領地を花開かせるまで、彼に恋をしていた
桜井美咲は、ただの普通の大学院生で、農業経済学を学んでいただけだった。ところが、気がつくと別の世界の忘れ去られた片隅にある、崩れかけた館の中にいた。
彼女はグレイシア辺境領の領主の妻候補という役割を押し付けられていた――前の候補者は文字通り逃げ出したというポジションだ。土地は貧しく、人々は苦しみ、誰もが疲れ果てている。
「待って、私が知っているのは農業だけ??」
だが、美咲は落ち込むタイプではなかった。畑を一目見ただけで問題点を次々と指摘する。土壌はゆるすぎる、排水が間違っている、作物の選択は最悪だ。誰にも止められないまま、彼女は地元の農民たちと泥まみれになって働き始める。
領地の領主、ルシアン・フォン・グレイシアは冷たく厳格で、彼女に感心することはなかった。最初はただの厄介者として彼女を一蹴する。しかし、彼女が泥だらけになって誰よりも懸命に働く姿を見ているうちに、目が離せなくなってしまう。
何十年も館に仕える五十歳の執事ギルバートは、美咲が新しい計画――トウモロコシの栽培!水車!交易路!――を発表するたびに、信じられない思いで瞬きをし、結局は手助けしてしまう。
十四歳の農
領地を花開かせるまで、彼に恋をしていた - 泥まみれの師弟——ミナちゃん、私の助手になってください!
ルシアンの「勝手にしろ」は許可だ。
そう判断したあの夜から、美咲の頭の中はずっと北の畑のことでいっぱいだった。書庫で見つけた開墾奨励令の記述、排水溝の設計図、輪作サイクルの試算——全部、頭の中でぐるぐる回っている。
だから今朝も、空が白む前に目が覚めた。
毛布を跳ね除けて、泥汚れが落としきれていない作業着を引っ張り出す。左耳の銀のピアスだけはちゃんとつけた。意味はないけど、なんとなく外せない。
厨房の脇の扉を開けると、冷たい早朝の空気が頬を叩いた。トルヴァーン山脈の方角から薄く霧が流れてきていて、ハルベルト村の石畳が白く霞んで見える。春の始まりとはいえ、グレイシア辺境領の朝は容赦なく寒い。
美咲は鍬を担いで、北の畑地帯へ向かった。
---
畑には、すでに何人かの農民が出ていた。
でも、誰も美咲に近づかない。
二十メートルほど離れたところで、農作業の手を止めて、じっとこちらを見ている。囁き声が聞こえた気がした。
「……夫人候補様が、また来てる」
「鍬なんか持って、どうするつもりだか」
「どうせ三日で逃げるさ。前の候補もそうだったろ」
美咲はちゃんと聞こえていた。でも振り返らなかった。
(三日で逃げる、ね)
内心でちょっと笑いながら、畑の端に鍬を刺す。排水溝の第一区画——昨日設計図に描いた、東側の低い部分から始めるつもりだった。ここに溝を掘って、レンテ川方向へ傾斜をつければ、雨のたびに水が溜まって根腐れが起きる問題は一気に改善できる。
鍬を振り下ろす。
ザクッ、と固い地面が割れた。粘土質の土が塊になって飛ぶ。二度目、三度目。腕に汗が滲んでくる。体が温まってきた。
背後の囁き声は、まだ続いていた。でも美咲は気にしなかった。信用はこれから積み上げるものだ。言葉じゃなくて、この手で。
どれくらい掘っただろうか。
足音が聞こえた。
近づいてくる。でも農民たちの靴音とは違う、ずっと小さくて、おっかなびっくりな感じの足音だった。
---
美咲が顔を上げると、目の前に小さな人影が立っていた。
淡い緑色の短い髪が、朝の霧の中でふわりと揺れている。明るい茶色の瞳が、美咲をまっすぐ見ていた。右の頬にひとつ、小さなそばかす。身長は一五〇センチあるかないかで、美咲より頭ひとつ低い。
年は十四か十五くらいだろうか。リーゼ村の農民の子、という雰囲気が全身から出ていた。
少女は緊張で顔を少し赤くしながら、それでも決意したように口を開いた。
「あ、あの……お手伝い、してもいいですか……?」
声がほんの少し震えていた。ぎこちない敬語。でも目だけは、しっかりしていた。
美咲は一瞬、鍬を持ったまま固まった。遠巻きに見ているだけの大人たちの中で、この小さな子だけが近づいてきた。
