花と刃のあいだで
水瀬ひなは現代の高校生。修学旅行中に突然意識を失い、目を覚ますとそこは戦国時代の日本だった。スマートフォンは使えず、誰も彼女の言葉を理解せず、完全に途方に暮れてしまう。
そんな彼女を兵士たちが見つけ、有名な戦国武将、冷酷無比で「鬼将軍」と呼ばれる源義颯の前に連れて行く。義颯は詳しい説明もなく、ひなを側室として城に留めることを決める。ひなは混乱し恐怖を感じるが、選択の余地はなかった。
城での生活は厳しい。ほかの女性たちは彼女に嫉妬し、ルールも彼女の知るものとはまったく違う。しかし、ひなは少しずつ現代の知識を活かして城の小さな問題を解決し、居場所を見つけ始める。そして少しずつ、義颯の冷たい瞳が彼女にほんの少し長く留まるようになる。
ある夜、ひなは屋根の上に影を見つける。敵対する一族の若き忍者、カゲマルが密かに城に潜入していたのだ。危険な状況から彼女を救ったカゲマルに理由を尋ねると、彼は顔を背けて耳を赤らめ、「黙れ」とつぶやく。しかし彼は何度も城に現れるようになる。
カゲマルは影からひなを静かに見守り、彼女が危険にさらされるたびに現れる。ひなは彼のそばで心臓が早鐘を打つのを感じる一方
花と刃のあいだで - 夜明けの手当て——二人の傷と、引き裂かれる胸
夜が白み始めた頃、ハヤテ城の廊下はまだ血と煙の匂いが残っていた。
遠くから兵士たちの声が聞こえる。「北の門は制圧した」「怪我人を厨に運べ」。夜襲はどうやら撃退されたらしい。義颯の指揮のもとで、トガリ衆の忍たちは散っていった——そのことだけは、廊下を走るひなの耳にも届いていた。
でも、ひなの頭にあるのはそのことじゃない。
カゲマルだった。
廊下の角で体をぶつけて、血まみれのまま消えていった。左腕と脇腹から血が滲んでいた。「お前を連れて行く命令だった。でも、俺は——」——あの言葉の続きが、まだひなの耳の奥に引っかかっている。
奥御殿に戻れ、と義颯は言っていた。でも足は止まらなかった。
ひなは武器蔵に向かって走った。
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武器蔵——三ノ丸の奥まった場所にある、武具を保管するためだけの薄暗い建物——の戸を押し開けると、鉄と油と埃の匂いが鼻を突いた。槍が壁に立て掛けられ、弓が天井から吊るされている。行灯の火が一つだけ揺れていた。
ひなは一番奥の柱を見た。
いた。
カゲマルが柱に背を預けて座り込んでいた。黒装束のまま、左腕を右手で押さえながら、脇腹にも布を当てている。その布は既に赤黒く染まっていた。鋭い赤い右目が、ひなを認識して、すぐに視線を横に外した。
「[cold]来るな」
ひなは来た。
迷わず横に膝をついて、懐から消毒液の入った小瓶を取り出した。これは薬問屋「ヤクモ堂」のリン——城下で唯一の薬師——から材料を買って、城の厨で作ったものだ。蒸留によって不純物を取り除いた液体で、傷口に入れると化膿を防ぐ。現代では当たり前のことだが、この時代にはまだない知恵だった。
「[serious]腕を見せて」
「[cold]……いい」
「[serious]よくない」
ひなは有無を言わせず、カゲマルの左腕を包んでいた布をほどいた。長い切り傷が二本、腕の外側に走っていた。深い。骨には届いていないが、消毒なしでは確実に化膿する深さだ。
ひなは小瓶の口を傷口に近づけた。
「少し沁みる」
そう言った直後、液を垂らした。
カゲマルの眉がわずかに寄った。声は出なかった。それだけだった。忍の修行というのはこういう場所でも出てくるのか、とひなは思った。普通の人間なら「痛い」と声を上げる深さなのに。
ひなは裂いた布で傷口を包み始めた。指が震えていた。怖いからではない——震えている理由が、自分でもよくわからなかった。
静かだった。武器蔵の外では兵士たちが動いている音がするのに、この小さな隅だけが切り取られたように静かだった。
ひなは脇腹の傷に移った。黒装束の合わせを開いて、傷を確認する。腕ほど深くはないが、広い範囲で皮膚が割れている。同じように消毒液を当て、布を重ねた。
作業を続けながら、ひなは聞いた。
「[whispers]……なんで仲間を斬ったの」
沈黙があった。
武器蔵の外で、誰かが大声を上げた。すぐに遠ざかっていく。また静寂が戻った。
