敗者の信念――影に立つ王
コートの上では、勝者だけが正しい。これは日本中の高校バレーボール界に伝わる“真実”だ。
しかし、伊達工業の鉄壁リベロ、国見英にとっては、何かがずっと違和感を覚えていた。
及川さんは生まれつきの天才ではなかった。でも、彼は誰よりもバレーボールに真剣だった。
青葉城西の及川がインターハイの舞台から姿を消した後、国見は一人コートに立ち、胸に一つの疑問が渦巻く。「僕たちが三年間かけて築いてきたものは、本当にただの敗北だったのか?」
一方、宮城の高校バレーボール界では小さな変化が起きていた。白鳥沢の牛島若利がセンターコートを支配し続ける中、その裏側では目に見えない流れが動き始めている。
ほとんど誰も知らない名前、野村ガッシュ。白鳥沢の三年生ベンチウォーマーで、一度も公式戦のコートに立ったことがない。しかし、外から長年見続けてきた彼には、他の誰も気づかないものが見えていた。
「天才は才能で動く。俺たちは理由で動く。」
国見とガッシュは、スポーツ推薦の不正疑惑を通じて接点を持つ。白鳥沢の推薦枠に絡む隠された“力”。強豪校が選手を使い捨ての駒として扱ってきた静かな現実。
国見は激怒する
敗者の信念――影に立つ王 - 鷲の翼の下——静かな圧力と、崩れていく味方
県スポーツ会館の廊下は、静かだった。
夏の外の熱気とは切り離されたように、空調の冷えた空気が流れている。床はリノリウムで、蛍光灯の光が白く反射している。国見英は壁に背中を預けて、天井を仰いだ。
今日の日付は8月7日。ガッシュと二人でここに来たのは午前10時過ぎだった。
三日前の夜から、国見はこの日のことを考えていた。ガッシュのノート三冊、小柴の声、今村の「三笠会長に話が通る」という言葉。全部をひとつにまとめて、ここ——仙台市青葉区にある宮城県高等学校体育連盟の事務局に持ってくれば、何かが動くと思っていた。
甘かった。
窓口に座った若い職員は、ガッシュが差し出したノートのコピーを受け取りさえしなかった。
「[cold]内部の選考基準に関するお申し立ては、まず学校側の窓口を経由した正式な書面が必要でして」
声は穏やかで、事務的だった。感情がなかった。国見が「じゃあ証拠として受理するかどうかだけ教えてくれ」と言いかけるのを、ガッシュが目線だけで制した。二人で別の質問をした。職員は「上長に確認します」と言って奥に消え、五分以上経ってから別の職員が出てきた。
「[cold]本日は担当者が不在で。改めてご予約の上、お越しいただければ」
それだけだった。
廊下に出た。ガッシュは事務局の窓口の方を向いたまま、動かなかった。国見は壁に背中をつけて、腕を組んだ。左の耳の切り傷が、冷えた空気の中でかすかにうずいた気がした。
「[serious]奥に引っ込む直前、あの職員が内線を使っていた」
ガッシュが静かに言った。
「[serious]誰かと短く話した後で、態度が変わった」
国見は何も言わなかった。言う必要がなかった。
——事務局長の黒沢。8年前のミヤギカップ不正審判事件を、最小限の処分で終わらせた男。今もあの席にいる。
ガッシュはそこまで説明しなかった。でも国見には伝わった。こういう男が事務局の奥にいる限り、この窓口は最初から閉じている。書面が必要です、担当者が不在です——全部、正当な手続きの言葉で作られた壁だ。
「[serious]行こう」
二人は廊下を歩いた。エレベーターを待つ間、誰も口を開かなかった。
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帰路に入ったところで、ガッシュが言った。
「[serious]利府方面に体育館がある。今日、白鳥沢が練習試合をしている」
国見はガッシュの横顔を見た。
「[serious]事前に把握していたんか」
「[serious]僕は白鳥沢の部員です。スケジュールくらい知っている」
バスに乗り、利府方面に向かった。車窓から仙台市街が遠ざかっていく。住宅街を抜け、緑が増えてくる。8月の空は高く、青い。その青さが今日の事務局の蛍光灯の白さと、頭の中で妙に混ざった。
