敗者の信念――影に立つ王
コートの上では、勝者だけが正しい。これは日本中の高校バレーボール界に伝わる“真実”だ。
しかし、伊達工業の鉄壁リベロ、国見英にとっては、何かがずっと違和感を覚えていた。
及川さんは生まれつきの天才ではなかった。でも、彼は誰よりもバレーボールに真剣だった。
青葉城西の及川がインターハイの舞台から姿を消した後、国見は一人コートに立ち、胸に一つの疑問が渦巻く。「僕たちが三年間かけて築いてきたものは、本当にただの敗北だったのか?」
一方、宮城の高校バレーボール界では小さな変化が起きていた。白鳥沢の牛島若利がセンターコートを支配し続ける中、その裏側では目に見えない流れが動き始めている。
ほとんど誰も知らない名前、野村ガッシュ。白鳥沢の三年生ベンチウォーマーで、一度も公式戦のコートに立ったことがない。しかし、外から長年見続けてきた彼には、他の誰も気づかないものが見えていた。
「天才は才能で動く。俺たちは理由で動く。」
国見とガッシュは、スポーツ推薦の不正疑惑を通じて接点を持つ。白鳥沢の推薦枠に絡む隠された“力”。強豪校が選手を使い捨ての駒として扱ってきた静かな現実。
国見は激怒する
敗者の信念――影に立つ王 - 帳簿の名前——勝てない人間の言葉に、何の価値があるというんだ
鷲羽アリーナの裏手、ちょうど百メートルほど離れた場所に、その建物はあった。
築三十五年の平屋建て。壁のモルタルはひび割れ、窓枠の塗料は剥げて木が覗いている。かつてはバレー部の部室として使われていたが、今は倉庫として扱われているらしく、表には「関係者以外立入禁止」の古い看板が立っていた。
八月の真昼の陽光が照りつけている。アスファルトから熱が立ち上り、遠くで蝉の声が途切れることなく続いていた。国見英は汗を手の甲で拭いながら、ガッシュの背中を見ていた。
ガッシュ野村は、鍵を取り出した。管理人から借りたスペアキーだと言っていた。ごく普通の鍵だった。三年間、この男がどれほどの準備をしてきたか——その鍵一本が、その積み重ねを静かに証明していた。
「[serious]入ります」
錠が外れる音が、静かな裏庭に響いた。
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中は薄暗かった。窓から差し込む光が、埃を漂わせながら斜めに伸びている。古い練習用具——ボールかごの残骸、破れたサポーター、スパイクの靴底——が壁際に積み上がっていた。棚には過去三十年分の大会パンフレットがぎっしり並び、背表紙の印刷が色あせている。
国見は一歩入って、止まった。
奥から、かつて選手たちが青春を過ごした場所の匂いがした。汗と、ゴムと、微かに残る汗臭い熱気の記憶。今はもう、使われていない場所の匂いだった。
ガッシュは奥の棚に向かい、迷いなく動いた。いちばん上の段、大会パンフレットの列の後ろに手を差し込む。ビニール袋が出てきた。几帳面に二重に包まれた、A4用紙の束だった。
「[serious]これです」
テーブルの代わりに古いロッカーの上に広げた。
国見は近づいた。
最初に目に入ったのは、数字の羅列だった。エクセルで作成して印刷したらしく、縦に年度が並び、横に項目が並んでいる。「振興会寄付金収支」「推薦選考結果」「選考対象者リスト」「採用者氏名」「寄付者氏名」——その列が、七年分、縦に連なっていた。
「[serious]これが、元OBから入手したものです。ミヤギカップ事件——八年前に宮城県高体連主催の招待試合で不正審判が発覚した件——の後、振興会を去った部員がいました。振興会の内部に疑問を持ったまま離れた人間です。その人が保管していた会計帳簿のコピーを、半年かけて信頼関係を築いた上で受け取りました」
ガッシュは指で数字をなぞりながら続けた。声は低く、淡々としていた。感情を排しているというより、七年分の怒りを数字の中に封じ込めているような話し方だった。
「[serious]この年度を見てください。推薦選考が行われる前年に、振興会への寄付金が特定の家庭から突出して増えています。そして翌年度の推薦選考結果——採用者の名前を見てください。寄付上位の家庭の子弟が、並んでいます」
国見は紙束を手に取った。
視線が数字の上を動く。ガッシュの言ったとおりだった。ある年度、「三笠建設」の項目の寄付額が前年比で三百万円増加していた。その翌年度の採用者リストに、見知らぬ名前が並んでいる。小柴圭太が推薦取り消しを受けたのと同じ年度だ。
そして帳簿の末尾、承認欄。
「三笠郁男」。
判押しとともに、七年連続で。同じ名前が、同じ欄に、繰り返し刻まれていた。
国見は紙から目が離せなかった。
