花と刃のあいだで
水瀬ひなは現代の高校生。修学旅行中に突然意識を失い、目を覚ますとそこは戦国時代の日本だった。スマートフォンは使えず、誰も彼女の言葉を理解せず、完全に途方に暮れてしまう。
そんな彼女を兵士たちが見つけ、有名な戦国武将、冷酷無比で「鬼将軍」と呼ばれる源義颯の前に連れて行く。義颯は詳しい説明もなく、ひなを側室として城に留めることを決める。ひなは混乱し恐怖を感じるが、選択の余地はなかった。
城での生活は厳しい。ほかの女性たちは彼女に嫉妬し、ルールも彼女の知るものとはまったく違う。しかし、ひなは少しずつ現代の知識を活かして城の小さな問題を解決し、居場所を見つけ始める。そして少しずつ、義颯の冷たい瞳が彼女にほんの少し長く留まるようになる。
ある夜、ひなは屋根の上に影を見つける。敵対する一族の若き忍者、カゲマルが密かに城に潜入していたのだ。危険な状況から彼女を救ったカゲマルに理由を尋ねると、彼は顔を背けて耳を赤らめ、「黙れ」とつぶやく。しかし彼は何度も城に現れるようになる。
カゲマルは影からひなを静かに見守り、彼女が危険にさらされるたびに現れる。ひなは彼のそばで心臓が早鐘を打つのを感じる一方
花と刃のあいだで - 刃の向こう側——光が消えた瞬間
目が覚めた瞬間、土の匂いがした。
冷たくて、湿っていて、知らない匂い。
水瀬ひなはゆっくり体を起こした。漆黒のショートボブが頬に貼りついている。深い茶色の瞳が、ぼんやりと空を映した。
——青い。
ただそれだけなのに、なぜか違和感があった。空の青が、深すぎる。排気ガスの薄い膜も、飛行機雲も、何もない。見たことがないくらい透き通った青だった。
(夢、かな)
ひなはまだそう思っていた。
バスの中でウトウトしたんだろう。修学旅行の移動中によくやること。クラスのみんなは今ごろバスの中で笑ってるはずで、友達の春野が「またひなちゃん寝てる〜」ってスマホで写真撮ってるはずで——。
スマホ。
ひなは制服のポケットを探った。白いブレザー、黒のスラックス。指先が画面に触れる。取り出して、電源ボタンを押した。
何も起きない。
もう一回。もう一回。もう一回。
画面は真っ暗なまま、何も映らなかった。
そこでようやく、ひなは足元を見た。
草だった。自分の周りに広がる、背の高い草。踏みつけた土が、制服のズボンの膝を茶色く染めている。遠くには知らない山の輪郭。もっと遠くに、黒い煙が細くまっすぐ上がっていた。煙の形が変だった。工場の煙突じゃない。たき火みたいな、もっと太くて黒い煙。
どこかで馬がいなないた。
胸の奥で何かがぐっと縮んだ。
(ここ、どこ)
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二時間前のことを、ひなは思い出した。
修学旅行二日目の午後。クラスの五十人でイヌカイ城歴史館に来ていた。戦国時代の展示で有名な施設で、先生は「教科書で見た刀や鎧が実際に見られる貴重な機会です」と言っていた。
たいていの子は鎧の展示でわいわいしたり、甲冑の前で写真を撮ったりしていた。春野は「え、これ本物?」って眉をしかめながら、古い文書の前で友達と話していた。
ひなだけが、ガラスケースの前で動けなくなっていた。
刀だった。
黒い台の上に横たわる、一振りの刀。説明文には「天嵐期の刀工作とされる」みたいなことが書いてあったけど、ひなは文字を読んでいなかった。ただ、その刀の形を——曲線を——じっと見ていた。
綺麗だな、とひなは思った。
こんなに綺麗なものが何百年も前から存在してたんだって、なんか不思議で。作った人はもうとっくにいなくて、でも刀だけが残って、ガラスケースの中で光を受けてて。
「[laughing]ひなちゃんまたぼーっとしてる〜」
肩を叩かれて、振り返ろうとした。
