さな変化が起きていた。白鳥沢の牛島若利がセンターコートを支配し続ける中、その裏側では目に見えない流れが動き始めている。
ほとんど誰も知らない名前、野村ガッシュ。白鳥沢の三年生ベンチウォーマーで、一度も公式戦のコートに立ったことがない。しかし、外から長年見続けてきた彼には、他の誰も気づかないものが見えていた。
「天才は才能で動く。俺たちは理由で動く。」
国見とガッシュは、スポーツ推薦の不正疑惑を通じて接点を持つ。白鳥沢の推薦枠に絡む隠された“力”。強豪校が選手を使い捨ての駒として扱ってきた静かな現実。
国見は激怒する
敗者の信念――影に立つ王 - 小柴圭太の手——金で買われた推薦、金で潰された夢
白鳥沢学園の正門前まで来た時、ガッシュはすでに待っていた。
白地に深紅のラインが走る部活のジャージ。漆黒の短髪に細く走る深紅のメッシュ。国見が坂道を登りきると、ガッシュのオッドアイ——左が黄金色、右が深い藍色——がこちらに向いた。眉をわずかにひそめた、あの真剣な表情のままで。
外は8月の朝の空気だった。泉区の丘陵地帯には夏の熱気が早くも満ちていて、石壁の向こうから木々の影がこちら側に伸びている。
「[serious]来るのが3分遅い」
「[serious]文句は道で言え。早く」
ガッシュは頷いて、正門ではなく脇の通用口の方へ向かった。白鳥沢の制服姿のガッシュはそのまま自然に歩いていける。国見は練習着だったが、それがまた曖昧に馴染んだ——外部のスポーツ関係者か何かに見えなくもない。
敷地の中へ入ると、まず「鷲羽アリーナ」の屋根が目に入った。バレー部専用の施設で、コート3面と200席の観客席を持つ。その存在感は、伊達工業の第一体育館とは次元が違う。バスケ部と共用の、2面コートの古い体育館とは。
国見は黙ってそれを横目に見た。
ガッシュが鷲羽アリーナの裏を通り、細い舗装路を進む。建物の配置が頭に入っているのがわかる。迷いがない。百メートルほど歩くと、もう一棟の体育館が見えてきた——第二体育館だ。鷲羽アリーナと比べて明らかに古く、外壁はくすんでいる。空調の室外機は錆が浮いていた。
「[serious]正規部員が鷲羽で練習している時間帯は、練習生がここを使います。今がその時間だ」
扉を引くと、蒸した空気が流れ出てきた。
夏の熱がこもっている。空調は旧式で、効いているかどうかも怪しい。床板は所々で傷んでいて、松ヤニが古く変色している。伊達工業の体育館よりも古びていた——同じ白鳥沢の施設なのに、鷲羽アリーナとこの体育館の落差が、そのままこの組織の中の「順位」を表しているようだった。
広いフロアに、人影が一つ。
痩せた体を縮めるように動きながら、ボールを拾い続けている。拾っては転がし、また拾う。スパイクを打つわけでもない。ただ拾い続けている。その繰り返し。
目が床だけを向いていた。
国見は立ち止まった。宮城県選抜候補に選ばれた選手が、この動きをしている。何かを目指している動きじゃない。時間を過ごしている動き。あるいは、ここにいる理由を探している動き。
ガッシュが声をかけた。
「[gentle]小柴」
少年の肩が一瞬、ぴくりと固まった。顔を上げる。ガッシュを見て、硬直したまま——でも、逃げようとはしなかった。国見の顔を見て、また少し身を縮める。
小柴圭太は、18歳には見えなかった。身長はそれなりにあるが、全体的にやわらかく沈んでいる。髪の毛が少し伸びすぎていて、目の下に薄い影がある。疲弊している、というより——何かを諦めてしまった後の顔をしていた。
ガッシュが国見を簡単に紹介した。外部の人間で、一緒に話を聞きたがっている、と。小柴は国見を一度見て、また目を伏せた。
「……ガッシュさんが連れてきた人なら」
それだけ言って、ボールを床に置いた。
---
三人で壁際に座った。
国見は小柴の横顔を見た。話してくれるかどうか、まだわからない。強引に引き出すのは違う、とわかっていた。でも、黙って待つのも違う気がした。
国見はただ、小柴の方を向いた。視線をずらさずに、待った。
しばらくの沈黙があった。
蒸した空気が重く体に乗っかってくる。遠くから、鷲羽アリーナの方向で、ボールが床を打つ音が聞こえた。規則的な、力強い音。こちらと違う世界の音だった。
小柴が、ゆっくりと口を開いた。
「[sad]……中学の時、担任から言われたんです。白鳥沢から声がかかってる、って」
声は低く、かすれていた。