怒鳴りたいという衝動が一瞬浮かんで、沈んだ。この数字は感情じゃない。推測じゃない。積み上げた記録だ。金の流れが、制度の歪みを証明している——それだけの話だった。
「[serious]最初から、ここだけは寮に置かなかった」
ガッシュが静かに言った。
「[serious]三年間、いちばん重要なものだけは別の場所に。それだけは崩さなかった」
国見はその言葉をすぐには返せなかった。三年間。公式戦に一度も出られないまま、この倉庫に通い続けた人間の話だった。
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帳簿をビニール袋に戻して、二人は倉庫を出た。
白鳥沢学園の敷地内、正午を過ぎた夏の空は高く、鷲羽アリーナの外壁が陽光を白く反射している。バレーコート側からは、選手の声と、スパイクの音が間断なく聞こえてくる。引退した国見英には、もうそのコートに戻る資格がなかった。
アリーナの入口に向かう通路で、ガッシュが足を緩めた。
「[serious]今日の午後、三笠会長が来ます。振興会の定期視察です。スケジュールは把握していました」
国見は前を向いたまま聞いた。
「[serious]今がその機会だと思っていました」
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三笠郁男は、アリーナ一階のロビーに立っていた。
五十二歳。銀髪と白髪が混ざった短髪が整髪されている。グレーのスーツに、白鳥沢OBのバッジが胸元に光っていた。背は高くない——国見より少し上、百七十五センチほど——だが、その立ち方が違った。重心が低く、余裕があった。権力に慣れた人間の、空気の使い方だった。
ロビーに飾られた優勝トロフィーのひとつを眺めていた三笠が、二人の足音に振り向いた。
冷たい灰色の瞳が、一瞬だけ細くなった。
情報は入っていた、という目だった。ここに来ることも、今日この敷地にいることも、全部把握した上で待っていた——そういう目だった。
しかし口元には、薄く笑みが浮かんでいた。
「[cold]君が噂の、伊達工業の国見くんか。随分と熱心だね」
声は穏やかだった。怒りも圧力もなかった。ただ穏やかで、丁寧で——それが逆に重かった。感情を使わないで人を圧迫できる人間の、声の使い方だった。
国見は三笠の正面に立った。三笠の視線が、国見の顔の上を軽く流れる——品定めというより、確認だった。この程度か、という確認。
「[serious]聞きたいことがあります。白鳥沢の推薦選考について」
三笠の笑顔が、崩れなかった。
「[cold]ああ、そういう話か」
一歩、三笠が近づいた。威圧ではない。ただ近づいた。それだけで、ロビーの空気が変わった。
「[cold]国見くん。君は熱心で、正義感も強いんだろう。それは悪いことじゃない」
口元の笑みが、少しだけ深くなった。
「[cold]でもね——勝てないチームの人間が何を言っても、誰も聞かないんだよ。それが現実だ」
それだけだった。
感情はなかった。怒鳴りもしなかった。嘲笑でもなかった。事実を述べるような口調で、三笠郁男はその一言を言った。
踵を返し、アリーナの奥へ消えた。足音が遠ざかっていく。
国見は動かなかった。
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通路に夏の光が差し込んでいた。
遠くからスパイクの音が聞こえる。誰かが打ち、床が鳴り、短い指示の声が響く。コートの中では今日もバレーボールが続いている。勝てるチームの人間たちが、当然のように、その場所に立ち続けている。
国見は動かないまま、三笠が消えた先を見ていた。
三笠の言葉が正しいとは思わなかった。でも三笠がその言葉を、何の感情もなく、当然の事実として告げた——その確信が、怒りよりも深いところに刺さっていた。
(勝てないチームの人間が何を言っても)
頭の中で、複数の声が重なった。
及川徹が才能の壁に頭を打ちつけながら、それでも最後まで引退を認めなかった背中。ガッシュが三年間ベンチで試合を分析し続けた、この倉庫の静けさ。小柴が震える声で「俺のバレーが、悪かったわけじゃなかったんですよね」と問うた夜。
それら全部が、三笠の「誰も聞かない」という断定への、無言の反証として浮かんできた。
勝てなかった。でも戦った。諦めなかった。それは嘘じゃない。
国見はゆっくりと息を吐いた。
「[serious]グランディ・21でやる」
低い声だった。怒鳴りではなかった。震えてもいなかった。ただ、揺れない確かさだけがあった。