その瞬間、視界が真っ暗になった。
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夢じゃないとわかったのは、草の先端が手に刺さったときだった。
鋭くて、小さくて、確実に痛い。夢の痛みじゃなかった。
ひなは立ち上がった。細身で華奢な体が、草の海から顔を出す。周りを見回す。山。川の音。木々。遠くの煙。どこにも道路がない。どこにも電柱がない。どこにもコンビニがない。
スマホをもう一度押した。やっぱり映らない。
(どういうこと。どういうことどういうことどういうこと)
心の中でぐるぐる繰り返した。感情が顔に出やすいひなの目が、じわっと潤み始めた。でも泣いてる場合じゃない。泣いても何も変わらない。まず動かなきゃ。
川の音がする方向へ、ひなは走り出した。
草が足に絡まる。土が柔らかくて走りにくい。でも走った。夢じゃないなら、人がいるはず。人がいれば、何かわかるはず。
川沿いの獣道に出た瞬間、ひなは止まった。
前方に人がいた。
何人かいた。馬に乗っている人もいた。
鎧を着ていた。本物の、金属の、鎧を。
(助かった)
ひなが駆け寄ろうとした瞬間、先頭の兵士の目が細くなった。
「[serious]とまれ」
古い言葉だった。でも意味はわかった。ひなは足を止めた。
兵士たちが馬を降りる。五人。全員が腰に刀を持っている。一人が弓を持ったままひなを見ている。
「[serious]いずこの者か」
古い言葉遣いだった。意味は半分しかわからない。
「[scared]あの、わたし——迷子で、えっと——」
兵士たちが顔を見合わせた。ひなの服を見ている。白いブレザー、黒のスラックス——見たことがない形の服を。ひなが握りしめたスマホの黒い画面を、一人の兵士が指差した。
「[serious]その物体、何だ」
「[scared]これはスマホで、えっと、携帯電話っていうか——」
通じていない。顔を見ればわかる。
ひなは一歩後ろに引いた。
その瞬間、兵士が動いた。二人が左右から回り込んでくる。ひなは反射的に走ろうとした——でも足が縺れた。草を踏んで転びそうになったところに、両腕を掴まれた。
「[scared]離して! 助けて! わたし何もしてない!」
日本語で叫んだ。通じるわけがなかった。でも叫ぶことしかできなかった。縄が手首に回された。荒い麻の感触。きつく縛られる。
ひなはその場でぐっと唇を噛んだ。泣かない。泣いたら終わりな気がした。
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馬に引かれながら、ひなは周りを見た。
田んぼがあった。農作業をしている人たちがいた。麻の服を着て、腰をかがめて何かを植えている。道には荷車。木造の家が並んでいる。電柱もアスファルトも看板も、何もない。
鉄砲を持っている兵士が一人もいないことに、ひなはふと気づいた。
刀と弓だけ。
(本物の、戦国時代だ)
その認識が、じわじわとひなの中に染み込んできた。展示館で見ていた刀と、今腰に差さっている刀が同じで。天嵐期の刀工作とされる、って書いてあって。
天嵐。
あの展示室の説明文に確かそんな言葉があった。架空の時代みたいな説明で、でもここに来たらそれが——。
頭がくらくらした。
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丘の上に、城が見えた。
ひなは思わず立ち止まった。後ろから兵士に押されたけど、足が動かなかった。
でかい。
石垣が高かった。8メートルはあるだろうか。灰色の石が積み上げられて、その上に木造の建物が重なっている。三重の構造が遠目にもわかる。城壁の上を動く人影が、蟻みたいに小さく見えた。
(ここに六百人近くが暮らしてる……?)