「[surprised]……え、もちろん! でも大変だよ? 排水溝掘るだけで、結構きつくて——」
「大丈夫です! お百姓さんの仕事は慣れてますから!」
力強かった。さっきの震えはどこへやら。少女はそのままずかずかと美咲の隣にしゃがみ込んで、両手で土を掴んだ。
美咲は思わず笑った。
「じゃあ一緒にやろうか。まずここの土をかき出して……」
「あの、ミナといいます。リーゼ村から来ました。ミサキ様のことは、村でも話題で」
「美咲でいいよ。敬語も別にいらない」
「いえ、ミサキ様と呼ばせてください!」
きっぱり言い切った。美咲はもう一回笑った。
二人で並んで土を掘り始めると、美咲はふと思い立って、傍らの土を少し持ち上げた。緑肥——腐葉土を混ぜたもの——を鋤き込む実演を始める。
「この土、見て。粘土質でぎゅって固まるでしょ。これをほぐして、有機物を混ぜてやると、土の中の小さな生き物が活発になって、地力が戻ってくるんだ」
ミナが目を丸くした。
「[surprised]土が……それで肥えるんですか? すごい……!」
その声が意外と大きかった。
遠巻きに見ていた農民たちが、ざわっと動いた。一人が半歩、前に出る。また一人。気づけば五人ほどが、じりじりと近づいていた。
「……ちょっと見せてもらっていいか」
中年の男が、恐る恐る声をかけてきた。美咲は顔を上げて、にっこり笑った。
「もちろんです! ここ一緒に掘ってくれると助かります!」
それが合図だった。
午前の霧が晴れていくにつれ、北の畑に人が増えていった。最初は黙って見ていた農民たちが、少しずつ鍬を手に取り始める。土を掘る音が重なり合って、畑に低いリズムが生まれた。
ミナは作業しながら、ちょっと不思議そうな顔で聞いてきた。
「ミサキ様って、なんでこんなに土のことを知ってるんですか?」
「えーっとね」
美咲は一瞬詰まった。大学院で農業経済学を専攻していました、とは言えない。この世界にそんな概念があるかも怪しい。
「すごく遠い国で、長いこと勉強してたんだ」
「遠い国……どのくらい遠いんですか?」
「馬車で……うーん、たぶん着かないくらい」
ミナが「え」という顔をした。美咲は苦笑いして、話をずらした。
「まあそれはいいとして! ミナちゃん、今日から私の助手になってほしいんだけど、どう?」
ミナの顔がぱあっと明るくなった。
「[excited]なります! 絶対なります! ミサキ様の助手!」
「じゃあ決まり。よろしくね、助手一号」
「一号……!」
「一号」という言葉がよほど気に入ったのか、ミナはしばらく口の中でその言葉を繰り返していた。頬のそばかすが、照れて赤くなった肌の上でよく見えた。
午前中のうちに、排水溝の第一区画が完成した。
---
夕方、ハルベルト村の集会所に明かりが灯った。
集会所——村の会議や祭りに使う、収容四十人ほどの石造りの部屋——に、農民たちが三々五々集まってきた。口コミはあっという間に広まるらしい。「夫人候補様が農業の話をするらしい」という噂が、午後のうちにハルベルト村を一周していた。
美咲は木の板を黒板代わりに立てかけて、輪作の仕組みを手書きの図で描いていた。横でミナが図の端に「1ねんめ:こむぎ」「2ねんめ:まめ」と、一生懸命補足を書き添えている。
「[excited]みなさん、三枚圃場式輪作というのを聞いたことありますか? 畑を三つのエリアに分けて、毎年違う作物を順番に育てる方法です。豆類は土の中に窒素——えっと、肥料の元になるものを固定してくれるので、肥料なしで地力が戻ってきます」
集会所がしんと静まった。農民たちが図を見つめている。
そこに、入口の方からにぎやかな声が飛んできた。
「あらまあ! 夫人候補様がお百姓さんみたいねえ!」
振り返ると、丸々とした体型の中年女性が手を叩いて笑っていた。雑貨屋「コルネの棚」の店主、コルネだ。おしゃべりなことで村では有名らしく、入ってきた瞬間から集会所の空気が少し緩んだ。
「でもね、麦とカブの種子なら少し分けてあげるよ。倉庫に余ってるのがあるから」
「[surprised]本当ですか!? ありがとうございます!」
