領地を花開かせるまで、彼に恋をしていた
桜井美咲は、ただの普通の大学院生で、農業経済学を学んでいただけだった。ところが、気がつくと別の世界の忘れ去られた片隅にある、崩れかけた館の中にいた。
彼女はグレイシア辺境領の領主の妻候補という役割を押し付けられていた――前の候補者は文字通り逃げ出したというポジションだ。土地は貧しく、人々は苦しみ、誰もが疲れ果てている。
「待って、私が知っているのは農業だけ??」
だが、美咲は落ち込むタイプではなかった。畑を一目見ただけで問題点を次々と指摘する。土壌はゆるすぎる、排水が間違っている、作物の選択は最悪だ。誰にも止められないまま、彼女は地元の農民たちと泥まみれになって働き始める。
領地の領主、ルシアン・フォン・グレイシアは冷たく厳格で、彼女に感心することはなかった。最初はただの厄介者として彼女を一蹴する。しかし、彼女が泥だらけになって誰よりも懸命に働く姿を見ているうちに、目が離せなくなってしまう。
何十年も館に仕える五十歳の執事ギルバートは、美咲が新しい計画――トウモロコシの栽培!水車!交易路!――を発表するたびに、信じられない思いで瞬きをし、結局は手助けしてしまう。
十四歳の農
領地を花開かせるまで、彼に恋をしていた - 夜明けの書庫と、忘れろと言った本音
蝋燭の灯りが、廊下に細い影を引いた。
美咲はノートを胸に抱えたまま、一歩ずつグレイシア館の廊下を進んでいた。二階の床板が、足の下でわずかに軋む。誰も起こさないようにつま先立ちで歩くが、どうにも静かにならない。
(……まあ、夜中に忍び込む泥棒みたいだけど)
建物は築二百年の石造り。壁の冷たさが廊下の空気に滲んでいる。窓の外はまだ真っ暗で、グレイシア領の夜がどこまでも続いている。
書庫は一階の奥だった。
階段を下りながら、美咲は昨夜の涙の跡を指の甲で拭った。泣き疲れて少し眠って、目が覚めたらノートの走り書きが目に飛び込んできた。開墾奨励令。五十年前に発布された王国法で、荒廃地を三年以内に農地化すれば五年間の年貢が半額になる制度。グレイシア領が一度も活用したことのない、あの条文。それを正式申請すれば、ユリウスが農民たちに吹き込んだ「中央貴族が動く」という脅しは逆転する。申請に基づいた復興を妨害する側が、王国法を無視した側になる。
でも申請にはルシアンの署名が要る。
そして今朝、馬車が来る。
(だから今しかない)
一階の廊下を曲がる。書庫の扉が見えた。
隙間から、光が漏れていた。
美咲は足を止めた。蝋燭の炎が揺れる。ランタンの光だ。誰かいる。こんな夜中に、書庫に。
そっと扉を押した。
棚の間に、人がいた。法令集を膝の上に開いたまま、椅子に深く座っている。黒髪に赤いメッシュが一本走った短髪。左頬の小さな傷跡。銀色の瞳が、扉を開けた美咲を見て、止まった。
ルシアンだった。
美咲も止まった。
二人は三秒ほど、完全に固まった。
「[cold]……こんな時間に何をしている」
「[surprised]それは、こちらのセリフです」
ルシアンが開いたままの法令集に目を落とす。それから美咲のノートを見る。また沈黙。
美咲はゆっくり書庫に入った。棚の奥の小さなテーブルに椅子がもう一脚ある。それを引き寄せて、ルシアンの正面に座った。
「[serious]追い出す前に、一つだけ聞いてください」
ルシアンの表情が動かない。でも追い払う素振りもない。美咲はそれを「許可」だと解釈することにした。前にも「勝手にしろ」を許可だと解釈して畑を耕したのだから、今更だった。
ノートを開く。声が少し震えたが、頭の中は妙に冷えていた。
「[serious]三点、説明します。まず一点目」
美咲は話し始めた。