そんな規模の話、現代でもそうそうない。
城門をくぐった。甲冑を着た武士が並んでいた。みんながひなを見ていた。
「[surprised]間者か? 異国の女か?」
「[serious]服が奇妙だ。どこの国の者だ」
声が重なる。ひなは下を向いた。目が潤んでくる。それが嫌で、ぐっと奥歯を噛んだ。
年配の武士が前に出てきた。白髪交じりで、目の鋭い人だった。ひなをじろりと一瞥する。
「[cold]身元が判明するまで、預かりにせよ」
そのひとことで、周りの空気が変わった。兵士たちが動き出す。ひなは奥へ連れていかれる。
廊下を歩く。木の床が軋む。両側に障子の部屋が並んでいる。どこかで女の人の話し声がした。小さくて、でもひなの耳にはっきり届いた。
「[whispers]預かり? またか……」
「[whispers]三ヶ月で処分されるのが関の山ね」
ひなの足が一瞬止まった。
処分。
その言葉の意味を考えないようにした。
連れていかれた部屋は、四畳半だった。
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薄暗い部屋だった。
畳が薄い。壁に煤の跡がある。小さな格子窓から、夕暮れの橙色の光が細く差し込んでいる。それだけの部屋だった。
兵士が部屋の外から鍵をかけた。カチャ、という音が廊下に響いて、消えた。
ひなは一人になった。
しばらく、真ん中に突っ立っていた。
スマホを取り出して、電源ボタンを押した。映らない。もう一回。映らない。もう一回、もう一回、もう一回——。
手が震えていた。
ひなはその場に崩れ落ちた。膝を抱えて、畳の上に座り込んだ。
泣いた。
声を殺して、でも全部出し切るみたいに泣いた。お母さんのこと、お父さんのこと、春野のこと、朝ごはんのこと——こんな場面でどうでもいいことも全部浮かんできて、また泣いた。帰れるかどうかわからない。帰り方すらわからない。ここがどこかもわからない。明日何をされるかもわからない。
処分。
さっきの声が耳に戻ってきた。三ヶ月で処分されるのが関の山——あの「処分」がどういう意味かは聞けなかったけど、良い意味じゃないことくらいはわかる。
ひなは顔を膝に押しつけた。目が熱い。喉が痛い。
どれくらい泣いたかわからない。
気づいたら、泣き声が止まっていた。
涙が出尽きたのか、疲れたのか。ただ、止まっていた。
ひなはゆっくり顔を上げた。
格子窓の外に、夜空が見えた。星が出ていた。こんなにたくさんの星、見たことがなかった。光が多すぎる現代じゃ絶対に見えない数の星が、まっくらな空にびっしりと広がっていた。
綺麗だ、とひなは思った。
こんな状況なのに、そう思ってしまった。
(泣いてても、誰も来ない)
当たり前のことを、頭の中で繰り返した。
ここには春野も、お母さんも、誰もいない。泣き続けても何も変わらない。帰る方法がわからなくても、今夜はわからないまま終わる。それは変えられない。
でも、明日朝になったら何かが変わるかもしれない。
変えるために、まず生きなきゃいけない。
ひなはゆっくり手を開いて、また閉じた。拳を作る。震えていた。でも握れた。
(大丈夫、なんて思えない。でも、死にたくはない)
それだけはわかった。
怖い。ここがどこかわからない。言葉も服も全部違う。何をされるかわからない。でも——。
ひなは唇を一文字に結んだ。
夜明けまで、生きていよう。それだけ考えよう。
格子窓の星が、静かに光っていた。
川の水音が遠くで聞こえる。風に混じって、どこかで虫が鳴いている。この世界の夜の音だった。
朝になったら、あの冷たい目をした武士の前に引き出される。そう、兵士たちの会話からなんとなくわかっていた。城主というらしい人物の前で、言葉が通じないまま何かを問われる。
でも今は、まだ夜だ。
ひなは壁に背をもたせかけた。目を閉じた。
星の光が、格子の隙間からうっすら届いていた。