「[serious]四日後の夏季強化合同練習会——県内の監督、コーチ、父母会関係者、県高体連役員が全員集まる場で、帳簿の写しと証言を直接渡す」
ガッシュが即座に否定しなかった。オッドアイが、静かに国見の顔を見ていた。左の黄金色が、右の藍色が、その言葉の重さを計るように、しばらくそこに向けられていた。
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ジョリーパスタ仙台東店の、奥のボックス席。
伊達工業から徒歩十分の、国見が部活帰りに何度も立ち寄った店だ。ドリンクバーのコップが二つ、テーブルに置かれている。午後三時過ぎで客は少なく、隣のテーブルは空いていた。
ガッシュが確認した。声は低く、整理された話し方だった。
「[serious]会計帳簿の写しは手元にある。それとは別に、被害を受けた選手たちの証言——小柴くんを含む、僕が旧部室棟で直接録音した音声データが、クラウドストレージに保管してあります。複数のバックアップを取っている」
「[serious]当日、県高体連の理事に直接渡す。それが計画の軸だ」
「[serious]問題は二つあります」
ガッシュは眉をしかめたまま、テーブルの上で指を一本立てた。
「[serious]第一に、告発後、三笠会長が私文書の不正入手として逆に法的手段を取る可能性がある。帳簿のコピーがどのように入手されたかを問われた場合、元OBへの影響が出る」
指が二本になった。
「[serious]第二に——これが最大の問題ですが、帳簿と音声データだけでは状況証拠に留まります。正式な調査委員会を動かすには、被害当事者の証言が必要だ。つまり小柴くんが公の場に立てるかどうかが、告発の成否を左右する」
国見はドリンクバーのコップを手で包みながら、黙って聞いていた。
小柴圭太。白鳥沢を退部し、父親の仕事への圧力で沈黙を強いられている一年生。宮城県選抜候補に選ばれた実力者が、今は電話にも出ないかもしれない場所にいる。
「[serious]小柴に連絡する」
ガッシュが少し目を細めた。
「[serious]繋がるかどうかも分かりません」
「[serious]知ってる。でも試みなければ何も変わらない」
沈黙が流れた。店内にBGMが低く流れている。客の話し声が遠くに聞こえる。それだけだった。
しばらくして、国見がガッシュに向き直った。
「[serious]お前、怖くないのか」
ガッシュはすぐには答えなかった。黄金色と藍色の瞳がテーブルの上に落ちて、しばらくそこにあった。コップの水滴が、ゆっくり伝って落ちた。
「[serious]怖い」
短く、言った。
「[serious]ただ、三年間ベンチから見続けた景色があります。コートに立てないまま見た、何百本ものスパイクの軌道がある。それを嘘にしたくない——それだけです」
国見は少しの間、ガッシュの顔を見ていた。
それから、テーブルの上に拳を出した。ガッシュがゆっくりと自分の拳を当てた。軽くではなかった。確かめるように、ゆっくりと。
言葉より重い、それだけの時間だった。
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夜、仙台駅東口の高架下。
駅から徒歩三分、コンクリートの壁が続く狭い空間。幅八メートル、長さ二十メートルほど。及川徹が現役時代に深夜まで練習していた場所だと、ガッシュから聞いていた。今は国見英が、一人でここに来る。
ボールが壁に当たる音が、高架下に反響した。
打つ。弾かれる。拾う。また打つ。
三笠の声が、頭の中で蘇った。
(勝てないチームの人間が何を言っても、誰も聞かないんだよ)
打ち返した。壁が硬く音を返した。
弾かれる。また拾う。また打つ。
打つたびに、頭の中が少しずつ静かになっていく。考えることをやめているのではなかった。余計なものが削ぎ落ちて、必要なものだけが残っていく、そういう静けさだった。
スマートフォンが振動した。
ポケットから取り出す。画面を見た。
小柴圭太からだった。
メッセージは短かった。
——父に相談します。
たった八文字。
国見はその文字を、しばらく見つめた。何かが胸の奥で動いた。泣きそうというのとは少し違った。決壊、というほうが近かった——何かが、静かに、崩れる感覚。
父親に仕事への圧力をかけられながら、沈黙を強いられた少年が、それでも「相談します」と打った。
国見はスマートフォンをポケットに戻した。
ボールを拾い直した。壁に向かって構える。
あと四日ある。
次にコートに立つのは、宮城県総合運動公園グランディ・21——利府の大アリーナだ。スパイカーとしてではない。それでも、立つのだ。