開墾奨励令を正式申請すれば、グレイシア領の農地再生は王国法に基づく正当な権利行使になる。ペルヴァント貴族会議──フォルティナ王国中央の有力貴族十二家が形成する政治集団──がそれを妨害しようとすれば、むしろ妨害した側が王国法を無視したことになる。ユリウスが農民たちに吹き込んだ「中央が動く」という脅しは、申請さえしてしまえば逆転する。
「[serious]二点目です」
ユリウスが農民数名に銀貨とワインを渡して畑を荒らさせたのは、嫌がらせじゃない。グレイシア領の麦が増産されれば、ソレル領が独占する交易路の利権が揺らぐからだ。ミルディス交易連盟──ミルディス川沿いの商人たちの互助組合──との太いパイプが、ソレル領の経済基盤を支えている。グレイシア領から安い麦が大量に市場に出回れば、そのバランスが崩れる。ユリウスはそれを恐れた。
ルシアンの銀色の瞳が、美咲の顔から動かない。遮らない。美咲は続けた。
「[serious]三点目。この申請にはルシアン様の署名が必要です。私一人では動けない。だから」
そこまで言って、美咲は熱が入りすぎた。ノートから羊皮紙を一枚取り出し、テーブルに広げてペンを走らせた。
「[excited]この申請書を提出すれば五年間で節約できる年貢額はざっと計算して──えーと、グレイシア領の現在の税収が年間約百二十ゼーラで、年貢はその三割だから──」
数字を書きながら早口で計算する。興奮すると速くなるのは自分でもわかってる。でも止まれない。羊皮紙がルシアンの方にずれて、計算の途中でペンを大きく動かした瞬間、インクがこぼれた。
ルシアンのシャツの袖に、黒い染みが広がった。
静寂。
ルシアンが袖を見る。美咲が袖を見る。
「[scared]す、すみません! 洗えば落ちます! えっと麻のシャツはぬるま湯で──」
「[cold]……今そこじゃない」
「[scared]そうです、今そこじゃないんです、というか言いたかったのはそっちで──!」
ルシアンが短く息をついた。笑っていないのに、なぜか少し空気がゆるんだ気がした。
美咲は深呼吸した。インクの染みは後でなんとかする。今は続きを言わなければ。
「[serious]……この土地が、好きです」
声が落ちた。
さっきまでの早口が止まって、静かな声になった。書庫の冷たい空気の中に、その言葉が溶けていく。
「[serious]ハルベルト村の石畳も、北の畑の粘土質の土も、ミナが泥だらけになりながら一緒に掘った排水溝も。コルネさんの雑貨屋も、トーマさんの鍛冶屋も。ここの人たちが、好きです」
ルシアンが動かない。
美咲はノートをテーブルに置いて、頭を下げた。
「[sad]だから、もう一度だけ、チャンスをください」
沈黙が落ちた。
書庫の古い棚が、かすかに軋む。ランタンの炎が揺れる。外の空は、まだ暗い。
それからルシアンが、長い間を置いて、口を開いた。
「[sad]……ソレル領に行くかもしれないと思った時」
声が、いつもより低かった。
「[sad]初めて、怖いと思った」
美咲は顔を上げた。
ルシアンは目を伏せたまま、苦しそうに続けた。指が膝の上で微かに動いている。
「[sad]……自分一人では、この領地を守れない。十年間、そのことが悔しかった。だから、お前が来ても……何かを期待するのが怖くて。期待して、また失うのが」
そこで言葉が切れた。
美咲の胸の中で、何かが弾けた。あの冷たい銀色の瞳の奥に、ずっとそういうものが隠れていたのか。追放通告を書いた手が、本当はどんな気持ちで動いていたのか。
(……この人は)
次の言葉を探していたら、ルシアンが急に立ち上がった。
顔が真っ赤だった。
「[angry]……忘れろ。今のは何でもない」
「[surprised]え、待って、今すごく大事なことを──」
ルシアンがカーテンを乱暴に引いた。ランタンを掴む。背を向けたまま、低い声で言った。
「[cold]申請書の下書きを持ってこい。夜明けまでに叩き台を作る」
美咲はポカンとした。
(え、いきなり実務?)