カゲマルは壁を見ていた。壁には何もない。それでも目を逸らしたまま、長い時間をかけて、ほとんど息のような声で言った。
「[whispers]……お前がいたからだ」
ひなの手が止まりそうになった。
止まらなかった。唇を噛んで、包帯を巻く手を続けた。
「お前がいたからだ」——たった七文字。でもその重さがひなの胸の中に落ちて、底まで沈んでいくのがわかった。
トガリ衆の忍として六年の修行を積んだ男が、任務より感情を優先した。その代償として、今この瞬間も傷を負って血を流している。組織を裏切った。仲間を斬り伏せた。全部、ひながいたから——そう言っているのだ。
それ以上の言葉はなかった。カゲマルは口をつぐんで、また壁を見ていた。でも耳が赤かった。薄暗い武器蔵の中でも、はっきりとわかるほど赤かった。
ひなは最後の結び目を作って、包帯を固定した。
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武器蔵を出て奥御殿に向かう途中、廊下で家臣に声をかけられた。
「[serious]水瀬殿。殿が左腕の手当てをお断りになっておりまして——」
ひなは足を止めた。
「[serious]……どこにいる?」
政務の間だった。
大きな板の間に義颯は一人で座っていた。黒の着物の左袖を、自分で布で縛っている。縛り方が荒い。右手だけで縛ったのだろう。濃紺の長髪が肩から流れて、左頬の刀傷が朝の薄明かりに浮いていた。ひなが入ってきても振り向かなかった。
「[cold]来なくていい」
「[serious]来ました」
ひなは黙って義颯の前に座り込んで、消毒液の小瓶を取り出した。
縛った布をほどく。傷は、腕の内側に一本、深く走っていた。刀傷だ。縛っただけでは足りない。消毒しなければ、この深さでは化膿する。城の薬師の薬草治療でも間に合わないかもしれない。
ひなが小瓶を傾けようとした、その瞬間。
義颯の右手が伸びてきて、ひなの手首を掴んだ。
強い力ではなかった。でも離す気のない掴み方だった。
ひなは動きを止めた。
義颯がひなを見ていた。いつもの石のような銀色の左目ではなかった。何かが——ひなには何と呼んでいいかわからない何かが——その目の奥にあった。
「[serious]もう、どこにも行くな」
たった一言だった。
鬼将軍と呼ばれる男が、ひなの手首を掴んで視線を逸らさない。命令でも懇願でもなく、ただそれだけを告げている。
ひなの胸の真ん中が、じわりと痛いほど温かくなった。
脈が、普通ではない打ち方をしていた。カゲマルの「お前がいたからだ」という声がまだ耳の奥に残っているのに、義颯の手の温かさが手首から全身に広がっていく。二つの感情が同時に胸を占領して、どちらも本物で、どちらも嘘じゃないと気づいてしまった。
しばらくそのままでいた後、ひなはゆっくりと消毒液を義颯の傷口に当てた。義颯はひなの手首を離さなかった。ひなも離れなかった。
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昼を過ぎた頃、ひなは武器蔵に戻った。
カゲマルはまだそこにいた。柱に背を預けたまま、目を閉じていた。ひなの足音を聞いて目を開ける。それだけで、体を起こそうとしない。
ひなは隣に座った。城を出るな、と言おうとした。でもカゲマルの方が先に口を開いた。
「[cold]俺はもうトガリには戻れない」
静かな声だった。怖がっていない。ただ事実を告げるような、乾いた声だった。
「[cold]ゲンサイは裏切り者を生かしておかない。追手は既に出てるだろうな」
ゲンサイ——トガリ衆の首領、ツキモリ・ゲンサイ。ハヤテ領の北に拠点を持つ山岳武装集団を四十年かけて作り上げた男。義颯の祖父・義嵐に父を殺されて、ずっと復讐の機会を狙ってきた人間。そのゲンサイの命令でカゲマルはハヤテ城に潜入し、ひなを連れ去ろうとしていた——「異界の巫女」として。
でもカゲマルは命令を破った。
「[whispers]……なんでそこまで」
ひなが言いかけた。カゲマルは答えなかった。代わりに、ひなから視線を外して壁を見た。
横顔は無表情だった。でも耳が——またあの色に染まっていた。
ひなの中で何かがはっきりした。カゲマルへの感情が確かに育っていることを、今更ながら自覚した。同時に、義颯の手の感触も消えていない。どちらの気持ちも本物で、どちらも嘘じゃないという事実に、ひなは打ちのめされた。