興奮して早口になった。コルネが「まあまあ、元気な子だねえ」と笑う。
続いて、後ろの方で無言のまま手が上がった。
鍛冶屋のトーマだった。大柄で寡黙な男が、一枚の紙を美咲の前に差し出す。農具の修理リストだった。何も言わない。ただ黙って差し出している。
「[surprised]これ……修理してくれるんですか?」
トーマは無言でうなずいた。それだけだった。でも美咲には、その無言のうなずきが、言葉の何倍も重く感じられた。
「ありがとうございます」
深々と頭を下げる。トーマは照れたように目を逸らして、腕を組んだ。
集会所が少しずつ温かくなってきた。農民たちが前のめりになって図を見ている。質問が飛んでくる。「豆類は何を植えればいい?」「排水溝は何本必要?」「レンテ川の水を引けるのか?」
美咲は一つ一つ答えながら、頭の中でグレイシア領の地図を広げていた。三年後の収穫量の試算、水車小屋を設置するとしたらレンテ川のどのあたりか、輪作サイクルが安定するまでのつなぎの作物は——
「それとですね!」
気がついたら早口になっていた。
「この世界でトウモロコシみたいな作物ってありますか? もしなかったら品種改良から始めて、三年後に複合農業の第二フェーズとして、畜産との連携を——」
袖を引かれた。
「[whispers]ミサキ様? みんなの顔が固まってます……」
美咲が我に返って集会所を見渡すと、農民たちが揃って「とうもろ……?」という顔をしていた。コルネも首を傾けている。トーマにいたっては、ちょっと引いているように見えた。
「[surprised]す、すみません! 今は麦と根菜の話に戻ります!」
笑って誤魔化す。農民たちが苦笑いして、場の空気がほぐれた。
ミナが小声で「よかった」とつぶやいているのが聞こえた。美咲は苦笑いした。助手、優秀すぎる。
---
同じ頃、グレイシア館の二階。
執務室の窓から、薄暮の中に灯りが見えた。集会所の窓から漏れる、暖かい橙色の光だ。
ルシアン・フォン・グレイシアは書類を手に持ったまま、その光をじっと眺めていた。
黒髪に一本だけ走った赤いメッシュが、夕暮れの中で静かに光る。冷たい銀色の瞳が、集会所の方角に向いている。左頬の小さな傷跡に、窓の光が落ちていた。
集会所から、微かに笑い声が聞こえた気がした。
ルシアンの口元が、ほんの少しだけ——ほんとうに少しだけ——緩んだ。
「領主様」
背後から、穏やかな声が聞こえた。
ルシアンは即座に窓から視線を外して、書類に目を落とした。
「[serious]……先ほどから窓から何をご覧でございましょうか」
白髪の執事が、無表情のまま静かに立っている。いつからそこにいたのか、足音一つしなかった。
「[cold]書類の……光の角度を確認していた」
一切の間もなく言い切った。
「左様でございますか」
ギルバートは顔色一つ変えなかった。ただ、その「左様でございますか」の言い方が、「はい、そういうことにしておきましょう」という響きを帯びていた。
ルシアンはカーテンを引いた。
ギルバートは深々と一礼して、執務室を出た。廊下に出た瞬間、その口元がかすかに緩んだ——が、誰にも見えなかった。
---
集会所の帰り道、空はすっかり藍色になっていた。
美咲とミナは並んで石畳を歩いていた。ミナが腕いっぱいにコルネからもらった種子の袋を抱えている。重そうだ。美咲が「持とうか」と言うと「大丈夫です!」と即答した。
ハルベルト村の通りには、まだ明かりが灯っている家がいくつかある。「灯り亭」の酒場から笑い声が漏れてきた。
そんな静かな夜道で、ミナがふと口を開いた。
「[gentle]ミサキ様、あのね」
「うん?」
「ルシアン様って、最近ずっと窓からミサキ様のことを見てますよ」
さらっと言った。なんでもないことのように。
美咲の足が、一瞬止まった。
「[surprised]え? 見てるって……何を?」
「畑での作業です。ニカ兄さんも気づいてて、『領主様があんなふうに外を見るのは珍しい』って言ってました」
美咲の胸の奥で、何かが小さく弾けた。
(ルシアンが、ずっと見てた?)