「[sad]宮城県選抜の候補にも入ってたし、タイミングも合った。担任は笑ってたんです。良かったな、って」
国見は黙って聞いた。
「[sad]その日の夜、父親が現場から帰ってきて……土と汗で真っ黒になったまま、でも笑って。『圭太、頑張ったな』って。声が、でかくて」
小柴の唇が、少し止まった。
「[sad]授業料が半額になる計算をして。入学金も免除で。寮費の残りをどうするか、父親と二人でノートに書いて。父親、夜勤を増やすって言ったんです。もう四十過ぎてるのに。体きつそうなのに、そんなこと言って」
声が、少し細くなった。
「[sad]9月に、書面が来ました。推薦内定の取り消し。理由は——実力不足、と」
「実力不足」という四文字を、小柴は平坦に言った。感情が剥がれ落ちた声で。その平坦さが、かえって胸に重く落ちた。
ガッシュが静かに言葉を継いだ。
「[serious]三笠建設の社長の息子が、同じ推薦枠に名前を入れてきた。三笠翔太。バレーの実績はほぼない」
国見の奥歯が、少し力んだ。
「[serious]三笠建設の年間寄付額は、小柴くんの家庭の数十倍になります。白鳥沢スポーツ振興会への」
小柴は膝の上に手を置いたまま、顔を上げなかった。
「[sad]……俺のバレーが、悪かったわけじゃなかったんですよね」
ぽつりと、そう言った。
確認ではなかった。答えを求めているわけでもなかった。ただ、声に出さずにはいられなかった、という感じで。
国見は次の言葉を探した——でも言葉より先に、手が動いた。
小柴の手を、両手で握った。
細い手だった。ボールを拾い続けていた手。夜勤の父親の顔を最後まで言葉にできなかった手。
「[serious]お前のバレーは、金で値段がつくものじゃない」
言葉は一本だけだった。うまくない。丁寧でもない。でも国見にはそれしか出なかったし、そのほかのことは何も言えなかった。
小柴の目に、涙が滲んだ。
こぼれはしなかった。こぼれないように、小柴は天井の方を一瞬向いて、それから深く息を吸った。その動作の全部が、泣かないための動作だった。
---
扉が開いたのは、その直後だった。
三人の人影が入ってくる。白鳥沢の練習着。汗で濡れているから、さっきまで鷲羽アリーナにいたのかもしれない。最初は単純に道具を取りに来ただけという感じだったが——先頭の男が国見の顔を見て、足を止めた。
背が高い。体つきがしっかりしている。三年生だろう、という雰囲気がある。口の端がわずかに下がった。
「[cold]……部外者が、うちの施設で何をしてる」
低い声だった。問い詰めるというより、確認する声。でもその確認には、すでに答えが入っていた。
ガッシュが立ち上がった。
「[serious]僕が連れてきました。外部の知人です。すぐ出ます」
先頭の男——今村という名らしい、とガッシュの後で国見は知る——は、ガッシュではなく国見の顔を見続けた。
「[cold]……伊達工業の。インターハイ県予選の動画で見た顔だ」
国見は立ち上がりながら、今村と目が合った。向こうは値踏みするような目だった。敵意というより、確認。この男がここにいる理由を算段している目。
頭の奥が熱くなる。でも国見は口を閉じた。
ガッシュが今村の前に出た。体格では今村に劣らない。でもガッシュの立ち方は攻撃的じゃなかった——ただ、間に立っていた。
今村はガッシュに向けて言った。
「[cold]お前、また余計なことしてるのか」
「また」という一言に、何かが詰まっていた。これが初めてではないという文脈が、その一言に全部入っていた。ガッシュはそれに何も言い返さなかった。
「[serious]すぐ出ます」
もう一度だけ、繰り返した。
国見は小柴の方を一瞬見た。小柴は壁際で小さくなっていた。今村の視線が一度、小柴にも向いた——それだけだった。何も言わなかった。言わなかったことの方が、言葉より重かった。
三人は体育館を出た。
扉が閉まる寸前、今村の声が聞こえた。意図して届かせている声の大きさだった。
「[cold]三笠会長に話が通るぞ」
ドンという音ではなく、扉の閉まる静かな音だけが続いた。
---
白鳥沢学園の敷地を出ると、泉区の丘陵地帯の坂道が続いた。
夏の空気は相変わらず重い。木々の間から蝉の声が絶え間なく流れてくる。二人は並んで坂を下りた。しばらく、どちらも黙っていた。
三笠会長に話が通る。
その言葉の意味を、国見はまだ半分しか理解できていなかった。でも背中に走った冷たいものは、理解より先にそこにあった。