体育館は公共施設だった。受付で観覧の手続きをして、二階席に上がる。
コートが見えた瞬間、国見の足が止まった。
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牛島若利は、国見が映像で見てきた存在とは別のものだった。
198センチの体が、助走からジャンプに移る動作の中で、重力を無視しているように見えた。深緑と黒のツートーンのロングヘアがまとめられ、左耳の星形ピアスが光の中で一瞬光る。空中で左腕が振り抜かれる——その瞬間。
ドン、という音ではなかった。
ズン、という衝撃音だった。ボールが対戦校のブロックごとフロアに叩きつけられる。受け側の選手が弾き飛ばされ、体勢を崩す。それが一本目だった。
二本目、三本目と続く。コースが変わるたびに、対戦校の守備がそのたびに別の場所で崩れる。防御が機能していないわけじゃない。どこにでも立っていても、無効化される。
牛島の表情は、ずっと変わらなかった。
感情がないわけじゃない。バレーに対する集中だけが、ダークグリーンの瞳の奥にある。怒りも喜びも高揚もなく、ただ打ち続けている。それが逆に恐ろしかった。全力が、全力であることを意識していない。
国見は手すりを両手で握ったまま、しばらく何も言えなかった。
かつて及川の試合を見て感じたものを思い出した——あれは積み上げた努力の形だった。才能に対して何度も削られながら、それでも磨き続けた人間の形。でも今目の前にあるのは違う。才能そのものが、生まれたまま完成形として存在している。美しい。反則的に、美しい。
次の瞬間、その思考が反転した。
牛島が強ければ強いほど、白鳥沢は勝つ。白鳥沢が勝ち続ければ、三笠郁男の腐敗はその勝利の内側に隠れ続ける。推薦枠の不正も、小柴の夢を奪ったことも、全部が「強いチームが勝った」という一行で上書きされる。
あの左腕が打つたびに、不正が守られている。
美しいものが、汚いものを守っている。
その構造の理不尽さが、怒りとも悲しみともつかない感情として腹の底から湧いてきた。国見は手すりを握る指に力を込めた。手のひらが冷えた金属に白く押しつけられる。
ガッシュは隣で黙って試合を見ていた。
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練習試合が終わり、二人は観客席を出た。
一階のロビーに降りたところで、声をかけられた。
「[cold]国見英くん、ですね」
振り返った。
白鳥沢のジャージを着た男が立っていた。40代後半、眼鏡をかけている。体格は大きくないが、姿勢がいい。温和な表情をしている——笑顔に近い顔で、国見を見ている。
その笑顔の下に何があるかを、国見は一秒で感じ取った。
「[cold]鶴岡と申します。白鳥沢でコーチをしております」
声は低く、穏やかだった。穏やかな声で刃を包んでいる、という感じがした。
「[cold]最近、うちの部員や練習生に接触されているとの報告を受けていまして」
国見は何も言わなかった。
「[cold]余計なことは、やめていただいた方がよろしいかと思います」
それだけだった。
説明も、脅しの詳細も、何もない。温和な表情が崩れることもなかった。鶴岡はそれだけを言って、ロビーの奥へ消えた。
その短さが逆に重かった。怒鳴られる方が、まだ対処できる。この男は詳細を言わなかった——なぜなら、全部わかっているからだ。県高体連に来たことも、小柴に会ったことも。今日ここにいることも。
ガッシュが鶴岡の消えた方向を見ながら、静かに言った。
「[serious]三笠会長に今日の動きも全部上がった」
その声に、国見は初めて微かなものを感じた。疲弊、とまではいかない。でも、いつもより重い何か。
国見は鶴岡が消えた廊下を見た。あの男が自分の意志で動いているのか、振興会に従わざるを得ない立場なのか、判断できなかった。どちらにせよ、今日この瞬間から相手は国見たちの動きを公然と封じにかかっている。