顔に熱が集まってくるのがわかった。頬に汗をかくと赤くなる、というのが美咲の癖だが、今はそれとは少し違う感覚だった。
「い、いや」
努めて普通の声を出す。早口にならないように、意識して。
「農地の進捗を確認してるだけだよ。領主なんだから当然でしょ。グレイシア領の土地が掘り返されてたら気になるって話で、別にそれ以上の意味は——」
「そうかなあ……」
ミナがにこにこしながら言った。疑っている。明らかに疑っている。しかも笑顔のまま疑っている。
「[serious]そうだから!」
「はあい」
返事は明らかに「はい、そういうことにしておきます」という響きだった。……さっきのギルバートと同じ返し方だ、と美咲は思った。
美咲は早歩きに切り替えた。ミナが種子の袋を抱えたまま、ちょこちょことついてくる。
(農地の確認。農地の確認だから。それだけ)
頭の中で繰り返しても、さっき感じた胸の弾け方が消えてくれなかった。
---
集会所からの帰り道、もう一つの声がかかった。
ミナと別れて屋敷への道を歩いていると、後ろから誰かが追いかけてくる足音がした。振り返ると、中年の男が小走りで近づいてくる。午前中に一緒に排水溝を掘った農民の一人、ハンスだった。
「夫人候補様、少しよろしいですか」
声が低かった。昼間の様子とは少し違う、硬い声。
「もちろんです」
ハンスは辺りをちらっと見回してから、美咲に近づいた。
「こんなに畑が良くなったら……中央の偉い方々が、目をつけてきませんかね」
言葉を選んでいるのがわかった。慎重に、でも確かめずにはいられない、という様子で続ける。
「グレイシア領が豊かになったら、年貢を増やそうとするんじゃないかと……。今まで、中央から何かあるたびに、こっちが損をしてきたから」
美咲は一瞬、口を閉じた。
(そうだ。この人たちは何十年もそういう目に遭ってきたんだ)
百五十年前のカレンの大飢饉——大陸全域を襲った大凶作のあと、中央集権化が進んで辺境への支援は後回しにされてきた。グレイシア領が衰退した背景には、領主家の内紛だけじゃなく、そういう構造的な問題もある。ギルバートが話してくれたことが頭の中で繋がった。
だからこそ、この人たちは慎重なんだ。
「開墾奨励令という法律があるんです」
ハンスが少し眉を上げた。
「荒廃地を三年以内に生産可能な農地にした場合、五年間、年貢が半額になる制度です。グレイシア領はまだこれを一度も使っていないので……うまくいけば、むしろ年貢が減る可能性があります。まだ調べ中ですけど」
「そんな制度が……」
半信半疑だった。当然だと思う。美咲自身、書庫でその記述を見つけただけで、詳細はまだ確認できていない。
「ちゃんと調べてから、また話します。約束します」
ハンスはしばらく美咲の顔を見ていた。それから黙ってうなずいて、背を向けた。
美咲は一人、夜道に残った。
(開墾奨励令、ちゃんと確認しなきゃ。中央への対策も……)
今日一日で確かに何かが変わった。農民たちが動いた。ミナが来た。集会所に人が集まった。コルネが種子を出してくれて、トーマが農具の修理リストを持ってきた。
それでも、この復興が軌道に乗れば乗るほど、見えない誰かの目を引く可能性もある。ペルヴァント貴族会議——フォルティナ王国中央の有力貴族十二家が形成する政治集団——がグレイシア領を気に留める日が来るかもしれない。
希望と不安が、同じ夜の中に並んでいた。
---
グレイシア館に戻ると、廊下は静かだった。
美咲は二階への階段を上りながら、今日の進捗を頭の中で整理した。排水溝第一区画完成、集会所に十五名以上参加、種子の確保、農具の修理手配。数字にすれば小さいかもしれないけど、昨日より確実に前に進んでいる。
執務室の前で、美咲は足を止めた。
扉をノックした。三回、はっきりと。
「今日の進捗報告です」
一秒の間があった。
「入れ」
短い一言だった。でも、美咲は止まった。
(……「入れ」?)
確かに聞こえた。拒絶じゃない。最初の頃の「入るな」とも違う。
たった二文字。でも、その二文字の重さが、今日掘った排水溝と同じくらい、確かに何かを変えた気がした。
美咲の胸の奥で、もう一度だけ、何かがそっと弾けた。