花と刃のあいだで
水瀬ひなは現代の高校生。修学旅行中に突然意識を失い、目を覚ますとそこは戦国時代の日本だった。スマートフォンは使えず、誰も彼女の言葉を理解せず、完全に途方に暮れてしまう。
そんな彼女を兵士たちが見つけ、有名な戦国武将、冷酷無比で「鬼将軍」と呼ばれる源義颯の前に連れて行く。義颯は詳しい説明もなく、ひなを側室として城に留めることを決める。ひなは混乱し恐怖を感じるが、選択の余地はなかった。
城での生活は厳しい。ほかの女性たちは彼女に嫉妬し、ルールも彼女の知るものとはまったく違う。しかし、ひなは少しずつ現代の知識を活かして城の小さな問題を解決し、居場所を見つけ始める。そして少しずつ、義颯の冷たい瞳が彼女にほんの少し長く留まるようになる。
ある夜、ひなは屋根の上に影を見つける。敵対する一族の若き忍者、カゲマルが密かに城に潜入していたのだ。危険な状況から彼女を救ったカゲマルに理由を尋ねると、彼は顔を背けて耳を赤らめ、「黙れ」とつぶやく。しかし彼は何度も城に現れるようになる。
カゲマルは影からひなを静かに見守り、彼女が危険にさらされるたびに現れる。ひなは彼のそばで心臓が早鐘を打つのを感じる一方
花と刃のあいだで - 鬼の目と、石鹸の煙——預かりの居場所
朝になっても、ひなは眠れていなかった。
四畳半の薄い畳の上で、ずっと天井を見ていた。格子窓から白んだ光が細く入ってくる。鳥の声がした。川の水音が遠くにある。この世界の朝の音だった。
昨夜、泣いた。声を殺して、全部出し切るみたいに。
でも朝は来た。
(生きてる。それだけはわかる)
ひなはゆっくりと上体を起こした。漆黒のショートボブが頬に貼りついている。深い茶色の瞳が、部屋の隅を映した。白いブレザーはしわくちゃで、昨夜そのまま眠ったせいで肘のあたりに畳の跡がついている。
(着替えも、ない。これしかない)
足音が廊下に近づいてきた。
「[serious]起きておるか。殿がお呼びじゃ」
扉が開いた。槍を持った兵士が二人、廊下に立っていた。
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連れていかれた先は、本丸御殿の大広間だった。
一歩踏み込んだ瞬間、ひなは足が止まりそうになった。
三十畳。その広さの意味が、体でわかった。床板が磨き抜かれていて、天井が高い。柱が太い。飾り気は少ないが、そのぶんだけ圧迫感がある。部屋の隅に武士が四人、壁際に三人。みんながひなを見ていた。
そして、上座に男がいた。
濃紺の長髪を後ろで束ねている。一切の装飾を省いた黒の着物。左頬に、一本の刀傷。目が二つあるのに、どちらも別の色をしていた——左が鋭い銀色で、右が黒。どちらも同じように冷たかった。
源義颯。
鬼将軍、と誰かが昨夜の廊下で呼んでいた。
ひなはその人物を、初めて正面から見た。
怖い。直感が、それだけを告げた。
「[serious]殿! この女は間者にございます。異国の忍びか、南のナガシノが送り込んだ者か——いずれにせよ、処刑が妥当かと!」
右側に座っていた武士が立ち上がった。他の武士たちも口々に声を上げた。
「[serious]その服は何じゃ。どこの国の者か知れん」
「[serious]言葉遣いもおかしい。身元が判明せぬなら斬るべきじゃ」
声が重なって、大広間に響く。ひなは膝が小さく震えているのに気づいた。怖い。本物の怖さだった。夢の怖さじゃない。唇を噛んで、震えが外に出ないようにした。
だが、逃げなかった。
逃げたら死ぬ、という確信があった。だから、正面を向いたまま、足を踏ん張った。
義颯は、無言だった。
武士たちの声を、片手を軽く上げるだけで静止させた。
それだけで、広間が黙った。
義颯の目がひなを見た。上から下へ。顔、服、手、足。感情のない観察だった。物を鑑定するような目だった。じっと見られながら、ひなは逃げずに返した。震えていたが、目だけは逸らさなかった。
沈黙が続いた。
長かった。どれくらいの時間か、ひなにはわからなかった。
義颯がぽつりと言った。
「[cold]預かりとして、奥御殿に置け」
それだけだった。
立ち上がり、広間を出て行く。足音が遠ざかる。扉が閉まる。
残された武士たちが顔を見合わせた。ひなは膝の力が一瞬、抜けそうになった。生き延びた。なぜかはわからない。あの男が何を考えているのか、まったくわからない。
でも、朝日はまだそこにあった。
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奥御殿——側室たちが暮らす居住区——は、本丸御殿の奥に続く渡り廊下を抜けた先にあった。
廊下に入った瞬間、ひなは気配を感じた。
絹の着物の音。柔らかいが、確かな足音。
