退院日のシグナル
甘粕湊、28歳。フリーランスのグラフィックデザイナー。階段から落ちて右足を骨折し、救急搬送された先は水凪市の基幹病院だった。入院生活なんて修学旅行みたいなもの、と笑い飛ばす湊には、誰にも言えない癖がある。痛い時ほど笑う。不安な時ほど冗談を言う。笑っていれば誰も心配しないし、自分も弱さを認めずに済むから。二年前、右手首を複雑骨折して半年間ペンを持てなかった時も、湊は一度も弱音を吐かなかった。収入が途絶え、描けない自分に価値がないと思い詰めても、笑顔の鎧を脱がなかった。そんな湊の担当医になったのは、整形外科の名城慧、34歳。短く整えた黒髪に切れ長の黒い目、淡々とした物言いの医師だ。「無理に笑わなくていい」。初対面の湊に、名城はそう言い放った。痛いなら痛いと言っていい、ここは我慢する場所じゃない、と。二十八年间ずっと被り続けてきた鎧を、たった一言で剥がされた湊。だが名城にも、人に言えない過去があった。五年前、患者に感情移入しすぎて失敗した記憶。だから名城は患者と線を引く。病院の規則も、医師会のガイドラインも、診療終了後六ヶ月間の私的連絡を禁じている。近づいてはいけない。でも、あの笑顔の裏の痛
退院日のシグナル - 松葉杖を捨てる日——規定を破る呼び声と、六ヶ月後の約束
朝の光が、整形外科病棟四階の窓を白く染めていた。
甘粕湊は東棟の個室で、最後の荷物をまとめていた。ベッドの上に広げたキャリーバッグに、畳んだ服を押し込む。志乃が昨日持ってきた紙袋はもう空だった。冷蔵庫の中も、テーブルの上も、何も残っていない。
(五週間、か)
窓の外では、水凪川がきらきらと朝日を反射して、古城通り商店街の屋根が連なり、その向こうに水凪城跡公園の緑がかすかに見えた。
湊は窓辺に歩み寄った。右足には薄いサポーター。松葉杖は、ベッドの脇に立てかけたままだ。
昨夜、名城慧が点滴の確認を口実に病室を訪れた。二人は言葉少なに、窓の外の夜景を眺めた。何を話したわけでもない。でも、あの沈黙は、不思議と苦しくなかった。
「明日は見送らないでください」
湊がそう言った時、名城は何か言いたげに口を開きかけて、閉じた。何かを飲み込むような、苦い顔だった。
(笑って別れる自信がない)
それが、見送らないでほしいと頼んだ本当の理由だった。バイバイ、なんて言葉を、名城の前で笑って言える気がしなかった。
ベッド脇の松葉杖に目をやる。入院してからずっと、湊の相棒だった。最初はうまく扱えなくて、脇の下を擦りむいた。リハビリのたびに、この松葉杖と一緒に廊下を往復した。
湊は松葉杖を手に取った。金属の冷たさが、掌に伝わる。グリップの感触が、手に馴染んでいる。
湊は、松葉杖をベッドの上に置いた。
そっと。
まるで、何かを置き去りにするように。
そして、自分の足だけで、立ち上がった。
右足に、ほんの少し、重みを感じる。痛みはない。でも、骨の奥に、まだ何かが残っているような、かすかな違和感。
湊は、一歩踏み出した。床が、足の裏を支える。二歩目。三歩目。ぎこちない。でも、確かに、自分の足で歩いている。
キャリーバッグの取っ手を握る。肩に、使い慣れたリュックを背負った。病室のドアを開ける。廊下に、消毒液の匂いが漂っていた。湊は、一度も後ろを振り返らずに、廊下へ踏み出した。
——
ナースステーションの前。三浦沙耶は、夜勤明けの引き継ぎを終えて、カルテを整理していた。栗色の髪を後ろでゆるくまとめ、丸い茶色い目が、手元の書類を追っている。
昨日、湊にメッセージカードを渡した。退院後にお大事にね、とだけ書いた短いカード。本当はもっと書きたいことがあった。でも、看護師としての立場と、友人としての気持ちの間で、言葉を選んだ。
入院してきたばかりの湊は、痛みを冗談で隠して、いつも笑っていた。でも、その笑顔の裏に、何かがあることを、沙耶はすぐに感じ取った。名城は、そんな湊の嘘を、真っ先に見抜いた。
「無理に笑わなくていい」
名城がそう言った時、湊の笑顔が一瞬凍りついたのを、沙耶は覚えている。あの日から、二人の間には、何かが生まれた。医師と患者という線を挟んで、近づきそうで近づけない、もどかしい距離。
コツ、コツ、と、廊下を歩く足音が聞こえた。
沙耶は顔を上げた。
湊が、歩いてくる。松葉杖なしで。自分の足だけで。右足をかばうような仕草はある。でも、その足取りは、入院してきた頃とは全然違っていた。
湊が、ナースステーションの前を通り過ぎる。
「沙耶さん、お世話になりました」