でも。美咲はルシアンの耳を見た。暗い書庫の中でも、耳が赤いのがわかった。うなじまで少し赤い。背を向けたまま、完全に実務モードを装っているのに、耳だけ正直だった。
美咲は口元が緩むのを止められなかった。
(……返事は、まだです。この話は終わってないんだから)
でも今夜は、それだけで十分だった。
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夜が明け始めた頃、美咲とルシアンは食堂のテーブルに向かい合っていた。
申請書の下書きが広がっている。開墾奨励令の条文に基づいた書式で、文言を一つずつ確認している。美咲が書いて、ルシアンが直す。ルシアンが指摘して、美咲が書き直す。小声で、淡々と。でも確実に、紙の上で二人の名前が並んでいく。
「[serious]ここの表現、『整備に着手した』より『着手を完了した』の方が法的に強い」
「[serious]あ、そうか。過去形の方が既成事実として読まれやすいですね」
「[serious]王国法の書式は現在形より過去完了の方が認められやすい。基本だ」
「[excited]それ、書庫の法令集のどこかに明記されてますか? 引用できると申請の説得力が──」
「[cold]第三条の注釈。棚の左から四番目」
「[excited]さすが……!」
朝の見回りで廊下に出てきたギルバートが、食堂の入口で止まった。
老いた執事は、扉の前でしばらく動けなかった。テーブルを挟んで向かい合う二人が、羽ペンと書類を囲んで小声で相談している。窓から差し込む朝の光が、二人の上に柔らかく落ちている。
ギルバートの手が、廊下の壁についた。
「[crying]こんなに……お二人が息を合わせているのは……」
袖で目を押さえている。肩が震えている。
美咲が顔を上げた。
「[surprised]ギルバートさん? 大丈夫ですか?」
「[cold]うるさい。手を動かせ」
ルシアンがギルバートに向かって言いながら、自分は少し目を逸らした。窓の外の、まだ薄暗い空の方を見ていた。
ギルバートはすぐに袖を下ろして、咳払いをした。いつもの落ち着いた顔に戻って、食堂に入ってくる。
「[gentle]領主様の印章は執務室の引き出し左側でございます。添付書類として農地の測量記録が必要かと存じますが、倉庫の棚に旧台帳がございます。お持ちしましょうか」
「[serious]頼む」
「[gentle]かしこまりました」
ギルバートが廊下に消えた。でも少し遠ざかったところで、またこっそり袖で目を押さえているのが気配でわかった。美咲はそっとしておくことにした。
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申請書の下書きがほぼ仕上がった頃、玄関の方から足音が聞こえた。
廊下を駆ける音。ドタドタと、重くて必死な足音。
食堂の扉が勢いよく開いた。
ミナだった。
淡い緑色のショートボブが乱れている。頬のそばかすが、息切れで赤くなった顔に浮かんでいる。明るい茶色の瞳が美咲を見て、ぱっと輝いた。
「[excited]ミサキ様! いた! よかった、まだいた!」
「[surprised]ミナ? どうしたの、こんな朝早く──」
「[excited]村中、回ってきました!」
ミナは膝に手をついて、肩で息をしながら続けた。
「[serious]ミサキ様が追い出されるって知った時から……夜明け前から、一軒ずつ回って。ハンスさんの家も、トーマさんの家も、コルネさんのところも、あとリーゼ村の方まで走って──」
「[surprised]一人で?」
「[crying]ミサキ様がいなくなったら畑はどうなるんですかって言って回りました! あの人は本気で私たちのために泥まみれになってくれたのに、って!」
美咲の胸の奥が、じわりと痛んだ。あの夜、扉の外でミナが「行かないでください」と言っていたのを、美咲は聞いていた。その子がそのまま夜明けまで村を走り回っていた。
「[serious]ミナ……」
「[excited]あと、ルシアン様のことも好きそうなのに二人とも全然気づいてなくて、それもどうにかしてほしいってお願いして回りました!」
食堂が静まり返った。
美咲の顔に血が集まった。耳まで熱い。
「[scared]え!? それ絶対言わなくていい情報!!」
テーブルの向こうで、ルシアンがペンを落とした。コロコロと転がって、床に落ちる乾いた音がした。
ルシアンが無言で床を見ている。耳が、さっきより赤い。
「[surprised]えっ、あ、でも、みんなも気になってたって言ってたんです! コルネさんなんか「そうよそうよ」って──」
「[angry]ミナ」