向こうから来る女性は、美しかった。切れ長の目、整った顔立ち、淡い藤色の着物。髪を高く結い上げて、簪が光っている。侍女が三人、後ろに並んでいた。
この城で一番高い序列の側室——一ノ方のサクラ——だと、後でひなはわかる。だが今の時点では、その人物が誰かを知る前に、目が合った。
サクラはひなの頭の先から足の先まで、ゆっくりと視線を這わせた。
白いブレザー。黒のスラックス。しわだらけで、畳の跡がついたまま。
「[cold]……どこの馬の骨かも知れぬ穢れ女が、殿の城に居座るとは」
侍女たちの前で、澄んだ声でそう言った。笑顔だった。その笑顔が、ひなには一番怖かった。
「こちらの方がそのお方?」と侍女の一人がひそひそと言う。「着物も帯もない、みすぼらしい」と別の声がした。聞こえよがしの声だった。
サクラは何も言わず、ひなの横を通り過ぎた。裾がひなの足首をかすめた。わざとだと、わかった。
ひなは拳を握った。怒りが来た。でも、今は何も言えない。
——預かり。
それが自分の身分だと、ひなはこの時初めて、骨で理解した。身元不明のまま城に留め置かれる措置。正式な側室でもなく、奉公人でもない。発言権はゼロ。衣食住だけが保障される、三か月の猶予。
この城で、ひなは最下層だった。
割り当てられた部屋は四畳半だった。夕べからいる部屋と同じだったが、これが「正式な居場所」として告げられた。食事は他の側室たちが食べ終えた後の残り物が運ばれてきた。冷えた雑穀飯と、水っぽい味噌汁だった。
翌日から、洗濯が始まった。
奥御殿全員分、という意味がひなにはわからなかったが、桶に積まれた着物の山を見て理解した。十人分以上ある。
(やるしかない)
ひなはそれを全部、一人でやった。廊下ですれ違う侍女に肩をぶつけられても、言葉遣いがおかしいと笑われても、制服のまま働き続けた。帰り方もわからない。助けてくれる人もいない。でも、ここで動かなければ埋もれて消えるだけだという感覚が、ひなを立たせていた。
だから、働いた。
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洗濯担当として通い始めた厨は、城の中で一番にぎやかな場所だった。
大きな竈が三つ並んでいて、常に何かが煮えている。薪の煙と、出汁の匂いが混ざって、入るたびに目が少し沁みた。使用人が十人近く動き回っていて、誰もひなを気にしなかった。気にされないのが、この城に来て唯一の安堵だった。
料理番頭のゴンベエは、五十がらみの小太りの男だった。鉢巻きをして、常に額に汗をかいていて、怒鳴り声が大きかった。「火を強くしろ!」「水が少ない!」と一日中誰かに言っている。ひなの存在はほぼ眼中にないようで、桶を置いて洗濯物を運び出す間も何も言わなかった。
でも、その日、ゴンベエが鍋を洗っているのをひなは見てしまった。
水だけで洗っていた。
脂のこびりついた鍋を、ただ水でこすっている。何度やっても、ぬめりが残った。ゴンベエが舌打ちをして、また水をかけた。
ひなの脳裏に、理科の授業が浮かんだ。
石鹸の原理。木灰のアルカリと、動物性の脂を合わせると、水に溶ける油を分解する界面活性剤になる。中学で習った。現代では当たり前すぎて誰も意識しないことだが——この時代には、ない。
(どうしよう。言っていいのかな。また笑われるかもしれない)
ひなはしばらく迷った。でも、やらなければ何も変わらない。この城でひなが持っているのは、現代で積み上げてきた知識だけだった。それが疑いの目を向けられる「異国の術」になるとしても、黙ったままでは三か月後に消えるだけだ。
「[serious]あの……ゴンベエさん」
ゴンベエが振り返った。面倒くさそうな顔だった。
「[serious]その鍋、灰と脂を混ぜたもので洗うと、油汚れが落ちます。私の……生まれた土地では、そうやって使います」
「[sarcastic]灰と脂で? 馬鹿を言うな、余計に汚れるわ」
ゴンベエが鼻で笑った。使用人が一人、こちらを見てくすっとした。
ひなは引かなかった。
「[serious]試してみるだけでいいです。信じなくていいので、一回だけ」
ゴンベエがしばらくひなを眺めた。面倒くさそうなまま、溜め息をついた。「まあいい、やってみろ」と言って、竈の灰と、調理用の猪脂を指差した。
ひなは竈の冷えた白灰をすくった。猪脂を少し加えて、指で練り合わせた。ねっとりした、灰色のかたまりができた。それを鍋の内側にのばして、水をかけてこすった。
泡が立った。
白い、細かい泡。見ていたゴンベエの目が丸くなった。ひなが力を入れてこすると、脂のぬめりが音もなく落ちていく。水で流すと、鍋の内側が明らかに違う色になった。
ゴンベエが手を伸ばして、鍋に触れた。指先で内側をなぞる。
沈黙があった。
