敗者の信念――影に立つ王
コートの上では、勝者だけが正しい。これは日本中の高校バレーボール界に伝わる“真実”だ。
しかし、伊達工業の鉄壁リベロ、国見英にとっては、何かがずっと違和感を覚えていた。
及川さんは生まれつきの天才ではなかった。でも、彼は誰よりもバレーボールに真剣だった。
青葉城西の及川がインターハイの舞台から姿を消した後、国見は一人コートに立ち、胸に一つの疑問が渦巻く。「僕たちが三年間かけて築いてきたものは、本当にただの敗北だったのか?」
一方、宮城の高校バレーボール界では小さな変化が起きていた。白鳥沢の牛島若利がセンターコートを支配し続ける中、その裏側では目に見えない流れが動き始めている。
ほとんど誰も知らない名前、野村ガッシュ。白鳥沢の三年生ベンチウォーマーで、一度も公式戦のコートに立ったことがない。しかし、外から長年見続けてきた彼には、他の誰も気づかないものが見えていた。
「天才は才能で動く。俺たちは理由で動く。」
国見とガッシュは、スポーツ推薦の不正疑惑を通じて接点を持つ。白鳥沢の推薦枠に絡む隠された“力”。強豪校が選手を使い捨ての駒として扱ってきた静かな現実。
国見は激怒する
敗者の信念――影に立つ王 - 崩落——拳の行き場がない夏
追田顧問から「終わりにしろ」と言われた夜から、三日が経っていた。
国見英は体育館の端、壁際に立って後輩たちの練習を眺めていた。スパイクを打つ音、シューズがフロアを蹴る音、コーチが指示を出す声。全部が同じように続いている。何も変わっていない。あの電話の前と、後で、何ひとつ変わっていない——そのことが、じわじわと腹の奥に刺さった。
8月の中旬。夏の盛りはまだ終わらない。
練習が終わりに近づいた頃、後輩たちが一人ずつ体育館を出ていった。国見はボールを拾い始めた。引退した身ではあるが、後輩の練習の後片付けを手伝うのはずっと続けている習慣だった。ボールカゴに一つずつ入れながら、頭の中はずっと別の場所にあった。
ガッシュから連絡はまだ来ていない。「次の手段を考えている」と三日前に言ったきり、静かだ。
カゴにボールを入れていると、体育館の扉が再び開いた。
金田一勇太郎だった。
2年生。来年のレギュラー候補と呼ばれている後輩だ。身長はまだ伸びている途中で、手足がすこし長すぎる。プレーは荒いが、読みが早い。国見が3年間コートで見続けてきた中で、何年かすれば本物になると思っていた数少ない選手の一人だった。
その金田一が、国見に背中を向けたまま体育館の中に戻ってきた。扉の前で立ち止まったまま、動かない。
国見はボールを持ったまま、様子を見た。
長い沈黙だった。10秒か、20秒か。体育館の外で蝉の声が続いている。金田一の背中が、緊張で固まっているのがわかった。
「[sad]……先輩」
声が震えていた。最初の一言から、もう震えていた。
国見はボールをカゴに戻した。
「[serious]何だ」
「[sad]白鳥沢から、うちの顧問の追田先生に連絡が入ったって……聞きました」
国見は何も言わなかった。
「[crying]来年の、推薦の協力関係を……見直すって。先輩が動き続けるなら、って」
金田一がゆっくりと振り返った。目が赤かった。今にも泣き出しそうというより、もう泣いている途中の顔だった。唇が一度開きかけて、また閉じた。喉の奥で何かが詰まっているみたいに、言葉が出てこない様子だった。
「[crying]俺、バレーで大学行きたくて……ずっと練習してきて。来年、白鳥沢との練習試合があって、そこで見せればって……顧問にも言われてたし……」
声が途切れた。
泣いていた。声を抑えようとしながら、でも抑えきれていない。16、17歳の少年が、ここ数日ずっと一人で抱えていたものが、滲み出るように出てきた。
国見は何か言おうとした。反論の言葉を、説明の言葉を、謝罪の言葉を——何かを探した。でも全部が喉のところで止まった。
金田一の涙を前にすると、「正しいことをしている」という言葉が、砂のように崩れた。正しい。そうかもしれない。でも正しいことをした結果が、目の前のこの後輩の3年間を人質にしている。3年間、毎日練習してきた少年の夢が、国見の動きによって揺れている。
それは、誰のせいだ。
三笠郁男のせいだ——そう言うのは簡単だった。でも今この瞬間、金田一の前に立っている国見には、その言葉を声に出す資格がある気がしなかった。自分が動かなければ、少なくともこの後輩は今日ここで泣いていなかった。