選べない。選び方がわからない。
ひなは武器蔵を出た後、廊下の壁に背中をつけてしばらく動けずにいた。
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昼過ぎ、タエに呼ばれた。
奥御殿の一室。白髪をきっちり後ろでまとめたタエが、障子の前に座って待っていた。あの評定の日——タエが一人で踏み込んできて、サクラの罠を数字だけで崩した日——から、この人がひなの中でどれほど大きな存在になったか、言葉で言い表せない。
ひなが向かいに座ると、タエははっきりとした黒い目でひなを見て、静かに口を開いた。
「[serious]三つ、話しておくことがあります」
ひなは頷いた。
「[serious]一つ。ゲンサイは諦めません」
ひなの背中が少し緊張した。
「[serious]あの男はそなたを『異界の巫女』と呼んでいる。タイムスリップで来たそなたが何らかの力を持つと信じている。一度目の夜襲が失敗したからといって、手を引く男ではない。何度でも来る——よく考えよ、そのことを」
ひなは唇を噛んだ。
「[serious]二つ。カゲマルはトガリ衆の仲間を複数斬り伏せた。それはつまり、組織から正式に裏切り者として扱われるということです。追手は既に動き始めている可能性がある。城の中にカゲマルがいることは、この城にとっての危険でもある」
ひなは声が出なかった。
カゲマルが命を狙われているのは、ひなのせいだ。そのことが、恐怖より先に胸に刺さった。
「[serious]三つ。南のナガシノ家が、トガリ衆の動きに合わせるようにして、国境に兵を動かし始めています。ハヤテ領の南端にある砦——フモトの砦——の斥候から昨夜、報せが来ました」
ナガシノ家——ハヤテ領の南に広がるナガシノ平野を治める大領主。五十年来の敵対関係にあって、トガリ衆とも裏で手を結んでいると聞いていた。北のトガリ、南のナガシノ、そして城の中には追われる身のカゲマルが——ひなを中心に、全部が絡み合っていく。
タエはひなが黙り込んだのを見て、少しだけ口調を柔らかくした。
「[gentle]そなた自身が、争いの種になっているという事実は変わらない。それでもここで生きると決めたなら——」
タエはそこで一度止まった。
「[serious]覚悟を持ちなさい」
立ち上がって、部屋を出た。廊下に足音が遠ざかって、また静かになった。
ひなは一人で、その部屋に残された。
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夕暮れ時、ひなは天守台に上がった。
三層の物見櫓の一番上。石垣の手すりを両手で掴んで、城下を見下ろす。秋の空気が冷たく頬に当たる。ハヤテ城下町が、夕陽に橙色に染まっていた。カワセ川の川面も光っている。あの渡し場も、薬問屋ヤクモ堂も、茶屋かわせ亭も、全部があの色に溶けている。
遠くに、カスミ山脈のシルエットが見える。標高八百から千四百メートルの山々。あの山の中のどこかに、トガリ衆の隠れ里がある。ゲンサイがいる。カゲマルを追う追手が、既に動き始めているかもしれない場所。
「もう、どこにも行くな」
義颯の声が、頭の中で繰り返された。
「お前がいたからだ」
カゲマルの声も重なった。
交互に来る。どちらも本物で、どちらも消えない。
ひなは手すりを強く握った。
帰る方法を、まだ知らない。スマホは電池が切れたまま、何の役にも立たない。ゲンサイは諦めず、ナガシノ家は動き始め、カゲマルは追われている。全部を解決できる答えなんて、今のひなにはない。
それでも。
(泣いていても誰も助けてくれない——それを知ったのは、あの最初の夜だった)
タイムスリップしてきたばかりで、言葉も通じなくて、処刑されそうになって、軟禁されて——それでも諦めなかった。今のひなは、あの最初の夜と違う。
義颯に認められた。タエに支えられた。カゲマルが命を張った。全部本物だ。ここに居場所ができた。
ひなはゆっくりと、拳を握った。
夕陽が城下を橙に染め続ける中、秋風が髪を揺らした。どこかで烏が鳴いた。
逃げない。
ここで生きると、ひなは決めた。
カスミ山脈の稜線に、夕陽の最後の光が滲んでいた。あの山の向こうでゲンサイがどんな手を打ち始めているか、今のひなには知る術がない。でも——その答えを、必ず見つけなければならない日が来る。ひなはそれを、静かに確信していた。