湊は、足を止めて、沙耶に笑いかけた。笑っている。でも、その目の縁が、少し赤い。
「湊さん、元気でね。無理しちゃダメよ」
「沙耶さん、それ、昨日も聞きましたよ。大丈夫っす、俺、しぶといんで」
「しぶといのは知ってるわよ。でも、また骨折したら、今度は私が怒るからね」
「こわっ。じゃあ、骨折しないように気をつけます」
湊は、そう言って、また歩き出した。沙耶は、湊の背中を見送った。
——
名城慧は、医局のデスクで、書類に目を落としていた。退院サマリーの最終確認。一文字一文字、確認していく。
(これで、最後だ)
ペンを置く。湊が退院する。今日、この病院を去る。
「明日は見送らないでください」
その言葉を、何度も頭の中で繰り返していた。湊の気持ちは、分かる。笑って別れる自信がない。泣き顔を見られたくない。湊のプライドであり、湊の優しさでもある。
医師として、患者の意思を尊重する。それは、名城が信条としてきたことだ。
でも、それ以上に。
(俺は、あいつに、何も伝えていない)
胸の奥で、何かが、じくじくと疼いていた。
退院後の連絡は、禁止されている。就業規則に「診療関係にあった患者との私的連絡は診療終了後6ヶ月間禁止」と明記されている。水凪市医師会のガイドラインも、同じ制限を定めている。
(6ヶ月)
半年。季節が二つ変わる。湊のリハビリは、その間に、どう進むだろう。湊の仕事は、湊の生活は、湊の笑顔は——。
(俺は、あいつの何も、知ることができない)
診療関係が終われば、患者は赤の他人に戻る。それが、この世界のルールだ。名城は、そのルールを、これまで何度も守ってきた。
(今回だけは)
拳を握りしめる。五年前のことを思い出す。若い医師だった頃。患者と、線を越えかけた。結果、患者を傷つけ、自分も傷ついた。あの時の後悔が、今の名城を作った。患者とは線を引く。それは、自分を守るための、そして患者を守るための、決意だった。
答えは、出ない。
でも、体が、動いていた。名城は、立ち上がった。白衣のポケットに、ペンを入れる。
(見送るな、という言葉に、従うべきだ)
頭では、分かっている。でも、足は、医局のドアに向かっていた。
——
湊は、エレベーターの前に立っていた。ボタンを押す。指が、ボタンの上で、一瞬止まった。
(これで、終わりだ)
この病院での生活が、終わる。痛みと、不安と、笑顔と、涙と。
(先生に、最後に、何か言いたかったな)
でも、何を言えばいいのか、分からない。ありがとうございました、では、足りない。もっと、何か。でも、言葉にならない。
ボタンを押した。エレベーターの表示が、階数を示す。もうすぐ、来る。
その時だった。
「甘粕さん!」
声が、廊下に響いた。湊の体が、びくりと震えた。
振り返る。廊下の向こうから、名城が歩いてくる。白衣の裾が、歩くたびに揺れる。切れ長の黒い目が、まっすぐに湊を見つめている。いつもの冷静な医師の目ではなかった。
ドクン、ドクン、と、心臓が暴れる。
名城が、湊の前に立つ。その息が、少し乱れていた。走ってきたのだろうか。いつも無駄のない名城が、息を切らせている。
「甘粕さん」
低い声。でも、その声は、わずかに震えていた。
「……先生、見送らないでって、言ったのに」
湊は、震える声で言った。
「分かっている」
短く答える。
「だが、どうしても、言っておきたいことがある」
名城は、湊の目を、まっすぐに見つめた。湊は、その目を見つめ返した。何かを、必死に伝えようとしている目だった。
名城は、一度、目を伏せた。そして、もう一度、湊の目を見た。
「6ヶ月後、またここで会おう」
湊の呼吸が、止まった。
「患者としてじゃなくて、一人の人間として」
名城の声は、静かだった。でも、その言葉は、湊の胸に、深く突き刺さった。
湊は、目を見開いた。涙が、込み上げてくる。唇を噛んだ。溢れそうになるのを、必死に堪えた。
でも、無理だった。湊の目から、涙が、こぼれ落ちた。
「……ずるいですよ、先生」
涙を拭おうともせずに、言った。
「そんなこと言われたら、俺、6ヶ月、どうやって過ごせばいいんすか」
声は、震えていた。
「先生のこと、忘れようと思ってたのに。6ヶ月後とか、言われたら、忘れられないじゃないっすか」
泣きながら、笑った。涙でぼやけた視界の中で、名城の顔が、揺れている。
「忘れなくていい」
名城は、静かに言った。
「俺も、忘れない」
「先生、それ、反則っすよ」
涙を拭いながら、言った。
「俺、先生に会えて、よかった」
声は、涙でぐちゃぐちゃだった。でも、その言葉は、湊の本心だった。