「[surprised]……こりゃ、本当に落ちる」
驚きで言葉を失ったような顔だった。使用人たちが集まってきた。もう一度やってみせると、全員が黙って見ていた。
ゴンベエがひなを見た。それまでとは違う目で。
「[gentle]……ありがとう」
その言葉が、ひなの胸に刺さった。
この城に来て、初めてもらった感謝だった。たった二文字。でもその二文字が、じわりと胸の真ん中に染み込んできた。目の奥が熱くなった。泣かないようにしながら、ひなは軽く頭を下げた。
(ここで役立てることが、ある)
その小さな確信が、ひなの中に芽を出した。
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石鹸の話は、あっという間に厨の中に広がった。
翌日には使用人たちが競って試していた。食器の油汚れが落ちる、手の脂が取れる——誰かがそれを誰かに話して、城の中の噂というものは、ひなが思うより早く動いた。
三日後の午後、ひなが厨で桶を片付けていると、空気が変わった。
使用人たちが一斉に動きを止めた。全員が同じ方向を向いた。
ひなも振り返った。
厨の入り口に、義颯が立っていた。
政務用の黒の着物のまま、従者もなく。ゴンベエが「殿!」と叫んで頭を下げた。使用人たちが一斉に膝をついた。
ひなだけが、一拍遅れた。
義颯の目がひなを見つけた。
「[cold]灰と脂でこれを作ったのか」
低い声だった。感情がなかった。問いというより確認に近い口調だった。
ひなは頷こうとして、声が出ないことに気づいた。
義颯が一歩、近づいた。
一歩だけで、距離がぐっと縮まった。182センチの体が目の前にある。左頬の刀傷が、このくらいの距離になると、ずっと深いことがわかった。銀色の左目が、ひなを真っすぐ見ていた。
胸の奥で何かが激しく脈打った。怖さと、それ以外の何かが混ざり合っていた。
「[scared]は、はい。私の……生まれた土地では、こうして使います」
声が少し震えた。でも、ひなは続けた。
「[scared]灰のアルカリが……えっと、灰の成分が、油と結びついて水に溶けるようになります。だから汚れが落ちます」
義颯はひなの顔を見た。次に、桶の縁に残った石鹸のかたまりを見た。また、ひなの顔を見た。
その目が、一瞬、変わった。
氷ではなくなった。何か別のものに——驚きとも、関心とも取れない、ただの「揺らぎ」——が、一拍だけそこにあった。
次の瞬間には、もう戻っていた。
義颯は何も言わなかった。厨を出て行く。足音が廊下の奥に消えた。
誰も動かなかった。
ゴンベエがそっと頭を上げた。使用人たちが顔を見合わせた。「殿が直々に……」と誰かがひそひそ言った。
ひなは桶を持ったまま、その場に立っていた。
(今、何だったんだろう)
あの目。一瞬だけ揺れた、あの目。
冷たくて、感情のない銀色の目が——ほんの一拍だけ、別の何かに変わった。そのことが、ひなの頭から離れなかった。胸のあたりがざわざわしていた。怖さとは違う感覚だった。
(怖いのに、なんで、こんなに)
ひなは首を振った。今は考えるべきことじゃない。でも、考えるのを止められなかった。
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その夜、奥御殿に戻ったひなは、廊下の角でサクラの侍女たちの声を聞いた。
「[whispers]殿が厨をご訪問なさるなど、初めてのことよ」
「[whispers]あの預かりの女のせいじゃないの。殿の目に留まったということ?」
声を潜めているが、ひなには聞こえていた。わざと聞こえるように話しているかもしれなかった。
「[cold]……ふん」
ひとつだけ、短い声がした。サクラの声だった。それ以上は何も言わなかった。
足音が遠ざかった。
ひなは四畳半に戻った。行灯の薄い光の中に、部屋がある。
何かがおかしかった。
部屋に入った瞬間から、微妙にずれていた。物が荒らされているわけじゃない。制服が畳んだまま隅にある。でも——。
ひなは膝をついて、制服のポケットに手を入れた。
指先に何かが触れた。
引き出すと、泥のついた草の切れ端が一本出てきた。細い、枯れた草。ひなが入れた覚えはない。
誰かが、この部屋に入った。
何かを確認して、証として草を残した。
誰が、何のために——ひなにはわからなかった。サクラの侍女か、それとも別の誰かか。
ひなは草を手のひらに乗せたまま、しばらく眺めた。布団を敷いて横になった。天井が薄暗い。
この城で生き残るには、石鹸一つでは足りない。それはわかっていた。
でも今夜は、それよりも先に——義颯の目が、ひなの頭の中に浮かんでいた。
一瞬だけ揺れた、銀色の目。
胸のあたりのざわめきが、なかなか消えなかった。