「[scared]は、はいっ」
「[serious]それはあとで、二人でゆっくり話しましょうね」
「[scared]……はい」
ルシアンがゆっくりペンを拾い上げた。何事もなかった顔を作ろうとしているのが、美咲にはわかった。でも耳は正直なままだった。
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それから一時間後、ハルベルト村の集会所に人が集まり始めた。
最初に来たのはトーマだった。四十歳の鍛冶師は、相変わらず無口で、大きくて、何も言わなかった。ただ美咲の前に、新しい鍬を差し出した。さっき研いだばかりなのか、刃が朝の光を弾いている。
美咲が受け取ると、トーマはそのまま壁際に立って腕を組んだ。
次にコルネが来た。五十五歳の雑貨屋の女将は、扉をくぐった瞬間から目が赤かった。
「[crying]ごめんねえ……あたしたち、臆病だったよ。怖くなって、あなたを一番ひどいタイミングで──」
「[gentle]コルネさん、顔上げてください」
「[crying]でもね、ミナちゃんが夜中に来て、あんなに一生懸命言うもんだから……」
コルネが袖で目を拭いた。美咲も、泣きそうになるのを奥歯で耐えた。
ハンスも来た。蒼白な顔で、何か言いたそうにしながら何も言えないでいた。でも来た。それだけで十分だった。
集会所の扉が開くたびに、一人、また一人と増えていく。リーゼ村から来た人もいた。ノルテ集落の方から走ってきたらしい人もいた。石造りの建物が、気づけばざわめきで満たされていた。
ルシアンが入口に立った。
集会所が静まった。百八十五センチの長身が、入口の石枠に収まっている。黒髪に一本の赤いメッシュ。左頬の傷跡。銀色の瞳が、集まった農民たちを静かに見渡した。
それからルシアンは、頭を下げた。
深く。
集会所が完全に静止した。誰も声を出さなかった。領主が、農民の前で頭を下げるのを、誰も見たことがなかったのだと、その沈黙が言っていた。
「[serious]私は無力な領主だった」
顔を上げて、続ける。
「[serious]十年間、この土地を守ろうとして、守り切れなかった。皆に苦労をかけた。詫びる言葉が見つからない。だが——彼女が教えてくれた。この土地はまだ死んでいないと」
視線が、美咲に向いた。一瞬だけ。
「[serious]開墾奨励令の申請書を、今日中に仕上げる。この制度を使えば、中央からの介入を法律で跳ね返せる。だから——力を貸してほしい」
どよめきが広がった。
美咲は泣いていた。気づいたら泣いていた。涙を拭こうとしたら、ミナがすでに横から抱きついてきていた。
「[crying]ミサキ様……!!」
「[crying]わかった、わかった、ありがとう、ミナ」
二人でぐちゃぐちゃになって、コルネがそれを見てまた泣いて、集会所の中に笑いが混じった泣き声が広がった。
そこでミナが急に顔を上げた。満面の笑みで、集会所の入口のルシアンを見た。
「[excited]ルシアン様、さっきのミサキ様への気持ちも、ここで言っちゃいましょうよ!」
シン、と静まった。
ルシアンが固まった。農民たちが「え」という顔をした。
そこへ、ギルバートがすっと背後からミナの首根っこを掴んだ。
「[cold]それはまた別の機会に」
「[scared]ぎっ、ギルバートさん!?」
集会所に笑いが広がった。くすくす、と。それがだんだん大きくなって、農民の誰かが肩を揺らして笑い、隣の人も釣られて笑った。
ルシアンは無言で視線を逸らした。でも口元が、かすかに動いた。
美咲はそれを見ていた。
(笑った。絶対笑った)
泣きながら、美咲も笑っていた。
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集会所から出た頃、空はもう明るかった。
グレイシア領の短い夏の朝。レンテ川の方から風が来て、北の畑の方向に流れていく。荒らされた土の上に、今日も空が広がっている。
美咲は申請書の下書きを胸に抱えたまま、少し先を歩くルシアンの背を見た。
(ねえ、「忘れろ」って言ったけど)
美咲は小声でぼやいた。誰にも聞こえない声で。
(私はちゃんと覚えてるから。あの言葉、全部)
胸の中が、まだ温かかった。この温かさに、まだ名前をつけられないでいる。でも急がなくていい。書類を提出して、ユリウスの次の手を防いで、畑に種を蒔いて——それからゆっくり考えれば。
この土地で、この人たちと一緒に。
申請書を正式提出する日が来れば、次はペルヴァント貴族会議が動くかもしれない。ユリウスが黙っているとも思えない。だが今の美咲には、隣に並んで歩く人間がいた。
それだけで、十分だった。