「[sad]……俺のせいで、ごめん」
金田一は首を横に振った。首を振りながらも、涙は止まらなかった。
「先輩が悪いとは思ってない。でも、でも——」
最後まで言えなかった。金田一は口を手で押さえて、扉の方を向いた。そのまま、今度こそ体育館を出ていった。
扉が閉まる音がした。
静かだった。
国見は床に視線を落としたまま、しばらくそのままでいた。ボールが一つ、転がっていた。拾いに行く気になれなかった。壁に背中を預けて、そのまま床に崩れるように座り込んだ。フロアのひんやりとした感触が、夏の熱を帯びた体に当たった。
金田一の泣き顔が、瞼の裏に残った。
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その夜、スマートフォンが鳴った。
ガッシュからだった。
メッセージの冒頭を見た瞬間、国見は画面を持つ手を止めた。
「寮に戻ったら、部屋が荒らされていた」
読み続けた。
引き出しも棚もすべて開けられていた。3年間かけて作成した推薦選考記録のノート3冊、選考議事録のコピー、被害選手の証言メモ、表計算データを印刷した紙束——全部が消えていた。侵入の痕跡は残っており、ガッシュは寮監に報告しようとしたが、「荷物の整理中に紛失したのでは」と一方的に処理を打ち切られた。ロッカーには紙が一枚貼られていた——「裏切り者」と、マジックで書かれた文字で。夕食時、食堂でガッシュの隣に誰も座らなかった。翌朝の練習は、体調不良者は参加禁止、という建前でガッシュだけが外された。
国見はメッセージを最後まで読んで、スマートフォンを床に置いた。
鷲尾アリーナから戻った時の今村の声が蘇った。「三笠会長に話が通るぞ」——あの言葉は脅しではなかった。予告だった。そして三日後の今日、その予告は完全に実行された。証拠を消しただけじゃない。告発者の居場所を、組織の内側から崩している。
ガッシュは今、白鳥沢の寮の中で、完全に一人だ。
3年間、あの旧部室棟でノートを埋め続けた男が、今日の夕食で誰にも隣に座ってもらえなかった。
国見は天井を見上げた。自室の蛍光灯が、じっと光っている。
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翌朝。
国見は小柴圭太に電話をかけた。
コールが続く。繋がらない。5回鳴って、切れる。もう一度かけた。同じだった。LINEのメッセージを送った。「小柴、連絡をくれ」と一行だけ書いた。既読がつかなかった。
午前中、国見は仙台駅近くのコンビニでペットボトルを買い、公園のベンチで時間を潰した。スマートフォンを見続けた。既読はつかなかった。
昼を過ぎた頃、ガッシュからメッセージが届いた。
「小柴くんが退部届を出した。昨夜のうちに。父親の仕事に圧力がかかったらしい。三笠建設の下請けに父親の会社が入っている。仕事を干すと匂わせた、という話が出ている」
国見はその文面を、3回読んだ。
父親。
バレーと無関係な、建設現場で夜勤を重ねている父親の仕事を、人質にした。小柴圭太の推薦枠を金で奪った。その事実を暴こうとした息子を黙らせるために、父親の生活基盤を脅かした。法律に触れるかどうかも、確認できない。証拠も残らない。ただ「仕事を干す」と誰かが誰かに言っただけで、一人の少年は黙った。
建設現場から黒く汚れて帰ってきた父が笑って「頑張ったな」と言った、という小柴の声が蘇った。あの父親が、今どんな顔をしているかを考えると——国見の思考が、途中で止まった。
怒りが来ると思っていた。こぼれるほどの怒りが。
でも来なかった。
来るはずの怒りが、どこかで詰まったまま、体の中に留まっている。拳を握っても、何も変わらない感覚だけがある。スマートフォンを握りしめたまま、返信の文字を打てなかった。
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午後、国見は電車に乗った。
行き先を特に決めたわけじゃなかった。気づいたら泉中央の方向に向かっていた。白鳥沢学園の近く。ガッシュが今も閉じ込められている場所の近く。理由は自分でもうまく説明できなかった。