名城は、湊の言葉を聞いて、わずかに、笑った。口元が、ほんの少しだけ、緩んだ。
「……ああ」
「6ヶ月後、必ず、ここで」
「約束ですよ」
「ああ、約束だ」
名城は、しっかりと頷いた。二人は、手を触れ合わなかった。でも、その距離は、確かに、縮まっていた。
——
湊は、エレベーターに乗った。ドアが閉まる。名城の姿が、見えなくなる。
湊は、エレベーターの中で、一人、泣いていた。
(先生、かっこよかったな)
(最後の最後で、あんなこと言うなんて)
(やっぱり、先生には、敵わない)
涙を拭いて、笑った。
——
名城は、湊の乗ったエレベーターが、階数を下げていくのを、見つめていた。
胸に、ぽっかりと穴が空いたような感覚が広がる。寂しい。患者を見送って、寂しいと思うなんて、医師として、失格かもしれない。でも、その感情は、確かに、存在していた。
白衣のポケットに手を入れる。指先が、何かに触れる。取り出したのは、スケッチブックから切り取った一枚。そこには、名城の横顔が、鉛筆で描かれていた。湊が、入院中に描いたものだ。いつの間に、名城のポケットに入れたのか。
名城は、そのスケッチを、じっと見つめた。
そして、ポケットに戻した。歩き出した。非常階段の方へ。
——
屋上。立ち入り禁止の場所。でも、夜勤の職員が、時々、息抜きに使う。
朝の光が、街を照らしている。水凪川が、きらきらと光っている。遠くに、水凪城跡公園の緑が見える。
名城は、ポケットから、スケッチブックを取り出した。湊が描いた、名城の横顔のスケッチ。指でなぞる。
(笑わなくていい、と、言った)
初めて会った日のことを思い出していた。
「先生、イケメンですね。これなら入院生活も楽しいな」
湊は、そう言って、笑った。名城は、その笑顔が、作り物だと、すぐに分かった。
「無理に笑わなくていい」
そう言った時、湊の笑顔が、一瞬、凍りついた。あの時から、ずっと、湊のことを見てきた。痛みを笑いで隠すこと。本当は、泣きたいほど、不安を抱えていること。誰にも、本音を見せられないこと。
(でも、俺は、医師としてしか、あいつに接することができなかった)
スケッチを、そっと撫でた。口元に、小さな笑みが浮かぶ。
(6ヶ月後、俺は、医師としてじゃなく、一人の人間として、あいつに会う)
風が、名城の白衣を揺らす。
6ヶ月は、長い。でも、その長さが、今は、希望のように思えた。
——
湊は、自宅アパートに戻っていた。五週間ぶりの、自分の部屋。空気が、少し、淀んでいる。窓を開ける。外の空気が、流れ込んでくる。
リュックから、一枚の紙を取り出した。名城から渡された、リハビリ計画書。名城の字は、几帳面で、読みやすかった。湊は、その紙を、壁に貼り出した。テープで、四隅を、しっかりと固定する。
一文字一文字に、名城の、湊への思いが、込められている気がした。
冷蔵庫を開ける。中に、一枚の紙。
「ちゃんと食べなさいよ。冷凍庫に、作り置き入れてあるから。志乃」
志乃の字だった。冷凍庫には、タッパーに入った料理が、いくつか並んでいた。
リビングの壁に掛かったカレンダーを見る。ペンを取った。退院した日付から、6ヶ月後の日付を、指でなぞった。その日付に、丸を描く。
(この日、先生に、会いに行く)
右手首を見た。古い傷跡。二年前、仕事で、右手首を複雑骨折した時のものだ。あの時、湊は、仕事を失った。デザイナーとしての、自信も、失った。
傷跡を、そっと撫でた。
(今度は、描けるかな)
小さく呟いた。
(先生が、くれた、この6ヶ月)
(無駄にしない)
(ちゃんと、リハビリして)
(ちゃんと、描いて)
(6ヶ月後、笑って、先生に会えるように)
リュックの中から、一枚のカードを取り出した。沙耶からのメッセージカード。
「退院後にお大事にね。沙耶」
短い言葉。でも、沙耶の、湊への気遣いが、伝わってくる。そのカードを、リハビリ計画書の隣に、貼り付けた。
壁に貼られたリハビリ計画書。カレンダーに描かれた丸。沙耶からのメッセージカード。どれも、湊にとって、大切なものだった。
窓の外を見た。水凪市の街が、午後の光に包まれている。
(先生、6ヶ月後、また、会おう)
連絡禁止の6ヶ月間が、静かに、始まった。でも、その静けさは、湊にとって、希望の余白だった。
6ヶ月後、また、あの病院で。
その約束だけを、胸に抱いて。
湊は、新しい一日を、歩き始めた。Noveliaとは?
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