先にガッシュが口を開いた。
「[serious]小柴くんだけじゃないです」
国見は歩きながら、ガッシュの横顔を見た。
「[serious]過去三年間で、少なくとも五名。同じ構造で推薦枠から排除された選手が。年度ごとに、名前と当時の選考経緯と、振興会への寄付金記録の相関を照らし合わせた。パターンが一致する」
五名。
国見は坂道の先を見た。住宅街の屋根が見えている。どこかで子供の声がした。普通の8月の風景だった。
「[serious]その全記録を、ノート三冊に書いています。白鳥沢の旧部室棟に保管してある」
「旧部室棟って」
「[serious]鷲羽アリーナの裏手、校舎から百メートルほど離れた場所にある平屋建て。今は倉庫として使われている。管理人からスペアキーを借りています。振興会も、あそこに記録があるとは思っていない」
国見は黙って続きを待った。
「[serious]もう一つ、話しておきます。ミヤギカップの件を知っていますか」
「聞いたことはある。8年前の不正審判の話か」
「[serious]そうです。当時の振興会は、審判を直接動かすという方法を使っていた。発覚して、審判二名が資格停止になった。その後、手口が変わった」
ガッシュは坂道の途中で一度足を止めた。仙台市街のシルエットが遠くに見える。空は青く、雲一つない夏の空だ。その景色の平和さと、ガッシュが語ることの重さが、嚙み合っていなかった。
「[serious]審判ではなく、制度の内側を使うようになった。推薦の内定は記録に残らない口頭で行う。取り消しの理由は実力不足という一行で済む。選考の過程は非公開だ。外から見れば、全て正当な手続きに見える。そう設計されている」
国見はガッシュの言葉を聞きながら、別のことを考えていた。
白鳥沢との試合のことを。弾かれたスパイクのことを。何度も、何度も、弾かれた。あの壁は、バレーの力だけでできていたのか。
及川徹が三年間戦い続けていた壁も——そう思うと、胸に何か冷たいものが落ちてくる感じがした。才能の壁だと思っていたものの一部が、金と仕組みで積み上げられた別の種類の壁だった可能性。全部がそうだとは言えない。でも、一部が、という可能性。
坂を下り切ったところで、ガッシュが足を止めた。地下鉄の駅の入り口が見えている。二人はそこで別れるつもりだった。
「[serious]今村が三笠会長に報告する可能性がある。動くなら、早い方がいい。ただ、小柴くんへの影響も考えた上で」
「[serious]わかってる」
国見は短く言った。それ以上は言わなかった。言葉がうまくまとまらない時に、国見は言わない方を選ぶ。
ガッシュは頷いて、駅の入り口に向かった。国見は逆の方向に歩き始めた。
---
その夜、国見は仙台駅東口に向かった。
高架下の自主練習スペース——駅東口から徒歩3分の、幅8メートルほどのコンクリートの空間。及川が現役時代に深夜まで練習していたと聞いた場所。今は国見が一人で来る場所になっていた。
壁に向かってスパイクを打ち始めた。
コンクリートにボールが当たる音が、高架下に反響する。駅の電車が通るたびに地面が微かに揺れた。夜の空気は昼より少しだけ涼しかったが、体を動かせばすぐに汗が出る。
打った。弾かれた。拾って、また打った。
小柴の声が蘇った。俺のバレーが、悪かったわけじゃなかったんですよね——あの声の平坦さ。諦めてしまった後の、でもどこかでまだ信じていたい声。
及川さん、と国見は声にならない言葉で思った。あんたが戦ってたのは才能だけじゃなかったのかもしれない。
才能の壁だと思っていたものに、見えない土台があった可能性。全部が嘘だとは言わない。でも一部が、金と制度で積み上げられていたなら——あの負けの何割かは、バレー以外の場所で決まっていたことになる。
それが怒りなのか悔しさなのか、国見にはまだ名前がつかなかった。でも、何かを決める感覚はあった。静かで、でも確かな何かが、胸の奥でかたまっていく感じ。
打ち続けた。
高架を電車が通った。轟音が一瞬、全ての音を塗りつぶした。
その夜、ガッシュのスマートフォンには白鳥沢寮の同室者からメッセージが届いていた——今日お前の部屋に今村が来てたぞ。
ガッシュは画面を見つめた。表情は変えなかった。スマートフォンを閉じて、窓の外の夜を見た。
ノート三冊が、旧部室棟にある。それを誰かが知ったなら——次に動くのは、向こうかもしれない。