丘陵地帯の住宅街を抜けた先に、小さな公園があった。遊具は古く、砂場はほとんど乾いている。夏の午後、子どもたちは出てきていない。ベンチが一つ、木陰の端にあった。
国見はそこに座り込んだ。
蝉の声が、どこからでもなく降り注いでいた。一匹ではなく、何十匹かが重なって鳴いている。頭の中の思考を全部上書きするように、絶え間なく続く。
スマートフォンのSNSアプリを開いた。なぜ開いたのか、自分でもわからない。検索欄に名前を打ち込んでいた。
及川徹。
アカウントが出てきた。アイコンは青葉城西のジャージ姿の後ろ姿。フォロワーは引退後も千人以上いる。最後の投稿は1年以上前だった。
「才能がなくても勝てる方法は必ずある」
それだけの一文が、画面の中にあった。
国見は長い時間、その文字を見続けた。
才能がなくても勝てる。あんたはそう言って、県内トップのセッターになった。積み上げた。折れながら、削られながら、それでも積み上げた。その姿を、国見は3年間遠くから見続けた。及川の背中を見て、自分も戦えると思った。コートの外の闘いでも、同じだと思っていた——積み上げれば、いつか届くと。
でも今は、積み上げたものが消えた。
証拠が消えた。ガッシュが孤立させられた。小柴は沈黙させられ、その父親の仕事は脅かされた。金田一は泣いた。追田顧問は「終わりにしろ」と言った。ロッカールームで会話が止まった——全部、自分が動いたせいで起きたことだ。
その考えが頭から離れない。
国見は唇だけを動かした。声には出ない。声を出すことができなかった。
及川さん、あんたはどうやってこの壁に立ち向かってたんだ。
返事はない。蝉の声だけが続く。
伊達工業の3年間が、断片的によぎった。及川の試合を映像で見た夜。練習でうまくいかなくて一人で壁打ちをした夜。チームが負けた試合の後で、悔しいのに言葉にならなくて、黙ったまま体育館を出た夜。あの頃も、同じだった——何かを変えたくて、でも変え方がわからなくて、ただ打ち続けることしかできなかった。
今と、あの頃と——何が変わったのか。
拳が、ベンチの座面を叩いた。
大きな音じゃなかった。小さな、くぐもった音だった。誰にも届かない。蝉の声に飲み込まれる。もう一度叩いた。また小さな音がして、消えた。
目の奥が熱くなった。
泣くつもりはなかった。泣く理由が、まだわからない——いや、わかりすぎていて、どこから泣けばいいのかがわからない。金田一のためか。小柴のためか。ガッシュのためか。自分の無力さのためか。それとも及川の一文に、答えを期待してしまった自分のためか。
堪えようとした。うまく堪えられなかった。
蝉の声が続いた。木陰の風が、一度だけ吹いた。それだけだった。
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日が傾き始めた頃、スマートフォンが振動した。
ガッシュからだった。
本文は短かった。
「寮の部屋にあった資料は全部持っていかれた。だが会計帳簿の写しは別の場所にある。最初からそこにしか置いていなかった。まだ終わっていない」
国見は画面を見つめた。
旧部室棟——3話の帰路でガッシュが話した場所が蘇った。鷲羽アリーナの裏手、校舎から100メートル離れた平屋建ての倉庫。管理人から借りたスペアキー。古い練習用具に紛れたノート。ガッシュはあの場所のことを、この3日間一度も連絡に書いてこなかった。寮の部屋に証拠があると思わせたまま——最も重要なものだけを、最初から別の場所に分けていた。
相手に読まれていなかった一手がある。
国見はしばらく、スマートフォンを持ったまま動かなかった。
どん底の重さは、まだあった。金田一の涙も、小柴の沈黙も、ガッシュのロッカーに貼られた紙も——何ひとつ解決していない。「まだ終わっていない」という言葉一つで、何かが変わるわけじゃない。
でも。
完全に塞がれていたと思っていた場所に、細い隙間が一本、開いた。
国見は画面に向かって、短く返信した。
「[serious]それ、どこだ」
送信した。
蝉の声はまだ止まない。木陰の中で、夕方の光が地面を斜めに照らしている。国見はベンチから立ち上がった。体の節々が少し重かった。でも拳は、さっきとは違う理由で握りしめられていた。
旧部室棟。スペアキー。会計帳簿の写し。
ガッシュが白鳥沢の内側で行動不能になりつつある中で、それをどうやって取り出すか。次の問いが、頭の中で形を持ち始めた。