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その夜、スマートフォンが鳴った。
画面に「追田先生」と表示されていた。
伊達工業バレー部の顧問、追田信也。42歳。温厚で、勝負所の采配に定評のある、国見が三年間信頼してきた人間だ。
「[serious]白鳥沢から、学校宛てに書類が届いた」
電話越しの追田の声は、穏やかだったが、困惑が滲んでいた。
「[serious]部外者による部員への不当な接触と、振興会への根拠のない誹謗中傷行為があった——という内容だ。学校側に適切な指導を、という書き方になっている」
国見は自室の床に座った状態で、電話を持ったまま黙っていた。
「[serious]国見。何をしているか、聞かせてくれ」
言いかけた。証拠がある、不正がある、小柴という一年生の話が——
「[serious]お前の三年間は立派だった」
追田が言葉を続けた。
「[serious]だがそれは、今日で終わりにしろ。伊達工業の名前を傷つけるな」
電話が切れた。
怒鳴らなかった。怒りではなく、疲弊だった。それが怒鳴られるより重く刺さった。
国見は床に手をついたまま、しばらく動かなかった。
善人が黙るとき、悪が勝つ。
追田が悪人だとは思わない。でも追田は今日、黙った。白鳥沢からの書類を受け取って、国見に「終わりにしろ」と言った。それがこの仕組みの設計だ——声を上げた側を「問題を起こした者」に変えて、善意の大人を黙らせる。ガッシュが三年間見続けてきた構造が、今夜国見自身に刺さった。
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翌日の部活動。
国見がロッカールームの扉を開けた瞬間、声が止まった。
数名が交わしていた会話だった。特定の誰かが意図して黙ったわけじゃない。国見の顔を見た瞬間、自然に口が閉じた——その自然さが逆に刺さった。
後輩の一人が会釈だけして、視線を床に落とした。レギュラーの同期が装備を整理しながら、国見の方を向かなかった。物置の方から声がした。
「白鳥沢に喧嘩売ってるんだろ」
誰かに向けて言ったのか、独り言なのか、確認できなかった。国見は振り返らなかった。
練習中、トスを要求しても返球が来ない場面が一度あった。それが意図的なものかどうか、判断する材料がなかった。そういうことが、今日は全部そうだった。確認できない。証明できない。でも確実に、何かが変わっていた。
部活動が終わった後、国見は一人でコートに残った。
壁に向かってスパイクを打ち始めた。ボールがコンクリートに当たる音が、がらんとした体育館に響く。高窓から差し込む光が、斜めにコートを照らしている。
ボールを拾うたびに、小柴の声が蘇った。
——俺のバレーが、悪かったわけじゃなかったんですよね。
あの問いに答えようとして動いた結果が、今のこれだ。
証拠はある。記録はある。でも受理してくれる窓口がない。学校は動けない。周囲は遠ざかっていく。そしてガッシュの動きは、向こうに全部把握されている。
国見は拳を握りしめた。
怒りの行き場がなかった。壁に打つボールが返ってくるたびに、それだけが確実な手応えとして残った。打って、跳ね返されて、また拾って、また打つ。
ガッシュはこれを三年間やってきた。白鳥沢の中にいながら、一人でノートを埋め続けた。公式戦に一度も出られないまま、記録を積み上げた。孤立しながら。
その重さが、今日になって初めて国見の体に入ってきた。
高窓の光が少しずつ傾いてきた。夏の夕方の光だった。外ではまだ蝉が鳴いている。コートに一人、国見英は打ち続けた。
スマートフォンがポケットの中で振動した。
ガッシュからのメッセージだった。一行だけだった。
「次の手段を考えている。明日、連絡します」
国見はメッセージを見たまま、返信しなかった。
でも、スマートフォンをポケットに戻した手は、止まっていなかった。ボールを拾って、また構える。次のスパイクを、壁に向けて打った。